2013.6.30「悪者からの救い 詩篇17:6-15」

 この世には罪があり、その背後では悪魔が働いています。私たちはクリスチャンになったからと言って、自動的に守られるわけではありません。誘惑に負けたり、災いが降りかかってきたりもします。あんまり恐れ過ぎてもいけませんが、平和ぼけして、無防備な生活を送るのもよくありません。田舎に行くと鍵をかけていない家がたくさんあるようです。都会では、みんな悪い人に見えるので、いろんなセキュリティがあるようです。私たちは神の愛に満たされて、多くの人たちと、親しい関係を持つことも大切です。しかし、同時に、この世には、悪い人たちもいることも確かです。聖書を見ますと、いろんな戦いが記されています。正しい人が悪者によって苦しめられるという記事がたくさんあります。聖書は私たちに、そのための教訓と信仰を与えてくれるすばらしい書物です。

1.悪者に対する考え方

 ダビデは次期の王様になるための油注ぎを既に受けていました。ダビデはペリシテ人を倒して、国と王様のために尽くしました。しかし、サウル王はダビデを妬んで、槍で、幾度も刺し殺そうとしました。ダビデはサウルを恐れて、荒野に逃れました。サウルは家来と一緒に、何度も、ダビデの命を奪おうとして追いかけました。ダビデは洞窟や岩場の影に隠れながら、逃亡生活を余儀なくされました。詩篇には「ダビデ」の名前がついているものがたくさんあります。その中で、ダビデが敵に囲まれ、神さまに助けを求めて祈っているものが多数あります。この17篇もその1つです。詩篇17:8-9「私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。私を襲う悪者から。私を取り巻く貪欲な敵から。」背景はよくわかりませんが、ダビデのまわりには、悪者や敵が大勢いたことは確かです。私たちの生活においてはどうでしょうか?「悪者」という表現はしないかもしれませんが、そのような人がいるでしょう。たとえば、女性が夜道を一人歩くのは危険です。男性は家を出ると7人の敵がいると言われています。家の中にいても、「戸締り用心、火の用心」のごとく、気を付ける必要があります。私たちのまわりには、悪者とは言えないまでも、敵対する人が必ずいるものです。政治では、「政敵」というのが存在します。主義主張が異なる「論敵」と言うのもいるでしょう。ビジネスではライバル会社と敵対するときがあります。自動車でも家電でも、あるいは携帯電話でも、シェアーを奪い合っています。家に入ると、嫁と姑の「確執」というものがあるでしょう。教会でも牧師と役員との間で意見が食い違うことがあります。

 私が言いたいことは、「この世においては、悪者や敵対する人が必ずいるものだ」ということです。ある人は「私はすべての人を愛します。私には敵対する人は一人もいません」と言うかもしれません。でも、イエス様はどうだったでしょうか?イエス様には罪がありませんでした。みことばを教え、福音を宣べ伝え、人々の病を癒し、良いことをたくさんしました。では、イエス様に敵対する者、いわゆる悪者がいなかったでしょうか?大勢いました。特に、宗教に携わっている人たち、パリサイ人、律法学者、長老、祭司長が、イエス様を捕えて殺そうとしました。なぜなら、自分たちの名誉や権利を失うことを恐れたからです。やがては、イエス様を捕えて十字架につけました。使徒パウロはどうでしょうか?パウロは異邦人に伝道するために、小アジア、ギリシャ、そしてローマに渡りました。しかし、どこの場所でも、ユダヤ人の妨害にあいました。彼らはパウロを捕えて、打ち叩き、投獄しました。パウロはⅡコリントで自分がどれだけ苦しんだか、書き記しています。Ⅱコリント11:25-26「むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い」とあります。この中には、自然災害もありますが、人的なものも含まれています。神さまが、なぜ、こんな目に合わせるのでしょうか?神さまのために働いているのに、ひどい感じがします。それでも、パウロには、主の守りがあることは確かです。イエス様も使徒パウロにも、悪い者、あるいは敵対する者たちがいました。ということは、私たちにもそういう人たちが常にいるということです。

 しかし、私がここで申し上げたいことは、「白か黒」というふうに極端なとらえ方をしてはいけないということです。東山の金さんや大岡越前、あるいは水戸黄門を見ると、善人と悪人がはっきり分けられています。ある人たちは、「この人は良い人だ」「この人は悪い人だ」と分けてしまいます。また、ある人たちは、「この人は味方だ」「この人は敵だ」と分けてしまいます。しかし、そういうふうに分けると、正しい人間関係を持つことが難しくなります。何か1つあると、「今までは味方だと思ったのに、裏切られた。この人は敵だ。悪い人だ」となってしまうからです。カインは城壁のある町を作りましたが、城壁だと、「敵か味方か」というふうになります。それよりも、境界線を設ける方が良いと思います。境界線とは、ドアのようなものであり、開け閉めが可能で、内側から鍵をかけることもできます。また、境界線は、時間や距離でもあります。お互いが緊張関係にある場合は、時間や距離を取ることが良いでしょう。アメリカなどでは警戒レベルを1、2、3、4、5と分けたりします。人畜無害な人をゼロとするならば、レベル1は「考えや好みが、ちょっと合わないかな?」という程度の人です。中間を省略して、最後のレベル5は「持ち物や人権が奪われる。危害が加えられ命の危険がある人です」。これと反対に、好意レベルを1、2、3、4、5に分けることも可能です。教会で、「そういう枠組みをして良いのか?みんな兄弟姉妹だろう」と、批判する方もおられるかもしれません。教会は神の家族ではありますが、一遍に親しくなることはできません。互いに境界線を持ちながら、信頼関係を深めていくと、好意レベルが1,2.3,4,5と上がっていくのではないでしょうか?

 使徒パウロは何と言っているでしょうか?ローマ12:17「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」パウロは、悪があることを前提にしながら、「すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」と命じています。そして、悪いことをされて、復讐したくなるようなこともあるということです。だから、パウロは「自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。復讐は神さまがする、神さまが報いをするから」と言っているのです。躓くかもしれませんが、教会はパラダイスではありません。また、私たちはだれとでも平和に過ごし、だれとでも愛し合うことはできないのです。しかし、そのことをあらかじめ知っておくなら、「善人が悪人か」「敵か味方か」、という極端な分け方をしなくなります。こういう「白か黒か」という考えが、人間関係を狭くしていくのです。そうではなく、ある程度の境界線を持ちながら、信頼関係を築いていくことが重要なのではないかと思います。

聖書におけるイスラエルのぶどう園はどのようなものでしょうか。ぶどう園を荒らすのは、キツネです。向こうのぶどうは、日本のものよりも棚が低いからでしょう。また、ぶどうを盗む悪い輩もいたことでしょう。イエス様のたとえ話では、ぶどう園の小作人が収穫の一部を納めないばかりか、使いに来たしもべや息子を殺したというものもあります。ですから、ぶどう園の所有者は悪い者からぶどう園を守らなければなりません。また、ぶどう園の端っこには、いちじくの木を植えました。「ここが境目だよ」という目印です。ぶどう園にはぶどうが植えてあるのですが、外側にはすっぱいぶどうを植えておきます。だれかが、ぶどう園のぶどうを盗み食いするとします。その人は「ああ、このぶどう園のぶどうはすっぱいぞ」と盗むのを諦めます。しかし、ぶどう園の中側に入り込んでいくと、甘いぶどうがなっているそうです。同じように、良い人間関係は一夜にしてできるものではなく、外側から内側へと時間と努力が必要だということです。イエス様は「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です」と言われました。もし、ぶどう園を教会に置き換えるならばどうなるでしょう?私たち一人ひとりは、ぶどうの木であるイエス様につがなる必要があります。イエス様につながらないでは、実を結ぶことができないからです。では、一体だれが、ぶどう園をさばくのでしょうか?父なる神さまです。ヨハネ15:2「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」ヨハネ15:6 「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」父なる神さまが善悪をさばくお方であるということです。父なる神さまが、枝を取り除いたり、刈り込みをなさいます。また、父なる神さまがイエス様にとどまっていない枝を集めて、火に投げ込ませるのです。私たちがなすべきことは何でしょうか?私たちは父なる神さまにさばきをゆだねつつ、ひたすらキリストにとどまるのです。そうすれば、豊かな実を結ぶことができるのです。アーメン。

2.悪者からの救い

 聖書には、いろいろな救いについて書かれています。「悪者からの救い」というテーマがあっても良いと思います。前半のポイントでも言いましたが、この世においては、悪者は必ずいるものです。テレビや新聞で、強盗や殺人、詐欺や恐喝というニュースが絶えません。北朝鮮に子どもが拉致されて長い間、苦しんでいる人たちもいます。クリスチャンは、できるだけ善を行い、だれとでも平和に過ごそうと努力しなければなりません。しかし、パウロはⅡテモテ3章で、「終わりの時代には困難な時代がやってくることを承知しておきなさい」と注意しています。「情け知らずの者、粗暴な者、善を好まない者、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者が」出てくると警告しています。ご存じのように、犯罪率や残酷な事件は年々増しています。それは、終わりの時代に入っているからです。ですから、主の祈りで、「私たちを悪からお救いください」祈るように言われているのはそのためです。主の祈りの「悪」とは、まさしく「悪しき者」という意味です。悪とは、非人格的なものではありません。背後には悪しき者である、悪魔がいるということを示唆しています。悪魔が肉的な人を用いて、悪いことを助長させるのです。つまり、ある人が悪い思いを心に抱いているとします。そこへ悪魔がやって来て、その人をけしかけ、悪いことをさせるのです。クリスチャンはこの世に住んでいるので、悪い者たちから身を守っていかなればなりません。では、どのように私たちは悪い者たちから自分たちを守ることができるのでしょうか?3つのポイントでお話ししたいと思います。

 第一は、神さまと正しい関係を常に持っているということです。旧約聖書を見るとわかりますが、イスラエルは小国であり、大国に囲まれていました。南はエジプト、北にはアッシリアやババビロンが控えていました。また、隣国からの侵略が常にありました。ダビデの時代はペリシテ人がいました。その後のユダの時代は、アラム、モアブ、エドム、北イスラエルが度々侵略してきました。しかし、聖書を見ると、彼らが神さまを恐れ、正しいことを行っているときは、国が平安に保たれています。しかし、偶像礼拝をしたり、律法に反することをしていると、敵が侵入し、国土が荒らされます。それは、国レベルでもいえますが、個人の生活にもいえることです。ですから、私たちは悪者から守られることを求める前に、まず、神さまと正しい関係が持つことが必要です。ダビデは神さまをどのように呼んでいるでしょうか?ダビデは神さまを「あなた」と呼んでいます。「私とあなた」の関係です。ダビデは神を敬い、心から愛していました。神さまもダビデを愛していました。新約聖書において、私たちはどうでしょうか?ある人たちの祈りは、形式ばって、神さまがとても遠い存在のように思えます。私たちはイエス・キリストの贖いによって、神さまを「アバ、父よ」と呼べる存在になりました。ですから、本当に気兼ねなく、大胆に神さまのふところに飛び込むことができるのです。イエス様はヨハネ10章でこのように約束しておられます。ヨハネ10:10「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」イエス様が羊である私たちを悪しき者から守ってくださり、豊かな命を与えると約束してくださいます。

 第二は神さまに祈り求めるということです。ダビデは何と祈っているでしょうか?詩篇17:8-9 「私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。私を襲う悪者から。私を取り巻く貪欲な敵から。」ダビデはとても強い武将でした。どんな敵と戦っても、勝利してきました。しかし、ここでは神さまに、ひたすら助けを求めています。本当に強い人というのは、自分の限界を知っている人です。ダビデは主が共にいてくれたので、これまで勝利することができたことを知っていました。いわゆる慢心になると、とても危ないです。イエス様が「『私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』と祈りなさい」と、教えてくださいました。ということは、私たちは日々、神さまの守りをいただかないと生きてゆけないということです。なぜでしょう?Ⅰペテロ5:8「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」とあります。教会では、悪魔は牧師を狙います。牧師が倒れたら、教会員も影響されて信仰を失うからです。悪魔はいろんな人を用いて、牧師が罪を犯すように誘惑することも確かです。また、いろんな訴訟問題を起こして、精神的なダメージを与えてきます。最後に、うつ病になったり、燃え尽きを起こして辞職せざるを得なくなります。牧師だけかと言うと、教会員もそうです。洗礼を受けてから半分くらいの人たちが、教会を去っていきます。その人たち全員が信仰を失ったということではないでしょう。でも、罪の誘惑や試練に負けて、勝利がないかもしれません。とにかく、悪魔は肉的な人を用いて、私たち信仰者を攻撃してくるということは確かです。本当に今は、歩道を歩いていても危ない時代です。「振り込め詐欺にかかる人は馬鹿なだー」と思うかもしれませんが、いつ被害にあうか分かりません。テレビのニュースではありませんが、何かの事件にまきこまれるかもしれません。だから、「身を慎み、目をさましていなさい」のごとく、日々、祈る必要があります。

 第三は悪者には近づかないということです。詩篇17:12-13「彼は、あたかも、引き裂こうとねらっている獅子、待ち伏せしている若い獅子のようです。主よ。立ち上がってください。彼に立ち向かい、彼を打ちのめしてください。あなたの剣で、悪者から私のたましいを助け出してください。」悪者が私たちを引き裂こうとねらっています。あるいは待ち伏せをしています。私たちが悪者の罠にかかって、やられることもありえるということです。前のポイントで警戒レベルを1、2、3、4、5と分けることをお勧めしました。「敵か味方か」という分け方はあまり役には立ちません。なぜなら、「羊の皮を着た狼」のごとく、本当の悪者ほど、始めから「悪い」という外見をしていないからです。それよりも、境界線という概念を持つことが役に立ちます。たとえば、「この人とはどのくらいの距離を置くべきだろうか?」と考えながら関わります。ある人は、「この人には大事なものは与えてはいけない」「この人とはあまり近づかない方が良い」と思えるかもしれません。イエス様は福音書で偽預言者かどうかわかる方法を教えてくださいました。マタイ7:16-17「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。」実というのは、その人の生活ぶりとか、行っていることの結果です。いくら口でうまいことを言っていても、生活において悪い実を結んでいるなら、要注意です。良い実と悪い実は、私たちが持つべき境界線と関係してきます。警戒レベルの4,5、つまり、危険な人はどうしたら良いでしょうか?これは「怨念晴らし」を避ける方法と良く似ています。悪者というのは、何かの理由をつけて、自分の怒りをぶちまけてきます。小さな事故やトラブルが事件に発展することはよくあります。つまり、彼らは、私たちを彼らのステージに引き込もうとしているのです。「出てこいや!」とけしかけてきます。こちらの方も、「ここで引き下がったら男がすたる。なめられたらいけない」と相手役を引き受けます。そして、自分の怒りを相手にぶつけます。気が付いたら、修羅場になっていたということがよくあります。ですから、相手のステージに乗らないように注意しましょう。相手にしないで、その場を逃げ去るということも、恥にはならないということです。

 ダビデは悪者や多くの敵から囲まれ、恐れおののいて生きていたのでしょうか?詩篇23篇にはこのようなことが書かれています。詩篇23:5「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」ダビデは敵が前にいても、ゆっくり食事をすることができました。頭に油を注ぐとは、身だしなみのことですが、女性でいうとお化粧をするということです。普通だったら神経がまいってしまうところですが、なんという余裕でしょうか?私たちもこの世においては災難やトラブルに巻き込まれる可能性があります。戦いがないわけではありません。でも、主が共にいるならば、どんな状況の中にあっても、ご飯を食べ、身なりを整えることができます。しかも、「私の杯はあふれています」とは、すごいです。これは、お酒ということかもしれませんが、受けるべき祝福とも取ることができます。ハレルヤ!環境や状況によるのではなく、主が共にいるなら、どんな時でも、祝福があふれるという約束です。どうか、悪者や敵よりも強い、主を見上げ、主の守りの中で、日々、過ごさせていただきたいと思います。最後に、詩篇17:15 をお読みいたします。「しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。」ハレルヤ!このように毎日、目覚めたいと思います。