2013.7.14「経済と物質の救い ピリピ4:10-13」

私たちはどのくらいの収入があれば、経済的に豊かなのでしょうか?あるいは、どのくらいだと貧しいのでしょうか?「収入と支出」のバランスというのが、ありますが、個人の生活でもあるのではないかと思います。セレブのように、お金が有り余るような生活もあるでしょう?また、テレビの番組に出てくるような「ボンビー生活」もあるでしょう。でも、借金に追い回されているような生活は良くないと思います。私たちはどのくらい経済的に豊かであれば、良いのでしょう?客観的な数値を出すことはできませんが、聖書的にバランスのとれた考え方があるのではないかと思います。

 

1.経済と物質の救い

 エリザベツ朝のとき、ピューリタンが生まれました。イギリス国教会はカトリックの伝統を受け継ぎ、かなり形骸化していました。それで、教会を清めようという人たちが立ち上がりました。さらに、「すべての娯楽やぜいたくな暮らしを排除し、クリスチャンは清貧に甘んずるべきだ」という考えも生まれました。当時、栄えていたシェークスピアの演劇も封鎖する勢いでした。そのようなピューリタンの価値観が、日本の「きよめ派」と言われる教会に入ってきました。戦前・戦後は、「教会、特に牧師は清貧の模範になるべきだ」と言われたようです。それによって、牧師子弟が傷つき、「牧師になるのは乞食になるのと同然だ」と思って、だれも牧師になろうとしなかったようです。もちろん、牧師になることは神さまからの召命ですから、牧師になる人たちもいました。でも、そういう人たちは、「貧困の霊」によって縛られ、経済と物質を心から喜ぶことができません。逆に、「経済と物質をたくさん得て、見返してやろう」とする人たちもいないわけでもありません。福音書に出てくる、マタイという人物は、ユダヤ名はレビでした。レビは、神さまに仕える祭司の名前です。おそらく、マタイは今で言うクリスチャン・ホームの子どもだったかもしれません。しかし、マタイは両親の偽善的で貧しい生活に背を向けて、「お金がなければ生きていけないんだ」と取税人になったのではないかと思います。取税人はローマの代わりに税を徴収する下請けで、ピンハネもしていました。そのため、人々から「売国奴」と軽蔑されていました。マタイは人から何と言われようと、金儲けに奔走したのであります。でも、イエス様から「私に従ってきなさい」と、召命を受け、すべてを捨ててイエス様の弟子になりました。守銭奴の人生変更であります。聖書では、経済と物質をどのように教えているのでしょうか?

 聖書、特に旧約聖書では繁栄とか豊かさは、神さまの祝福のしるしであると、思われています。イスラエルの族長たち、アブラハム、イサク、ヤコブ、そして、ヨブはとても富んでいました。申命記28章には、「神さまの命令に従うなら祝福され、従わないなら呪いを受ける」と書いてあります。そこに記されている祝福は霊的なものだけではなく、生活全体に及んでいます。生まれる子どもたち、地の産物、家畜の産むもの、かご、こねばち、穀物倉が祝福され、「かしらとなって、尾にはならない」と書いてあります。詩篇1:3には「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」と書いてあります。箴言15:6「正しい者の家には多くの富がある。悪者の収穫は煩いをもたらす。」とあります。聖書に、祝福イコール、繁栄ということが書いてあります。ですから、イエス様の時代のユダヤ人は「金持ちは神さまから祝福されている人である」と見られていました。あるとき、金持ちの青年役員が「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょう?」とイエス様に質問しました。そのとき、弟子たちは「この人には地位があり、富もあり、小さいときから律法も守っているので、真っ先に神の国に入るべき人だろう」と考えました。ところが、彼は豊かな富が災いして、神の国に入ることができませんでした。イエス様は何とおっしゃったでしょう。ルカ18:24-26「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」これを聞いた人々が言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」つまり、人々は「彼のような金持ちが救われないなら、一体だれが救われることができるのでしょう」と思ったのです。イエス様は「お金では神の国に入れない。むしろ神の国に入る妨げになる」と教えたのです。

 近年、教会に「繁栄の神学」というものが訪れました。今から、40年くらい前に、韓国のパウロ・チョーヨンギ牧師が、三拍子の祝福を唱えました。そのことが、Ⅲヨハネ2「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」とあります。「すべての点でも幸いを得る」とは、「経済的、物質的にも」という意味です。チョー・ヨンギ牧師は、ガラテヤ書3章から、「キリストが十字架で呪われた者となってくださったので、私たちもアブラハムの祝福を得られる」と主張しました。他にアメリカの牧師たちやペンテコステ系の牧師が、「神さまの祝福は富むことである」と言いました。そういう考えが、日本に入ってきたために、日本の教会は2つに分かれました。一方は、「ああ、それはご利益宗教だ、功利主義だ」と批判するグループです。他方は「それこそが、聖書的な考えだ」と同調しました。ちょうどその頃、韓国の経済が教会を通して祝福されました。会社を経営していた長老たちは、牧師に新車や大きな住まい、高い給料を与えました。それを聞いた、日本の一部の牧師たちは、「日本の教会もそうでなければならない」と役員会に要求しました。実際に豊かな生活を得られた牧師もいますが、教会の予算が厳しいので、かえって打ちのめされた牧師もいました。つまり、「自分は貧しいので、標準に達していない」と恥ずかしく思ったのです。

 私たちは経済と祝福に対して、バランス感覚を持たなければなりません。イエス様は山上の説教でこのように教えられました。マタイ6:32-33「しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」神さまは、私たちにとって、衣食住が必要であることを良くご存じです。でも、第一に求めるべきものあります。第一のものを第一のものとして求めたなら、神さまが必要を満たしてくださるということです。

 

2.経済と物質の危険性

 ルカ16章には「不正な管理人のたとえ」が記されています。そのところに、「不正な富」という表現が出てきます。不正な富は、英語の聖書ではmammonとなっています。この言葉はギリシャ語からきていますが、富が、人が崇拝するものとして擬人化されています。富やお金は中立的な存在です。しかし、扱い用によっては、神さまになってしまうということです。イエス様は何と教えられたでしょう?ルカ16:13「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」ある人にとっては、富が主人になっています。そして、富に仕えています。でも、本来は神さまが主人であるべきです。イエス様がおっしゃるように、二人の主人に仕えることは不可能です。なぜなら、一方を憎んで他方を愛し、あるいは一方を重んじ他方を軽んじるからです。ある人はお金を得るために、手段を選ばない人もいます。汚職、盗み、横領、詐欺は、みんなお金が絡んでいます。また、ある人は一生懸命、倹約をして、お金を蓄えています。蓄えるのは良いのですが、貯めることが目的になり、1億円も貯め込んだまま死ぬ人がいます。富やお金には力があります。いわゆるmammonとなって、神さまの座を奪ってしまうということです。富やお金から解放されるための3つの原則があります。

 第一は、忠実に管理するということです。イギリスに「お金は悪い主人であるが、良いしもべである」という古いことわざがあります。この意味は、「もし、あなたがお金を良く管理できればお金は、あなたに仕える小さなしもべです。ところが、あなたがお金に支配されるなら、お金はあなたを奴隷にするひどい主人になるでしょう」という意味です。現代はクレジットカードがとても便利です。現金を用いないので、買うのがとても簡単です。しかし、あとから、ショックを受けることがあります。福音書にはsigh and wonder「しるしと不思議」ということが、記されています。インドネシヤのエディ先生の奥様は買い物が大好きです。何でもカードでサインして買います。あとで、請求書を見たエディ先生はワンダー、驚くそうです。「これがsigh and wonderです」と、ジョークを言っていました。現代は、借金を返せないために、自己破産する人たちがたくさん出ています。これはまさしく、お金が悪い主人になり、自分が奴隷になっている姿です。私たちはお金を「小さなしもべ」にしなければなりません。そのためには、収入と支出のバランスを取る必要があります。私は貧しい家庭で育ったので、あればあるだけ使うところがあります。だから、家の大蔵省には向いていません。本当のお金持ちというのは、いわゆるケチな人たちで、無駄遣いをしない人たちです。無駄遣いをしないので、お金持ちになるのかもしれません。私たちは神さまから与えたれた資源をちゃんと管理する必要があります。時間、健康、持ち物、そして金銭もその1つであります。ルカ16:10 「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」

第二は、忠実に受けるということです。Ⅱテサロニケ3:10-12「私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました。ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。」日本に「働かざる者、食うべからず」という格言があります。しかし、中には病気や高齢で、働きたくても、働けない人がいます。ですから、この格言には限界があります。使徒パウロは、「働きたくない者は食べるな」と命じました。この人は、働く力があるのに、働かないということです。仕事をせずに、おせっかいばかりして、締りのない生活をしていました。そういう人に対して、パウロは「静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい」と命じているのです。つまり、「ちゃんと労働して金銭を得よ」ということです。そのために神さまは私たちに、信仰と賜物と創造性の3つを与えてくださいました。神さまに祈り求めるなら、神からの能力とふさわしい働き場が与えられるということです。正当に働いて、金銭を得るということは神さまのみこころです。現代は、お金を右から左に動かすだけで、お金を得ている人たちがいます。株とか土地ころがし、マネーロンダリングなどがあります。本来は、社会的に何らかの貢献をして、その実を得るべきではないでしょうか?神さまが手のわざを必ず祝福してくださることを信じて、天から与えられた仕事をすべきであろうと思います。

 第三は、忠実に捧げるということです。聖書に「収入の十分の一を神さまに捧げる」ということが書いてあります。このことが言われている最も有名な箇所は、マラキ書です。マラキ書3:10「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。──万軍の主は仰せられる──わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」昔は穀物などの産物を捧げました。しかし、だんだん貨幣経済になったので、それがお金になりました。教会がお金のことを言うと、なんだか汚いみたいに思う人もいるかもしれません。この教会の山崎長老さんは「命の次に大切なのがお金である」と言いました。お金は汚くありません。お金は尊い労働の代価です。命の次かどうか分かりませんが、信仰がなければ1円も捧げることはできません。「神さまがすべての資源を与え、私に労働力を与えてくださいました。そのことの感謝です」と捧げるのです。「十分の一は神さまのものだけど、十分の九は私のものなので、好き勝手に使って良い」という意味ではありません。「十分の十が神さまのものだけど、そこから、十分の九をいただいて、生活させていただく」という意味なのです。また、十分の一以外の献金があります。集会献金、会堂献金、宣教献金、感謝献金…これらは神の御国のための信仰的投資です。十分の一を捧げるなら、神さまが畑に垣根を巡らせてくださり、害虫や盗人から守ってくださいます。その畑に、十分の一以外の献金の種を蒔くのです。その種が30倍、60倍、100倍になって帰ってきます。献金は「これだけ捧げますから、見返りを与えてくださいよ」と、神さまと取引することではありません。見返りを求めず、ただ信仰と感謝を持って捧げるときに、神さまが報いてくださるのです。

3.経済と物質からの解放

 ピリピ4:13 「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」アーメン。この1節でも私たちは励ましと信仰をいただくことができます。ある人たちは、この聖句をカードにして、困ったときに、告白する人がいます。確かに良いことです。しかし、聖書は1節からだけではなく、文脈から理解することも重要です。このみことばの前後に何が書かれているのでしょうか?使徒パウロはどんなことを学んだのでしょうか?ピリピ4:11-12「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」パウロはある時には、貧しい生活を余儀なくされたこともありました。食べ物もなくて飢えることもありました。おそらく、ない時はないなりの生活をしたのでしょう。しかし、パウロは「私は使徒だから、ちゃんとした待遇を得なければおかしいだろう」と教会に要求したことはありません。しかし、あるときは、豊かな時もあったことでしょう。使徒ということで厚遇を受けたこともあるでしょう。でも、パウロはいただいた献金で私服を肥やすということはしませんでした。ちゃんと宣教資金のために蓄えながら、用いたと思います。聞いた話ですが、スポーツカーやハーレーを乗り回している牧師がいるそうです。自分の給与で買うのは構いませんが、教会の予算からだと問題が出てくるかもしれません。

どうでしょう?お金がないというのも誘惑になります。盗みや不正を働いて、お金を得たくなります。いつも考えていることは「もし、お金があれば○○ができるのに」「もし、お金があれば○○が買えるのに」というのは誘惑に片足をつっこんでいる状態です。パウロはピリピ4章で「貧しさの中にいる道も知っている」と言っています。しかし、原文は「私は低くされることを知っている」、あるいは「謙遜になることを知っている」という意味です。つまり、食べるものがない、あるいは住まう所もないということは謙遜を学んでいるんだということです。食べものがないときは、「ああ、そういえば、エリヤもカラスとやもめに養われたことがあるなー」と思い出すことができます。ちゃんとした住まいがないときは、「ああ、そういえば、イエス様も『狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子はまくらする所もない』とおっしゃったなー」(マタイ8:20)と思い出すことができます。そうすると貧しさの中にあることも益になります。しかし、これが反対にイスラエルの民のように「エジプトでは肉や魚、にら、たまねぎを食べていたのに」とつぶやいてはいけません。あるいは、「私はなんとみじめな生活をしているんだろう」と自己憐憫に陥ってもいけません。そうではなく、「これは謙遜を学ぶための勉強なんだ。ありがとうございます。」と感謝するのです。反対に、豊かなときはどうなのでしょうか?パウロは「豊かさの中にいる道を知っている」と言っています。他の訳は「有り余る中でいることを知っている」と訳されています。豊かさの中にいると、どうなるでしょうか?腹いっぱい食べて、太り過ぎたり、物を無駄にしてしまうでしょう。現代は外食産業の時代ですが、食べ残したもので、何億人もの貧しい人たちを養えると聞いたことがあります。物でも、まだ、使えるのに、新しい物に取り換えたりします。「アメニティ」とは、「快適な暮らし」という意味ですが、度を越すと、贅沢になります。学生たちがネパールやカンボジアに1週間くらい、短期宣教に出かけると、人生観が変わるそうです。ベン・ウォン師のお嬢さんが、学校を休んで、ネパールに短期宣教に出かけました。トイレも穴ボコしかありません。寝るところにサソリが這っていたそうです。それで懲りたかというとそうではなく、数年後もまた行ったそうです。なんと、自分は便利な生活に慣れていたのかということが分かったそうです。

パウロが言っている「満ち足りる秘訣」は、「経済と物質の解放」と関係があると思います。満ち足りる秘訣というのは、第一は、ないときに不平不満を言わないということです。私たちはどうしても、ないものに目をとめて、あるものを感謝しない傾向があります。弟子たちが、5つのパンと2匹の魚があることに目をとめたときに、奇跡を体験することができました。たとえば、もやしとキュウリとハムがあれば、立派なサラダができます。今、あるものを感謝するとき、神さまの御手が動きます。第二は、仕方がないからと諦めることでもありません。逆に、神さまに信頼するということです。私たちは環境によって、喜びや平安をなくてしまいます。お金がない時は、特にそうです。そういう時こそ、満ち足りることを選び取るのです。心をかき乱すような状況にあっても、神さまに信頼することを選び取るのです。そうすると、喜びと平安がやってきます。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」と言う告白は、まさしく、信仰です。現実がまだ、そうなっていないのに、このように告白して、祈るのです。しかし、目を開けた瞬間、「現実は厳しいからなー」と言う人がいます。それは、今、祈ったことをキャンセルすることになります。そうではなく、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」という信仰に留まるのです。そうすれば、現実が後からついてきます。私たちは現実から物事を判断すべきではなりません。信仰から判断するのです。パウロは、「見るところによってではなく、信仰によって歩む」(Ⅱコリント5:7)と言いました。経済と物質は、ものすごい力を持っています。私たちは、しばしば打ち負かされるときがあるでしょう。でも、経済と物質は、もともと神さまが造ったものです。もともとは、神さまが目に見えない、ことばによって産み出したものです。どうぞ、現実から信仰を見ないようにしましょう。逆に、信仰によって現実を見ていきましょう。神さまの方が、現実よりも勝っています。経済と物質の所有者である神さまが、必要を与えてくださるのです。どんな境遇の中でも、父なる神さまを信頼して歩みましょう。