2013.7.21「~イエス様が教えた隣人愛~」

<ルカの福音書10章25節~37節>

 

10:25

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

10:26

イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」

10:27

すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」

10:28

イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

10:29

しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」

10:30

イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。

10:31

たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

10:32

同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

10:33

ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、

10:34

近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。

10:35

次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

10:36

この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」

10:37

彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

 

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この「善きサマリヤ人」のたとえは、ルカの福音書にしか記述されていません。ルカは他にもルカの福音書にしか書かれていないイエス様が語られた「たとえ話」を多く記しています。ルカはこれらの「たとえ話」を福音書の冒頭1:3に書いているように「すべてのことを初めから綿密に調べて、順序立てて」書いていきました。

 

その「たとえ」の解釈については、アウグスチヌスなど教父の時代から様々な解釈が行われてきていますが、この「善きサマリヤ人」の解釈については、伝統的には寓喩的、比喩的に解釈してきました。

 

例えば、強盗に襲われた旅人=アダム、エルサレム=天、エリコ=この世、強盗たち=悪魔とその手先たち、祭司=律法、レビ人=預言者、善きサマリヤ人=イエス・キリスト、家畜=堕落したアダムを背負うキリストのからだ、宿屋=教会、デナリ二つ=父なる神と御子、サマリヤ人が帰りに再び来ると言ったのはキリストの再臨を表していると考えていました。

 

16世紀の宗教改革をきっかけとして、プロテスタント教会ではここまで寓喩的には考えなくなりましたが、現在でも、強盗に襲われた旅人を自分自身と考え、善きサマリヤ人をイエス様だと解釈する人は多くいます。

 

しかし福音派では聖書を寓喩的ではなく字義通り解釈します。どういうことかというと、イエス様が語られた時の時代背景とか、その時の状況とを照らし合わせて、イエス様が語られた時に、直接聞いていた弟子たちや群衆が受け取ったであろうメッセージについて考えるということです。

 

ですから、この「善きサマリヤ人」のたとえ話は、イエス様がユダヤ人たちに「真の隣人愛」について教えるためのものだったと解釈します。当時のユダヤ人たちは、隣人愛についてどのように考えていたのでしょうか。また、それに対してイエス様はどのような隣人愛の教えをくださったのでしょうか。

 

●では、スライドを見ながら考えてみましょう。

 

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10:25

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

10:26

イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」

10:27

すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」

10:28

イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

10:29

しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」

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◆イエス様が教えた隣人愛とは?

①誤った伝統的な思想を打ち砕く教え

 

10:27に書かれている二つの大切な戒め、『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』と『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』について、イエス様はマタイ、マルコ、ルカの各福音書でもっとも大切な戒めであると語られています。

 

イエス様を試そうとした律法の専門家も、この二つの戒めを熟知していたのでスラスラと答えました。その心の内は「私は当然この二つの戒めを守っている!」と、さぞ自信満々だったことでしょう。

 

一つ目の戒め、『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』というこの教えは、旧約聖書では、申命記の6:4,5をはじめ、申命記の随所に記されています。この旧約聖書に記されている「神」のことをイスラエルの民たちは「ヤーウェーの神(アドナイ)」と呼んでいました。申命記6:4では、「心を尽くし~」の前に、「聞きなさい。イスラエル。」という言葉から始まって書かれています。「聞きなさい。イスラエル。」という言葉はヘブル語聖書では「シェマー。イスラエル。」という言葉で書かれていることから、ユダヤ教徒の間では一つ目の戒めのことを「シェマー(聞きなさい)」と呼んでいます。ユダヤ教徒はこのシェマーを礼拝だけでなく、毎日一日に2度唱えます。子どもたちは物心がつくと、このシェマーを一番最初に覚えるそうです。また、そのシェマーのみことばを羊皮紙に書いたものを「ヒラクティリー」と呼ばれる小箱に入れ、ひもで額や左腕にその箱をつけている人もいます。今でもそうです。以前イスラエルに行った時、そういう人をたくさん見かけました。

 

そのくらい、この一つ目の戒めについては徹底して守り、ユダヤ人たちは全身全霊でヤーウェーの神を愛しています。イエス様に質問をした律法の専門家も自信があったことでしょう。では、二つ目の隣人愛についてはどうでしょうか。

 

●スライドの続きを見てみましょう。

 

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10:30

イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。

10:31

たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

10:32

同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

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当時、ユダヤ人たちにとっての「隣人」とは、「律法を遵守するユダヤ人の同胞」のことでした。この強盗に襲われた人は、おそらくユダヤ人だったのではないかと思われます。ではなぜ、祭司もレビ人も、隣人であるユダヤ人の同胞が倒れているのに、見て見ぬふりをしたのでしょうか。

 

この祭司とレビ人は、神殿に仕える人たちです。このたとえ話の状況だと、エルサレムで神殿業務を終えて、彼らの住まいがあったエリコまで25-30キロほどの距離を下っているところだったようです。高地であったエルサレムから下る山道では当時盗賊が多く出没したようです。

 

そこでなぜ、祭司やレビ人が瀕死の旅人を見て見ぬふりをして反対側を通ったかと言うと、2つの理由が考えられます。ひとつは「自分も盗賊に襲われるかもしれない」という保身から来る行動だったということ。もうひとつは、遠くから半殺しになって倒れている人を見れば、当然死んでいる可能性もあり、モーセの律法の民数記19:11の規定によれば、「どのような人の死体にでも触れる者は、七日間、汚れる。」と書いてあるので避けたということです。律法を守ったという点では、この祭司とレビ人は正しいのですが、なんだか釈然としませんね。

 

●スライドの続きを見てみましょう。

 

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10:33

ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、

10:34

近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。

10:35

次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

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このスライドでは、サマリヤ人と聞いただけで、群衆が嫌な顔をしていました。当時、ユダヤ人とサマリヤ人は敵対していたからです。その対立の歴史をさっと振り返ってみましょう。

 

イエス様がお生まれになる千年ほど前、イスラエルはソロモン王の治世が終わり、サマリヤを首都とする北王国と、エルサレムを首都とする南王国に分裂しました。北王国の王は人々が南王国のエルサレムに巡礼に行くことを禁じ、エルサレム神殿に代わる神殿を北王国の中に造りました。そのうち北王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、北王国の主要な人々は捕囚として連れ去られ、その代わりに異国の人々をサマリヤに移住させました。それと同時に外国の偶像がサマリヤに持ちこまれ、その上、サマリヤに残っていたイスラエルの人々と雑婚し、宗教的にも、民族的にも、純粋なイスラエル人とは呼べなくなってきました。南王国の人たちは、そういうサマリヤの人たちを軽蔑して、「サマリヤ人」と呼ぶようになりました。

 

しばらくして南王国もバビロン帝国によって滅ぼされ、捕囚の民としてバビロンに連れ去られましたが、70年後ペルシャのクロス王によって解放され、再びエルサレムに戻って来ました。そのころから南王国の人々は「ユダヤ人」と呼ばれるようになりました。さっそく彼らはエルサレムの神殿再建にとりかかりました。その時サマリヤ人が協力を申し出ましたが、ユダヤ人はそれを拒絶しました。そこでサマリヤ人はこれに対抗してモーセが祝福をこの山に置くと言った「ゲリジム山」に自分たちの神殿を造り、独自のサマリヤ教団を形成しました。こうして、ユダヤ人とサマリヤ人の間には憎悪と敵対心が生まれていき、お互い交際もせず、口もきかなかったと言われています。

 

ですから、イエス様は敢えてここで、サマリヤ人を登場させたのだと考えられます。隣人である祭司やレビ人が同胞を助けず、忌み嫌われていたサマリヤ人がユダヤ人を助け、隣人となったのです。

10:36 でイエス様が「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」と尋ねたときに、この律法の専門家は「その人にあわれみをかけてやった人です。」と言いました。彼は「サマリヤ人です」とは言いたくなかったようです。それほど、この時代のユダヤ人たちは、「自分たちは神に選ばれた特別な民族である」という「選民意識」を強く持っていたことが伺えます。

 

しかしイスラエルという国は、本来エジプトの支配や周辺国からの抑圧から逃れて自覚的に形成された、自由・平等な社会でした。その社会が外部からの影響によって破壊されることを防ぐために、「ヤーウェーの神以外のものを拝してはならない」という信仰が形成されたのです。そしてイスラエル民族の根源的な思想である、「選びの民」思想が生まれました。しかし次第にその思想は、民族や国家の自己絶対化と、他民族に対する差別を生むというものに変化していきました。

 

このようなユダヤ人たちの誤った「選民意識」は、神の御心を知る心を曇らせました。イエス様は、ユダヤ人たちの長年に渡る誤りについて気付かせ、正そうとされたのです。

 

このユダヤ人たちの誤りに似たような状況が、みなさんの身の回りにもあるかもしれません。私たちの日常で当然のように考えられていること、当然のように行われていることが、本当に神様の御心であるのか、神様の真理であるのかどうかを今一度見直し、見極めるということをするべきではないでしょうか。

 

◆イエス様が教えた隣人愛とは?

②人格的で個人的な関わりを重視する教え

 

では、ヤーウェーの神は、ユダヤ人以外の、在留異国人や、奴隷たち、また、女性や子どもを隣人とはお考えにならなかったのでしょうか。だとすれば、イエス様の教えと食い違っていることになります。当然そんなことはありません。なぜならヤーウェーの神は、御自身が創られた人間たちと、人格的に関わろうとしてくださる神だからです。

 

すべては人間側に問題があります。人間創造のとき、神様はアダムとエバに対して人格的に関わろうとされましたが、アダムとエバは背きました。その時、彼らは隣人に対する人格的な応答関係をも失ってしまったのです。それでも神様は、背いたアダムとエバに呼びかけ、ご自身に対する素直な応答を求められましたが、アダムとエバはお互いに責任転嫁をして神様を悲しませました。

 

神様は、応答の自由を人間にお与えになり、人間が隣人に人格的に応答することを期待されましたが、愚かな人間は、神様とも隣人とも人格的な応答をしませんでした。そして、人間は、隣人を愛さず、支配しようとしたのです。それでもヤーウェーの神は、モーセを通してイスラエルの民に律法をお与えになり、アブラハムとの契約を思い起こされ、イスラエルの民を選び、エジプトからお救いになりました。やはりイスラエルの民は確かに選ばれたのです。

 

それでは、ヤーウェーの神が「選びの民」に期待された事とは何なのでしょうか。それは、「モーセの第二の律法」、申命記10:15-20から読み取ることができます。申命記10:15には、『主は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫、あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれた。』と、アブラハムをはじめとする、彼らの先祖たちとの契約の故に、神がイスラエルの民を選ばれたことについて記されています。

 

そして、申命記10:17-19には、『あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり、恐ろしい神。かたよって愛することなく、わいろを取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行ない、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる。あなたがたは在留異国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で在留異国人であったからである。あなたの神、主を恐れ、主に仕え、主にすがり、御名によって誓わなければならない。』と、神がかたよって愛することがない神であり、みなしご、やもめ、在留異国人にも愛を注がれる御方であることが記されています。

 

神様が「選びの民」に期待された事は、イスラエルの民が主を恐れ、主に仕え、主にすがり、彼らから、神の愛が注ぎ出され、在留異国人に、全世界の人々に、その祝福が与えられるようにということなのです。

 

ヤーウェーの神と、イエス様の隣人愛の教えに違いなどはありません。主は旧約、新約を通して一貫して全世界に神の救いと祝福が与えられることを望まれています。創造主なる神様は私たちの存在そのものを無条件に愛してくださっています。そしてイエス様は今も生きておられ、ヨハネ4章でサマリヤの女に語られたように、私たちと個人的に関わってくださる神様であることを思い起こしましょう。

 

善きサマリヤ人は、旅人に近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやりました。また次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言いました。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』と言いました。デナリ二つとは、2日分の労働賃金に値する金額です。

 

私たちは、神様が無条件に私たちの存在そのものを愛してくださったように、隣人の存在そのものを愛していきましょう。また、イエス様が私たちに聖書を通して個人的に語りかけてくださるように、隣人と個人的な関わりを持つようにしましょう。

 

◆イエス様が教えた隣人愛とは?

③能動的に自ら進んで隣人となっていく教え

 

●スライドの続きを見てみましょう。

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10:36

この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」

10:37

彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

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イエス様は、「 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」と質問なさいました。サマリヤ人は、瀕死の旅人から「助けて」と言われた訳ではありません。また、誰かに「助けてあげてほしい」と頼まれたわけでもありません。

 

サマリヤ人は、相手が常日頃から敵対しあっているユダヤ人だということなど全く関係なく、彼は自ら進んで、半ば本能的に旅人を助けました。イエス様が教えた隣人愛とは、他者の幸せと最良の利益を願う心を持ち、能動的に自ら進んで隣人となっていく愛です。

 

それなのに私たちは、「私の本当の隣人は誰だろう」と周りを見回し、「あの人とは考え方が違うから隣人にはなれないな」とか、「あの人には別に相応しい隣人がいるだろう」などと考えて、隣人を限定してはいないでしょうか。ついつい消極的になってはいないでしょうか。

しかし、イエス様は自ら進んで隣人となることを教えられています。

 

アフリカ系アメリカ人の公民権運動で知られるマルチン・ルーサー・キング牧師は、この「善きサマリヤ人」のたとえでこのような説教をしています。

「祭司とレビ人は、この人を助けたら“自分”がどうなるかと考えた。しかしサマリヤ人は、この人を助けなかったら“この人”はどうなるのかと考えた。それが両者を分けたのだ。」

 

“自分”のことを忘れて、“相手”のことを考える。

・・・なかなか出来ることではありません。

でも、イエス様は「あなたも行って同じようにしなさい。」と律法の専門家に言われました。

「あなたも行って同じようにしなさい。」・・・これは、イエス様が私たちにも語られている言葉です。

 

神様からの大切な二つの戒めは、私たち人間が罪の性質をもっているが故に、守ることが最も困難な戒めであると言えます。私たちキリスト者は、神の国とその義を第一としたいのですが、様々な誘惑に負けてしまいます。自尊心、嫉妬、傲慢な心から、隣人を愛することがなかなかできません。このような葛藤の中で喘ぎながら、日々歩んでいます。

 

しかし神様の律法は、本来私たちが幸せになるためのものなのです。神様の御前でへりくだり、主を全身全霊で愛し、しもべとなって主に仕え、イエス様を模範として、自ら進んで周囲の人々の隣人となっていけるような者となりたいものです。

 

◆イエス様が教えてくださった隣人愛とは?

①誤った伝統的な思想を打ち砕く教え

②人格的で個人的な関わりを重視する教え

③能動的に自ら進んで隣人となっていく教え

 

私たちの周りで当然のように考えられて行われていることが、本当に神様の御心であるのか、神様の真理であるのかどうかを見極めましょう。たとえ主義主張の違う人であっても、自分を愛してくれていない人であっても、自ら進んで隣人となり、その人の存在そのものを愛し、その人の幸せと最良の利益を願って生きようとするならば、そこに聖霊なる神様が働いてくださって、自然と愛が満ち溢れてくるのではないでしょうか。