2013.7.28「環境からの救い マルコ4:36-41」

 環境問題ということが叫ばれて、何十年たつでしょうか?住まい、食べ物、教育施設など、目に見える環境を変えれば、人間は幸せになると考えました。しかし、次から次と問題が噴出し、やはり人間は環境に押しつぶされて、失望落胆している人が大勢います。私たちは環境を変える前に、心を変えなければなりません。神さまは今も生きておられますが、私たちが神さまにそっぽを向いているので、この世界を変えることができないのです。聖書にいくつかの嵐の物語が記されています。嵐とは私たちが経験する環境問題ではないでしょうか?きょうは、どのようにしたら、この世の嵐を乗り越えられるか、環境からの救いを得られるかについて学びます。

 

1.自然界と信仰

 

 福音書には、イエス様がガリラヤ湖の嵐を沈められたことが2度記されています。1つは伝道の初期のころ、向こう岸のゲラサの地に渡るときです。もう一つはイエス様が5000人の給食の奇跡を行った直後です。向かい風で弟子たちが漕ぎ悩んでいるところに、イエス様が湖の上を歩いて近づいてこられました。きょうの箇所は、前者のものです。ガリラヤ湖は海抜マイナス200メートルくらいに位置しておりました。すり鉢状の地形の下に湖があるので、陸からの突風が時々、起こることで知られていました。ペテロをはじめ、多くの弟子たちはガリラヤ湖の漁師だったので、こういうことには慣れていたと思われます。ところが、その嵐は、彼らの技能と経験値をはるかに超えていました。先ほど読んだ箇所に、いつくか不自然な会話があることに気付かれたでしょうか。マルコ4:37-40「すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」

まず、第一に弟子たちがイエス様に言った言葉です。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」不平不満にも聞こえますが、弟子たちはイエス様が何とかしてくれるのが当然のように思っています。もし、私がイエス様だったら、「嵐と私と何の関係があるのか?あんたら漁師だろう?私は大工仕事が専門だ」と答えたかもしれません。第二は、イエス様が弟子たちにおっしゃった「信仰がないのは、どうしたことです」ということばです。マタイによる福音書には「信仰の薄い者たち」と書かれています。また、ルカによる福音書には「あなたがたの信仰はどこにあるのです」と書かれています。信仰と嵐と何の関係があるのでしょう?信仰があれば嵐を静められるのでしょうか?この後、イエス様は起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われました。すると風はやみ、大なぎになりました。マルコ4:41「彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」弟子たちの恐れは神さまに出会ったときのものでした。震えながら、イエス様を拝んだのではないかと思います。このところで、弟子たちの世界観は完全にひっくりかえされました。「嵐を沈め、自然界を支配できるなんて、もしかしたら神ではないか」と恐れたのです。もちろん、イエス様は神さまですから、こういう奇跡ができるのは当たり前でしょう。でも、それで終わりではありません。イエス様は「信仰がないのは、どうしたことです。」と言われました。これはどういう意味でしょう?「あなたがたも、信仰があったら同じことができるはずですよ。どうして、信仰を用いないのですか?」という意味なのです。つまり、イエス様は「弟子たちも信仰によって嵐を静めることができて当然だ」と思っておられたのです。なのに、それができませんでした。だから、イエス様は「信仰の薄い者たちだなー」と嘆かれたのです。

 この記事を読んで、みなさんはどう思われるでしょうか?ウィリアム・バークレーというイギリスの聖書学者が「祈り」についてこう述べています。「祈りは状況を変えず、われわれを変える。状況は前と変わらない。だが、私たちは新しい勇気と新しい力とそれに取り組む新しい能力をもって、その状況に対応できるのである。」この考え方は、半分当たって、半分当たっていないと思います。なぜなら、ここでは、弟子たちが状況を変えることができるようにみなされているからです。また、弟子たちはイエス様に叫び求めました。私たちの祈りと同じです。すると、イエス様は本心ではなかったかもしれませんが、嵐を静めてあげました。ウィリアム・バークレーは有名な聖書学者です。彼が書いた注解書は日本ではベストセラーであり、多くの牧師たちが説教のために参考にしています。しかし、彼は奇跡をそのまま信じていません。いわゆる霊的な解釈をほどこしています。それがすばらしいんだという人もいますが、奇跡は奇跡として捉えるべきです。実際に嵐が静められたので、弟子たちはイエス様を恐れたからです。ウィリアム・バークレーの時代の教会は、理神論や合理主義の影響を強く受けていました。当時の教会は、神さまはこの世界を創られたことは信じていました。しかし、「創造の後は神さまはこの世界に対してはノータッチであり、自然の法則によって世界が動いているんだ」と考えました。つまり、「奇跡は起こるかもしれない。しかし、それは稀であって、めったに起こらないことなんだ。その代わり、人間の知恵と力によって自然の法則を発見して、色々なことを克服していくんだ」という考えです。いい意味では自然科学ですが、悪い意味では無神論に近い考え方です。

 では、なぜ、イエス様は弟子たちに嵐を静めることができるようなことを言われたのでしょうか?それは創世記1章にさかのぼります。創世記1章で、神さまがアダムを作ったあとにこのように言われました。創世記1:28「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」そのところで、「地を従えよ」と命じられていたことが分かります。つまり、人間は神さまから、自然界を支配できる権威が与えられていたということです。でも、堕落したので、その権威を失ったばかりではなく、呪いが入り込んでしまいました。創世記3:18「土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。」とあります。土地が言うことをきかなくなりました。干ばつや洪水、あらゆる災害が及ぶようになったのではないかと思います。イエス様が自然界を支配することができたというのは、神だからではなく、人間の標準を示されたということでもあります。だから、「イエス様は弟子たちにできて当然だろう」みたいな思いがあったのです。でも、ここで問われているのは「信仰」です。信仰がなければ、それができない。信仰があればそのようなことが問題なくできるということです。では、それはどのような信仰なのでしょうか?マルコ11:22-23イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」アーメン。「神を信じなさい」はギリシャ語の原文では「神の信仰を持ちなさい」であります。このような信仰は生まれつきの私たちにはないものです。でも、神さまがその信仰をくださるなら、この山に向かって、「動いて、海に入れ」と言えば、そうなるのです。つまり、イエス様は、アダムの堕落によって失った力を回復させてくださいます。それは、信仰によってです。

 近代の神学者たちは、神さまと世界とは離れていると考えていました。つまり、世界は閉ざされたものであり、神さまの介入なしでひとりでに動いているということです。ということは、この世界は閉ざされているので、神さまの奇跡はめったには起こらないということになります。確かに人間が罪を犯してからそのように考えることも可能です。しかし、イエス様は「神の国は近づいた」とか、「神の国はあなたがたのただ中にあります」とおっしゃいました。神の国の本当の意味は、神の御支配という意味です。イエス様と一緒に、神の国がこの世に突入したということです。そして、私たちが信仰もって、イエスの御名によって「山よ、動け」と言ったならば、山は動くのです。なぜなら、その信仰は神さまがくださった賜物であり、奇跡を起こす管となるのです。ある先生が「奇跡が起こるときというのは、神さまにプラグを差し込むようなものです」と言われました。家では、コンセントがどこにでも見当たります。そこに、何らかの電化製品のプラグを差し込むとスイッチを入れただけで動き出します。でも、プラグを差し込こんでいなければ、電化製品がどんなにすばらしくても動きません。同じように、私たちが神からの信仰を用いるならば、神さまがこの世に奇跡をもたらしてくださるんだということです。ということは、聖書は、私たちが信仰を用いるならば、環境すらも変えられると教えているのです。ハレルヤ!2000年前、イエス様が神の国をこの地に持ってこられました。ですから、主の祈りにあるように、「この地に御国が来ますように、みこころがなりますように」と祈るべきなのです。そして、私たちこそが、この地に御国をもたらすように、働くべきなのです。ある人は祈ったら、雨が晴れたと言いました。私は「えー?」と疑いました。しかし、旧約聖書のエリヤは祈ったら、雨が3年と半年、一滴も降りませんでした。しかし、再び祈ったら、雨が降りました。エリヤも私たちと同じ人でした。ですから、私たちもできないことはないのです。アーメン。

 

2.環境からの救い

 

この世には、さまざまな問題があります。格差社会からくる貧困、原発の被害、就職難、がんなどの病気、離婚による家庭の崩壊、子供たちの非行、犯罪や詐欺事件、住宅難、老後の心配、人間関係のもつれ、大震災の恐れ…きりがないほどあります。新聞やテレビニュースは毎日のように、この世の不条理を洪水のように押し流しています。私たちはそれを聞いただけで、「ああ、私たちは無力な存在だ。神も仏もないなー」と恐れるでしょう。では、神さまがこの世に対して、たまにしか手を伸べてくれないのでしょうか?環境を変えると言っても、どのように信仰を用いたら良いのでしょうか?私は環境からの救いを得るためには3つの方法、あるいは3段階あると思います。もちろん、神さまは私たちのために、奇跡を起こしてくださいます。しかし、いくつかの段階(ステップ)を通るようにと教えておられると思います。そのことを使徒パウロが嵐を乗り越えて、ローマにどのように達したかという物語を例にして学びたいと思います。

第一は、一般恩寵を用いるということです。一般恩寵とは、神さまがこの地上に与えた、一般的な恵みです。パウロはユダヤ人の陰謀によって訴えられ、殺されるところでした。パウロはどのようにして難を逃れたでしょうか?神さまに「ユダヤ人の心を変えてください」と祈っても、叶わなかったでしょう。神さまは、頑ななユダヤ人が起源70年にローマ軍によって滅ぼされることを見定めていたからです。それで、パウロは自分が持っている、ローマ市民権を用いました。つまり、パウロはローマ市民なので、カイザルに上訴しました。するとどうなったでしょう?なんとローマの千人隊長がユダヤ人からパウロを守りました。使徒23:23-24「そしてふたりの百人隊長を呼び、『今夜九時、カイザリヤに向けて出発できるように、歩兵二百人、騎兵七十人、槍兵二百人を整えよ』と言いつけた。また、パウロを乗せて無事に総督ペリクスのもとに送り届けるように、馬の用意もさせた。」なんということでしょう。パウロのために、少なくとも470人以上のローマ兵が動いたということです。神さまは私たちに知恵を与えておられます。「この世のものは、神さまが作ったものですから、しもべとして用いなさい」ということなのです。ある人が、国会議事堂の前で原発反対のデモ行進に参加したそうです。すると、大勢の警察官が守ってくれたそうです。普通、警察官というといかつい感じがありますが、とても親切にしてくれたそうです。そうです。私たちは何か事件があったら、警察に電話をかけることができます。子供や結婚、家庭のことは、区役所とか家庭裁判所、その他、いろんなNPO団体があります。DVなどからかくまってくれる施設がたくさんあります。ちょっとお金がかかりますが、法律事務所もあります。世の中にはその手の専門家というのがいるものです。専門の病院なども、インターネットで調べることが可能です。ですから、神さまがくださった一般的な恵みを最大限に用いるということです。

 第二は、神からの啓示です。神さまは私たちに啓示を与えて、この世に働きかけたいと望んでおられます。神さまはだれにでも語るわけではありません。神さまと霊的につながっている人を用いられます。また、その人は神さまのお声をキャッチできる人でなければなりません。と言うことは、私たちが神さまのお声を正しくキャッチできるため、整えられる必要があるということです。私たちがはじめから「それはできない、無理だ」と思って、神さまに期待もしなかったらどうでしょうか?神さまは、恵み深いので、何度かお語りになるでしょう。しかし、その人が、断り続けるならば、他の人のところへ行きます。もっと、素直で、信仰のある人を探します。そして、その人に祈るように、あるいは何か行動するように語られます。使徒パウロが捕えられ、ローマに向かって船出しました。クレテ島で一休みしているときです。パウロは人々にこのように警告しました。使徒27:10-11「『皆さん。この航海では、きっと、積荷や船体だけではなく、私たちの生命にも、危害と大きな損失が及ぶと、私は考えます』と言った。しかし百人隊長は、パウロのことばよりも、航海士や船長のほうを信用した。」パウロは自分の経験と神さまの示しによって警告しました。しかし、そのまま船出したために、ユーラクロンという暴風雨に巻き込まれました。同船していたルカは「太陽も星も見えない日が幾日も続き、激しい暴風が吹きまくるので、私たちが助かる最後の望みも今や絶たれようとしていた」(使徒27:20)と記しています。『奇跡の入り口』という本をビル・ジョンソンという人が書いています。その本の中で、啓示の重要さについて述べています。聖書は「私の民は奇跡がないために滅びる」とは言っていません。箴言29:18「幻がなければ、民はほしいままにふるまう」と言っています。この御言葉の完全で正しい訳はこうです。「預言的な啓示がなければ、民はほしいままに動き、堂々巡りをして、目標のない人生を送る」。聖書で言うビジョン(啓示)は、目標という意味ではありません。目標は確かに良いものですが、ここで言うビジョンは、見えない物の啓示を与える霊の幻のことです。啓示は私たちの生活に必要不可欠なので、それなしでは私たちは滅びるのです。神の視点から人生を見る能力を高める預言的啓示が明らかにされないなら、あなたは滅びることになるのです。

 第三は神の人を通しての介入です。使徒27:23-25「昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立って、こう言いました。『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。』ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。」その船には、パウロを含めて276人いました。ローマの百人隊長、航海士、船長、船員、そして囚人たちが乗っていました。パウロも囚人の一人でしたが、現在は船のリーダーとなっています。なぜでしょう?御使いが現れて、「神さまが、パウロをカイザルの前に立たせる。パウロと同船している人々を与えた」と告げました。つまり、神さまがパウロをカイザルに立たせるために、その船を守るということです。そして、パウロとその船に一緒に乗っている人たち全員も守られるということです。パウロは全員の人々を励まし、最後の食事を取るように勧めています。神さまがこの世界に介入するとき、神さまは神の人を用います。神の人が、御自分が与えた運命を果たせるように、御手を動かすということです。旧約聖書ではモーセによって紅海を2つに分けました。また、ヨシュアが完全な勝利を収めることができるまで月と太陽を1日止めました。ダニエルのために、ライオンの牙をふさがれました。新約聖書ではイエス・キリストを通して、さまざまな奇跡を起こされました。すべての奇跡は、イエスさま御自身がなされたというよりも、イエスさまを通して、神さまがなされたというのが正しいのです。たとえば、死んで4日目もたったラザロを生き返られるときこう言われました。ヨハネ11:41イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。」アーメン。今日も、神さまはだれかに祈ってもらいたいのです。今日も、だれかが自分の管となって、この世界に奇跡を起こしたいと願っておられるのです。神さまはこの世界に今も介入されます。しかし、御自分と同じ心をもった、神の人を通して、なさりたいのです。

 私たちは私たちをとりまく様々な環境に対して、あまりにも受け身的ではないでしょうか?たやすく、「これも神さまのみこころです」と言いがちではないでしょうか?もちろん、神さまのみこころというものが、窮極的にはなります。しかし、その反対に自分がメシアのようになって、社会を改革していくというのも問題です。教会は政治結社や社会運動の基地ではありません。しかし、2000年前、イエスさまとその弟子たちがなさったようにこの世界を変えることはできます。.その第一は福音宣教です。福音を信じるとき、人々と神さまとの間に和解が訪れます。そうすれば、神さまはその人たちの祈りと願いを聞いてくださいます。第二は神さまの啓示を受けるということです。聖書のみことばを読んで、主と交わるときに、「これをしなさい」「これが可能です」とおっしゃってくださいます。第三は、私たちが直接やるというよりも、私たちを通して神さまが現れてくださるように求めるのです。私たち教会は、神さまの器です。私たちと一緒に今もイエスさまは歩いておられます。私たちが手を差しだすとき、イエスさまが手を差し出してくださいます。私たちが語るとき、イエスさまが語ってくださいます。その結果、私たちをとりまく、環境が変えられていくのです。残念ながら、この地は滅びます。私たちは新しい天と新しい地が来ることを待ち望んでいます。でも、イエスさまは「あなたがたは地の塩であり、世の光である」とおっしゃいました。ですから、地の塩として、できるだけ地の腐敗をとどめなければなりません。また、世の光として、神さまの真理を暗い世の中に示していく必要があります。日本はクリスチャン人口が少ないから微力だと思うかもしれません。しかし、塩は少なくても、塩気があれば、十分に間に合います。また、光がたとえ小さくても、周りがあまりにも暗いので、輝いてみえるのです。私たちは遣わされた場所で、地の塩、世の光の役目を喜んで果たしたいと思います。