2013.8.4「世の終わりの救い Ⅰコリント15:50-58」

 これまで、救いに関してメッセージをしてきましたが今日が最後です。27回目の今日は、究極的な救いについてお話します。これがないと救いは完成しないし、他の救いがあったとしても空しいでしょう。なぜなら、パウロは「復活がなければ、信仰は空しい」と言っているからです。究極的な救いとは、世の終わり、キリストが来られたとき、私たちのこの肉体が新しいからだになるということです。そのとき、死んでいた者は、朽ちないものによみがえります。また、生きている者は、一瞬に変えられるのです。つまり、キリスト教は霊魂の救いだけを言っているのではありません。ギリシャの哲学者は霊魂の不滅を信じていました。他にもそういう宗教がたくさんあるでしょう。しかし、聖書は肉体が救われるときに、救いが完成することを教えています。

 

1.二つのからだ

 Ⅰコリント15:44「血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」パウロは二種類のからだがあることを教えています。第一は血肉のからだです。「血肉のからだ」はギリシャ語では、「生来の、この世の、肉的な」という意味があります。英語の聖書にはnatural body「自然のからだ」というふうに訳されています。つまり、血肉のからだとは、血が通っている肉体のことです。「そのままじゃないか」と思うかもしれません。ほとんどの人は、このからだがすべてであり、このからだのことしか分かりません。このからだが生きているうちは生きていて、このからだが死んだらおしまいだと思っています。生物学では、「ヒトの肉体は無数の細胞からできており、細胞の死は、すなわち死である」と言うでしょう。病院でもまだ脈があるうちは、何とかするでしょう。しかし、脈がなくなったら「ご臨終です」と言われ、あとは霊柩車に乗せられ、数日後は灰になります。お医者さんに、「死後はどこに行くのでしょう?」と聞いたとします。おそらく、お医者さんは「私たちは生きている人に仕えています。死んだ人を扱うのは宗教です」と答えるでしょう。それでは、きょうのテーマは宗教的なことであって、現実とは全く関係のない、「あったら良いなー」という空想の世界なのでしょうか?そうではありません。パウロは「血肉のからだもあるけれど、御霊のからだもある」と言っています。

 第二の「御霊のからだ」とは何でしょう?原文は「霊のからだ」となっており、「御」という、丁寧さを現わすことばがありません。英語ではspiritual bodyとなっています。パウロは御霊のからだとは何かということを説明するために、種まきにたとえています。Ⅰコリント15:36-37「愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。」たとえば、麦を地面の中に蒔いたとします。麦は土の中で死ぬことになります。でも、その死は一時的であり、やがて新しいからだによみがえります。麦が「血肉のからだ」であるならば、土から出てきたものは「御霊のからだ」ということになります。キリストはその初穂でした。キリストは肉体的に死んで墓の中に埋葬されました。ところが3日後、よみがえりました。歴史上、死者がよみがえったのは、キリストが最初です。キリストが初穂として、死者の中からよみがえったのです。私たちもキリストに属する麦であります。終わりの日、キリストのようによみがえるということです。Ⅰコリント15:42-44「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」血肉のからだの特徴はどのようなものでしょうか?朽ちるもの、卑しいもの、弱いものです。そのように、私たちの一般的なからだは、年を取れば老化します。だんだん、しわしわになり醜くなります。病気にもなるし、怪我や事故で、どこかが欠損することもあります。それに比べて、御霊のからだはどのようなものでしょうか?「朽ちないものによみがえらされ、栄光あるものによみがえらされ、強いものによみがえらされる」と書いてあります。血肉のからだと全く違います。御霊のからだは老化しません。栄光の輝きがあります。そして、強いです。強いとは、パワーがあるということです。

 イエス様がよみがえられたとき、弟子たちはだれか分かりませんでした。マグダラのマリヤもそうでした。エマオの途上に向かっている2人の弟子たちもそうでした。不信仰によって、目がふさがれていたからかもしれません。しかし、イエス様の顔や姿が変わっていたからではないかと思います。弟子たちはユダヤ人を恐れて戸と閉じていました。他の訳では、「部屋に鍵がかけられていた」とあります。それなのに、イエス様は入ってくることができました。弟子たちは復活のイエス様を見たと証言していますが、時間的に矛盾があります。みんなが、ばらばらに答えているのは何故でしょうか?その答えが、同じⅠコリント15章に書いてあります。Ⅰコリント15:6 「その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました」とあります。同時に現れたのだったら、時間的に矛盾が起きるのが当たり前です。ある人はガリラヤで見ました。また、ある人はエルサレムで見ました。また、ある人はエマオの途上で見ました。そういうことがありえます。御霊のからだは、物質や空間に支配されないのです。

Ⅰコリント15:45以降には、さらに血肉のからだと御霊のからだの違いが記されています。血肉とからだとはどういうものでしょう?最初の人アダムのものです。血肉のものであり、地上に属し、土でできています。一方、御霊のからだとはどういうものでしょう?最後のアダムのものです。御霊のものであり、天から出て、天から出た者であり、天のかたちを持っています。私たちは地上のものには詳しいですが、天上のことにはさっぱりです。しかし、最後のアダムとはイエス・キリストのことなので、復活されたイエス様のことを想像するしかありません。イエス様は弟子たちにご自分を見せたとき、このように言われました。ルカ24:39「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」驚くべきことに、御霊のからだには、別の種類の肉や骨があるようです。イエス様はその後、焼いた魚をみんなの前で食べて見せました。私たちが持っているからだは、いわば入れ物です。私たちは現在、血と肉でできたからだの中にいます。私たちの本体は何かと言うと、霊と魂であります。霊と魂がこの肉体に入っているのです。死んだときに、私たちが肉体から出ます。では、御霊のからだとは何でしょう?それは、別の物質でできています。天上のからだ、あるいは復活のからだと言っても良いでしょう。やがては、そちらの方に私たちが入るということです。血と肉でできているからだは、いわばこの地上で何十年間か生きるための入れ物です。だんだん老化するし、怪我や事故で欠損することもあります。もちろん、いずれは死んでしまいます。私たちが永遠に生きるためには、永遠のからだが必要です。それが御霊のからだです。Ⅰコリント15:50「 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」とあります。これは当たり前のことです。神の国は永遠に続く場所です。血肉のからだでは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できないのです。そのために、朽ちないからだである御霊のからだが必要なのです。御霊のからだは年を取らないだけではなく、栄光の輝きがあり、強いからだです。強いというのは、おそらく怪我や事故にも耐えられるということでしょう。では、全く弱らないかというとそうでもないようです。黙示録22章を見ると、都には川が流れており、その両脇にはいのちの木があります。私たちはその実を自由に食べることができます。さらに、その葉には諸国の民をいやすと書いてあります。おそらく、御霊のからだを健康に維持するために、いのちの木からの実とその葉が必要だということでしょう。

どうでしょう?ここまで解説すると、「復活のからだが与えられるというのは真実なんだなー」ということがお分かりになられたでしょうか?この肉体はこの地上で生きるためのものです。もって80年、最高でも120年くらいでしょう?しかし、この肉体では天国で住まうことはできません。朽ちない栄光のからだが必要です。神さまは天上のからだ、御霊のからだを私たちのために備えてくださいます。イエス様が初穂として、よみがえられたのはそのためです。

 

2.世の終わりの救い

御霊のからだは、いつ与えられるのでしょう?「今でしょう」と答えたいところですが、そうではありません。今かもしれないし、5年後かもしれないし、50年後かもしれません。でも、そんなに遠い出来事ではないと信じます。Ⅰコリント15:51-53「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。」アーメン。パウロは「奥義を告げる」と言っていますが、どんな奥義なのでしょう?「私たちはみな、眠ることになるのではなく」とはどういう意味でしょう?眠るとは、肉体的に死ぬという意味です。キリスト教会でもいろんな考え方があります。人が死んだとき、「眠る」と言います。しかし、霊と魂は眠っていません。ちゃんと目覚めています。ルカ福音書に「貧乏人ラザロと金持ち」と物語があります。二人とも死にました。でも、貧乏人ラザロはアブラハムのふところでちゃんと目覚めていました。また、金持ちはハデスにいましたが、記憶もちゃんとありました。熱さの中でのどが渇いていました。私たちがもし死んだなら肉体は眠ります。しかし、霊と魂は一瞬にパラダイスに引き上げられ、主のもとに行くことになります。眠るのは肉体だけです。でも、眠るというのですから、目覚めるときが来るということを暗示しています。キリスト教会では、墓地に出かけて「永眠者記念礼拝」を持ちますが、それは正しくありません。クリスチャンは永遠に眠りません。やがて目覚める存在だからです。では、いつ死んだ肉体が目覚めるのでしょうか?また、パウロが言っている奥義とは何なのでしょう?

「私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」とあります。人々の中に、まだ眠っていない、死んでいない人がいるということです。終わりのラッパが鳴るときとは、いつでしょう?Ⅰテサロニケ4:16「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。」と書いてあります。そうです。世の終わり、イエス様が再び来られるとき、復活が起こるということです。そのとき死者が朽ちないものによみがえるのです。でも、パウロが言っている奥義というのは死んだ人がよみがえるという意味ではありません。そこには別のグループもいます。つまり、イエス様が来られたとき、まだ生きている人たちがいます。そういう人はどうなるのでしょう?一瞬にして、栄光のからだに変えられるのです。つまり、死を通過しないで、栄光のからだに変えられ、天に引き上げられるということです。「そんな馬鹿な?」と思うでしょうか?しかし、聖書には死を通過しないで天に引き上げられた人たちがいます。一人はエノクであり、もう一人はエリヤです。へブル11:5 「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」アーメン。パウロを始め、当時のクリスチャンは、自分が生きているときに、イエス様が戻って来られると本気で信じていました。でも、自分たちが思っている以上に、イエス様の訪れが遅かったのです。それで、「どうしよう?」と思って、イエス様の物語、福音書を書いたのです。多くの人たちは、福音書が最初でこのようなパウロの手紙が後だと考えています。そうではありません。福音書を最初に書いたのは、ペテロの弟子マルコです。イエス様が昇天されてから30年くらいたってからです。イエス様が来ないので、次の世代に残すために福音書を書いたのです。でも、イエス様が昇天してから1980年近くたっています。あと20年で2000年目です。Ⅰペテロに、「主の前では、千年は一日のようです」と書いてあるので、もうすぐかもしれません。あと20年だったら、何とかなりそうな感じがします。一番、光栄なのは、死を通過しないで、天国に入れることです。キリスト教会の人たちは、みんなこれにあこがれて生きてきたのです。

今回、救いに関してメッセージしてきましたが、きょうが27回目です。序論でも申し上げましたが、究極的な救いは私たちの肉体が贖われることです。聖書は魂の救いだけを述べていません。私たちの肉体が贖われるときに、はじめて救いが完成するのです。ある人たちは救いとは天国に行けることだと信じています。天国は雲の上にあり、ふわふわした魂の姿で生きると信じています。しかし、そうではありません。天国は現実の世界です。現実というよりも、物質があるということです。厳密に言えば、住むべき場所があり、栄光のからだが与えられ、神さまをこの目で見ることができます。完成された御国は、この地球ではありません。いつかこの地上がなくなります。太陽も月もなくなるでしょう。私たちは、神さまが造られた「新しい天と新しい地」に移り住むのです。詳しくは、黙示録21章と22章にしるされています。そこにないものがあります。何がないのでしょう?黙示録21:4「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」とあります。そうです。私たちにとって、最大の敵は死であります。イエス様が世の終わり、再び来られるのは、死を滅ぼすためです。仏教は死というものがだれにも訪れるものであり、避けようのないものとして受け入れられています。しかし、聖書は、「死は人類の最大の敵である」とみなされています。世の終わり、イエス様が来られた時、死が滅ぼされます。Ⅰコリント15:54-55しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」アーメン。

 私たちは健全な来世観を持つ必要があります。私たちの人生は死で終わらないということです。死んでも生きる、いや、復活で完了するということです。たとえ、死んでもよみがえるということです。また、ある人たちは、死なないで栄光のからだに変えられる場合もあるということです。もし、死で終わらない人生観を持つならば、その人はどのような生き方ができるでしょう?Ⅰコリント15:58 「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」そうです。労苦が無駄ではありません。なぜなら、主が報いてくださるからです。死んだら何もなくなるという人生観では力が出てきません。死んでもよみがえりがあるという人生観はどうでしょう?悔いのない人生を過ごすことができます。なぜなら、主が私たちの労苦を報いてくださるからです。

 

3.滅びからの救い

 これまでのメッセージはキリストを信じている人たちのメッセージでした。しかし、「世の終わり、キリストを信じない人たちはどうなるのか?」ということです。それは、ヨハネの黙示録を読むしかありません。ヨハネの黙示録は世の終わりのさばきの預言です。キリストを信じない人たちは、大患難を通らされます。反キリストの力がいよいよ増し加わり、信仰を持つのがとても困難になるでしょう。額か腕に数字を入れられ、番号が登録されていない人は売ることも、買うこともできません。すでに全世界は国民皆番号制に向かっています。あるとき、世界総督が立ち上がり、獣を拝まないもの、数字を拒む者は捕えられるでしょう。ものすごい迫害が起こり、信仰を持つのが命がけになります。多くの人たちは、妥協して獣を拝むようになります。そのうち、天から火が下り、海の水や川の水が飲めなくなります。いろんな病気が発生し、人々は死を求めますが、死の方が逃げ去るのです。反キリストはメギドの丘に集結し、キリストの軍隊と戦いを交えるでしょう。しかし、キリストが勝利して、獣を拝んだ人たちと偽預言者は火の中に投げ込まれます。悪魔は1000年間縛られた後、火の中に投げ込まれます。その後、第二の復活が起こります。海の中にいる死者、ハデスにいた死者がよみがえります。すべての人が、神さまの前に立つのです。それは「白い御座のさばき」と呼ばれ、書物にしるされているところに従って、さばかれます。クリスチャンはさばきの座に立つ必要はありません。なぜなら、キリストが彼らのためにさばかれ、代価を払ってくださっているからです。問題は、キリストがいないひとです。彼らは自分の正しさで神さまの前に立って弁明しなければなりません。果たして、義なる神さまの前に立ち尽くせる人がいるでしょうか?人々はおのおの行いによってさばかれ、火の池に投げ込まれます。これが第二の死です。クリスチャンは1回しか死ぬ必要がありません。第二の死とは永遠の滅びであり、地獄で永遠に過ごさなければなりません。

 みなさん。究極的な救いとは何でしょう?それは、滅びから救われるということではないでしょうか?ヨハネは福音書でこのように言っています。ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」アーメン。キリストを信じる者は、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つことができます。しかし、この続きがあることをご存じでしょうか?ヨハネ3:18「 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」アーメン。キリストの御名を信じない人は、「すでにさばかれている」と書いてあります。さばきの中、滅びの中にいるのです。だったら、どうすべきでしょうか?生きているうちに、できるだけ早く、イエス様を信じて、救いの中に入る必要があります。一番の緊急問題は、経済でも、健康でも、教育でもありません。イエス様を信じて、救いの中に入ることです。その後、ゆっくりと経済、健康、教育のことを考えるべきです。永遠と比べて、地上の生涯は、わずか一瞬の出来事です。どうか、短い人生において、永遠のいのちを獲得し、復活のからだをいただくことができますように祝福いたします。