2013.8.11「良きものをささげる 創世記4:1-7 へブル11:4」

 へブル人への手紙11章には信仰者の列伝が記されています。その筆頭に出てくるのがアベルです。「アベルは信仰者のモデルなのでしょうか?」と疑問に思うかもしれません。しかし、へブル書の記者は「アベルは義人であった」と賞賛しています。世の中には、アベルのように事件に巻き込まれて命を落とす人がいるでしょう。病気や不慮の事故で、若くして亡くなる方もいます。大志を抱いていたのに、思い半ばで召される人もいます。この世を見ると、「人生は無情である。神も仏もないのでは」と思えるかもしれません。仏教では、「浮かばれない」と言う表現があります。アベルの人生は、仏教的には、浮かばれない人生だったかもしれません。しかし、聖書を読むとき、神さまは、不幸に対して報いてくださる神であり、小さな者を覚えてくださる神であることがわかります。

 

1.アベルの信仰

 アダムとエバから二人の子どもが生まれました。長男はカインであり、弟はアベルです。カインという名前は不明ですが、エバが「私は得た」と言ったことと、関係があるかもしれません。一方、アベルは「息」とか「蒸気」という意味があります。はかない彼の人生と、関係があります。このように聖書には「名は体を表す」というものが多くあります。二人は神さまに、捧げものをたずさえてきました。このところからも、礼拝という行為において、捧げものが不可欠であったことが分かります。カインは土を耕す農夫だったので、地の作物、たとえば穀物や果物を持ってきたと思われます。一方、アベルはどうでしょう?「彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た」と書いてあります。アベルが持ってきた羊には、2つの修飾語がついています。第一は、初子です。最初に生まれた羊という意味です。第二は、最上のものです。羊の最上の部分を持ってきたということです。それからどうなったでしょう?「主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。」と書いてあります。なぜ、神さまはアベルのささげものを受け入れ、カインのささげものを退けられたのでしょうか?カインはその後、「ひどく怒り、顔を地に伏せた」とありますが、無理もないような気がします。「神さまは公平なお方でしょう?一方を受け入れ、他方を拒絶するとは何事ですか?」と文句言いたくなります。どこに問題があったのでしょうか?

 このことを説明しているのが、新約聖書のへブル人への手紙です。へブル11:4「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。」新約聖書では、二人のささげものに違いがあったと解説しています。「アベルはすぐれたいけにえを神にささげ、それが義人であることの証明を得た」と書いてあります。さらには、「神さまは、アベルのささげ物は良いささげ物だとあかししてくださった」とも書いてあります。つまり、ささげものによって、ささげものを持ってきた人がどんな人物か分かるということです。カインは「地の作物から主へのささげ物を持って来た」とありますが、何も間違っているところがないように思います。しかし、英語で表現するならば、one of themであります。「それらの中の1つ」ということでしょう。一方、アベルのささげ物はどうでしょうか?「羊の初子」とありますので、最初に生まれた羊です。聖書では「初子は神さまのものである」と書いてあります。さらに、「最上のもの」とあります。原文は「脂肪、選り抜きの部分」というという意味になっています。おそらく、羊をほふって、一番良い部分をささげたということでしょう。英語で表現するならば、the best thingであります。つまり、神さまに一番良いものを選んで携えて来たということです。創世記4章には「主はアベルとそのささげ物とに目を留められた」とあります。また「カインとそのささげ物には目を留められなかった」と書いてあります。ささげた人とささげ物とがくっついています。つまり、ささげ物は、ささげた人と関連している、いや、一体であるということです。カインの神さまに対する見方は、「one of themそれらの中の1つで良い」ということでしょう。そして、アベルの神さまに対する見方は「the best thing一番良い部分をささげるべきである」ということです。あきらかに、神さまに対する信仰の度合いが違います。

 では、どうなのでしょうか?神さまが喜ばれるのは、ささげ物のいかんによるのでしょうか?ささげ物が多ければ神さまに喜ばれるのでしょうか?あるいは、最も尊いものを捧げれば、最も神様を喜ばせることができるのでしょうか?異教の人たちは、そのように信じて、自分の子どもをささげました。モアブ人の間では、ケモシュ(モレク)という戦いの神さまが礼拝されていました。ある人たちは、ケモシュのために、自分の子どもを全焼のいけにえとしてささげました。彼らは、「自分にとって最も大切な子どもをささげますから、この祈りを聞いてください」と願い出ました。しかし、神さまが喜ばれるのは、ささげ物の大小ではありません。その人の動機であり、信仰であります。おそらく、アベルは神さまをとっても慕っていたので、「羊の初子の中から、それも最上のものを持ってくるのが神さまに相応しいのだ」と考えていたのでしょう。自分のささげ物を誇示して、見返りを求めるようなところは微塵も見られません。神さまを崇める純粋な信仰でたずさえてきたのです。

もう1つのヒントは、へブル11:4後半の「そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました」というみことばです。義人とは罪がないだけではなく、神さまから完全に正しいと見られているということです。でも、アベルは神さまに近づくときに、自分には罪があることを知っていました。そして、自分の両親のことをちゃんと覚えていました。両親であるアダムとエバは、いちじくの葉の代わりに、神さまから着せられたものを知っていました。「皮の衣」ということは、神さまが動物をほふって、血を流し、皮をはいだということです。アベルはどの程度理解していたか分かりませんが、「神さまのところに近づくためには、このままではいけない。羊をほふって、血を流し、最上の部分を持ってこなければならない」と考えたのです。そのことによって、アベルの罪がきよめられ、神さまはアベルを義人とみなしたのであります。アベルは信仰によって、どのささげものが一番、神さまにふさわしいのか知っていたのです。つまり、アベルには贖いの信仰があったということです。願わくば、私たちのささげものが、私たちの信仰の表れでありますように。もし、私たちが神さまの前に出るとき、「つまらないものですが」とか、「わずかなものですが」と言ってはならないと思います。日本人は人に何かをプレゼントするとき、「つまらないものですが」と謙遜します。本当につまらないものだったら、人に差し上げるべきではありません。気持ちはわかります。でも、私たちが神さまの前に出る時は、「せいいっぱい」とか「心からの」と言うべきです。

 

2.アベルへの報い

アベルはこの後、カインによって殺されてしまいました。本当に、無残な死に方であり、はかない人生であります。「神さま、どうしてアベルを守ってあげられなかったのですか?」と言いたくなります。この世にはそのような不条理がまかりとおっているのは何故でしょう?アダムとエバが罪を犯して、神さまから離れてしまいました。別な表現では、神のご支配から、罪と悪魔の支配に転落したということです。そのため、義なる神さまは、罪の中にいる人々を支配しようとはしません。ローマ1:28「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。」この世に悪がはびこっているのは、そのためであります。では、神さまは悪を放任しておられるのでしょうか?そうではありません。ローマ2:6「神は、一人ひとりに、その人の行いによって報いをお与えになります」とも書いてあります。弟を殺害したカインは、さばかれ、その土地から追い出されることになりました。一方、アベルはどうでしょうか?神さまはアベルの叫びを聞かれました。アベルが流した血によって土地がのろわれました。それだけではありません。神さまはアベルの魂を救い、義と認め、義人の最初のリストに加えられたのであります。アベルの人生は、まさしく「息」あるいは「蒸気」のようなものでした。アベルの命は、またたく間に消えてなくなりました。しかし、神さまはアベルの魂を救ってくださり、義人の筆頭に加えてくださったのです。

 聖書の神さまは報いを与えてくださる神さまです。この世においては、事故や災害で死んだり、若くして病気で死んだり、あるいはアベルのように命を奪われる人もいます。しかし、その理由は、アダムとエバの堕落後、この世は罪と悪魔が支配しているからです。「神さまがいるなら、なぜこんなことが起きたんですか?神さまなんか本当はいなんだ!」と言っている人が大勢おられると思います。私たちは主の祈りの中で「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように(マタイ6:10)」と祈ります。この祈りは、「地においては神のみこころが行われていない」ということが前提になっています。だから、「みころがこの地でも行われますように」祈るように求められているのです。では、「神さまは、全くこの地上の出来事には関知しないか、罪と悪魔のなすがままにしておられるのか?」というとそうでもありません。なぜなら、神さまはアベルがささげたささげものを覚えておられ、報いてくださったことが、ここにしるされているからです。使徒の働き10章にこのような記事があります。カイザリヤというところに、コルネリオというローマの百人隊長がいました。使徒10:2「彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていた」と書いてあります。彼はローマ人でありながら、まことの神さまを恐れかしこみ、多くの施しをなし、神に祈っていました。神さまは、異邦人であるコルネリオを覚えておられたのでしょうか?聖霊が、使徒ペテロに「カイザリヤにいるコルネリオという人に会いに行きなさい」と命じました。一方、カイザリヤのコルネリオには御使いが現れ「コルネリオ。あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前に覚えられている。ヨッパに人をやってペテロを招き入れなさい」と言いました。ペテロは異邦人の家に入ることを躊躇しましたが、主の幻とともに御声があったので、従いました。ペテロがカイザリヤに来て、コルネリオの親戚一同にイエス様のことを話している途中、聖霊が下りました。コルネリオのように、まことの神さまに向かって祈っている人を、神さまは覚えていてくださるということです。

 何十年も前のことです。一人の韓国の青年が肺結核のためベッドに臥せっていました。彼の片方の肺は全く機能していませんでした。彼は自宅のベッドに臥せって、ひどい苦しみの中で、死を待っていました。そのとき彼は、さまざまな神さまの名前を呼びました。「どうか私を助けてください」とひとりの神さまに向かって叫びました。しかし、何の応答もありませんでした。それで、こんどは別の神さまに「どうか私を助けてください」と叫びました。しかし、何の応答もありません。さらに別の神さまに同じことを祈りました。しかし、何の応答もありません。さらに別の神さまに祈りましたが、何の応答もありません。最後に、彼は自暴自棄に陥り、「もし、まだ、他のどこかに、神さまがいるのなら、私は病気を治してくださいとは求めません。ただ、私がどのように死んだら良いか教えてください」と叫びました。彼は死ぬことを恐れていました。数時間後です。若い女子大生が近所を歩いているときに、だれかから呼ばれているように感じました。なぜなら、「表現できないような愛」が青年の家から流れてきたからです。彼女は、自分で何をして良いか分からないまま、知らない家のドアをノックしました。すると、一人の婦人がドアをあけました。女子大学生は、「とても奇妙で、自分でもわからないのですが、あなたについて、何かお祈りをしたら良いでしょうか?」と言いました。その婦人は、青年のお母さんでした。彼女は泣きながら、「はい、私の息子が死にそうなんです」と答えました。女子大学生はお家に上がり、青年のために祈りました。その日に、青年はイエス様を受け入れました。しかし、青年は死にませんでした。神さまは奇跡的に彼を癒しました。その青年こそ、世界最大の教会の牧師、チョーヨンギ牧師です。神さまは一人の青年を見捨てませんでした。彼はどの神さまか分からずに、「他にもまだ神さまがいたら」と祈っただけです。神さまはちゃんと覚えてくださり、女子大学生を遣わし、病を癒し、神さまの偉大な働き場に引き上げてくださいました。神さまは、ご自身のものを見捨てるお方ではありません。神さまは私たちが呼び求める声を知っておられます。そして、必要な助けを与えてくださいます。たとえ、アベルのように肉体的な命を失うことがあっても、魂を救ってくださいます。私たちの神さまは悪に対してはさばき、善に対しては報いてくださるお方です。

 

3.アベルの血

へブル12:24「さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。」これはどういう意味でしょう?アベルの血はイエス・キリストの予表、あるいは予型であるということです。つまり、アベルの血は、キリストを表わしているということです。ちょっと考えてみたいと思います。アダムの長男はカインでした。「カインがこれからの子孫を何とかしてくれるだろう」という期待は完全にはずれました。カインは弟アベルに対する妬みと怒りを抑えることができませんでした。アベルを野原に呼び出して、襲いかかって殺しました。さらには、地面に埋めました。主はカインに「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われました。カインは「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか?」と答えました。カインは神さまが、全部、ご覧になっていることを知りませんでした。そのとき、「申し訳ありません。私はかっとなって、弟を殺してしまいました。どうかお赦しください」と告白したならば赦されていたでしょう。しかし、救いの道を蹴って、「私は知りません。弟の番人でしょうか?」と言いました。そのことは、カインの何が証明されたのでしょうか?Ⅰヨハネ3:12「カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったからです。」「悪い者から出た者」とは、どういう意味でしょう?「悪い者」とは聖書では、悪魔のことを指しています。カインの父はアダムであり、悪魔であったのです。カインの末裔は、まさしく、悪魔の子どもであり、罪を犯し続ける者たちです。つまり、アダムの長男は子孫を救う者ではなく、むしろ罪を助長する者になったのです。その証拠に、レメクはこう言いました。創世記4:24「カインに7倍の復讐があれば、レメクには77倍」。まさしく、罪が拡大しています。

 では、カインのかわりに人類を贖う方はだれなのでしょうか?すぐ答えを出す前に、このところに「アベルの血」が、出ているのは、何故なのでしょうか?創世記4:10そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。」私はこれまで、アベルは「神さま、兄カインが私を殺しました。どうか兄をさばいて下さい」と叫んでいると思っていました。しかし、そうではないようです。なぜなら、アベルはヘブル11章では、義人と認められています。義人はそういう祈りをするとは思えません。また、へブル12章には「さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています」と書いています。このところからわかることは、アベルとイエス様が似ているということです。アベルが仲介者であるならば、イエス様は新しい契約の仲介者です。アベルの血が語るならば、イエス様の血はアベルよりもすぐれたことを語ります。このところでは、アベルは仲介者イエス様の予表、あるいは予型であるとみなされています。アベルは血を流しながら、「神さま、カインを赦してください」と叫んだのではないかと思います。おそらく、へブル人への記者は、そのようにアベルが流した血を評価していたのではないかと思います。アダムが生んだ長男カインは殺人を犯し、人類を救うことができませんでした。義人アベルは殺されましたが、「カインを赦してください」と叫びました。では、人類を罪から救うお方はだれでしょうか?イエス様は神のこどもであり、長子です。イエス様は十字架で、「父を彼らをお赦しください」と祈りました。そして、ご自分の血を注いで、私たちの罪を取り去り、新しい契約の仲保者となってくださいました。このお方を信じる人は、悪魔の子ども、カインの子孫ではありません。罪赦され、神さまの子どもとなることができるのです。古い契約は律法を守り、さまざまな儀式を行うことでした。しかし、新しい契約はキリストを信じることで、救われます。

 では、「クリスチャンになったらアベルのようなはかない人生を送ることはないか」というとそうではありません。神さまのみこころは、Ⅱヨハネ2にあるように、「魂に幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康である」ことです。でも、神さまはアベルのことを忘れてはいません。アベルは義人でありました。そして、アベルの流した血とその叫びは無駄ではありませんでした。アベルはイエス・キリストを示した立派な証人でした。私たちの知人や肉親の中に、長寿を全うしないで召された人がいるかもしれません。聖書にはアベルのほかに、エノクのことが記されています。新約聖書ではイエス様の弟子でありながら、剣で殺されたヤコブが出てきます。石で打ち殺されたステパノもいます。人間的に見たならば、「神さまどうして守ってくれなかったのですか?」と文句を言いたくなります。考えてみれば、イエス様も33歳で亡くなりました。地上で健康で長生きすることは、神さまの標準的なみこころであると信じます。しかし、人生は地上の長さではありません。どう生きたかであります。アベルは短い人生でありましたが、神さまに最上のものを捧げました。神さまはアベルとそのささげ物とに目を留めてくださいました。私たちの人生は永遠と比べたら30年も80年もほとんど変わりありません。でも、そういう小さな私たちに神さまが目を留めてくださり、覚えてくださり、報いてくださるお方だということが分かりました。十字架の片方の犯罪人が「イエス様、私を思い出してくださいJesus remember me」と願いました。イエス様は「まことに、あなたはきょう、私と共にパラダイスにいます」とおっしゃいました。イエス様はあなたのことを覚えていらっしゃいます。そして、豊かに報いてくださいます。