2013.8.18「神と共に歩む 創世記5:21-23 へブル11:5-6」

 エノクは、死なないで、天に引き上げられた人物です。預言者エリヤもつむじ風に乗って、天に引き上げられました。あとは、世の終わり、イエス様が来られたとき、私たちが生きているなら、死なないで天に引き上げられるでしょう。死というものが、アダムとエバが罪を犯してから、全人類を支配してしまいました。しかし、エノクやエリヤのように例外もあるということです。私たちはエノクのように死なないで天に引き上げられるかは、分かりません。エノクは天に引き上げられるほど、神さまから喜ばれていました。どのような信仰生活が神さまに喜ばれるのでしょうか?そのことを聖書からともに学びたいと思います。

1.神と共に歩む信仰

 創世記4章にはカインの子孫が記されています。カインの子孫は「だれそれが何をした」ということが記されています。ところが、創世記5章を見るとどうでしょう?ここにはアダムから生まれたセツの子孫が記されています。「だれそれが何をしたか」ということは全く書かれていません。その代わりに、「だれそれが○年生きて、だれそれを生み、何年生きて、死んだ」と多くの人たちが並べられています。「生きて、生んで、死んだ」「生きて、生んで、死んだ」と書いてあります。カインの子孫とセツの子孫の決定的な違いは何なのでしょうか?カインは自分の業績を上げることに力を向けたグループの人たちです。一方、セツはどうでしょうか?創世記4:26「セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」セツの子孫は、「何ができるかということよりも」神さまとの関係を重んじたグループの人たちです。創世記5章に「生きて、生んで、死んだ」と記されていますが、彼らは、神さまと関係を持っていた人たちです。そうしますと、神さまは、私たちが何ができたかということよりも、ご自身との関係を記憶に止めておかれるようです。当時の人たちは、現在よりもはるかに長生きしています。ある人たちは、「古代オリエントにならって、年齢を水増ししたのだ」と言います。私はそうは考えません。アダムは本来、永遠に生きる存在として創造されました。ところが罪を犯したために、人類に死が入り込みました。ですから、アダムがたとえ、930年生きたとしても、永遠と比べたなら、まだ短命なのです。

 セツの子孫に、エノクがおります。カインの子どももエノクでありましたが、別人だと思います。エノクの一生はどうであったでしょうか?創世記5:21-24「エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」エノクの一生は、他の人たちと比べて半部以下の長さです。もし、私たちのまわりに、早死にした人がいるなら、「その人は祝福を受けていない」と思うのではないでしょうか?エノクはどうだったのでしょう?「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」「いなくなった?」って、果たしてどこに行ったのでしょう?へブル人への手紙で、このことを説明しています。へブル11:5「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」エノクは死を経験しないで、神さまのもとに召されました。理由は、エノクは神さまから喜ばれていたので、死なないで、天に引き上げられたということです。これってすごいことじゃないでしょうか?人生は単純に長さではないように思えます。神さまがエノクを愛して、とても喜んでいました。「ああ、私はエノクの死を見たくない。生きたまま、天に引き上げよう」ということになったのです。人類の歴史上、エリヤをのぞいて、エノクのような人物はいません。アブラハムもモーセもダビデも死にました。しかし、エノクだけはそうではありませんでした。では、どういう生き方がそれほど神さまを喜ばせるのでしょうか?創世記5章にはひとこと「エノクは神とともに歩んだ」と書いてあります。エノクのように神とともに歩む人生が、神さまに喜ばれるということであります。

 でも、神とともに歩むというのは、どういう意味でしょう?エノクという名前は「従う者」という意味です。アダムとエバは堕落する前は、神さまとともに歩んでいたと思います。神さまと親しく交わりながら、神さまに従って歩んでいたと思います。ところが、善悪を知る木の実から食べてからは、一変してしまいました。神さまに聞かないで、自分たちで何もかも判断するようになりました。本来なら、神さまに従うことが善であり、従わないことが悪でした。でも、神さまから独立した人類は、自分たちで善悪を決めるようになったのです。罪ある人間はどうでしょうか?神さまがともにいたなら、かえって緊張するのではないでしょうか?自分の好きなことができない。自由がない。いつさばかれるか分からない。だから、多くの人は「さわらぬ神にたたりなし」と、神さまを祀り上げてしまいます。どうでしょう?神さまがともにおられることが喜びでしょうか?あるいは窮屈で仕方がないでしょうか?エノクは違いました。エノクは、いつでも、神さまを意識して生活していたと思われます。私もイエス様を信じた頃は、そうでした。いつでも「神さま、神さま」と意識していました。なんでも「神さま」でしたので、友人たちから、キリスト教にかぶれているとさえ思われていました。それから、半年後、神学校に入ってからどうなったでしょう?神学校では神学を学びました。その学校では「みことば、みことば」と言っていました。知的な面が強調され、頭の信仰になりました。心の信仰から頭の信仰になったのです。「神さまはどういう存在か」などと、理屈っぽくなりました。アダムとエバは知識の木の実を食べるときは、とても素朴だったと思います。ところが、知識の木の実は魅力があります。エバはその木を見たとき「賢くするというその木はいかにも好ましかった」(創世記3:6)と言っています。 

 神を知る知識が増し加われば神さまと共に歩むことができるのでしょうか?パウロは、Ⅰコリント8:1で「しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます」と言っています。知識を持つことは悪いことではありません。しかし、1つの弊害があります。知識は人を高ぶらせてしまいます。でも、愛は人の徳を高めます。私たちと神さまとの関係でいうならどうでしょうか?聖書は神さまについて書かれた書物です。いろんな本を読んで、神さまについて勉強することはすばらしいことだと思います。でも、神さまは人格を持っています。聖書という神さまの説明書を読むことも重要ですが、人格を持っていらっしゃる神さまと交わる方がもっと重要ではないでしょうか?聖書は神さまについて書いている書物です。聖書を学ぶならば、神さまについて知識を得られます。しかし、それだけで神さまが分かったとは言えません。ギリシャ語で「知る」とういうことばには2つあります。1つはギノスコーであり、知的に知るということです。「イエス・キリストは神の子であり、救い主である」ということを聖書から知ることができます。その知識は完全であり、上がったりも下がったりもしません。もう1つはオイダであり、体験的に知るということです。ヘブル語では「ヤーダー」と言って、「知る」とは、夫と妻の親しい関係を言います。つまり、イエス様が自分にとって、救い主であるということを体験することがもっと重要です。この知識は一ぺんでわかることではありません。いろんなことを体験していくうちに、「ああ、イエス様は本当に私の救い主なんだ」と分かるのです。イエス様は弟子たちをご自分のもとに集めました。マルコ3:14-15「そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」イエス様は学校のようなクラスルームで弟子たちを訓練しませんでした。弟子たちと寝食を共にしながら、生活を通して教えたのです。知識もさることながら、その生き様を刷り込んでいたのです。「刷り込み」こそ、もっともすぐれた教え方であります。

 私も神学校を卒業したてのころは、神さまがどういうお方なのか定義することができました。「神さまは全知全能で、偏在なるお方、完全なる愛をもっておられる」と言うことができました。しかし、自分が経済的に最も苦しいときに、「神さまは全知全能です」と言えるかどうかです。やはり、それは、苦しいときに神さまから養ってもらった体験があるなら本当にそうなります。私はグーグルで日本の地図、世界の地図を見るのが好きです。今は、「アース」という機能が加わり、まるで飛行機から見たような感じで見えます。エベレスト山もマッターホルンにも行けます。また、チベットの梅里雪山という前人未到の山にも行けます。富士山にも簡単に行けます。しかし、実際に山に登るのは、考えられないくらい大変です。パソコンの上では、雪崩にあうこともありません。もちろん、遭難することもありません。そんなことでは、山に行ったことにならないのです。神さまとの関係も同じです。「神さまは全知全能である」と一言で言えます。しかし、それは頭の知識です。しかし、神さまと実生活で交わりながら、神さまが全知全能であるということがもっと重要です。パウロは経済的な苦しみを乗り越えてこのように告白しています。ピリピ4: 19 「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」私たちも神さまを「私の神は」と紹介できる者となりたいと思います。

 

2.神さまに喜ばれる信仰

へブル11:6「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」とあります。神さまは霊ですから、肉眼では見えません。エノクもそうであったと思われます。ところがエノクは、神さまは目には見えなくても、近くにおられることを信じていました。それだけではありません。エノクは神さまに自分の方から近づいて、神さまと親しく交わったのではないかと思います。神さまが閻魔大王のように怖いと思ったなら、だれも近づきません。しかし、エノクは神さまが自分を愛してくださる、恵み深い神さまであることを信じていました。エノクがそういう態度で神さまに近づいたので、神さまも「そうか、エノク」と近づいたのです。ヤコブ4:8「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」とあります。信仰とは、「信じて仰ぐ」と書きます。でも、もっと積極的な意味があります。信じて、こちらから神さまに近づくということです。

きょうもみなさんが、このように神さまに近づいています。私たちが賛美し、礼拝をささげているのは神さまに近づいている証拠です。では、このようなメッセージは何のためにあるのでしょうか?カトリック教会では、このようなメッセージは重要ではありません。それよりも、聖体と言われるパンを食べることです。自分の罪をざんげして、神さまに近づくことが重要とされます。それではなぜ、プロテスタントでは礼拝のとき、長々と教えを垂れるのでしょうか?そして、いつ礼拝しているのでしょうか?話を聞くのが礼拝なのでしょうか?では、なぜ、このようなメッセージをするのか?それは、私も含めてみなさんに、信仰を与えるためです。神さまは目に見えませんので、信仰が必要です。また、私たちは罪を犯していたり、あるいは標準に達していないと、「自分は神さまのところに行けない」と思います。あるときは神さまが近く感じられますが、あるときは神さまが遠くに感じられます。またあるときは、「神さまなんかいないのでは?」と疑いに満ちているときもあるでしょう?どうでしょうか?私たちの信仰いかんによって、神さまが大きくなったり、小さくなったり、あるいは消えてなくなるのでしょうか?そうではありません。私たちはイエス・キリストの贖いによって、完全に神さまに受け入れられているのです。儀式や犠牲も必要でありません。なぜなら、イエス様が血を流して、贖いを完成してくださったからです。イエス様は私たちが必要である律法をすべてまっとうされました。仲介者であるイエス様を通して、ありのままで神さまのところに行けるのです。私が聖書からこのようなことをメッセージするとどうでしょうか?みなさんは「ああ、そうだったのか?」とイエス様のところに行って、重荷をおろして、平安を得ることができます。だから、このメッセージは礼拝の中心ではありません。みなさんが神さまに近づけるように手助けをしているのです。礼拝の中心は、メッセージが終わってからの応答のときであります。自分をささげることが最も重要なのです。もちろん、献げものも重要です。なぜなら、献げものは自分の信仰の現れだからです。

 もう1つ神さまに喜ばれる信仰とは何でしょう?それは、神さまを求めるということです。そして、神さまを求める者には報いてくださいます。この箇所を読むと「神さまに品物を求める」と書いていません。多くの場合、私たちは経済的なもの、健康、問題の解決、いろんな必要を求めるでしょう?でも、ここには「神さまを求める」としか書かれていません。ということは、何かの品物や願い事ではなく、神さまご自身を求めるということです。あるとき、お父さんが長い出張から帰ってきました。いつも、お父さんは息子のために、おもちゃを買ってきてくれます。「お帰り」と子どもが玄関に来て迎えました。お父さんが「いやー、忙しくて。お土産をかう時間がなかった。ごめんよ」と言ったとします。もし、子どもが「なーんだ。せっかく楽しみにしていたのに、お土産がないのか?」とプーンとすねて部屋に入ったならどうでしょう?あるいは、子どもが「お土産なんかよりも、お父さんが無事に家に帰ってくることがすばらしんだ」と抱きついたらどうでしょう?お父さんは嬉しくて、「こんど高価なものを買ってくるぞ」と思うでしょう。私たちは多くの場合、神さまの手を求めて、神さまご自身を求めていない場合があるかもしれません。何が必要を覚えたときだけ祈る。「あれください。これください。」「ああしてください。こうしてください。」もし、そうだとしたなら神さまはさびしいのではないでしょうか?神さまに頼むものがなくても、神さまがともにおられることを感謝したならどうでしょうか?神さまはきっと、喜ぶのではないでしょうか?この世の人たちが拝んでいる偶像の神さまはそういう神さまです。困った時しか、近づきません。しかし、私たちの神さまは人格を持っておられ、関係を重んじてくださいます。用事がなくても、神さまと親しく交わる。神さまご自身を賛美して、感謝する。そのような神さまとの交わりこそが、エノクのように神さまを喜ばせるのではないでしょうか?

 さらには、このところに「報いてくださる」と書いてあります。もう一度、お読みます。「神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」確かに、「神を求める者には報いてくださり、それを信じなければならない」と書いてあります。ある人たちは「報い」というと何か意地汚いように思う人がいるかもしれません。「報い」ということばは、日本語ではあまり良い感じがしないのでしょうか?原文を見ますと、神さまは「報いる者」となっています。これは「賃金を払う者、報酬を与える者」という意味があります。イエス様は「タラントのたとえ」や「ミナのたとえ」を用いて、神さまが報いを与える者であると教えておられます。忠実であった者にはそれに応じた報いを与えておられます。逆に不忠実であった者には、持っているものを取り上げ、外の暗闇に追い出すように命じました。ここには、「神さまは、報いてくださる方であることを信じなければならない」と教えています。つまり、報いをどうでも良いと考えるのではなく、報いを期待すべきだということです。では、私たちがこのように、神さまご自身を求め礼拝をささげるとします。神さまはどんな報いを与えてくださるのでしょうか?私は神さまは、手ぶらでは返さないと思います。シェバの女王がソロモンに会いに来たときはどうでしょうか?シェバの女王はバルサム油と非常に多くの金および宝石を携えてきました。そして、帰るときはどうだったでしょう?Ⅰ列王記10:13「ソロモン王は、その豊かさに相応したものをシェバの女王に与えたが、それ以外にも、彼女が求めた物は何でもその望みのままに与えた。彼女は、家来たちを連れて、自分の国へ戻って行った。」これは、神さまと私たちのことを暗示してはいないでしょうか?シェバの女王が求めたのは、ソロモンの栄華であり、ソロモンの知恵でした。しかし、帰るときはどうだったでしょう?持ってきたものに相応しいものを与えました。それ以外にも、彼女が求めた物は何でもその望みのままに与えました。シェバの女王は遠くから、危険を冒してソロモンに会いに来ました。一緒に、たくさんの貢物を携えてきました。そのようにやって来たシェバの女王をソロモンは手ぶらで帰しませんでした。求めた物は何でも望みのままに与えました。このところに、何かヒントがあるように思います。

 私たちの神さまも同じではないでしょうか?このように神さまを賛美し、感謝をささげます。みことばを聞いて、信仰をもって神さまに近づきます。自分を神さまにささげ、ささげ物もささげます。そして、牧師が祝祷をします。私はこのとき、神さまがご自分がもっておられるものをみなさんに与えてくださっていると信じます。ある人には健康を、ある人には経済的な祝福を、またある人には神さまからの慰めと平安と喜びを、またある人には隠された知恵を、またある人にはビジョンや信仰を与えるでしょう。私たちは神さまから油を塗られ、武具を与えられて、この世に遣わされていくのです。肉体的にも、精神的にも、霊的にもリニューアルされるでしょう。「新しい週も神さまと共に歩むんだ」という決意が与えられるでしょう。それだけではありません。私たちは私たちの遣わされた生活の現場で、神さまと共におられることを体験を通して学ぶのです。「ああ、このときも助けてくれた」「ああ、これも与えられた」「ああ、本当に慰めを受けた」「ああ、問題が解決された」。そういう報いが毎日、毎日、与えられると信じます。エノクのように天に引き上げられてはいません。しかし、天の方がこちらに降りてきて、まるで天国のような祝福の中を歩むことができるのではないでしょうか?私たちがエノクのように天に引き上げられるのもすばらしいことです。でも、残された家族はさびしがるでしょう。それよりも、天の方がこちらに降りてきて、みんなで祝福の中を歩む方がもっとすばらしいです。私たちが残されているのは、神さまの恵みを知らない人に、恵みを知らせるためであります。あなたのまわりの人たちに、神さまを知らせるために、まだ地上に残されているのです。へブル11:6「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」