2013.9.1「天路歴程 創世記12:8-18」

 イギリスのジョン・バニヤンが『天路歴程』という本を書きました。基督者という人があるとき、夢を見ました。自分の町がまもなく亡びるという恐ろしい夢でした。彼は救いを得るために、故郷も家族も捨てて、天の都を目指しました。ある時は失望落胆の沼に落ち、またある時はアポリュオンという悪魔と戦う、波乱に満ちた旅の物語です。続編は、彼の妻と子供たちが、天の都を目指すというストーリーになっています。クリスチャンも天の都を目指す旅人であります。きょうは、故郷を捨てて、約束の地を目指したアブラハムの信仰を共に学びたいと思います。

1.故郷を出発したアブラハム

主なる神さまはアブラムに「あなたを大いなる国民とする」と約束しました。やがて、彼の名前は「アブラハム」と改名させられます。新約聖書では「アブラハム」と呼んでいますので、便宜上アブラハムと呼ばせていただきます。アブラハムは神さまから「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出なさい」と命じられました。では、アブラハムの生まれ故郷とはどこなのでしょうか?1章手前の創世記11章を見たいと思います。アブラハムは父テラが70歳のときに生まれました。アブラハムの生まれ故郷はカルデヤ人のウルでした。ウルはシュメールでも有名ですが、古代メソポタミアの都市です。そこで、アブラハムはサライと結婚しました。父のテラは、息子夫妻と孫のロトを伴って、カナンの地に出発しました。もしかしたら、テラは神さまから、「カルデヤ人のウルから出て、カナンの地に行くように」と命じられたのかもしれません。しかし、どうでしょう?ハランに来て、そこに住みついてしまいました。アブラハムが召命を受けたのは、父テラが死んだ直後だったと思われます。創世記12:1-4「【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。当時は、今よりも二倍くらい生きしたようですが、75歳というと、ある程度の年に達しています。その年になって、何もかも捨てて出発するというのは冒険であったと思われます。

 へブル人への手紙11章には、このように書かれています。「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました」(へブル11:8)。みなさんの中に、行先が分からないのに、電車に乗る人がいるでしょうか?あるいは、行先が分からないのに、車を発車させる人がいるでしょうか?たまに、山手線でぐるぐる回っている人がいますが、普通はそういう人はいないと思います。アブラハムは父がカナンの地に行こうとしていたことだけは知っていました。だから、西へ向かって進んで行ったと思われます。実際に、創世記12:5「アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。」とあります。神さまは、アブラハムに「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられました。しかし、まだその当時は、カナン人が住んでいたので、そこに定住することは不可能でした。そこで、アブラハムはベテルの東にある山の方に移動し、天幕を張りました。それから、なおも進んで、ネゲブの方へと旅をつづけました。しかし、その地方にはききんがあったので、今度はエジプトに下りました。こうところを見ますと、カナンが最終的な目的地ではなかったようです。このように行先は明かされていません。しかし、アブラハムが国民の父となるために、絶対すべきことがありました。それは何でしょう?生まれ故郷、つまり、父の家を出て、神さまが示す地へ行くということです。なぜ、生まれ故郷を出なければならなかったのでしょうか?生まれ故郷には何があったのでしょうか?カルデヤのウルにはいろんな宗教がありました。古代メソポタミアでは、ナンナルという月の神さまを拝んでいました。父テラはハランに移りましたが、ハランもやはり、偶像礼拝の地でした。いわば、父テラは妥協したのでありましょう。だから、神さまはアブラハムに「あなたの父の家を出よ」とまで言ったのでしょう。

 日本は、仏教や神道、先祖崇拝の国です。日本で、イエス・キリストを信じるとなると、戦いが伴うでしょう。羽鳥明先生が16歳のとき、夜の集会でイエス様を信じました。宣教師から、お父さんにクリスチャンになったことを告げなさいと言われました。勇気を振り絞って、お父さんにそのことを告げました。すると、「ご先祖に謝れ」と怒鳴られ、畳の上に、大外狩りで投げつけられたそうです。現代はそこまでいかないかもしれませんが、長男の場合は仏壇を守るために、信仰を持つのが難しいかもしれません。イエス様がヤコブとヨハネを召したとき、舟も父も残してイエス様に従いました(マタイ4:22)。弟子となるためには、決別みたいなものがありました。私が家内と婚約したのち、家内の実家に挨拶に行きました。お家に入ると、天皇陛下の写真が飾られており、神棚も仏壇もありました。どうわけか、マリヤ様の白い像が居間の棚に立ててありました。家内の弟が家を継ぐので、問題はなかったかもしれませんが、義父の心は穏やかでなかったと思います。義母も看護学校を出してやったのに、教会に献身するなんて夢にも思っていなかったでしょう。家内はまさしく、生まれ故郷と父の家を出たのです。しかし、そのわりには、お盆の他に数回は実家に帰っています。ま、親孝行のためであると理解しています。私たちクリスチャンにとっては、偶像礼拝を捨てて、まことの神に立ち返るということがどうしても必要です。なぜなら、ほとんどの日本人は、お寺の檀家であり、神社の氏子になっているからです。自分で気が付いていなくても、霊的には、この世の神に捕えられているということです。ですから、イエス様を信じるためには、「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出る」ということが必要なのです。

 

2.天幕生活をしたアブラハム

 その当時、カナンにはカナン人とペリジ人が住んでいました。その地に、アブラハムとロトの2つの集団が入り込むことになりました。両者の家畜が増えてきたとき、牧者との間に、争いが起こりました。なぜなら、家畜のための牧草地が狭かったからです。そのとき、アブラハムはどのように、問題を解決したでしょうか?創世記13:8-11「そこで、アブラムはロトに言った。『どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。』ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、【主】がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、【主】の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。」神さまはアブラハムを召しましたが、ロトはそうではありませんでした。ロトはおじのアブラハムに着いて来ただけです。そして、アブラハムのゆえに祝福を受けていたのです。アブラハムは年長者であったので、自分が最初に行くべき土地を選ぶことができました。しかし、アブラハムは年少者のロトに選択権を譲りました。そこで、ロトは目を上げて、ヨルダンの低地を選びました。なぜなら、草が生い茂っているので、家畜を飼うには最適だと思ったからです。ところが、後からわかりますが、そこはソドムの人たちが住んでいました。創世記13:13「ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、【主】に対しては非常な罪人であった」と記されています。ソドムという言葉は、「男色」とか「同性愛」と関係があるようです。ロトは肉眼で見渡して、「ヨルダンの低地が良い」と選び取りました。

 一方、アブラハムはどうでしょうか?アブラハムは信仰の目をあげて見ました。すると、神さまが示してくれる地を見渡すことができました。ロトは肉眼で見ましたが、アブラハムはもっと高い、霊的な目で見ることができたのです。するとどうでしょう?やがて、神さまが子孫に与えてくれるであろう、全部の地を見ることができました。神さまは「わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう」と約束してくださいました。ロトはこの世での相続地を得るために求めました。一方、アブラハムは神さまご自身を求めたのです。つまり、神さまご自身がアブラハムにとっての相続財産だったのです。詩篇16:5「【主】は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。」とあります。ダビデは「主ご自身が、ゆずりの地所であり、私の受ける分を、堅く保っていてくださる」と歌いました。狭い日本に住んでいますと、「一生かけても、猫の額みたいな土地しか持てないだろう」と考えます。しかし、霊的な目を上げて見るならどうでしょう?「神さまが全地の所有者だから、住むべきところはちゃんと確保してくださる」という信仰がわいてきます。よく考えると、私たちは土地を永久に所有することはできません。なぜなら、いつかはこの地上を去らなければならないからです。「つかの間だけ、住まわせてもらう」というのが真実であります。だから、この地上にあまり執着することは無用です。使徒の働き7章に、ステパノがアブラハムに関して語ったことが記されています。使徒7:5「ここでは、足の踏み場となるだけのものさえも、相続財産として彼にお与えになりませんでした。それでも、子どももなかった彼に対して、この地を彼とその子孫に財産として与えることを約束されたのです。」ある英語の聖書には「1フィート四方の土地も与えられなかった」と書かれています。1フィート四方というのは、30センチ四方のタイルの大きさです。一坪よりもはるかに小さいです。神さまはアブラハムに相続地を与えると約束しました。しかし、それはアブラハムではなく、アブラハムの子孫だったのです。

では、アブラハムはどのような生活をしていたのでしょうか?アブラハムは神さまご自身を相続財産として受け取っていました。そして、この地上では天幕生活をしました。つまり、神さまが「行きなさい」という地に移り、そこに天幕を張って、しばらくの間、住んだということです。でも、神さまが「他の箇所へ行きなさい」とおっしゃれば、天幕をたたんで、他の地に移り住みました。きょう最初に開いた創世記12章を読みますとこのようなことが分かります。アブラハムはシェケム地に来ました。そこに祭壇を築きました。さらにアブラハムはベテルの東に移動して天幕を張りました。そこに祭壇を築きました。ロトとの紛争を解決してから、アブラハムは天幕を移してヘブロンに住みました。そして、主のために祭壇を築きました。アブラハムの一生は、天幕生活でした。しかし、ただ、あちらこちら移動して生活していたのではありません。必ずと言って良いほど、そこに主のために祭壇を築きました。祭壇を築くとはどういう意味でしょう?それは、神さまを礼拝し、神さまと共に生活するということです。すると、神さまはその場所に隣在してくださり、祝福の場所と変えてくださるのです。だから、アブラハムはどこに移り住んでも、神さまと共に生活することができたのです。まさしく、アブラハムにとって、神さまご自身が「ゆずりの地所であり、私の受ける分」だったのです。朝のNHKで「じぇじぇ」というのをやっています。この間、ちょっと見たら、主役のお母さんがこのようなことを言っていました。「大切なのは、住む場所ではなく、一緒に住んでいる人たちである」と。確かに、良い人間関係があれば、そこは良い場所になります。環境の最も重要な要素は、人間と言えるでしょう。でも、聖書は、人間もさることながら、主が共に住んでいてくださるかどうかであると言っています。そこに、祭壇を築いて神さまを礼拝する。そうすれば、その場所は祝福の地に変えられるということです。「祭壇を築く」それは、家庭での礼拝、職場での礼拝、このような地域での礼拝と言うことができます。昔、アメリカでは学校で礼拝を持っていました。しかし、今はそのようなことができません。クラスルームなど、公のところで祈ることは禁じられています。だから、学校での銃乱射事件のようなことがよくあるのではないでしょうか。私たちが祭壇を築くならば、どこに行っても、その場所に神さまが隣在してくださり、祝福の場になるのです。

3.天の故郷にあこがれたアブラハム 

アブラハムはこの地上で、天幕生活をしていました。この世的に言うならば、借家住まいです。いや、テント生活ですから、もっと大変かもしれません。しかし、へブル人への手紙の記者はこのように述べています。へブル11:9-10「 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」少し飛んで、へブル11:14-16「彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」アブラハムの天幕生活は、「信仰による」ものでした。アブラハムは地上では旅人であり寄留者でした。約束のものを手に入れることはありませんでした。つまり、この地上では、相続地を得ることができなかったのです。では、どこを相続地としたのでしょう?それは天の都です。天の都こそが、本当の到達地であり、相続地だったのです。アブラハムは生まれ故郷から出てきました。普通だったら、自分の生まれ故郷をあこがれるはずです。また、生まれ故郷に帰ることもできたでしょう。でも、アブラハムはさらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれました。それは、自分が本当に行くべきところは、生まれ故郷ではなく、天の故郷、天の都であることを信じていたからです。アブラハムは「あっちが本当の故郷だ。あっちが将来、住むべきところなんだ」と確信していました。だから、地上で天幕生活をし、「自分は旅人であり寄留者である」ということに甘んずることができたのです。

寄留者は英語の聖書では、exileです。Exileって言われると「かっこいいなー」と思うかもしれません。でも、「旅人」とか、「寄留者」と呼ばれたらどうでしょうか?任侠伝とか演歌の世界であったら良いかもしれません。しかし、住所不定で住まいがないとなるとどうなるでしょう?上野の近くを車で通ると、台車にいろんなものを積んだ人が歩いているのを見かけます。隅田川の岸辺を見てみると、ブルーシートの家があります。「私はあのようにはなりたくない」と思っても、本当は、あまり変わらないということです。なぜなら、私たちは旅人であり寄留者だからです。昔、はしだのりひことシューベルツというグループが『風』という歌を歌いました。「ひとはただ一人、旅に出て、人はだれも故郷をふりかえる。ちょっぴりさみしくて振り返っても、そこにはただ風がふいているだけ。…ふりかえらず、ただ一人、一歩ずつ。振り返らず泣かないで歩くんだ。」実は、はしだのりひこさんは、高校生の頃、榎本保郎先生のところに出入りしていたそうです。クリスチャンになったかどうかはわかりません。「人生が旅である」ということを歌っているので、聖書的な考えが、どこかに入っていたかもしれません。本当に人生は旅であります。しかし、私たちは行くあてのない、放浪者ではありません。ちゃんと行くべきところがあるからです。それは天の都であり、天の故郷です。私も10年前までは、『故郷』の歌を耳にすると、涙が出たものです。「うさぎ追いしかの山」と聞くと、「うさぎはおいしくないぞ」と冗談を言っていました。兄が事故で亡くなってから帰っていませんでした。しかし、伝道のために、17年ぶりに帰ってみました。その後も数回、続けて帰りましたが、「ああ、ここは私の故郷ではないんだなー」と納得しました。第一は山川があまりにも昔と変わり都会になりました。第二は、知っている人がほとんどいない浦島太郎です。第三は、私の家は兄嫁が住んでおり、もう私の家ではありません。とても寂しい思いがしました。最終的に、「秋田は私の故郷ではない。天の都、エルサレムだ」ということが分かりました。そのときから、『故郷』の歌を聞いても、涙が出なくなりました。先月、高校の同窓会に出席しました。高校は、私の暗黒時代でしたので、思い出すのもイヤでした。でも、誘われたので、思い切って出席しました。みんな還暦になり、卒業して42年ぶりの再会です。出席してみて、「ああ、私は心が癒されたんだなー」と自覚しました。土木科を卒業して、牧師になり、どんでん返しの人生でした。私が、一番の幸せ者ではないかと思いました。なぜなら、短い人生で、キリスト様と出会い、永遠のいのちを手に入れたからです。

「人生は出会いで決まる」とユダヤ人哲学者、マルチン・ブーバーが言いました。私たちが出会うというよりも、向こうの方から出会ってくださるというのが本当ではないでしょうか。そして、私たちの責任というのは、神さまのお声に応答するということです。アブラハムも父がなくなって、これからどうしようと思ったかもしれません。しかし、そのときお声がありました。アブラハムの従い方は十分でなかったかもしれません。なぜなら、「おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した」(創世記12:5)からです。でも、神さまからいろんな取扱いを受けて、身軽になりました。最後には、自分は天の都を目指す旅人だということが分かったのです。私たちも生きている限り、この地上にいろんな未練があります。この世の宗教、家とか土地、地位や名声、人とのつながりがあるでしょう。一つずつ主にゆだね、身軽になっていくのです。天の都を目指す私たちへの神さまのみこころはどういうものでしょうか?へブル11:16 「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」「旅人」とか「寄留者」と呼ばれたら恥ずかしいかもしれません。しかし、天の都を目指している人を神さまは恥としません。むしろ、誇りと思われるでしょう。