2013.9.8「信仰の父アブラハム 創世記17:1-6 へブル11:11-12」

 新約聖書では、アブラハムは「信仰の父」と呼ばれています。しかし、創世記を読むと、「本当にそうなのかな?」と思えるようなところがいくつもあります。おそらく私たちも天国に行ったら、「罪がありません。義人です。」と呼ばれるでしょう。でも、心の中では「本当にそうなのかな?」と思うかもしれません。私たちはキリストにあって、悪い事柄が縮小され、良い事柄が拡大されていると信じます。きょうは、アブラハムが信仰の父と呼ばれるための、神さまの代表的な恵みを3つ取り上げたいと思います。言い換えるなら、神様はアブラハムの信仰を全うさせるために、3つのことを行ったということです。

 

1.契約の更新

神さまはアブラハムと契約を交わしていますが、1回ではありません。創世記12章、15章、そして17章、合計3回あります。なぜ3回も契約を交わす必要があるのでしょうか?それは、人間は不誠実で、忍耐して待つことができないからです。信仰の父と呼ばれたアブラハムもまさしくそうでした。最初の契約は創世記12章にあります。創世記12:1-2「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」アブラハムは主の召しに答え、生まれ故郷を出て、カナンの地にやって来ました。神さまは、「アブラハムから大いなる国民が生まれる」と約束しました。そのためには、まず、子どもがうまれなければなりません。しかし、妻のサライは「うまずめ」で、子どもを宿すことができませんでした。そのため、どうしたでしょう?アブラハムは神さまに、提案しました。創世記15:2-3「私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と申し上げました。主は、「そうではない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」と仰せられました。そして、主は「あなたの子孫は、星の数のようになる」とアブラハムと2度目の契約を結ばれました。

それでも、まだ子どもが生まれません。今度は、サライが提案を出しました。創世記16:2「サライはアブラムに言った。『ご存じのように、【主】は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。』アブラムはサライの言うことを聞き入れた。」その当時、「子どもが生まれない場合は、そばめによって子どもを儲けて良い」という習慣がありました。それで、アブラハムは女奴隷のハガルに入って、イシュマエルを儲けました。あきらかに、妥協であり、人間的な解決です。生まれた後、家族の関係がおかしくなり、ハガルとイシュマエルを追い出すことになりました。それでも、神さまはアブラハムから生まれたイシュマエルの子孫を祝福しました。なんと、そのイシュマエルからアラブ民族が生まれ、イスラム教徒になりました。今もイスラム教徒はキリスト教徒を迫害しています。この件で、アブラハムは大きな間違いを犯してしまいました。

イシュマエルが誕生したのは、アブラハムが86歳でした。それから13年間の沈黙がありました。3回目の契約が17章にしるされています。創世記17:1「アブラムが九十九歳になったとき【主】はアブラムに現れ、こう仰せられた。『わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。』わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」アブラハムの年齢は99歳です。サライともども高齢に達し、子どもを産めるような年ではありませんでした。神さまはそこまで、アブラハムを追い込みました。もう、人間の力、人間の努力では不可能です。そのときに、再び、神さまのことばが臨んだのです。99歳の老人に「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」とは酷なような気がします。しかし、その意味は「神さまに完全に信頼せよ」という意味です。私たちはアブラハムのことを批判することはできません。神からの約束がなかなか成就しないとどうなるでしょうか?「あれは、気のせいだった。ひとりよがりだった」と疑いが入るでしょう。そして、「こうすれば、なんとかなる」と自分の知恵や考えでやるでしょう。しかし、それがかえって仇になり、神さまの約束が成就される妨げになります。一生懸命やったつもりですが、不信仰から出たことなので、祝福を受けることができません。しかし、神さまはご自身が立てた契約を忘れませんでした。恵みに満ちた神様は再び、声をかけてくださいます。「私はあのことを私は忘れていない。あなたの夢はどうなったんだ」と迫ってきます。イエス・キリストが死からよみがえらされたように、神様はあなたの夢をもう一度よみがえらせてくださいます。

みなさんの中にも、神さまから「あなたはこれをしなさい」というビジョンが与えられていたのではないでしょうか?それが、神さまからの契約だったのかもしれません。しかし、いろんな妨げが起こり、あなたはそれを諦めてしまいました。もう、土の中に埋めてしまいました。でも、神さまはあなたが祈った祈りを忘れてはいません。「あなたの願いを忘れてはいないよ。あの夢はどうなったのか?」と聞かれます。自分の願いと全く同じでないかもしれません。神さまは、ご自分のみこころに合致するように改訂版を提供します。神さまは、自己中心的なものを取り除き、ご自身のご栄光が現されるようにきよめてくださいます。私は高校生のとき、ボクシングに敗れ、挫折を経験しました。しかし、今は、ボクサーではなく、牧師になりました。トランペットにあこがれましたが、途中で挫折しました。しかし、今は、ヨベルの角笛、福音のラッパを吹く説教者になりました。夢を見たのが未信者の時であったとしても、神さまはあなたのことをちゃんと覚えておられます。神さまは、あのとき、あなたが願ったことを覚えておられます。全く、同じかたちではないかもしれせんが、主は答えようとされています。なぜなら、その夢はあなた自身のものではなく、神さまから出た計画だったからです。どうぞ、神さまの前に夢を差し出して、きよめていただき、そして再生してもらいましょう。

 

2.実物教育

 イエス様は新約聖書で「空の鳥を見なさい。野の花のことを考えて見なさい」といわれました。いわば、実物教育と言えます。実際あるものを見せることによって、信仰が与えられるからです。神様はアブラハムにもそのようにされました。創世記15:15「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。『あなたの子孫はこのようになる。』彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」東京では、夜空を見ても、数えられるくらいの星しか見えません。しかし、田舎に行くと、夜空いっぱいに星がまばたいています。だいたい、正常な目では、6000個くらいの星が見えるそうです。アブラハムが神さまから外に連れ出されて、夜空を仰ぎました。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。」と言われて、1、2、3、4と数え始めました。300くらい数えたら、もう数えられなくなりました。なぜなら、「私の子孫がこの星の数になるのか!」と思って、涙がにじんできたからです。。それから、夜の星が見えるたびごと、アブラハムはあの日、言われた約束を思い出すことができました。また、神さまは「海辺の砂のように数多く増し加えよう(創世記22:17)とも約束されました。日中は、星が見えません。でも、昼間は海辺の砂は見ることができます。アブラハムは自分から出た、子孫が数えきれない数になることを想像することができたでしょう。アブラハムは、夜は星を見るとき、昼は海辺の砂浜を見るとき、信仰を回復することができました。これは、いわばビジョンであります。神さまがビジョンを与えることによって、アブラハムの信仰を増し加えたということであります。

 私たちは何を見るかということは、とても重要です。信仰はみことばを聞くことからも入りますが、見るということもとても重要です。エレミヤは神さまからこのように何度も言われました。エレミヤ1:11-15「エレミヤ。あなたは何を見ているのか。」そこで私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」すると【主】は私に仰せられた。「よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。」再び、私に次のような【主】のことばがあった。「何を見ているのか。」そこで私は言った。「煮え立っているかまを見ています。それは北のほうからこちらに傾いています。」すると【主】は私に仰せられた。「わざわいが、北からこの地の全住民の上に、降りかかる。今、わたしは北のすべての王国の民に呼びかけているからだ。エレミヤは若くして神さまから預言者として召されました。預言者は神さまのことばを預かって、それを民に告げるという使命がありました。そのとき、ことばだけではなく、このような幻を見させられることが良くありました。幻は肉眼ではなく、霊の目で見るものです。特に預言者はこういう霊的な目がないと、神からの務めを果たすことができません。

牧師もまさしくそうでありまして、説教も重要ですが、神からの幻、ビジョンを解き放つことも重要です。幻やビジョンは、会議などで議論して出てくるものではありません。どちらかと言うと、会議は幻やビジョンに水をかけるようなところがあります。クリスチャンでも、目で見てからでないと信じない人が大勢います。そういう人に限って「現実は」とか「実際に」という言い方をよくします。しかし、目に見えてからでは、信仰はいりません。この肉眼ではなく、霊の目によって、見る必要があるのです。つまり、肉眼で見える前に、私たちは霊の目で見えている必要があるということです。この世の中における、偉大な発明や発見も、一人の幻から始りました。多くの凡人たちは「そんなの不可能だ!できっこない」と叫びます。しかし、幻をもった一握りの人たちによって、偉大な発明や発見がなされるのです。キリストの教会においても、同じことが言えます。箴言で「幻のない民は滅びる」と言われているのは、そのためです。私たちは現実を超えた世界を見る、霊的な目が必要です。神様は終わりの日に、リバイバルを与えると約束しています。神さまは日本を忘れていらっしゃるようですが、そうではありません。必ず、この日本にもリバイバルが来ると信じています。その時が来たら、週報で掲げている「350人の礼拝」はとても謙遜な人数です。ある人たちは「ああ、やっぱりならなかったか!」と言うかもしれません。でも、私は希望の奴隷となって、希望をもって死にたいです。

サマリヤの町がアラムに包囲されました。そのため、サマリヤにはひどいききんがあり、ろばの頭や鳩の糞までも高く売られていました。さらには、女たちは子どもを煮て食べる始末でした。Ⅱ列王記7:1-2エリシャは言った。「【主】のことばを聞きなさい。【主】はこう仰せられる。『あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉1セアが1シェケルで、大麦2セアが一シェケルで売られるようになる。』」しかし、侍従で、王がその腕に寄りかかっていた者が、神の人に答えて言った。「たとい、【主】が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか。」そこで、彼は言った。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」ちょうどその頃、4人のらい病人が「私たちはどうせ死ぬのだから、アラムの陣営に入ろう」と決意しました。主はアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられました。彼らは「大軍が押し寄せて来た!」と、すべてを置き去りにして、命からがら逃げ去りました。らい病に犯された人たちは、天幕に入って、食べたり飲んだりしました。銀や金や衣服を持ち出し、それを隠しました。彼らは「この良い知らせを自分たちのものだけにしていたら罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう」と言いました。王の家来が来て見ると、アラムの陣営には人っ子一人いませんでした。それで、民は出て行き、アラムの陣営をかすめ奪いました。それで、主のことばのとおり、上等の小麦粉1セアが1シェケルで、大麦2セアが1シェケルで売られました。王様は、例の侍従、王の腕によりかかっていた侍従が門の管理に当たらせました。ところが、民が門で彼を踏みつけたので、彼は死にました。彼は、預言のとおり、確かに自分の目でそれを見たが、それを食べることができませんでした。どうか、この侍従のようになりませんように。私たちはリバイバルをこの目で見て、それを体験する者となりたいと思います。

 

3.名前を変える

創世記17:5「あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。」神さまは、「名前を変えろ」とおっしゃいました。アブラハムという名前の意味は「多くの国民の父」という意味です。また、妻サライにも「名前を変えろ」とおっしゃいました。創世記17:15「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。」サラという名前の意味は「王女」ですが、「多くの国民の母」という意味でもあります。最初、神さまから、そのように言われたとき、「そんな馬鹿な」と、二人とも笑いました。創世記17:17 アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」神さまを礼拝しながら、「そんな馬鹿な」と笑ったのです。サラの方はどうでしょうか?創世記18:11 アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」主は「こんなに年をとっているのに、と言って笑うのか?」とサラを咎めました。サラはあわてて「私は笑いませんでした」と打ち消しました。しかし、主は「いや、確かにあなたは笑った」と言われました。

二人の信仰が完全ではありませんでした。しかし、改名させたれた名前を互いに呼んでいるうちに完全な信仰になったのです。一日の仕事が終わり、夕暮れ時になりました。アブラハムは「サラー(多くの国民の母)、もう帰ろうか!」と言いました。サラも「ええ、アブラハム(多くの国民の父)、帰りましょう!」と言いました。しもべたちがそれを聞いてどう思ったでしょう?「サラ」とは、「多くの国民の母」という意味じゃないか?また、「アブラハム」は「多くの国民の父」という意味だろう?二人のとも、年とって頭がおかしくなったんじゃないか?「こどもが生まれないので、おかしくなったんだ。ああ、かわいそうに」。それも、1日だけではありません。それから、毎日、毎晩、サラ(多くの国民の母)、アブラハム(多くの国民の父)と呼び合っていました。そう告白しているうちに、二人は若返ったように見えました。いや、実際、若返ったのです。使徒パウロはこのように教えています。ローマ4:17-18「このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、『あなたの子孫はこうなるであろう』と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。」アブラハムとサラは、年老いて、死んだような体でした。二人はまさしく、「無いものを有るもののように呼んだのです。まだ、子どもが生まれてもしないのに、「多くの国民の母」「多くの国民の父」と呼んだのです。そうすると、信仰が増し加わり、肉体も若返り、子どもを宿すことができるようになったということです。

「無いものを有るもののようにお呼びになる方」は新共同訳では「存在していないものを呼び出して存在させる神」と訳しています。このようなことから、私たちが創造的なことばを発するということがとても重要だということがわかります。最初に神さまが「アブラハム(多くの国民の父)になる」「サラ(多くの国民の母)になる」と言いました。その次に、二人がアブラハム(多くの国民の父)とサラ(多くの国民の母)と互いに呼び合うようになったのです。これは信仰がなければできません。私たちが神からの奇跡を体験するためには、ことばを変える必要があります。なぜなら、神さまは無いものを有るもののようにお呼びになる方だからです。あるいは、存在していないものを呼び出して存在させる神だからです。私たちも神さまにならって、無いものを有るように言うべきです。たとえば、結婚したいならば「いつか、結婚させてください」では良くありません。「結婚できることを感謝します」と言わなければなりません。「いつか、子供を与えてください」では良くありません。「子供が与えられることを感謝します。私たちはパパとママになります。」と言うべきです。「いつか病気を癒してください」ではありません。「病気が癒され、健康になることを感謝します。」と言うべきです。目に見えてから、言うのは信仰ではありません。まだ、目に見えていない事柄を見えるもののように言うことが信仰なのです。私たちは料理を作るとき、心の中には完成図が見えている必要があります。絵をかく場合も、心の中には完成図が見えている必要があります。家を建てる場合にも、完成図が見えている必要があります。車や電車でどこかへ行くにしても、心の中には行った場所が見えている必要があります。それをさらに口で宣言していくとき、信仰が固められます。その後、行動や気持ちがついていくのです。どうぞ、私たちの口から破壊的なことば話さないようにしましょう。「不景気だからうまくいかない。希望がない。最悪だ」と言うなら、そのようになります。神さまは「存在していないものを、呼び出して存在させる神さま」です。どうぞ、目にみえるものに逆らって、創造的なことばを発しましょう。彼らは、「アブラハム(多くの国民の父)」、「サラ(多くの国民の母)」と呼び合いました。まだ、一人も子供が生まれていないのに、多くの国民になるとは、すごい信仰です。でも、神さまが無から有を与え、そのようにしてくださいました。しかし、アブラハムがそれができるようになったのは、99歳になったときでした。まさしく、死んだような体になり、無いもののようになった時です。人間的に全く不可能だと思えるような時こそ、神さまの出番なのです。みなさんの中にも、人間的には不可能だと思えることがいくるかあるでしょう。どうぞ、その場所に神さまが来られますように。神さまは「存在していないものを呼び出して存在させる神」です。そして、あなたは信仰によって、それが存在したかのように宣言するのです。あなたは何を見ているでしょうか?神さまはあなたにどのようなことをお見せしているでしょうか?どうか、霊的な目によってそれをキャッチして、信仰のことばを発していきましょう。そうするなら、次から次へと神さまのみわざを経験することができるでしょう。