2013.9.15「柔和な人イサク 創世記26:12-25」

 アブラハムが100歳のとき、約束の子どもイサクが与えられました。アブラハムが信仰者の第一号だとすると、イサクは第二号です。イサクは、いわばクリスチャン・ホームの子どもです。クリスチャン・ホームの子どもは、信仰の火が親よりも激しく燃えていないかもしれません。しかし、親よりも信仰が安定しています。なぜなら、親から霊的な遺産を受けているからです。イサクは父アブラハムの良きものを受け継いでいました。そんなに努力しなくても、祝福を受け継ぐことができました。きょうは、「柔和な人イサク」と題して、学びたいと思います。

1.柔和な人イサク

創世記26章の始めを見ると、その地をききんが襲っていましたことが分かります。ところが、イサクはききんの中でも、種を蒔きました。すると、その年に100倍の収穫を見ました。なぜなら、主が彼を祝福してくださったからです。イサクは、さらに栄えて、羊の群れや牛の群れ、それに多くのしもべたちを持つようになりました。すると、ペリシテ人は彼をねたんでひどいことをしました。父アブラハムの時代に堀ったすべての井戸を土で満たして、ふさいでしまいました。イサクはどうしたでしょうか?18節「イサクは、彼の父アブラハムの時代に掘ってあった井戸を、再び掘った」と書いてあります。また、イサクのしもべたちが谷間で、湧き水の出る井戸を見つけました。ところが、ゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ」と主張しました。それで、しもべたちは、もう1つの井戸を掘りました。それについても、「われわれのものだ」と主張してきました。イサクは所有権をめぐって争ったでしょうか?そうはしませんでした。22節「イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。『今や、【主】は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。』」。私たちはこのところから教訓として、何を学ぶべきでしょうか?イサクは「これは私が掘った井戸だ、私が見つけた井戸だから、他のところへ行きなさい」と主張することができました。しかし、イサクは他の人たちと争っていません。なぜでしょう?そこには2つの理由があります。

第一は、イサクは神さまを信頼していました。どのような神さまを信頼していたのでしょう?それは、どんなときでも、自分を祝福してくださる神さまです。ききんの中にあっても、種を蒔いたら、100倍の収穫にあずかることができました。主が祝福してくださるので、多くの家畜や多くのしもべたちを持つことができました。井戸に関しても同じことです。その時代、井戸は命の次に大事な存在でした。せっかく掘った井戸を埋めるとは、ひどいことをするものです。これまでの苦労が水の泡です。また、湧き出る井戸も貴重な存在です。なぜなら、新鮮でおいしい水だからです。イサクたちが先に見つけたのに、「いや、いや、これは我々のものだ」と横取りされました。普通だったら、命をかけてでも守るはずです。でも、どうしてイサクは争わなかったのでしょう?それは、神さまが新しい井戸を与えてくださると信じていたからです。このように、神さまの祝福を体験している人は、人と争いません。たとえ、奪い取られるようなことがあっても、神さまが新たに与えてくださることを信じているからです。私たちも神さまを信頼しているなら、他の人と争う必要はありません。この世では、遺産をめぐって兄弟の争いが絶えません。特許や発明もだれかに奪い取られたりすることもあるでしょう。せっかく見つけた顧客や市場を、横取りされることもあるでしょう。そのような時、相手と争ったり、腐らないようにしましょう。神さまが共におられ、新しいアイディアと新しい市場を与えてくださるからです。なぜなら、私たちの神さまがすべてを所有し、神の子らに特別に与えてくださるからです。

第二は、イサクはすでに砕かれていたからです。創世記22章には、アブラハムがイサクをモリヤの山で全焼のいけにえとしてささげる記事が記されています。死んだら、これまでの約束が反故になるし、人間をいけにえにすることも倫理に反します。アブラハムは神さまを信頼して、モリヤの山に向かいました。たきぎを背負わされていたのは息子のイサクです。そのとき、イサクは30歳の青年、アブラハムは130歳の老人でした。アブラハムはイサクを縛って、たきぎの上に乗せました。普通だったら、「おやじ、何をするんだ。気でも狂ったのか?やめろ!」と130歳の老人をはねのけることもできたでしょう。しかし、30歳のイサクはだまって、縛られ、いけにえになりました。父アブラハムが刀を振り下ろそうとしたとき天からストップがかかりました。主の使いが「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた」と言いました。アブラハムは、角をやぶにひっかけていた一頭の雄羊をイサクの代わりに、いけにえとしてささげました。この物語は、神さまを第一にしたアブラハムの信仰について語られるところです。しかし、イサクの立場から考えるとどうなるでしょう?イサクも神さまを信頼しました。イサクはこのとき、一度死んだのです。

新約聖書的に言うなら、古い自我が死んで、新しい存在になったのです。これを私たちは「自我が砕かれた」と言います。イサクが、なぜ自分の権利を奪おうとする者たちと争わなかったのでしょう?それは、自我が砕かれて、神さまに完全に信頼していたからです。クリスチャンでも、肉的な人と御霊の人と2種類います。どんなとき分かるでしょう?それは思わぬことが起きたときです。不当な扱いを受けたり、侮辱を受けたり、試練にあったときです。ガラテヤ2:20「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」イサクは自我が砕かれていたので、権利をめぐって人と争わなくても良かったのです。私たちは日常生活において、いろんな争いに巻き込まれます。自分の権利を主張するあまり、問題がさらにこじれることがあります。そのためには、恵みによってイサクのように自我が砕かれ、柔和な人になる必要があります。主がさばいてくださり、主が権利を回復してくださることを信じましょう。

山上の説教でイエス様はこのように教えられました。マタイ5:5「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。」柔和とは、まさしくイサクのような人物をさします。争いを好まず、平和の道を求める人です。私たちは、「この世で柔和でいたなら、人に利用され、全部、取られてしまう」と思うかもしれません。それよりも、「トラやライオンのように人を押しのけてでも、良いものを得なければならない」と言うでしょう。たしかに、トラとかライオンは勇ましいし、憧れるところもあるでしょう。でも、街中にトラやライオンが歩いていたならどうするでしょうか?怖くて外に出ることができません。だから、人間は彼らを捕えて檻の中に入れます。では、羊や牛はどうでしょうか?羊や牛は人に危害を加えません。だから、彼らの方がトラとかライオンよりもずっと数が多いのではないでしょうか?まさしく、柔和な者が、地を受け継いでいます。この世には、力で訴えるマフィア、暴力団、テロ組織がいます。私たちは彼らを恐れます。では、彼らが地を受け継ぐでしょうか?一時的にはそういうこともあるかもしれませんが、長い目で見たならば、そうではありません。最後には柔和な者たちが地を受け継ぐようになっているのです。なぜでしょう?神さまが私たちの上にいるからです。この世の支配の上には、神さまの御支配があります。神さまがバベルの塔を混乱させたように、自らの力を誇る高慢な人たちを倒します。高慢こそが、神さまが最も忌み嫌うものです。反対に、神さまは柔和な人たちが好きなのです。神さまは、柔和な人たちに愛の御手を伸べられます。

どうぞ、イサクのように柔和な者になりたいと思います。神さまを信頼していたなら、人と争う必要はありません。この世は訴訟に満ちています。自分の権利を主張することが悪いと言っているのではありません。あるときは権利を主張しなければならないときがあります。でも、いつでも自分の権利が通るわけではありません。どうそ、そのとき神さまがさばいてくださり、神さまが報いてくださることを信じましょう。Aが取り上げられたら、神さまは代わりにBを与えてくださいます。もし、Bが取り上げられたら、こんどはCを与えてくださるでしょう。そのとき、私たちは発見するでしょう。「ああ、神さまが私と共におられ、私を祝福してくださっている。何も恐れることはない」と。どうぞ、私たちは神さまの子どもとして、すべてを供給してくださる父なる神さまを信頼しましょう。

 

2.祝福を受け継いだイサク

創世記26:24 【主】はその夜、彼に現れて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」イサクが祝福されたのは、父アブラハムのゆえでした。では、イサクは父の祝福を受け継ぐために、どのようなことが必要だったのでしょうか?祝福を受け継ぐために、最低限すべきことがあったはずです。その第一は、結婚です。なぜなら、イサクから子孫が増し加えられ、国民が生まれるからです。そのためには、イサクは結婚して、子どもを儲ける必要があります。「イサクの嫁取り物語」として知られているのが、創世記24章です。父アブラハムは、自分の全財産を管理している、年長のしもべに「イサクの妻を見つけて来るように」お願いしました。彼に「私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」と誓わせました。これは、新約聖書的に言うなら、「同じ信仰を持つ人を伴侶にしなさい」ということです。なぜなら、未信者と結婚すると、信仰が継承されにくいからです。これは使徒パウロの教えです。Ⅱコリント6:14-15「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。」保守的な教会では、相手が信仰者でなければ結婚式を挙げないところがあります。ほとんどの教会では、「理想的にはそうであるべきだけど、好きになったら仕方がない。結婚後、信仰を持てば良いでしょう」という立場です。残念ながら、未信者と結婚すると、教会に来なくなってしまうケースが良くあります。信仰をなくしたわけではないと思いますが、活動的なクリスチャンになれないということです。

年長のしもべは、アブラハムの生まれ故郷に向かいました。彼は、旅先でこのような祈りをささげました。私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」(創世記24:14)するとどうでしょう?アブラハムの親戚にあたる一人の美しい女性が近づいてきました。しもべが「どうか、あなたの水がめから、少し水を飲ませてください」と言いました。するとその女性は、しもべだけではなく、らくだにも水を飲ませてあげました。井戸につるべを落として、それを引き上げ、水瓶に入れます。そして、水瓶をらくだがいるところまで運んでいきます。ある人は、「全部のらくだに水を飲ませるためには、100回位汲まなければならない」と言いました。ものすごい体力が必要です。これは単なる親切心ではできません。やはり、神さまが先んじて、この女性と出会わせてくださったのです。彼女の名前はリベカでした。しもべが、リベカのお父さんの家に行って事情を話しました。父と兄は、「きっと、それは主から出たことです」と快く承諾してくれました。父と兄は「もう10日ほど、私たちと一緒に滞在してください」と提案しました。しかし、しもべは「主が私の旅を成功させてくださったので、遅れてはいけない」と断りました。二人は娘の意見を聞くことにしました。リベカは「はい。まいります」と答えました。まだ、一度も顔を見たことのない人と結婚することにしました。なぜでしょう?リベカには信仰があったからです。

では、イサクの方はどうでしょうか?創世記24:63 「イサクは夕暮れ近く、野に散歩に出かけた。彼がふと目を上げ、見ると、らくだが近づいて来た。リベカも目を上げ、イサクを見ると、らくだから降り、そして、しもべに尋ねた。『野を歩いてこちらのほうに、私たちを迎えに来るあの人はだれですか。」しもべは答えた。「あの方が私の主人です。』」このところを読むと、イサクは「ぼーっ」として、何もしていないように見えます。イサクは、何もしないで待っていたのでしょうか?日本語の聖書には「野に散歩に出かけた」と書いてあります。しかし、原文は「イサクは瞑想するために、夕方、野に出かけた」となっています。つまり、イサクもふさわしい人が与えられるように祈っていたということです。当時の人たちは、歩きながら祈る習慣がありました。ある夕方、向こうかららくだに乗ったリベカ、こちらでイサクが立っていました。二人の目と目が合いました。映画になるようなシーンです。京都には有名な祇園祭りがあります。鉾というのかもしれませんが、手前に大きな絵がかけられています。テレビで見ましたが、リベカがしもべに水を汲んで与えている絵がかけられていました。「その絵は何ですか」とリポーターが聞いたら「これはイサクの嫁選びです」と宮司が答えていました。まさしく、京都はシルクロードの最終地点です。京都にはイスラエルに関したものがたくさんあります。歴史的には聖徳太子のころ、19万人の人たちが大陸から渡ってきました。その中に、イスラエル部族の一部がいたようです。そのときに、イスラエルの文化が入ったのかもしれません。

でも、父アブラハムと母サラと同じような問題が起こりました。それは、リベカが不妊の女であったということです。父と母は、同じ問題で長い間、葛藤しました。イサクはどうだったでしょうか?創世記25:21「イサクは自分の妻のために【主】に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。【主】は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。」祈ったら、すぐにかなえられました。父アブラハムのように長年待つ必要はありませんでした。これも、二代目の特権です。祝福を受け継いでいますから、そんなに苦労する必要はありません。なぜでしょう?心の中に、葛藤や疑いがほとんどないからです。私は一代目のクリスチャンです。多くの罪汚れとたくさんの傷の中から救われました。ですから、洗礼を受けても罪汚れが落ちません。傷があまりにも深かったので癒されるのが30年もかかりました。洗濯をするとわかりますが、シミになった汚れは簡単には取れません。一代目のクリスチャンは、この世と決別したので、どうしても反骨精神があります。葛藤や疑いをはねのけながらの信仰生活です。本当にきよめられるまでには40年くらいかかるかもしれません。しかし、二代目のクリスチャンはそういう葛藤や疑いがありません。素直に祈れるので、神さまは聞いてくださいます。だから、イサクの祈りも直ちに答えられました。私たちは信仰の遺産を馬鹿にしてはいけません。これが、三代、四代、五代、六代になったら、本当におだやかな信仰者になります。私もそういう人たちに会ったことがありますが、内側から自然に信仰が湧いているような感じがします。私のように無理して、頑張っている様子は全くありません。

やがて、イサクからエサウとヤコブが生まれました。そして、ヤコブから12部族が生まれました。ききんがやってきて、ヤコブの家族70人がエジプトに逃れました。エジプトに430年間いましたが、その数が100万人に増えました。やがてエジプトを脱出して、カナンの地を占領しました。紀元前1000年ダビデによってイスラエル王国が建国されました。本当に、アブラハムの子孫から国が誕生したということです。イサクがしたことは何でしょうか?それは、アブラハムからヤコブへと信仰を継承したことです。イサクはあまり目立ちません。しかし、イサクがいなければ、ヤコブ、さらには12部族、イスラエル王国へとは行かなかったのです。私もそうですが、自分の代でなんとか花を咲かせたいと思います。それも重要ですが、わが子へと信仰を継承していくことも重要です。私たちには4人の子どもがいますが、少し耳がいたいところです。4人とも洗礼は受けましたが、すべてが活動的なクリスチャンになることを祈っています。「教会の柱は、クリスチャン・ホームである」とよく聞きます。まず、ご夫婦がクリスチャンであるならば、互いに祈りあうことができます。子供たちが日曜学校に通い、信仰を継承していきます。そして、ある者たちは直接的な献身者になります。もちろん、社会に出てもすべての人が献身者です。しかし、牧師や伝道者になる直接的な献身者も必要です。先月、大和カルバリーの日曜学校の講師として招かれました。そこで奉仕していた人たちが、私の子どもと同級生です。つまり、親たちは同じ青年会同志でした。そして、一緒に日曜学校に出席した子どもたちが、20代になっています。もと青年会の久保田兄弟は日曜学校の校長先生になっていました。そして、その子供は伝道師になり、キャンプをリードしていました。「本当にうらやましいなー」と思いました。そのことを長男に話したら「俺もがんばっているよ」と言われました。

もしろん、神さまの計画は一人ひとり違います。みんなが牧師や伝道者になるわけではありません。しかし、もっと重要なことは信仰を継承させることです。イサクは恵みによって、それができました。リベカと結婚し、エサウとヤコブを儲けることができました。中には、独身であったり、子供を産めないカップルもあるかもしれません。しかし、霊的な子供、霊的な子孫を残すことは可能です。あるアメリカの名もない婦人が6人の青年を弟子訓練しました。すべての力を6人の青年に向けました。外から見たならば、あまり成功しているとは思えません。しかし、その6人がキリスト教会を変える人たちになりました。ナビゲーターの創設者ドーソン・ドルトマン、キャンパス・クルセード創設者のビル・ブライトがいました。そして、世界的伝道者のビリー・グラハムがいました。どうぞ、一代目のクリスチャンは、イサクを産みましょう。イサクの人はヤコブを産みましょう。どうか、信仰が自分の代でストップしないように。ネズミ算というのがあります。最初は小さいですが、やがて莫大な数になります。1が2になって、2が4になり、4が8になり、8が16になり、16が32になり、32が64になり、64が128になり、128が256になります。聖書はそのような倍加の法則を約束しています。私たちもイサクのように、信仰を継承するものになりたいと思います。