2013.9.22「~友なるイエス様にとどまる~」

<ヨハネの福音書15章1節~5節、12節-17節>

 

15:1

わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。

15:2

わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。

15:3

あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。

15:4

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

15:5

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

 

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15:12

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

15:13

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

15:14

わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。

15:15

わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

15:16

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

15:17

あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。

 

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本日は、「友なるイエス様にとどまる」と題して、「主はまことのぶどうの木」の有名な聖書箇所からお話しをしたいと思います。

 

クリスチャングッズなどを売っているお店では「ぶどう」がモチーフにされたアクセサリーや壁掛けなどをよく見かけますが、それはここの聖書箇所からイメージされたものです。

このヨハネの15章は、イエス様が十字架にかかられる前の、最期の晩餐の席でイエス様が話された、たとえ話です。少し前の13章でイエス様は弟子たちの足を洗ってくださり、仕えるリーダーとしての模範を示してくださり、互いに愛し合うことを教えてくださいました。

先ほど読んだぶどうの木の箇所は、15章1節~17節まで話が続いています。

 

実はその中の、1節-8節までと、9節-17節は並行記事になっていて、同じようなことを繰り返しイエス様は語られています。1-8節は弟子たちに対して、「まことのぶどうの木であるイエス様にとどまりなさい」という、「信仰」についての要求がなされています。また、9節-17節は、「イエス様の愛のうちにとどまりなさい」という、「愛」の命令がなされています。

 

そういう訳で、ここでは前半は「信仰」、後半は「愛」という二つのテーマが対をなし、一体となっています。

しかし、ここで大切なのは、まことのぶどうの木であるイエス様にとどまり、イエス様の愛のうちにとどまる事だけではなく、8節や16節に書かれている、「行って実を結ぶ」ことであり、「実が残る」ことです。

 

では、私たちが豊かな実を結ぶためには、どのような人生を歩んでいけばよいのでしょうか。

共に聖書を見て行きましょう。

 

では前半の15:1-5節です。

 

◆私たちが豊かな実を結ぶために・・・

①イエス様にとどまり、父なる神様の刈り込みを受けましょう。

 

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15:1

わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。

15:2

わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。

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ここでは、天の父なる神様は「農夫」、イエス様は「ぶどうの木」、私たちは「枝」としてたとえられています。

イエス様にとどまっていない枝を、父なる神様は取り除かれます。そして、イエス様にとどまっている枝であっても、もっと多くの実を結ぶために刈り込みをなさいます。

 

この「刈り込み」とは、どういう意味でしょうか。この「刈り込み」という言葉は、新約聖書の原語であるギリシャ語では、<ギ>カイサローと書かれています。この「カイサロー」は「きよくする」という意味があります。

 

ですから、15:2の「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」というイエス様の言葉を現代の私たちに置きかえるなら、「イエス様にとどまっていない者は父なる神様が取り除き、イエス様にとどまっている者は、もっと多く実を結ぶために、神様が刈り込み=きよくしてくださる」ということになります。

 

ですが、その神様の刈り込みは痛みを伴うものかもしれません。

 

例えば、自分が本当に立派に育った枝だったとして、見るからに麗しく、人から褒め称えられていたとします。自分自身でもその枝っぷりは、そん所そこらのものとは比べ物にならないくらい立派だと自覚していて、誇りに思っていたとします。でも、その枝は、実を結ぶための養分まで全部吸い取ってしまうものなのです。

豊かな実を結ぶには邪魔な枝なのです。

 

私たち人間には、もともと罪の性質があります。人を羨んだり、妬んだり、傲慢な心や、くだらないプライドにとらわれます。そんな私たちを神様は、戒め、訓練されて、きよいものとしてくださいます。

自分では気がつかないからこそ、その枝がよいものかどうかの判断ができないからこそ、私たちには神様の「刈り込み」が必要なのです。

 

「農夫」である父なる神様の「刈り込み」を喜んで受けましょう。

 

イエス様は15:3 で「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」と言われました。イエス様の話してくださったことばに聞き従いましょう。

 

また次の15:4 でイエス様はこのように語られました。

 

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15:4

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

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「とどまりなさい」ということばがたくさん出てきますが、15:4、9 の「とどまりなさい」は新約聖書の原語であるギリシャ語では命令形です。「とどまる」の原形 me,nw (メノウ)ということばを、命令形 mei,nate (メイネーテ)「とどまりなさい」に変えて使われていますので、「~しなければならない」という意味になります。

ですから「とどまりなさい」は優しく言われているように感じますが、イエス様は、「mei,nate evn evmoi,, (メイネーテエンエモイ)」「わたしにとどまりなさい!」と強く“命令”されておられるのです。

 

なぜなら、ぶどうの木であるイエスさまに枝である私たちが繋がり、とどまることにより、私たちが豊かな実を結ぶことができるからです。枝だけでは実を結ぶことはできません。

 

聖書には、ぶどうやぶどうの木、ぶどう園などを戒めの比喩として良く使っています。旧約聖書では、なかなか実を結ばないイスラエルの民たちの比喩として、よく使われています。それは民たちが神様の律法にとどまらず、神様から離れてしまっていたからです。

 

「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」とイエス様が言われたように、私たちは、まことのぶどうの木であるイエス様に、枝としてしっかりとどまっていなければ、豊かな実を結ぶことはできません。

 

しかし、イエス様はとどまるように命令はされていますが、私たちはイエス様が命令されたから、仕方なく従うのではありません。

 

昔、アウグスティヌスという偉大な教父がいましたが、イエス様に対するキリスト者の服従ということをこのような譬で表現していました。

 

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『イエスに服従すると言うのは、犬が鎖に繋がれて、飼い主のあとにしぶしぶついて行くようなものではなく、鎖から離された犬が、喜んで飼い主のあとについて行くようなものだ』

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その通りですね。イエス様も父なる神様に従われました。ですから私たちも、鎖から離された犬のように、解放された自由な気持ちで喜んでイエス様について行って従いましょう。そして、父なる神様の刈り込みを受けてきよめられ、豊かな実を結んでいきましょう。

 

では、後半の12-17節を見て行きましょう。もう一度聖書をお読みします。

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15:12

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

15:13

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

15:14

わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。

15:15

わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

15:16

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

15:17

あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。

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◆私たちが豊かな実を結ぶために・・・

②まことの友となってくださったイエス様の心を心としましょう。

 

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15:13

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

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この聖句は、大変有名です。「まことの友となってくださったイエス様」については、賛美でもよく歌われます。代表的な賛美は、讃美歌312番「いつくしみ深き」ではないでしょうか。「いつくしみ深き」は、♪いつくしみ深き友なるイエスは~♪という歌詞ではじまります。

 

しかしここでイエス様が語られた「友」というのは、単なる仲良しの「お友達関係」ではなく、「友のためにいのちを捨てる」という究極の「友」でした。

 

弟子たちはこの時、この言葉の持つ本当の意味が解っていませんでした。

それは、まだこの時はイエス様が十字架にかかられていなかったからです。

弟子たちは「友情」の概念的、理想論的には解っていたかもしれません。

 

それは、「友のためにいのちを捨てる」という友情論は紀元前400年~300年の古代ギリシャの哲学者、プラトンやアリストテレスたちが、すでに語っていた事柄だったからです。

アリストテレスは、友情についての解答のひとつとして、このように語っています。

 

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『素晴らしい人間は、友人たちのために働き、国家のために働く。そして必要とあらば、それらのために死を辞さない。』

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ヨーロッパでは、この「友のためにいのちを捨てる」という友情論を理想として語られていました。

旧約聖書にも、Ⅰサムエル20章に「ダビデとヨナタンの友情物語」などが記されています。

イスラエルの最初の王だったサウル王は、民衆に人気があり、神の油注ぎをいただいているダビデに嫉妬して、ダビデの命を奪おうとしました。しかしサウル王の息子ヨナタンとダビデは固い友情で結ばれていました。ヨナタンは、ダビデを殺そうとしていた父サウル王の手から、命をかけてダビデを逃がしたというシーンが描かれています。

 

ですから弟子たちは、イエスさまの「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」ということばについて、古代ギリシャ哲学とか旧約聖書から概念的には、「その通りだ」と思っていたかもしれません。

 

特にイエス様の一番弟子と言われたペテロは、ヨハネの福音書13:37で「主よ。あなたのためにはいのちも捨てます。」とまで言いました。このことは他の福音書にも記されています。しかし、ペテロはイエス様が捕らえられた時に、自分も捕らえられる事を恐れて、「そんな人は知らない」といって逃げてしまいました。

 

ペテロをはじめとする弟子たちはイエス様がこの時語られた「まことの友」について、理想論的に軽く考えていたのでしょう。しかしイエス様は理想論ではなく、本当にその言葉を実行なさったのです。

 

ですから、「これよりも大きな愛はだれも持っていません。」とイエス様は言われたのです。

 

そして、15:14 で

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わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。

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と言われました。そのイエス様が命じたこととは、15:17の

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あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。

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ということでした。

この繰り返し語られる「互いに愛し合う」ということは、先ほどの友情論を考えるとそんなに簡単なことではありません。イエス様の友情は理想論だけの安っぽい友情ではなかったのです。

 

弟子たちは、イエス様が十字架に架かられたあと、このイエス様の言葉を思い出し、目が覚めたと思います。「主は本当に私たちのためにいのちを捨てられた・・・。」

その時弟子たちは、すっかり自信を失くしてしまったのではないでしょうか。

「私には、主がなさったようには友を愛せない。そんなことはとてもできない。」

 

私たちもこの時の弟子たちと同じです。私たちはイエス様のように、友のためにいのちを捨てることができるでしょうか。またイエス様のように敵を愛することができるでしょうか。

 

私たちの愛とは、本当に小さなものです。職場でも、学校でも、ちょっと気に食わない人がいたら、愛せませんし、友とは呼べませんし、いのちを捨てるなんてとんでもないと思ってしまいます。

でも、心を落ち着けて、愛せない!敵だ!と思った人をよく見てみるならば、「イエス様はこの人にも等しく愛を注いでくださっている」ということがわかります。

 

だからこそ余計に葛藤を覚えます。クリスチャンは、どんなに許せない相手にも忍耐して愛さなければならないのかと苦悩します。イエス様はこんな弱い私たちだからこそ、15:16で励ましを与えてくださっています。

 

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15:16

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

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私たちはイエス様から選ばれて、イエス様から任命されているのです。

こんな小さな私にも目を留めてくださり、選んで、任命してくださる。これほど嬉しいことはありません。

イエス様のご愛に応えたい。・・・そう思いませんか?

 

そして、「それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」と言ってくださいました。私たちは取るに足りない小さな人間ですが、イエス様の御名によって天の父なる神様に求めるならば、何でも天の神様が与えてくださると約束してくださっています。

 

私たちの欲しいもの、父に求めるものとは何でしょうか。「何でも求めなさい。何でもお与えになる。」と書かれています。ただし条件があります。

 

今日はお読みしていませんが、5:16節の並行記事にあたる、5:7にはこう書かれています。

 

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あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

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「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、」と書かれています。

つまり私たちが、「イエス様にとどまり、イエス様のことばが私たちにとどまるなら・・・

何でも求めなさい。何でもお与えになる。」と言われているのです。

 

私たちがイエス様の愛にとどまるなら、自ずと私たちが神様に求めるものも決まってくるのではないでしょうか。それは、私利私欲から来る求めではなく、15:8 に書かれているように「天の父が栄光をお受けになる」ための求めとなるのではないでしょうか。

 

イエス様の戒め「互いに愛し合う」ことは、私たちの一生の課題です。

ぶどうの木であるイエス様の愛の中にとどまり、まことの友となってくださったイエス様の心を心とし、イエス様が愛されたように、私たちも互いに愛し合っていきましょう。

そうするならば、私たち自身の人生に、思いがけない方法で豊かな実が結ばれて残っていくことでしょう。