2013.9.29「奪い取る信仰 創世記32:22-30」

 アブラハムから奇跡的にイサクが生まれました。その後の世継ぎは、だれになるのでしょうか?イサクの妻リベカの胎内でふたごが争っていました。リベカは神さまから「二つの国があなたの胎内にあり、兄が弟に仕える」という預言をいただきました。出産の時が満ち、最初に出てきた子はエサウでした。エサウは「赤い」という意味です。その後、弟が出てきましたが、その手はエサウのかかとをつかんでいました。それでその子はヤコブと名付けられました。ヤコブとは「かかと」という意味です。しかし、「だます」という意味もあります。きょうは、ヤコブがどのように長子の権利を得たのか聖書から学びたいと思います。

1.奪い取る信仰

ヤコブはタッチの差で次男になりました。しかし、「なんとか長子の権利を自分のものにできないものだろうか?」と機会を狙っていました。あるとき、兄エサウが猟から帰って来ました。ちょうど、その時、ヤコブは煮物を作っていました。エサウは「どうか、その赤いのを食べさせてくれ。私は飢え、疲れているのだから」と言いました。するとイサクは「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい」と言いました。エサウは「私は死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう」と、長子の権利を売りました。そして、エサウはパンとレンズ豆の煮物を食べました。創世記25:34「こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである」と書いています。旧約時代、長子は他の兄弟の2倍のものを相続することができました。しかし、エサウは長子の権利などには、興味がありませんでした。ヤコブは、兄が飢えて死にそうなのを利用して、長子の権利を奪い取るなんて、なんと狡猾なのでしょう。新約聖書へブル12章に、エサウのことが書かれています。「一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい」。俗悪とは、原文では「世俗的な、宗教的でない、不敬虔な」という意味です。つまり、目に見えるものがすべてであって、霊的なものには興味がないということです。私たちのまわりに「神さま、神さまって言っているけど、神さまが飯食わせてくれるのか?」と言う人はいないでしょうか?主なる神さまは、二人の兄弟のどちらを愛されたのでしょうか?マラキ1章には「私はヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあります。なんと、神さまは長子の権利をだまし取ったヤコブを愛されたのです。

しかし、物語はそれで終わってはいません。ヤコブはお父さんから長子の祝福をだまし取りました。イサクは年を取り、視力が衰えてきました。イサクはエサウを呼んでこう言いました。「野に行って、私のために獲物をしとめて来てくれないか?そして私の好きな料理を作って、私に食べさせておくれ。私が死ぬ前に祝福したいのだ」と言いました。それを母リベカが陰で聞きていました。リベカはヤコブの方を愛していました。それで、ヤコブにこう言いました。「私が子やぎで料理を作るので、父上に持っていきなさい。そうすれば、あなたを祝福してくれるでしょう」。ヤコブは「でも、兄さんのエサウは毛深いので、すぐにバレますよ」と言いました。リベカはヤコブに、エサウの晴れ着を着せ、子ヤギの毛皮を手と首にかぶせてあげました。ヤコブはお母さんが作った料理を持っていきました。目が見えないイサクは「わが子よ、お前はだれだね」と尋ねました。ヤコブは「私は長男のエサウです。さあ、起きて座って、私の獲物を召しあがってください。ご自分で私を祝福してくださるために」と答えました。イサクは「近くに寄ってくれ。声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。本当にお前は、わが子エサウだね」。「え、さうです」とか言って、だまし通しました。食事をした後、父イサクは「国々の民はおまえに仕え、国民はおまえを伏しおがむように」と祝福しました。その後、エサウが猟から帰ってきて、おいしい料理をこしらえて父のところに持ってきました。父イサクは「お前はだれだ」と聞くと、「私はあなたの子、長男のエサウです」と答えました。イサクは激しく身震いし「では、一体、あれはだれだったのか?私は彼を祝福してしまった」と言いました。エサウは「お父さん、私を祝福してください。祝福は1つしかないのですか?」と大声で泣き叫びました。イサクは「お前の弟が来て、だましたのだ。そして、お前の祝福を横取りしてしまったのだ」と言いました。母リベカはヤコブを呼び寄せて「兄さんのエサウはあなたを殺してうっぷんを晴らそうとしています。すぐ立って、私の兄ラバンのところへ逃げなさい」と言いました。

そして、創世記28章には、ヤコブが荒野で石をまくらにして寝たという有名な記事があります。創世記28:12-15「そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。そして、見よ。【主】が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、【主】である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」ヤコブは家から逃げて来ました。なぜなら、エサウと父イサクをだまして、長子の権利と祝福を奪い取ったからです。ヤコブは「こんなひどい男と神さまが共におられるはずがない」と思っていました。ところがどうでしょう?アブラハムの神、イサクの神が、今、横たわっている地を与えると約束されました。そして、「どこへ行っても、あなたを守り、あなたを祝福される。あなたに約束したこと成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」とおっしゃるのです。神さまはヤコブが弟であるにも関わらず、国民となる祝福を継承させると約束して下さいました。ヤコブは眠りからさめて、「この場所は、なんとおそれ多いことだろう。こここそ、神の家に他ならない。ここは天の門だ」と言いました。そのところに、石の柱を立て、その上に油を注ぎ、その場所をベテル(神の家)と呼びました。これがヤコブのベテルの経験です。

霊的に、ベテルの経験とは何でしょう?それは私たちの救いを指します。「自分は神の前には救われる価値のない人間である」と思っていました。ところが、神さまは自分を愛し、共にいてくださるという経験です。しかし、私たちの側には、必要なものがあります。それはヤコブのような信仰であります。イエス様は、どのような人が神の国に入るのか、教えておられます。マタイ11:12「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」イエス様が、ガリラヤに現れて御国の福音を宣べ伝えました。最初に御国に入った人たちは、宗教的な人たちではありませんでした。「激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」とはどういう意味でしょうか?これはデパートのバーゲンセールと似ています。たとえば、銀座三越のデパートで半年に一度のバーゲンセールが開催されたとします。多くの人たちが開店前から並んで待っています。開店と同時に、売り場に殺到する人たちと似ています。では、「激しく攻める者たち」とはだれのことなのでしょうか?イエス様は祭司長や律法学者にこのように言われました。マタイ21:31-32「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。」そうです。取税人や遊女たちが、神の国を激しく攻め、救いを奪い取ったのです。

神さまはどのような人たちがお好きなのでしょう?罪を犯さず人格的に整えられた人たちでしょうか?あるいは罪は犯しても信仰のある人たちでしょうか?神さまは人格的なものよりも、信仰のある人をお好きなようです。へブル11:6 「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」とあります。日本には幼稚園から大学まで570くらいのミッションスクールがあるそうです。ほとんどの学校は聖書を土台とした人格教育を目的としていると思います。確かに人格および教育的にはすばらしいと思います。しかし、キリストを信じて御国に入ることを教えているか、というとそうでもないようです。「信仰はないけど、人格的にすばらしい」となるとどうなるでしょうか?逆に、御国から遠ざかってしまうのではないでしょうか?なぜなら、自分は人格的にすばらしいので、キリストなしでも御国に入れると思ってしまうからです。当時の取税人や遊女たちは、人から言われなくても、「自分には罪がある、このままでは御国に入れない」と思っていました。だから、福音を聞いたときに、罪を悔い改めて、救いを求めたのです。罪を犯すことを勧めるわけではありませんが、なまじっか正しいと、救いを得られなくなるということです。その点、ヤコブは兄をだまして長子の権利を奪い、父をだまして長子の祝福を奪いました。まことに、調子が良いというか狡猾で悪い人です。しかし、神さまはヤコブの奪い取る信仰を喜ばれたのです。「あなたと共におり、あなたを捨てない」とおっしゃいました。問題は、私たちがどのくらい正しいかどうかではありません。そうではなく、「自分には罪がありこのままでは御国に入れません。悔い改めて福音を信じます。どうしても、御国に入りたいのです。私を救ってください」と求める者が、神さまから愛され、生まれ変わることができるのです。

2.砕かれ再生される信仰

 ヤコブはお母さんの兄、ラバンのもとに身を寄せました。ラバンにはレアとラケルの二人の娘がいました。ヤコブは美しい妹のラケルと結婚したいと思いました。ヤコブはラケルのために7年間仕えました。そして、ラバンに「私の妻をください。期間も満了したのですから」と言いました。祝宴をして、朝、目覚めたらどうでしょう?隣にいたのはラケルではなく、姉のレアでした。ヤコブは「あなたに仕えたのではラケルのためではなかったのですか?なぜ、私をだましたのですか?」と言いました。ラバンは「われわれのところでは、長女より先に下の娘ととつがせるようなことはしないのです」と言いました。ヤコブはラバンの言うことをきいて、あと7年間仕えました。創世記29章と30章には、ヤコブの愛をめぐって二人の妻の壮絶な戦いが記されています。世の男性は「妻が複数いたなら幸せだろう」と思うかもしれませんが、とんでもありません。ヤコブの子どもは12人生まれ、それがやがてイスラエル部族になります。しかし、聖書を見ると、二人の妻の愛憎物語から、12人の子どもたちが生まれたことが分かります。最初、レアから生まれたのが、ルベンです。その次に、シメオン、その次にレビ、その次にユダが生まれました。レアは自分がヤコブから嫌われているので、「今こそ夫は私を愛するだろう」と4人の子どもを立て続けに産みました。ラケルは不妊の女であり、姉を嫉妬し、ヤコブに言いました。「私に子どもをください。でなければ、私は死んでしまいます」。ヤコブは「私が神に代わることができようか」と言いました。それで、ラケルはビルハという女奴隷をヤコブの妻として与えました。ビルハから、ダンが生まれ、その次にナフタリが産まれました。これで、合計6人です。レアは自分が子を産まなくなったので、ジルパという女奴隷をヤコブの妻として与えました。ジルパからガドが産まれ、その次にアシェルが産まれました。今度はレアからイッサカルが産まれ、ゼブルンが産まれました。そのとき、レアは「今度こそ、夫は私を喜ぶだろう」と言いました。これで、合計10人です。神さまはラケルを覚えておられ、その胎を開かれました。11番目のヨセフが産まれました。ラケルは「神は私の汚名を取り去ってくださった」と言いました。大体、子供の名前には、お母さんが言ったことばが付けられています。どうでしょう。ヤコブのイスラエル部族は、女同志の醜い争いから生まれたのであります。ヤコブは女性たちの間で、身も細るような気持ちだったでしょう。このように、ヤコブは結婚生活において、砕かれました。

 しかし、それだけではありません。ヤコブは結婚するために、ラバンのもとで14年間仕えました。その後も、ラバンのもとでただ働きをすることになりました。ヤコブがいくら働いても、財産はすべてラバンのものです。ヤコブはラバンに「私を去らせ、私の故郷の地へ帰らせてください」と言いました。ラバンは「望む報酬を申し出てくれ、私はそれを払おう」と言いました。ヤコブは「何も下さるには及びません。ただ、羊の中からぶち毛とまだら毛のものが生まれたなら、私の報酬としてください」と提案しました。ヤコブは不思議な方法を用いて、ぶち毛のもの、まだら毛のものが産まれるようにしました。やがて弱いものはラバンのものになり、強いものはヤコブのものとなりました。そのため、ヤコブの群がだんだん大きくなりました。するとヤコブに対するラバンの態度が変わりました。ラバンは、ヤコブを欺き、報酬を何度も変えました。最後は、「ヤコブは私の財産を奪い取った」とまで言ったのです。ヤコブは帰るとき、ラバンにこのように言いました。創世記31:40-41「私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできない有様でした。私はこの二十年間、あなたの家で過ごしました。十四年間はあなたのふたりの娘たちのために、六年間はあなたの群れのために、あなたに仕えてきました。それなのに、あなたは幾度も私の報酬を変えたのです。」そうです。ヤコブは20年間、溶鉱炉の中を通らされました。どのように金を精錬するかご存じでしょうか?金の鉱石を高熱で熱すると、かな粕が浮いてきます。職人はかな粕をすくって捨てます。そして、何度も何度もそのことを繰り返します。最後には顔が映るくらいになります。純度99.99%の金です。ヤコブは人をだますことには関脇でした。しかし、おじのラバンは人をだますことには横綱級でした。ヤコブはおじのラバンのもとで20年間苦しめられて、すっかり砕かれたのです。神さまはあえて、ヤコブを整えるために、ラバンのもとに送ったのです。私たちは、罪あるままで恵みによって救われます。しかし、救われた後は、神さまはご自身の似姿になるように、試練の中を通らされます。それは、私たちの古い自己中心的な自我が砕かれるためです。

 ヤコブは生まれ故郷に向かいました。エサウにメッセージを伝えると、400人の者を引き連れて来るということでした。驚いたヤコブは策略を立てました。先頭に、兄への贈り物の家畜を進ませる。第二の列にも兄への家畜、第三の列にも兄への贈り物の家畜を進ませる。そして、最後に二人の妻と二人の女奴隷と11人の子どもたちを行かせる。エサウが群を打ったとき、逃げられるためであります。ヤボクの渡しから、すべての家畜と家族を渡らせました。創世記32章にはヤコブと天使の格闘シーンが記されています。ヤコブはエサウを恐れていました。そのためにヤコブは神さまに必死に祈り求めました。そのうち、天使が現れ、ヤコブは彼と格闘したのではあります。ヤコブの奪い取る信仰の持ち主でした。兄と父を騙して長子の権利と祝福を得ました。家を離れてから、おじのラバンのもとで20年間仕えました。複数の妻たちの争奪戦と狡猾なラバンによってすっかり砕かれました。いよいよ故郷に帰ることになりましたが、問題は兄のエサウです。エサウによって自分は殺されるかもしれません。ですから、自分を祝福してくださるよう天使に求めたのです。負けそうになった天使は「私を去らせよ。世が明けるから」と言いました。しかし、ヤコブは「私を祝福してくださらなければ、あなたを去らせません」と必死に食い下がりました。ドラクロアという画家が、「天使とヤコブの戦い」という絵を描いています。筋骨隆々のヤコブが天使を押し倒そうとしています。そして、天使はヤコブの左のももを「ぐい」と引いている絵です。天使はヤコブに勝てないので、ヤコブのもものつがいを打ちました。そして、「あなたの名は何と言うのか?」と聞きました。「ヤコブです」「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って勝ったからだ」と言いました。イスラは「戦う」という意味であり、「エル」は神さまです。もものつがいは、自分の知恵や力に頼ることを象徴しています。ところが、天使がヤコブのもものつがいを打った時、自我が完全に砕かれたのです。その後、真剣に「私を祝福してくださらなければ、私はあなたを離れません」と必死に祈りました。ヤコブは、そのところを「ペヌエル」、神の御顔と名付けました。ペヌエルは第二の経験です。自我が砕かれ神さま中心になるということです。言い換えると、自分が主ではなく、イエス様が主になるということです。その後、ヤコブは兄エサウと和解することができました。

奪い取る信仰は悪くはありません。しかし、どこまでも「自分が、自分が」というところがあります。私も救われた頃は、韓国のチョーヨンギ師の信仰にあこがれました。祈って求めれば大きな教会になると思いました。ところがなかなかそうはなりませんでした。神さまはいろんなところを通して私を砕かれました。求めることは良いことです。では、何が間違っていたのでしょう?神さまのみこころよりも自分の願いが上だということです。ヤコブもまさしくそういう人物でした。しかし、神さまはヤコブの自我を取扱いました。結婚を通して、自分よりも狡猾なラバンを通してです。ヤコブの自我はとても強く、天使と戦っても勝つほどでした。もものつがいが打たれたというのは、自我が完全に砕かれたということです。ヤコブは自分の知恵や力に頼ることを断念しました。それでどうなったのでしょう?神さまはヤコブを再生しました。もう、人を押しのけるヤコブではなく、イスラエルになりました。イスラエルには「神の皇太子」という意味があります。つまり、神さまと共に世界を治める者になったということです。これまでは、「奪い取らなければ自分のものにはならないんだ!」という信仰でした。人を押しのけ、奪い取ると言うのは乞食の信仰です。しかしペヌエルの経験、神さまと顔と顔を合わせてから、変わりました。「すべては神さまの御手にあり、私のためにすでに備えておられる」という信仰になりました。なぜなら、ヤコブが生まれる前、「二つの国があなたの胎内にあり、兄が弟に仕える」という預言が母リベカにありました。神さまはすでに、ヤコブに長子の権利を与えることを予定しておられたのです。ヤコブは奪い取ったように思いましたが、本当は、神さまがヤコブに与えたのです。私たちの神さまはどんな神さまでしょうか?マタイ6: 8「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」神さまは必要なものは必ず与えてくださる。私たちは神さまがすでに備えておられるものを求めるのです。私たちは神さまから奪い取るのではありません。神の息子、神の娘として、信仰によって受けるのです。どうぞ、奪い取るヤコブの信仰から、イスラエルの信仰になりましょう。私たちは必要が与えられないと気をもむときがあります。しかし、神さまはすでに備えておられます。すべては主の御手にあるのです。最も重要なことは、主を信頼するということです。