2013.10.13「王子モーセ 出エジプト2:10-15 ヘブル11:23-27」

 ヤコブ、つまりイスラエルの子どもたちは、ヨセフのいるエジプトに移り住むことになりました。なぜなら、カナンを含めて全世界にききんが及んだからです。イスラエルの子どもたちは、エジプトで暮らし、増え広がりました。ところが、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こりました。王さまは「イスラエルの民は、われわれよりも、多く、また強い。戦争が起こったとき、敵側について、この地から出ていくといけないから、かしこく取り扱おう」と言いました。それで、彼らに町の建設や畑のあらゆる労働など、過酷な労働を課しました。それでも、イスラエルの民が増えるので、王様は「男の子が生まれたら、ナイルに投げ込め」と命じました。

1.王子モーセ

レビの家系である一人の女性が、かわいい男の子を生みました。3か月間、お家に隠しておきましたが、隠しきれなくなりました。それで、防水を施したかごに、その赤ちゃんを入れて、ナイル川に流しました。ちょうどそこに、パロの娘が水浴びをするためにナイルに降りて来ていました。彼女は赤ちゃんの泣き声を聞いて、あわれに思い、自分の子として育てました。モーセの名前の由来は、「水の中から引き出した」ことから来ています。不思議なことに、モーセのうばは、実の母親でした。ですから、モーセはヘブル人として育てられながら、同時に、エジプトの王子として育てられたのです。その当時、エジプトは世界で最も栄えていました。モーセは王子して、帝王学など、最高の学問を教えられました。モーセが40歳になったころ、イスラエルの民が苦役を強いられているのを見て、同情心が湧いてきました。ある時、同胞の一人が、エジプト人に虐待されていました。モーセはそのエジプト人を打ち殺し、砂の中に隠しました。翌日、兄弟たちが争っているのを見て仲裁に入りました。ところが、隣人を傷つけていた者が、「だれが、あなたを私たちの支配者や裁判官にしたのか。きのうエジプト人を殺したように、私も殺す気か」と言いました。パロはこの事件を耳にして、モーセを殺そうと捜し求めました。モーセはそれを恐れて、ミデヤンの地に逃れました。モーセは良かれと思って、エジプト人を打って、同胞を救いました。しかし、理解してもらえませんでした。今度は、パロから命を狙われる身となりました。

ヘブル人への手紙は、この事に対して、どのような見方をしているでしょうか?ヘブル11:24-27「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。」新約聖書はモーセのことをとても良く書いています。私たちも天国に行ったら、「命の書」から自分の生涯を読み上げられるでしょう。犯した罪や失敗は少しも語られず、良いことだけが並べられるかもしれません。なぜなら、イエス様が間に立って弁護してくださるからです。モーセは仕方なく、ミデヤンの荒野に逃れたのではありません。はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取ったのです。信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去ったのです。彼はそののち羊飼いになりました。エジプトの王子から、一転して、羊飼いです。それまでは政治や都市建設、交易に携わりました。しかし、今は朝から晩まで、羊の世話です。朝になると羊を柵から出し、草のあるところに導きます。水を飲ませたり、野獣から羊を守ります。夕方になると、羊を従えて家まで戻ります。それをモーセはどれくらいやったのでしょう。40年間です。かつては黒々とした髪の毛がありました。だが、今は額が後退し、残った髪の毛も真っ白になりました。もう、80歳です。エジプトでの暮らしを完全に忘れていまいました。人々からも忘れ去られ、自分がだれかもわからなくなりました。革命は若い者がすることです。しかし、今は、40歳のときの気力も体力もありません。モーセはリーダーとして失敗したという痛みを抱えていました。モーセは自分のことをこのように書いています。詩篇90:9-10「まことに、私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に沈み行き、私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」モーセの人生観はまさしく「虚無」でありました。

しかし、私たちは聖書からモーセの生涯がこれで終わりではないことを知っています。モーセはイスラエルの民を脱出させた最も偉大な指導者です。では、モーセのこれまでの人生は無駄だったのでしょうか?そうではありません。『王家の者として生きる』という本にこのように書いてありました。「モーセはイスラエルの民を奴隷制度から解放するために生まれて来たのだ。モーセはパロの宮殿で育てられることによって、奴隷の考え方ではなく、王子としての生き方を学ぶ必要があったのだ。自分が奴隷の考え方であるリーダーに、実際に奴隷制度に捕われている民を解放する力はないのだ。モーセの人生の初めの40年間は、後の荒野で過ごす40年間と同様に重要だったのだ」。そうです。もし、私たちが、自分が取るに足りない者として育てられたらどうなるでしょう?彼は成長の過程で「私には価値がない。私の意見はだれからも尊重されないだろう?」と学ぶでしょう。もし、そういう人が指導者になったらどうなるでしょう?彼は自分の発言にも注意を払わないでしょう。彼が導くはずの人たちを、やがては自分の手で破滅させてしまうでしょう。私が全くその人でした。人々に辛口のジョークを言って、関係を壊してきました。人から「先生、先生」と言われても、「口先だけだろう」と思っていました。自分の生まれ育った環境はたしかにひどいものでした。8人兄弟の7番目、取るに足りない存在として育てられました。神の子クリスチャンになっても、心の奥底で、自分は粗末な存在であると思っていました。しかし、『王家の者として生きる』という本を読んだとき、原因が分かりました。また、ヨセフの生涯を学んだとき、ヨセフが自分のように思えました。今は、本当に自分が神さまから召された存在であることを確信しています。

では、モーセの荒野の40年間は重要だったのでしょうか?とても重要でした。彼は私がエジプトの民を救うんだという自負心がありました。悪いことばで言うと自信過剰です。「若気のいたり」というものはだれでもあります。若くてエネルギーにあふれている時代というのは、良いものです。しかし、車で事故を起こすのは、若い人たちです。なぜなら、無謀な運転をするからです。モーセは、仲間を助けましたが、その代わりエジプト人を打ち殺しました。同胞から「だれがあなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか?」と言われたとき、返すことばがありませんでした。なぜなら、モーセは神さまの意志ではなく、自分の意志でやろうとしていたからです。そう言われたとき、急に恐れが出てきて、エジプトから逃げました。神さまは人を用いる前に、古い自我を砕かれます。これは神の人に共通しているレッスンです。これまで学びましたがアブラハムは75歳から100歳まで、25年間、子供が与えられませんでした。ヤコブはラバンの家で、20年間、ただ働きをさせられました。ヨセフは13年間、エジプトで奴隷として過ごしました。そして、神さまはモーセを用いるために40年間、荒野で過ごさせたのです。彼は80歳になり、すっかり砕かれました。神さまから「わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ」と言われたとき何と答えたでしょう?モーセは神さまに申し上げました。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは」。もう、すっかり、砕かれていました。

神さまはモーセのように、あなたを用いたいと願っておられます。第一はあなたが生まれた良いもの、良い環境を用いられます。モーセはエジプトで王子として育てられ、40年間、最高の学問を学びました。みなさんの中には、親の力で良い学校をださせてもらった人もいるでしょう。小さいころからピアノやバイオリンを習わされた。両親から可愛がられ、大事に育てられた。すばらしいことです。私のように心の傷が少ないならば、本当に幸いです。また、努力して身に着けたもの、生まれつきの才能もたくさんあるでしょう。神さまは私たちがクリスチャンになる前からも、良いものをたくさん与えてくださったのです。第二は、神さまはあなたを取扱いたいと願っておられます。自分の能力や知恵ではなく、神さまに頼る者にしたいのです。そのため、辛い環境の中を通されるかもしれません。神さまはあなたを病気にしたり、苦しみを与えるお方ではありません。この世の悪魔が、ターミネーターのようにあなたが神さまに用いられる前に滅ぼそうとするのです。しかし、神さまはそれらを逆手にとって、あなたの悪いものを取り除き、純金のように精錬してくださるのです。あとから振り返ると、「ああ、あのことがあって今の私があるんだ」と感謝できるようになるのです。神さまがモーセを準備したように、あなたも準備したいと願っておられます。あなたは神さまのレッスンを合格したでしょうか?やがて、時が満ちるならば、神さまはモーセのように、あなたにお声をかけてくださるでしょう。そして、荒野の40年も無駄ではなくなるでしょう。

 

2.解放者モーセ

では、モーセを立ち上がらせたものは何でしょうか?「燃える柴の経験」として知られています。乾燥した荒野では柴や灌木が燃えることがよくありました。しかし、その柴は火で燃えていたのに、焼け尽きませんでした。いつまでも、柴は燃え続けていました。モーセは「なぜ、なんだろう」と近づきました。すると火の中から声がありました。出エジプト3:6「『わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。【主】は仰せられた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。』」モーセは「私はいったい何者でしょう?」と答えました。神さまは「わたしはあなたと共にいる」と一本の杖をモーセに与えました。モーセがその杖を地に投げつけると、ヘビになりました。ヘビの尾をつかむと、元の杖になりました。杖とは神さまの権威を現わしています。主なる神さまは「私が共にいるから、パロの前に立て」と言いました。しかし、モーセはいろいろ言い訳をしました。出エジプト4:10「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」「重い」と言っても、舌が10キロもあったわけではないでしょう。そうではなく、モーセは私は口下手なので、「だれか他の人を遣わしてください」と言いました。主は怒りつつ、「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。私は彼がよく話すことを知っている」と仰せられました。つまり、神さまがモーセに話すべきことを教え、モーセがアロンに語り、アロンが人々に語るということです。その後、モーセは手に神の杖を取り、エジプトの地に帰りました。

神の指導者として最も重要なことは、神からの召命であります。モーセが燃える柴の中で、主の御声を聞きました。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。…今、行け。私はあなたをパロのもとに遣わそう。私の民、イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」という命令を聞きました。モーセはいろいろ言い訳をし、躊躇しました。80歳になり、気力も体力も衰えていました。「私は口下手です。エジプトはあまりにも強大です。現役を去った私を誰も認めてくれないでしょう」と言いました。それに対して、神さまはいろいろ励まして、神の杖を持たせました。やっとのことで、モーセは立ち上がり、エジプトに向かいました。モーセは神からも人からも忘れ去られ、一生、羊飼いであると思っていました。しかし、神さまには計画がありました。モーセを通して、イスラエルの民をエジプトから解放させるということです。みなさん、一人ひとりにも、神さまの計画があります。あなたに成してもらいたい、天命、聖なる神の運命があります。それを知らないでいると、せっかく救われているにも関わらず、宙ぶらりんな生活をしてしまいます。この世の人たちと同じように、惰性で過ごしたり、暇をもてあますということになります。そのためには、アブラハム、ヤコブ、そしてモーセのように神さまに出会う必要があります。どういう出会いかと言うと、「私はこのためにあなたを召したよ」というお言葉をいただくことです。モーセは柴のように自分の人生がはかなく消え去ると思っていました。しかし、燃えても、燃えても、燃え尽きない柴を見たのです。モーセは、燃え尽きない柴を見たとき、神さまが与える燃え尽きない人生を見たのです。

モーセはパロの前に立ちました。案の定、相手にされませんでした。モーセは第一、第二、第三と神からのしるしを見せました。パロは、一時は、「わかった、去らせよう」と言います。しかし、災いが止むと、「だめだ」と言って、さらに苦役を増しくわえました。モーセはイスラエル人から「わらなしでどうして煉瓦が作れるんだ」と文句を言われました。さらに、モーセは第四、第五、第六、第七、第八、第九とパロとエジプトに対して、災いをもたらしました。パロはますまず強情になりました。聖書を見るとパウロの心を頑なにしているのは、主であることがわかります。もし、私がモーセの立場であったら、「なぜ、無駄なことをさせているのですか?」と文句を言うでしょう。でも、神さまの考えは、パロと家臣たちを徹底的に苦しめ、第十番目の災いに導くためでした。十番目の災いとは何でしょう?出エジプト12:12-13「その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは【主】である。あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。」家の門柱とかもいに羊の血を塗った家は、主の怒りが通り過ぎるということです。イスラエルの民たちは、それを守りました。しかし、パロの初子から家畜の初子まで打たれて死にました。パロは「私の民の中から出て行け。羊の群れも牛の群れも連れて出て行け」と追い出しました。

イスラエルの民は、おそらく100万人以上はいたと思われます。イスラエルは編隊を組み、エジプトの国から離れました。ところが、神さまは、あえて葦の海に沿う荒野の道に回らせました。彼らが海辺で宿営しているという知らせを聞いて、パロは考えを変えました。「われわれは何ということをしたのだ。イスラエルを去らせてしまい、われわれに仕えさせないとは」。パロは戦車を整え、軍勢を引いてイスラエルを追跡しました。イスラエル人はパロの軍勢が近づいてきたとき、「私たちを連れ出して、この荒野で死なせるのか」と不平を言いました。そのとき、モーセは何と言ったでしょう。出エジプト14:13「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる【主】の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。【主】があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」モーセは、神さまから命じられたように、杖を上げ、手を海の上に伸ばしました。すると、海が右と左に分かれ、海底にかわいた地が見えました。100万人以上のイスラエルの民が渡るには、どうしても時間がかかります。イスラエルとパロの軍勢の間に、真っ黒な雲がたちこめました。また、神の使いが戦車の車輪をはずして、進むのを困難にさせました。パロの騎兵たちはあせりました。イスラエルの民が渡り終えた後、モーセが手を海の上に差し伸べました。するとどうでしょう?左右の水の壁がくずれ落ち、パロの戦車も軍勢も海の中にのみこまれました。これが、映画『十戒』の最も、有名なシーンです。この奇跡こそが、イスラエルの歴史に語り継がれた、偉大な神のみわざです。

出エジプトの出来事は、旧約聖書において最も偉大な救いの出来事です。モーセはその奇跡を体験することができました。おそらく、モーセの神概念は全く変わったのではないかと思います。「神さまがこんなことができるのか、主であられる神はなんと偉大なのだろう!」と思ったでしょう?それでどうなったでしょう?伝統的には創世記はモーセが書いたと言われています。しかし、天地創造の出来事を、見てもいないのに、どうして書くことができたでしょう。だから、自由主義神学の人たちは、「後代の人がバビロン捕囚をモチーフにして書いたんだ」と言います。しかし、私はモーセが書いたと信じます。おそらく、モーセは神さまから、天地創造の啓示を受けたでしょう。「光があれ」と言ったら光があった。「乾いたところが現れよ」と言ったら、そのようになった。「植物が地の上に芽生えよ」と言ったら、そのようになった。モーセは紅海が分かれるという奇跡を体験しました。だから、神さまから天地創造の啓示をうけたとき、「あの神さまだったらできる」と啓示を受け止めることができたのです。出エジプトの出来事とは、私たちにとっては救いの出来事です。かつて、私たちはエジプトならぬサタンの支配のもとで奴隷でした。何の目的も持たず、ただ生き延びている人生でした。たとえ夢や希望があったとしても、やがて来る死によって全部、飲み込まれました。私たちを罪と死から、解放させた力は何でしょう?それは、イエス・キリストの血です。過ぎ越しの羊の血を塗ることによって、怒りが通り過ぎました。私たちも十字架のイエス・キリストを信じるならば、神の怒りが過ぎ越し、神さまと和解できるのです。私たちはもはや奴隷ではなく、神の子どもであり、御国の世継ぎです。神さまが王様であるならば、私たちは王子であり、王女なのです。後を追いかけてきた、エジプト軍は海に飲み込まれました。同じように、サタンは私たちを訴えることはできないのです。ハレルヤ!旧約聖書で最も偉大な出来事は出エジプトです。そして、新約聖書で最も偉大な出来事は、キリストの十字架の死と復活です。私たちは新約の時代に生かされています。救いの招きは、すべての人に向けられています。まだ、イエス様を信じていない人は、救い主、人生の主として信じましょう。また、すでにクリスチャンになっている人は、自分が奴隷ではなく、神の息子、娘であることを腹の底から自覚しましょう。ただ生き延びるだけの奴隷根性を捨てて、神の王子、王女として生活しましょう。