2013.10.20「神のしもべモーセ 出エジプト32:30-35」

 イスラエルの民は、エジプトから奇跡的に脱出することができました。その後、主なる神さまは彼らをシナイ山のふもとに導きました。ここで主なる神さまはイスラエルの民と契約を結びます。また、同時に、十戒をはじめとする律法を与えました。ここには、旧約といわれる中心的な思想があります。旧約の場合は、律法を守ってこそ、契約が成り立ちました。一方、新約の場合は、律法をイエス・キリストが全うしたので、信じるだけで救われるということです。新約ばかりを読んでいると、信仰がイチゴ・ジャムのように甘くなるでしょう。たまには、旧約から、「恵みがないならば本当に大変なんだなー」ということを知ることはとても重要です。きょうは「神のしもべ」と題して、モーセの後半の人生から学びたいと思います。

 

1.モーセと律法

イスラエルの民は無事、エジプトから脱出することができました。その後、主である神さまは、イスラエルと契約を交わしました。主はシナ山からモーセを呼んで、以下のことをイスラエルの人々に告げよと言われました。出エジプト19:4「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」これは、シナイ契約と言って、聖書の中でも超有名な箇所です。この契約の特色は、第一に、神さまから一方的に与えられたものです。第二は、「契約を守るならば」という条件付きでした。その条件とは十戒を中心とする律法を守ることであります。契約と律法がくっついています。売買契約でも生命保険でも、契約条項というものがあります。「甲か乙が、これを破ったら、契約は成り立ちませんよ」というものです。大体、小さな文字で書かれているので、契約を交わすときはあまり見ません。あとから、「こういうことが書いてあったのか!」と驚くことがよくあります。モーセが山から降りて、民の長老たちに、先ほどの内容を述べました。出エジプト19:8「すると民はみな口をそろえて答えた。『私たちは【主】が仰せられたことを、みな行います。』それでモーセは民のことばを【主】に持って帰った。」ちょっと軽い感じがしますが、「みな行います」と口をそろえて誓いました。

モーセは契約の条件である律法を受けるために、再びシナイ山に登りました。シナイ山は全山が煙っていました。なぜなら、主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからです。その煙は、かまどのように立ち上り、全山が激しく震えました。山の上に雷と稲妻と密雲があり、角笛の音が非常に高く響いていたので、イスラエルの民はみな震え上がりました。「主はモーセに告げて仰せられました」という語り出しで、律法が語られています。律法の主な内容は、十戒、民事法、刑事法、道徳法、宗教法、宗教暦などです。その中で一番、有名なのは十戒でしょう。出エジプト記20章に記されています。第一は「私の他に他の神々があってはならない」です。原文は「私の顔の前に他の神々があってはならない」となっています。たとえば、神さまと私の間に、他の神々があったらどうなるでしょうか?まことの神さまが見えなくなります。第二は「自分のために偶像を造ってはならない」です。「私を憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼす」となっています。このように偶像礼拝は大きな罪です。第三は「主の御名をみだりに唱えてはならない」です。主を「ヤーウェ」などと呼んだりしますが、ヘブライ語では子音ばかりなので、読めないようになっています。ユダヤ人は「神」と呼ぶ代わりに「天」と言い換えました。第四は「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」です。これはイスラエルに交わされた契約であると考えられ、教会では日曜日を聖日としています。第五は「あなたの父と母を敬え」です。一戒から四戒までは神さまに関することです。第五から第十は人との関係です。父と母を敬うことが、人との関係で一番大事だということです。第六は「殺してはならない」です。殺人事件が毎日のように起こる現代社会に最も重要なことではないでしょうか?第七は「姦淫してはならない」です。イエス様は福音書で「今は悪い姦淫の時代である」と言われました。第八は「盗んではならない」です。第九は「隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」です。第十は「隣人の家を欲しがってはならない」です。いわゆるむさぼりの罪です。昔、赤羽教会におられた深谷先生が、十戒の数え歌を教えてくださいました。「一つ一人の神を拝せよ、二つ再び偶像を拝むな、三つみだりに御名を唱えるな、四つ喜び安息日守れ、五ついつも父母を敬え、六つむごい殺人を犯すな、七つ汝姦淫するなかれ、八つやましい盗みをするな、九つこんりんざい嘘を言うな、十に隣をむさぼるな」です。

主から、イスラエルの長老70人とアロンと二人の息子が、シナイ山に登るように言われました。そして、モーセは彼らのところに来て、主のことばと定めをことごとく民に告げました。すると、民はみな声を1つにして「主の仰せられたことは、みな行います」と答えました。その後、山のふもとに祭壇を築き、イスラエルの12部族に従って、12の石の柱を建てました。それから全焼のいけにえと和解のいけにえを主にささげました。モーセは契約の書を取り、民に呼んできませました。すると、彼らは「主の仰せられたことはみな行い、聞き従います」と誓いました。そこで、モーセはいけにえの血を取って、民に注ぎかけて言いました。「見よ。これは、これらすべてのことばに関して、主があなたと結ばれる契約の血である」と。そのとき、イスラエルの長老たちは、神さまを仰ぎ見ました。その後、主が「教えと命令の石の板を授ける」ということで、モーセは再び山に登りました。主の栄光が山の頂で燃えるように見えました。モーセは雲の中に入って行き、四十日四十夜、山にいました。山の上で律法の後半の部分を神さまからいただきました。そして、神さまご自身の指で、十戒を記した石の板二枚を授かりました。ところが、山の下ではどうでしょう?モーセの帰りがあまりにも遅いので、民たちはアロンに「私たちに先立つ神さまを造ってください」とお願いしました。アロンは彼らが持て来た大量の金の耳輪を受け取り、鋳物の子牛にしました。民たちは子牛の前に全焼のいけにえをささげ、飲み食いして、戯れました。主はモーセに、「さあ、すぐ降りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。彼らを絶ち滅ぼし、モーセを大いなる国民にしよう」と言いました。モーセは「どうか怒りを納めてください、あなたの民へのわざわいを思い直してください」と懇願しました。

山から降りてみると、民たちは子牛のまわりで踊っていました。モーセは怒って、主から授かった十戒の板を投げ捨てて、粉々に砕いてしまいました。そして、アロンに、「あなたが彼らにこんな大きな罪を犯せたのか」と言いました。アロンは「民たちがどうしても神さまを作ってくれと言ったので、金を取って、火に投げ込んだら、この子牛が出てきたのです」と苦しい言い訳をしました。出エジプト記32:27「そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、【主】はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」レビ族は、モーセのことばどおりに行った。その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。そこで、モーセは言った。「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、【主】に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために。」レビ族が立ち上がり、偶像礼拝をした者たちを剣で殺しました。そのことによってレビ族は祝福されました。神さまはイスラエルの民に「私にとって祭司の国、聖なる国民となる」と契約を結ばれました。民たちは「主の仰せられたられたことを、みな行います」と答えました。ところが、たった40日後、偶像礼拝をして契約を破ってしまいました。本来なら、イスラエルの民、全員が滅ぼされるべきでしたが、直接、罪を犯した3000人だけが裁かれました。そのさばきのために、神さまの側についたのがレビ族でした。その後、レビ族はイスラエルの祭司として選ばれました。本来、イスラエルの民が、全世界に対して祭司の国となるべきでした。しかし、罪を犯したため、縮小され、レビ族がイスラエルの民の祭司になったのです。一種の堕落です。

その翌日、モーセは主のところに行って、民のためにとりなしました。そのことが、出エジプト記33:31以降に書かれています。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら──。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」その当時、すでに「いのちの書物」という概念があったというのは驚きです。モーセは神さまと取り引きをしました。民の罪を赦してもらうかわりに、自分の名前を消し去っても良いと言ったのです。つまり、自分がさばかれ、永遠の滅びを受けても構わないということです。これに対して、主は「罪を犯した者はさばく」と言っただけで、答えていません。この世では、自分の罪を秘書や部下になすりつけて、自分の身を守ろうとします。しかし、モーセのすばらしいところは、自分の身を犠牲にしてでも、民たちを守ろうとしたところです。モーセが神さまと民との間に入って、とりなした姿は、主イエス・キリストの型、予型であります。

 

2.モーセと荒野

イスラエルの民は主の山を出て、三日の道のりを進みました。しかし、民たちは荒野で「水がない」「食べ物がない」とつぶやきました。そのことが、民数記に記されています。民数記11:1-11。さて、民はひどく不平を鳴らして【主】につぶやいた。【主】はこれを聞いて怒りを燃やし、【主】の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。すると民はモーセに向かってわめいた。それで、モーセが【主】に祈ると、その火は消えた。【主】の火が、彼らに向かって燃え上がったので、その場所の名をタブエラと呼んだ。また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」マナは、コエンドロの種のようで、その色はベドラハのようであった。人々は歩き回って、それを集め、ひき臼でひくか、臼でついて、これをなべで煮て、パン菓子を作っていた。その味は、おいしいクリームの味のようであった。夜、宿営に露が降りるとき、マナもそれといっしょに降りた。モーセは、民がその家族ごとに、それぞれ自分の天幕の入口で泣くのを聞いた。【主】の怒りは激しく燃え上がり、モーセも腹立たしく思った。モーセは【主】に申し上げた。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう。なぜ、私はあなたのご厚意をいただけないのでしょう。なぜ、このすべての民の重荷を私に負わされるのでしょう。主は荒野で天からマナを降られました。フワフワして、人々はそれを集めて、パン菓子のように加工して食べました。最初は、おいしいクリームのような味でした。しかし、同じものを何日も食べるとだれでも飽きてくるでしょう。それでイスラエルの民は、「エジプトにいたときは、肉も魚も食べていた。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも食べていた。しかし、今は何もなくて、このマナを見るだけだ」と不平をもらしました。エジプトの辛い奴隷時代のことを棚に上げて、「マナしかないのか!」とつぶやきました。このことに対して、主が怒り、モーセも腹立たしく思いました。そして、「なぜ、あなたはしもべを苦しめるのでしょう。このすべての民の重荷を私に負わせるのでしょう」と文句を言いました。

民たちは「私たちに肉を食べさせてくれ」とモーセに泣き叫びました。モーセは「どこから私は肉を得て、この民全体に与えなければならないのでしょうか」と主に申し上げました。さらに、モーセは「私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです。どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに合わせないで下さい」と言いました。モーセは「私にはもう面倒みきれません。どうか私を殺してください」と言ったのです。モーセはすばらしいリーダーでありましたが、民たちの不平不満には耐えられませんでした。ダビデもそうですが、モーセがありのままを神さまに申しあげているところは、私たちが学ぶ点であります。私たちは祈るとき、言葉を選んで、「この祈りを御前におささげします」みたいに祈ります。悪くはありません。しかし、ある場合は、悩みの真ん中で、「これは私には負いきれません。無理です。」と申し上げても良いということです。私たちは主イエス・キリストにあって、それくらい何でも言える者になったのです。そうやって、ありのままをさらけ出して祈ると、主は、あとから静かな声で語ってくださいます。主はモーセに何と仰せられたでしょうか?主は一日や二日や五日や十日ではなく、1か月も、鼻から出るくらいに肉を与えると言われました。モーセは「男性だけでも60万人いるのです。彼らのため羊の群れ、牛の群れをほふっても、彼らに十分でしょうか?」と言いました。主はモーセに「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる」と言われました。主は風を起こして、海の向こうからうずらを運んで、宿営の上に落としました。宿営のこちら側に約1日の道のり、あちら側にも約1日の道のり、地上に約90センチの高さになりました。民たちは出て行ってうずらを集めました。少ない人でも、230リットルくらい集めました。彼らは欲望に駆られて、食いまくりました。そのとき、主の怒りが民に向かって燃え上がりました。むさぼりがひどかったからです。

また、水がないときもつぶやきました。民はモーセに「私たちをこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか?なぜ、エジプトから上らせて、この悪いところに引き入れたのか」と言いました。さすがの柔和なモーセも怒りました。民数記20:10-12そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。しかし、【主】はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」主はモーセに「岩から水が出るように命じよ」とおっしゃっていました。それなのに、モーセは怒りに任せて、岩を二度打ちました。確かに水は出ましたが、それが主を怒らせました。その理由は、主を信じないばかりか、主をイスラエルの人々の前に聖なる者としなかったということです。私たちから見るならば、小さな罪のように思えます。新約聖書的に考えるなら、岩はイエス・キリストを現わしています。杖で岩を打つとは、イエス様を打つということになるのかもしれません。旧約時代はとても厳しいです。特に神さまに仕える者に対してはそうです。神のしもべモーセはこの罪のために、約束の地カナンに入ることができませんでした。120歳になったとき、ピスガの頂から、アブラハム、イサク、ヤコブに「あなたの子孫に与えよう」と言った約束の地を見ました。見るだけで、そこへ渡っていくことはできませんでした。

また、エジプトから解放されたイスラエルの民も約束の地に入ることができませんでした。このことは、民数記13、14章に記されています。ツインの荒野からカナンの地を探るために、12人の偵察隊を遣わしました。40日後、その地の産物をたずさえ「まことにそこは乳と蜜が流れています」と言いました。ところが、その中の10人は「その町々は城壁が高く、巨人が住んでいます。私たちは自分がいなごのように見えましたし、彼らにもそう見えただろう」と言いました。民たちは、否定的な偵察隊の言うことを聞いて、「ひとりのかしらを立てて、エジプトに帰ろう」と泣き叫びました。モーセは全会衆の前にひれ伏して、何も言えませんでした。ただ、ヨシュアとカレブだけが、「その地を恐れてはならない。攻め上ろう」と言いました。しかし、全会衆は、彼らを石で打ち殺そうと言い出しました。そのとき、主がモーセに仰せられました。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。わたしは疫病で彼らを打って滅ぼしてしまい、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう。」すると、モーセは願いました。「あなたがこの民を滅ぼしたら、あなたのうわさを聞いた異邦の民は次のように言うでしょう。『主はこの民を、彼らに誓った地に導きいれることができなかったので、彼らを荒野で殺したのだ』どうか今、わが主の大きな力を現わしてください。主は怒るのにおそく、恵み豊かであると約束されたではありませんか。どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください」。主は「私はあなたのことばどおりに赦そう」と仰せられました。その結果、ヨシュアとカレブの二人、そして彼らの子孫が約束の地に入ることができました。

このように、モーセは何度、主の前に出て「どうかイスラエルの民を赦してください。あなたは、怒るに遅く恵み深い方でしょう」と進言したでしょうか。イスラエルの民は本当に不従順でした。いつも不平不満をもらし、モーセにつぶやきました。しかし、それはモーセにつぶやいたのではなく、主に対してつぶやいたことになるのです。私たちはこのところから2つの教訓を得ることができます。第一に、モーセはしもべとして神の家全体のために忠実でした。しかし、キリストは御子として、神の家を忠実に治められるのです。モーセはイエス・キリストを現わした神のしもべでした。第二は、モーセのとりなしの祈りです。モーセは身を呈して、何度も主の前に出て、民たちのたちの赦しを請い願いました。イエス・キリストは十字架の上で、自分を差し出して、こう祈られました。ルカ23:34「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」イエス様は本当に、自分の命と交換に、人類の罪の赦しを求めました。これまで、私たちは何度つぶやいたでしょう?何度、不従順の罪を犯して来たことでしょう?旧約時代に生きていたなら、命がいくつあっても足りないでしょう。今、このように生かされ、救われているのは主の恵みです。私たちにはモーセよりもすばらしい、主イエス・キリストがおられます。イエス様は私たちを罪の世界から救い出し、約束の地、天のエルサレムに連れて行ってくださる救い主です。律法を全うし、契約の仲介者であるイエス・キリストに従ってまいりましょう。