2013.12.8「最初の王サウル Ⅰサムエル15:17-23」

 イスラエルの民は、「他の国のように、私たちをさばく王を立ててください」とサムエルに求めました。本来は、主なる神さまがイスラエルの王でした。「人間の王をください」ということは、主を退けることと同じでした。サムエルは「王があなたがたを支配すると、こういうことになるよ」とさまざまな弊害を上げました。それでも、民たちは「どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません」と主張しました。主は民の言うことを聞き入れ、一人の人物を王としてお立てになりました。その人の名はサウルであり、イスラエルの最初の王様です。しかし、サウル王は致命的な罪を犯したために、神さまから捨てられました。

 

1.サウルの高慢

 

 サウルは外見的に素晴らしい人物でした。Ⅰサムエル92「キシュにはひとりの息子がいて、その名をサウルと言った。彼は美しい若い男で、イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった。」とあります。サウルは背が高くて、とてもハンサムな男性でした。また、彼はとても謙遜でした。Ⅰサムエル921「私はイスラエルの部族のうちの最も小さいベニヤミン人ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、つまらないものではありませんか。どうしてあなたはこのようなことを私に言われるのですか。」と言いました。サムエルは人々の前で「見よ。主がお選びになったこの人です」と紹介しました。ほとんどの民は「王様。ばんざい」と喜びました。ところが、「この者がどうして、われわれを救えよう」と軽蔑して、贈り物を持ってこない人たちがいました。しかし、サウルは黙っていました。また、神さまはサウルの心を変えて新しくされました。サウルが預言者の一団の中に入ると、神の霊が彼の上に激しく下りました。そして、サウルも彼らの間で、預言をしました。サウルの最初の戦いは、アモン人ハナシュでした。サウルはイスラエルの民を集め、大勝利を収めました。そのとき、サウルは自分を軽蔑した人たちに対して報復しませんでした。サウルは30歳で王となり、12年間イスラエルを治めました。最初は良かったのですが、いくつかの出来事で、神さまから捨てられてしまいました。

 あるとき、宿敵ペリシテ人との戦いが起こりました。ペリシテは、戦車3万、騎兵6千、歩兵は海辺の砂のように多く集まりました。サウルは、ギルガルというところに留まっていましたが、民は、震えながら彼に従っていました。当時は、主にいけにえをささげてから、戦うというきまりがありました。ところが、7日間待ったけれど、祭司サムエルが定めた日にやってきませんでした。民たちはサウル王から離れて散って行こうとしました。そのため、サウルは全焼のいけにえをささげました。ちょうど、ささげ終ったときに、サムエルがやって来ました。サムエルは「あなたは、何ということをしたのか」と彼を責めました。なぜなら、いけにえをささげるのは祭司であり、王ではありませんでした。サウルは「今にもペリシテ人が私のところに下ってこようとしているので、思い切って全焼のいけにえをささげました」と言い訳しました。ところが、サムエルは「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、【主】が命じた命令を守らなかった。…あなたの王国は立たない。【主】はご自分の心にかなう人を求め、【主】はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。」と、主からのことばを伝えました。サウルは祭司ではないのに、主の前にいけにえをささげました。これは、分をわきまえない、行き過ぎた行為でした。後のユダの王、ウジヤは、神殿で香をたきました。そのため神から打たれ、らい病になりました。サウルもウジヤも「自分は王だから、何でもできる」と高慢になっていたのです。

 もう1つの決定的な失敗は、アマレクとの戦いにおいて、主の命令に従わなかったことです。主は、「アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。人も家畜もすべて滅ぼしなさい」と命じました。しかし、どうでしょう?Ⅰサムエル159「しかし、サウルと彼の民は、アガグと、それに、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しみ、これらを聖絶するのを好まず、ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶した。」次の日、サウルは知らんぷりして、「私は主のことばを守りました」とサムエルに告げました。しかし、サムエルは「では、私の耳に入るあの羊の声、私に聞こえる牛の声は、いったい何ですか」と言いました。サウルは「民は羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。あなたの神、【主】に、いけにえをささげるためです。そのほかの物は聖絶しました。あなたの神、【主】に、いけにえをささげるために、聖絶すべき物の最上の物として、分捕り物の中から、羊と牛を取って来たのです。」と言い訳しました。ここから先は、聖書でとても有名なみことばです。Ⅰサムエル1522「するとサムエルは言った。『主は【主】の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが【主】のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。』」私たちの目では、小さな罪のように見えます。しかし、サウルは神さまから油そそがれた王なので、責任がありました。彼は高慢になって、「このくらいのことは良いだろう」と不従順の罪を犯したのです。サウルは、「神さまにささげるため」と言いましたが、神さまの前に従順であることがはるかに重要だったのです。

 では、サウルは本当にそのことを悔い改めたのでしょうか?Ⅰサムエル1530「サウルは言った。『私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください。どうか私といっしょに帰って、あなたの神、【主】を礼拝させてください。』」。サウルは神さまとの関係ではなく、面目、メンツを失うことを恐れました。だから、「一緒に民の前に出てください」とサムエルの上着のすそをつかんで離しませんでした。エリヤハウスに『サウルとダビデの悔い改め』という教えがありました。サウルは自分がしたとは言っていません。「民が羊と牛を取ってきたのです」と言いました。また、サムエルから罪を責められたとき「私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです」と言いました。また、サムエルがその場を立ち去ろうとしたとき、サムエルの上着のすそを裂けるほど、つかんでこう言いました。「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民と長老とイスラエルの前で私の面目を立ててください。どうか私と一緒に帰って、あなたの神、主を礼拝させてください」と願いました。サウルは一度も、「神さまの前に罪を犯した

とは言っていません。サウルが気にしているのは、民と長老とイスラエルの前における面目でした。神さまに対する罪は二の次でした。一方、ダビデはどうでしょうか?ダビデは姦淫と殺人の罪を犯しました。罪の大きさから言えば、ダビデの方が重いと思います。しかし、ダビデが罪を悔い改めたとき、「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました」(詩篇514と告白しています。人ではなく、神さまのことを考えていました。だから、ダビデは神さまから赦され、そして愛されたのです。日本人は「人に迷惑をかけていないから良いだろう」と言います。人との関係を考えて、神さまのことを重んじていません。人との関係も重要ですが、それよりも「すべての支配者である神さまとの関係はどうか?」ということです。もし、神さまから赦されたならば、人からどう思われようと関係ありません。もちろん、人に損害を与えていたら償う必要はあります。でも、最も重要なことは、神さまとの関係です。私たちが罪を犯したなら、神さまとの関係が壊れます。しかし、私たちがその罪を告白するとき、神さまとの関係が回復されます。このように、「神さまから人へ

という順番が大切です。サウルは神さまよりも、イスラエルの民がどう思うか、王としての面目だけを心配していました。だから、悔い改めが浅くて、サウル自身の心は変わらなかったのです。

 サウル王は、私たちにとっての大切な教訓であります。できれば、サウロのようになりたくありません。サウルは王様にならなければ、低い自尊心で生きていた人です。しかし、イスラエルの王様になったので、自尊心が膨らみ、自分の思いを優先させました。ですから、自分に権威や力が与えられると、今まで隠れていた罪が出てくるのかもしれません。ですから、たとえ、権威や力が与えられても、謙遜であることを忘れてはいけません。私たちの人生において、だれが王であり、だれが主人なのでしょうか?それは主なる神であり、イエス様であります。たとえ、権威や力が与えられても、それはイエス様が一時的に下さったものですから、乱用してはいけません。私たちの持っているものはすべて神さまから預かっているものです。私たち自身のものなど1つもありません。だから、誇るならば、主を誇るべきであります。「すべての栄光が主にあるように」と普段から、心がけているなら大丈夫だと思います。イザヤ書5715「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」アーメン。主はへりくだる者と共におられます。

 

2.サウルの嫉妬

 

 サウロを滅ぼしたのは高慢でしたが、もう1つは、嫉妬心でした。嫉妬は人の心をだめにしてしまいます。嫉妬している人の特徴は、ものごとを誇張して見、必要以上に恐れを抱いてしまうことです。青年ダビデがペリシテ人のゴリアテを打って帰って来たとき、女たちが歌と踊りでサウル王を迎えました。女たちは笑いながら「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と繰り返して歌いました。Ⅰサムエル188-12「サウルは、このことばを聞いて、非常に怒り、不満に思って言った。『ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。』その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになった。その翌日、わざわいをもたらす、神の霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。ダビデは、いつものように、琴を手にしてひいたが、サウルの手には槍があった。サウルはその槍を投げつけた。ダビデを壁に突き刺してやろう、と思ったからである。しかしダビデは二度も身をかわした。サウルはダビデを恐れた。【主】はダビデとともにおられ、サウルのところから去られたからである。」そこで、サウルはダビデを自分のもとから離し、彼を千人隊の長にしました。ダビデはその行く所、どこにおいても勝利を収めました。ダビデが大勝利を収めるのを見て、サウルは彼を恐れました。そして、サウルはダビデがペリシテ人の手にかかって死ぬように、あえて危険な命令を与えました。ところが、ダビデはなんなく勝利するので、サウルはますます、ダビデを恐れました。しまいには、サウルはダビデを殺すことを、息子ヨナタンや家来の全部に告げました。サウル王の嫉妬心をだれも止めることができず、ダビデは荒野から荒野へと逃げるしかありませんでした。

 サウル王はリーダーとしては失格であります。彼は自分の部下の成功を喜ぶことができませんでした。むしろ、自分の地位を脅かす存在であると恐れました。去る11月4-5日、グローバル・リーダーズサミットに出席しました。セッション5では、ゲリーという、リーダーズサミットの総責任者がお話をしました。コロサイ323「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」とあります。彼は、サミットの創始者であり、主任牧師のビル・ハイベルズを喜ばせようと奉仕してきたことを告白しました。ゲリー氏はリーダーのあり方についてこう教えてくれました。「ベストを尽くすのは、人間の主人ではなく、神のためにするのです。低い自己価値を持っているリーダーは、他の人たちに自分の価値を抱かせることにやっきになっています。他の人の成功を受け入れることができません。そして、他の人の失敗を責めます。また、低い自己価値を持っているリーダーは、自分よりも能力のある人を雇いません。増殖者になるのではなく、縮小者になってしまいます。」サウル王はまさしく、低い自己価値を持っていました。だから、「イスラエルの民が自分を王として評価してくれるだろうか」ということに焦点を合わせていました。だから、サムエルが神さまに対する罪を責めても、民たちの面目を第一に考えました。また、青年ダビデがゴリアテを倒し、また千人隊長になって次から次へと勝利を収めました。それはイスラエルのために良いことであり、王様として喜ぶべきことです。しかし、サウル王は「自分の王位が取られるのではないか」と恐れました。こういうことは、会社にもよくあることのようです。部下があまりにも能力があると、「こいつに部署を取られたらどうしよう」といじめることがあるようです。まさしく、嫉妬心から来るものです。

 嫉妬心はどれほど怖いものでしょう?イエス様が十字架にかけられたのは、ねたみであり嫉妬心でした。マタイ2718「ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたのである」と書いてあります。イエス様の時代、宗教を指導していたのは、パリサイ人、律法学者、祭司長たちでした。彼らはイエス様がメシヤ(キリスト)であることを知っていました。しかし、信じて、従うことをしませんでした。もし、メシヤであることを認めならば、自分たちの地位と職を失うことになります。「だいたい、学問も学んでいない、ナザレの大工が何なんだ」と怒りました。彼らは、イエス様の教え、イエス様の人格、イエス様のわざを見たとき、恐れを抱きました。一般の人たちは、「ああ、このお方はメシヤに違いない」とこうべを垂れました。しかし、彼らの心の中に嫉妬心がありましたので、「イエスを排除しなければ、自分たちの地位が危い」と恐れました。ですから、初期のころから、「なんとか、イエスを殺さなければ」と機会を狙っていました。いよいよ、過ぎ越しの祭りの時、ユダによってチャンスが到来し、捕えることができました。彼らは、いくつか裁判しましたが、イエス様に罪を見出せませんでした。結局は、騒乱罪としてローマに訴えました。しかし、総督ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたのです。このように考えますと、ねたみ、嫉妬心は、キリストを十字架にかけるほど重いということです。私たちは日ごろ、無意識の中で、人をねたんだり、嫉妬します。それは自分に対する価値、自己価値が低いからです。私たち一人ひとりは、神さまから造られた尊い存在であり、一人ひとり違う存在なのです。もちろん、この世には、自分よりも優れた人はいるものです。でも、自分には神さまから別のものが与えられており、それを感謝すれば良いのです。ねたみ、嫉妬心は罪でありますが、クリスチャンになっても、「肉」として残ります。私たちは絶えず、それらのものを十字架につけて、主の御目の下で、固有な生き方をしたいと思います。サウルは神さまから捨てられました。そのため、主のもとから悪霊が臨みました。サウルの心も主を離れ、魔術師に頼るほど堕落しました。最後には、サウルは自殺をし、滅亡の断崖からまっさかさまに堕落しました。

では、どのようにして、自分をサウルにならないように注意したら、良いのでしょうか?さきほど、お話したリーダーズサミットのゲリー氏は、『自分を指導する』というテーマで教えてくださいました。かしこいリーダーとはどんなリーダーなのでしょうか?自分自身を指導することが最も難しいことです。自分自身を指導することは、仕事、家族、すべての働き、自分自身にも影響します。ゲリー氏は自分をより良く指導するために、4つ質問を与えています。その第一は、「だれを喜ばせようとしているのか?」あるいは「だれの評価を得ようしているのか」という質問です。先ほども言いましたが、これは自分に対して低い価値観をもっているならば、問題が起こります。自分よりも能力がある人を雇うことができません。失敗した人を責めたり、命令し、自分で決めます。健康な価値観があれば、人を活かすように助け、チャレンジを喜び、相談して決めることができます。この人は、縮小者ではなく、増殖者であります。自分に問いかける必要があります。「私はだれに仕えているのか。だれの好意を得ようとしているのか?」ということです。もし、私たちが人々の好意や評価を求めて生きるならば、その結果、人生、仕事、家族において、自分に思い描いたことのものを得ることができないでしょう。もし、神さまの好意や評価を第一に求めていくならば、結果的に、人々の好意や評価がついてでしょう。第二は「あなたは、批判や矯正のことばやほめられることに対して、どれほどオープンでしょうか?」多くの人は、批判や矯正のことばを受け止められるように訓練されていません。また、そのような言葉を受けることに居心地良く感じません。結果として、ある人の業績や他の人との関係に対して、否定的な影響を話すことを避けます。実はこれはとても不親切なことです。私たちはだれでも自分自身で見えていない盲点や失敗を抱えています。そして、それは具体的に指摘されなければ、私たち自身の成長を妨げ、明確な失敗へと導くことになります。「あなたは、どの程度、批判や矯正のことばを受け入れる用意があるでしょうか?」多くの人はそれを建設的に受け入れることができなかったり、また、あえて受け入れようとしなかったりします。それでは、神さまが与えてくださった可能性を最大限に発揮できないで終わってしまいます。だから、人が自分を正そうとする言葉に、どのように反応するでしょうか?弁解するでしょうか?他の人たちを責めようとするでしょうか?攻撃的になるでしょうか?心を閉ざして、その場を去るでしょうか?それとも、耳を傾けて、どのようにしたら良い結果を出すことができるのか、学ぼうとするでしょうか?第三は、「あなたは自分のメンターを持っているでしょうか?」その人はあなたがさらに向上するために、あなたを支え、あなたに対して説明責任を求める人です。人生の危機は40代に起こります。アメリカではこれを「中年期の危機」と呼びます。若いころ抱いていた夢が達成不可能だと悟る時期です。自分でできると思っていた技術や情熱や知識や賜物が不足していたことを認識します。だから、人生において自分を支え、自分のために語ってくれるメンターが必要です。「あなたにはメンターがいますか?また、あなたはだれかをメンターしていますか?」第四は「あなたは時間をどう使っていますか?」仕事や奉仕は私たちの大事な時間を奪い取り、家族やリクリエーション、学び、神さまとの時間を簡単に犠牲にしてしまいます。やがてバーンアウトし、家族が崩壊してしまうでしょう。仕事と生活のバランスを取ることが大切です。

 私たちは何をするにも、神さまの御目のもとで生きたいと思います。父なる神さまは、御子イエスの洗礼の時、天からこのように語られました。「あなたは、私の愛する子、私はあなたを喜ぶ」。御子イエスがまだ、何もしていないのに、父なる神さまは御子イエスを是認していました。存在そのものを評価し、喜んでいました。父なる神さまは、そのように私たちをもご覧になっておられます。主のご愛と恵みのもとで、息子、娘として生活したいと思います。