2013.12.15「ダビデの子イエス ルカ1:28-33」

 福音書では、イエス様はたびたび「ダビデの子」と呼ばれています。たとえば、盲人のバルテマイは「ダビデの子イエスよ。私をあわれんでください」と叫びました。イエス様は、ご自分のことをそのように呼んだことはありません。しかし、当時の人たちは、「メシヤはダビデの子孫から出る」と信じていました。ただ今、旧約聖書の人物から学んでいますので、イエス様がなぜ「ダビデの子」と呼ばれたのかを知る良いチャンスでもあります。

 

1.イエス様と御国の関係

 まず、御使いがマリヤに言った受胎告知の一部を取り上げたいと思います。ルカ1:32-33「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」つまり、生まれる子どもは王位を受け、ヤコブの家(イスラエル)を、永遠にその国を支配するということです。では、この預言の出どころはどこでしょうか?Ⅱサムエル7章に主がダビデにこのように言われたことが記されています。Ⅱサムエル7:11-13「主はあなたのために一つの家を造る。あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」この預言は「ダビデ契約」として知られています。直接的にはダビデの子、ソロモンのためであります。しかし、同時に、やがて来るべきメシヤの預言でもあります。主がダビデの王国を確立させ、その王国の王座がとこしえまでも堅く立てられるということです。しかし、みなさんもご存知のとおり、ソロモン以降、イスラエル王国は北と南に分裂しました。その後、アッシリアとバビロンに滅ぼされました。南のユダだけが戻されて、国を復興しました。しかし、その後、ギリシヤによって支配されました。イエス様がお生まれになった頃は、今度はローマによって支配されていました。ですから、人々の心の中に、「一刻も早くメシヤが来られて、ローマを倒してイスラエル王国を復興させて欲しい」という願いがありました。ですから、「ダビデの子イエス」という呼び名には、明らかに政治的な意味がこめられていました。イエス様の弟子たちも、そのようなメシヤを期待していました。

新約聖書全体から言うと、イエス・キリストは御国の王であります。しかし、ただちに御国が立てられるかというと、そうではなく、2段階でやって来るということです。2000前イエス様がこの地上に来られたのは何のためでしょうか?それは、御国の基礎を作ることと、御国の民を集めるためでありました。この世はアダムとエバが罪を犯してから、もう御国ではなくなりました。罪とサタンが支配する暗闇の王国になってしまったのです。そこに生まれる子どもたちは、暗闇の支配を受け、生きる意味も、真理も命も分からないまま死んでいきます。イエス様は神さまのところからこの世に送り込まれた神のひとり子であります。イエス様は「私はこの世のものではなく、父から遣わされた者である」(ヨハネ17章)とおっしゃられました。イエス様はこの世に来て、「御国とは何か?御国に入るためにはどうすべきなのか?」ということを教える必要がありました。マタイによる福音書には御国の律法として山上の説教が記されています。また、イエス様はたとえを用いて、天国に入ることが何にもまして重要なことを教えられました。では、どのようにして御国に入ることができるのでしょう?イエス様は「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません」と言われました。また、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」とも言われました。歴史上、偉大な教師が数多く現れました。ソクラテス、釈迦、孔子、マホメットもそうでしょう。それらの人たちは「道とは何か、真理とは何か、いのちとは何か」ということを教えました。しかし、イエス・キリストだけが「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われました。人はイエス・キリストと出会うなら、それらを追及する旅が終わって、それらを享受する生活が始まるのです。クリスチャンは道を探求する者ではなく、道を渡って御国(神さまがおられるところ)に入った人たちのことです。この世にいながらも、御国の自由、御国の喜び、御国の命を味わうことができるのです。

私たちはイエス・キリストを信じるだけで、御国に入ることができます。しかし、そのためには、イエス様はこの世において、すべきことがありました。ある人たちは、「信じるだけで救われるなんて、虫が良すぎる。何か裏があるんだろう」と言います。裏というか、根拠があります。それは十字架の贖いです。イエス様は霊だけではなく、肉体を持って、この地上に来られました。当時のギリシヤ人はそれが躓きでした。彼らは「肉体は悪であり、神さまが肉体を持つということは汚らわしいことである」と言いました。また、ユダヤ人は「木に吊るされた者は呪われるべき存在であり、メシヤが十字架にかかることはありえない」と思っていました。今日でも、ある宗教の人たちは「私たちの教祖は堂々と死んでいったけど、あんたところの教祖は『わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか?』と見苦しく死んでいった。なんでそれが教祖になれるのか」と言います。しかし、それはとても浅はかな考えです。私たちは罪があったままでは、神の国に入ることができません。イエス様が十字架にかかって死なれたのは、私たちの罪のためです。イエス様が全人類の罪を背負って、身代わりに死なれ、その罰を受けてくださいました。また、父なる神さまは御子イエスに罪がなかったことを証明するために、三日目によみがえらせました。そして、御子イエスを信じる者を義と認め、御国に入れてくださることをお決めになられたのです。だから、私たちは御子イエス様を通して、神さまのところに大胆に行くことができるのです。しかし、それだけではありません。マルコ16:19-20 主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」アーメン。御子イエス様は今も生きておられ、主であり、御国の王です。そして、今も聖霊によって、私たちのところにお出でになり、共にいて助けてくださいます。

では、御国、神の国はどこにあるのでしょうか?イエス様がガリラヤで宣教を始めた頃、「神の国は近くなった」(マルコ1:15)とおっしゃいました。また、ルカ福音書で「神の国はあなたがたのただ中にある」とも言われました。また、世の終わりにいろいろなことが起こりますが、「それらのことが起こったなら神の国は近いと知りなさい」(ルカ21:31)とも言われました。つまり、神の国は現在ここに来ているけれど、まだ、完成していないと考えるべきであります。それってどういう意味でしょうか?そのためには、私たちは御国、あるいは神の国という意味を知らなければなりません。神の国は、英語ではkingdom of God、神の王国であります。私たちは王国というと、領土、王様、民たちと3つなければならないと考えます。しかし、聖書のギリシヤ語で神の国はバシレイアーと言って、神の支配という意味であります。つまり、「神の国が近づいた」とか、「神の国はただ中にある」と言った場合、「神の支配が来ている」ということであります。イエス様が復活した後、天に引き上げられ王になりました。しかし、ないのは領土と民たちであります。神さまが求めておられるのは、御国に入る民たちです。もちろん、領土というか土地も準備しておられます。イエス様は「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます」(ヨハネ14:3)とおっしゃいました。でも、神さまの一番の関心は、そこに入る人々です。もともと神さまはエデンの園に人間を造り、親しい交わりを持たれていました。ところが、罪が入って、それがダメになりました。しかし、こんどは神の国を作って、そこに贖われた人たちを迎えたいと願っておられるのです。つまり、イエス様を信じて、義とされた人たちがご自分の国に入ることを願っておられるのです。

それでは今はどういう時代でしょうか?そうです。神の国に入る人たちを募集している時代です。神さまは最初、イスラエルの人たちを招きました。しかし、彼らは招きを断り、メシヤを殺しました。イエス様はそのことを盛大な宴会にたとえておられます。招かれていた人たちは、「畑を買ったので行くことができません」「牛を買ったので」「結婚したので行くことができません」と断わりました。それでどうしたでしょう?ルカ14:21-23「しもべは帰って、このことを主人に報告した。すると、おこった主人は、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい者や、からだの不自由な者や、盲人や、足のなえた者たちをここに連れて来なさい。』しもべは言った。『ご主人さま。仰せのとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』主人は言った。『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。』」御国への招きは、私たち異邦人に向けられています。神さまは「ああ、もったいない」と思って、「この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい」と言われました。この家とは、ダビデに預言されていた御国であり、神の国です。すでにイエス・キリストが十字架に付き、代価を支払われました。使徒パウロは懇願しています。「神の恵みをむだに受けないようにしてください。確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」と。

 

2.教会と御国の関係

 神の国ということは分かりました。では、教会というのは何なのでしょうか?アウグスチヌスと言う神学者は、教会と神の国を同一視しました。確かに教会は神の国の一部を表していますが、神の国ではありません。「神の子ども」「聖徒」と言いながらも、罪を犯すことがあります。「神の愛」と「隣人愛」を説きながらも、しばしば争ってしまいます。多くの人たちが躓くのは、教会と神の国を同一視しているからです。しかし「教会は全く、神の国ではなく、救われた罪人たちの集まりです」と言うとどうでしょうか?これだと、救いを受けていても何の効果もないということになります。頭に毛の生えていない人は「毛生え薬」を売ることはできません。また、泥棒が「互いに助け合いましょう」と正義を語ることはできません。イエス様を信じて神の国の民となっているならば、何らかのしるしがなければなりません。パウロはそれを「聖霊の証印」と言いましたが、なかなか、これも見ることができません。クリスチャンになったら、額のところに、十字架が浮かんで来たら良さそうですが、そういうことはありません。カトリックでは、「洗礼証明書」を発行しているようですが、プロテスタント教会はそういうものはありません。では、何か違いはあるのでしょうか?Ⅱコリント2:15「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです」とあります。イエス様を信じている人からは、かぐわしいキリストのかおりがしてくるということです。かおりは目には見えません。でも、その人と交わった人には分かります。「ああ、この人の中にはキリスト様がいるなー」となったら、すばらしいですね。今は、洗剤の中にいろんな香料を入れているようですが、どうなんでしょうか?キリストのかおりとは、強いて言うならば、「命のかおり」「愛のかおり」「誠実さのかおり」というものではないでしょうか?そのときは分からなくても、後から「ああ、あの人の中にはキリスト様がおられるなー」と知られたなら、すばらしいですね。

また、教会の歴史をたどると何度か極端なこともありました。ジョン・カルバンはルターと並ぶ宗教改革者です。彼は神学者でありますが、同時に教会政治に対して厳格な考えを持ちました。そして、スイスのジュネーブに理想的な国家を作ろうとしました。それはどういうものかと言うと、教会と国家が一体となった「神政政治」です。でも、教会が司法権や警察権を持ったらどうなるでしょうか?洗礼を受けることが義務付けられ、宗教的な罪であっても罰せられます。実際、アナバプテストの人たちが死刑に処せられました。免許のない人が勝手に教えたり、説教することができません。ちゃんと説教できる免状をもらわなければなりません。教会の政治も厳格な長老制で、議会政治と全く同じです。牧師は国家公務員であり、宗教税もあります。人々は国家の法律だけではなく、教会の法律も守らなければなりません。最初はうまく機能していました。ところが、人々はやがて嫌になり「もう、やめてくれ!」となりました。ルターは恵みを強調しましたが、カルバンは律法を強調しました。使徒パウロが言っているように、人は律法を突き付けられると、逆に罪を犯してしまう天邪鬼になります。きまりを多くするということは、クリスチャンを聖徒として見ていないということです。むしろ、罪を赦されただけの罪人として見ているということです。教会によっては、教会員となるためには日曜礼拝と祈祷会の出席、十分の一献金などを守るという誓約書にサインする必要があるようです。この世では罪を犯させないように、法律をたくさん作り、破った者の刑罰を重くします。しかし、犯罪率は低くなるどころか、むしろ凶悪事件が増えています。教会も同じで、決まりを多くすれば多くするほど、命がなくなり、偽善者が増えてきます。イエス様は数えきれない律法を、神さまを愛することと、隣人を自分のように愛することの2つにまとめました。しかし、使徒たちは「隣人を自分のように愛するだけで良い」としました。だから、私は「クリスチャンとは聖徒であり、神の子どもである」ことを強調して、できるだけ律法的なことは言わないことにしています。アメリカのある地方で、1つの実験をしました。1つの高校で、無差別に3人の先生と90人の生徒を選びました。そして、その先生方には「あなたがたはこの地域で最も優秀な先生として選ばれました」と告げました。また、90人の生徒には「あなたがたはこの地域で優秀な生徒として選ばれました」と告げました。1年後、彼らの成績は他の高校よりも30%もアップしていたそうです。実際は、先生も生徒もごく普通のレベルだったのです。と言うことは、人々は期待されたならば、実力以上のものを発揮するということです。つまり、教会員を愛と恵みのメガネをかけてみるならば、そのように成長していくということなのです。

また、教会にはもう1つの極端があります。「教会は聖くて、この世は悪である」という考えです。教会は聖書を学び、祈りをささげ、神さまを賛美する聖いところです。しかし、この世の政治や学問、ビジネス、芸術はみな世俗的であるという考えです。政教分離は良いのですが、教会が政治に全く関知しないようになりました。ナチス・ドイツのもとで、「教会は政治に一切、口出ししない」と誓約までさせられました。それで、あの恐ろしいユダヤ人の大虐殺がなされました。そのとき、勇敢にもボン・フェッファーという一人の牧師が立ちあがり、「キリストが主ではない領域は存在しない」と主張しました。そのため、彼は殺されました。日本の教会も第二次世界大戦中、妥協してしまいました。平和な時代では、平和運動をすることができます。しかし、いざ国家が悪魔化している中で、平和運動することは大変であります。「少年H」という映画があったようですが、戦争に反対した勇気ある人たちもいたようです。「教会は聖くて、この世は悪である」という二元論は間違っています。そうではなく、この世の中に、教会が置かれているということです。では、神の国のことを考えたならば、この世における教会の存在理由とは何なのでしょうか?何のために、教会が存在しているのでしょうか?インドネシアのエディ・レオ牧師が日本に度々来られています。あるときこのようなことをお話しされました。エペソ3:19「こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」とあります。神さまはご自身の良きもので、この世を満たしたいと願っておられます。政治の世界も、ビジネス界も、芸術界も、教育や医療においてもそうです。しかし、神さまの良いものを運ぶ器が必要です。たとえば、ここに水があるとします。このままでは運ぶことができません。もし、ここに器があれば、これに水を入れて運ぶことができます。教会は、そしてみなさん一人ひとりは器です。この中に、神さまの良きものを入れて、この世のいたるところに満たしていくのです。私たちは、政治、ビジネス、芸術、教育、医療の世界に、神さまの良きものを運んでいくことができます。ここで言う教会は建物ではなく、私たち自身であります。

でも、教会しか運べない神さまのものとは何でしょうか?それは福音です。もっと言うと、御国の福音です。当時は、福音は「戦争に勝利した」という意味でした。一般にも福音は、「良い知らせ」ということで知られています。しかし、イエス様は「御国の福音」を宣べ伝えました。それは、単なる良い知らせではありません。「ここに神の国が来ています。あなたも、無償で入ることができますよ」ということです。人々が「神の国って何ですか?」と聞かれたら、御国の味わいを少し提供しなければなりません。イエスさまはそのために、人々の病を癒し、悪霊を追い出し、死人をよみがえらせました。イエス様は弟子たちにそうせよとお命じになられました。イエス様も弟子たちも、御国には病も死もないということをデモンストレーションしました。それが、今、教会にも求められているということです。私たちは御国の福音を宣べ伝えつつ、そして主が行われたようなミニストリーを行うべきだということです。私たちは何があるでしょう?2つのものがあります。1つはイエスの御名を用いて祈ることができます。2つは聖霊様がそれぞれの人にそれぞれの賜物を与えておられます。かしらはイエス・キリストです。そして、からだの各器官は私たち一人ひとりであります。からだにはさまざまな器官、さまざまな機能があります。私たちはかしらなるキリストに聞いて、協力しながら、命じられたことを行えば良いのです。何をすれば分からない人は、ぜひ、かしらなるイエス様に聞いてください。ある森でクリスマスの劇をすることになりなりました。馬やロバたちはすぐ役が決まりました。ところが、ハリネズミだけには役が回ってきませんでした。本番前に、ハリネズミは悟りました。立派なモミの木の頂上に登り、からだを丸くさせました。動物たちにはそれが星に見えました。からだの中に不要な器官がないように、神さまの前に、誰一人として不要な人はいません。キリストが復活してから、御国は力強くこの世に臨んでいます。私たちは地上でいながら、御国の喜び、御国の豊かさを味わうことができます。そして、まもなくキリストが戻って来られ、完成した御国に私たちを迎えてくださいます。主イエス・キリストこそ御国の王です。私たちはその民であります。ハレルヤ、アーメン。