2013.12.22「No room for Christ ルカ2:1-7」

 クリスマスおめでとうございます。「なぜ、説教題を英語にしたのか?」とおっしゃられるかもしれません。今どきの歌はほとんど英語の題名がつけられています。しかも、その中によく分からない英語の歌詞が流れるのは何故でしょう?フィーリング的にかっこいいからかもしれません。私があえて、英語の題名にしたのは、英語しか表現できない微妙なニュアンスがあるからです。きょうはNo room for Christと題して、クリスマスのメッセージをお届けしたいと思います。

 

1.動かされたキリスト

 

キリストが生まれたのは、ベツレヘムの小さな町でした。しかし、ルカ福音書は、世界的な見地からそのことを述べています。その当時、ローマが世界を支配していました。ローマ皇帝アウグストが「全世界の住民登録をせよ」と勅令を出しました。一番の目的は徴税のためであります。日本でも豊臣秀吉が年貢を取るために太閤検地を行いました。アウグストの勅令は、シリヤの総督クレニオを通して、ユダヤの地方でも実施されました。面倒なことに、自分の出身地に戻って、登録しなければなりません。そのためヨセフはナザレから、ユダヤのベツレヘムまで行かなければなりませんでした。その距離は約100キロあり、ここから北ですと水戸ぐらいまでです。でも、ベツレヘムへの道は平坦ではなく、半分は山地です。「マリヤは月が満ちていた」とありますので、ロバに乗ったとしても過酷な旅だったでしょう。大体、臨月に入ったら、長旅などしてはいけません。二人は生まれ故郷のベツレヘムまで、どうにかたどり着くことができました。しかし、泊まれる宿屋がありませんでした。それで、イエス様は馬小屋で生まれ、飼い葉おけに寝かされることになりました。この短いストーリの中に、いくつか考えさせられることがあります。

このところを見ると、「ああ、イエス・キリストはローマ皇帝によって動かされたんだなー」と思うでしょう。なぜなら、ヨセフとマリヤがナザレからベツレヘムまで、100キロもの道を歩かされたからです。どんな理由があるにせよ、ローマ皇帝の勅令に逆らうことなどできません。だから、二人は生まれ故郷のベツレヘムに行くしかありませんでした。そして、イエス様はベツレヘムの馬小屋で生まれることになりました。ここだけを見ると、「ローマ皇帝は世界を動かすほど力があったんだなー。イエス様をも動かすことができた。」と思うでしょう。ところが、そうではありません。イエス様はユダヤのベツレヘムで生まれる必要がありました。マタイ2章に東方の博士たちが宮殿に行って、「キリストはどこで生まれますか」と尋ねました。祭司長や学者たちは預言書を開いて「ユダヤのベツレヘムです」と答えました。ミカ書に「ユダの地、ベツレヘムに、イスラエルの支配者になる者が出る」と預言されています。ということは、キリストは絶対にベツレヘムで生まれなければならなかったのです。神さまはこの預言を成就させるために、ローマ皇帝に勅令を出させたと考える方が妥当ではないでしょうか?実はそうなんです。確かに、ヨセフとマリヤにとって、総督クレニオも力がありました。また、皇帝アウグストがその当時の世界を支配していました。「生まれ故郷に行って、登録せよ」と言われたら従うしかありません。マリヤは旅先のベツレヘムでお産をすることになりました。でも、これは仕方のないことでも、偶然でもありません。神さまの計画、神さまのシナリオの一部だったのです。でも、「世の中の歴史や政治経済などに、神さまが関知していないのでは?」と思っているのではないでしょうか。神さまがローマ皇帝の上にいるって、なんとすばらしいことではないでしょうか?神さまがローマ皇帝に勅令を出させて、ヨセフとマリヤを動かし、ベツレヘムでキリストが生まれるように仕組んだのであります。ハレルヤ!

詩篇756-7「高く上げることは、東からでもなく、西からでもなく、荒野からでもない。それは、神が、さばく方であり、これを低くし、かれを高く上げられるからだ。」とあります。私たちは、栄枯盛衰の中に、神さまの御支配があることを多少なりとも知ることができます。たとえば、ダニエル書には、何人かの王様が登場します。バビロンのネブカデレザル王様が高慢になって、自らが神さまになろうとしました。王がさばかれ、7年間も理性を失い、野の獣のように暮らしました。ベルツァツァル王は神の宮の本堂にあった金の器で酒を飲みました。彼らはぶどう酒を飲み、金、銀、銅、鉄、木、石の神々を賛美しました。そうすると、神の前から手が送られ、壁に文字が書かれました。まもなく、ベルツァツァル王は暗殺され、他の人が王になりました。バビロンが倒れ、ペルシャが支配しました。それまで、ユダの民が70年間も囚われていました。しかし、ペルシャのクロス王がエルサレムに帰還して宮を建てるように命じました。だれが、そのようにさせたのでしょうか?エズラ11「主はペルシャの王クロスの霊を奮いたたせたので、王は王国中におふれを出した」と書いてあります。また、ダニエル書には、「ペルシャのあとギリシャが起こり、ギリシャのあとローマが起こる

と預言されています。つまり、ローマ皇帝さえも、神さまの御手の中にあったということです。神さまが歴史を導いておられるとしたら、私たち個人の人生はどうなのでしょうか?

私たちはどうしても近視眼的になり、長いスパンで物事を見ることができません。何でもかんでも、自分が生きている間に実現したいと願っています。でも、自分は歴史の1コマのある部分しか演じていない場合もあるでしょう。テレビでペルシャ絨毯を見たことがあります。昔は全部手織りでした。大勢の人が、何年もかけて、1枚の絨毯を織り上げました。ある人は地味な部分、またある人は金色や朱色の部分かもしれません。でも、「自分のは、地味だなー」と思っていた人が遠くから見たら、「ああ、重要な部分だったんだ」と気付くことがあるでしょう。イエス様の降誕で有名なのはマリヤです。カトリックでは「聖母マリヤ」としてあがめています。でも、ヨセフはどうでしょうか?自分の子でない子どものために動かされています。マリヤをいたわりながらナザレからベツレヘムへ、100キロの旅をします。エルサレムの神殿に立ち寄った後、夢を見ました。御使いが「立って、幼子とその母を連れて、エジプトへ逃げなさい。ヘロデ王がこの幼子を捜し出して殺そうとしています」と告げました。マタイ214「そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ち退いた」と書いてあります。それは、預言が成就するためでした。ヘロデの死後、主の使いが夢で現れ「立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ行きなさい」と言われ、ナザレという町に住みました。これも、預言が成就するためでした。このように、ヨセフの人生は神さまによって振り回された人生でした。でも、ヨセフがいたからこそ、イエス様の降誕が成り立つのであります。

あなたの人生も、私の人生も、神さまによって振り回された人生であってほしいと思います。私は秋田で生まれ町田に住み、座間キリスト教会に集いました。家内の京子さんは岩手で生まれ相模原に住み、座間キリスト教会に集いました。どういう訳か結婚し、その後、亀有教会から招聘を受けました。私たちは「日本基督教団に来ると信仰がなくなるのでイヤだ」と最初は断りました。でも、祈ったらみことばが与えられ、来ることになりました。記憶に残るのは、最初のクリスマスです。座間キリスト教会にいた頃は、私が座間の裏山からヒバの枝を切って、大きなリースを2つ作りました。「亀有でも裏山があるかなー」と思ったら、全くありません。軽乗用車に息子を乗せて、野田の方に向かいました。橋のたもとで5歳の息子がおしっこをしたいと言いました。しょうがないなーと車を脇に止めました。するとそこに、杉の木を伐採した枝がたくさん捨てられていました。さっそく、それを車に積んで、帰って来てから大きなツリーを壁に作りました。クリスマスイブは私がオー・ホーリナイトを歌いました。クリスマスパーティでは2歳の娘と仮想してダンスを踊りました。あれから、26年たってどうなったでしょう?12月1日はクリスマスの飾りつけがありました。ツリーやリース、モールの飾りつけ、クリペの人形、電飾、全部、兄弟姉妹がやりました。また、2000年から、クリスマス・ゴスペルコンサートが始まりました。大勢いの人が集まり、とっても賑やかです。イブ礼拝も私は、メッセージはしますが、後半のアトラクションはみんながやります。もう、私がオー・ホーリナイトを歌う必要はありません。私がするのはクリスマス祝会のビンゴゲームくらいです。私の小さな経験からも、「ああ、神さまが私の人生を導いておられるんだなー」と思うことができます。

みなさんの人生も同じではないでしょうか?過去を振り返って、全部が良かったとは言えないかもしれません。思い出したくないようなトラウマ的な出来事もあったでしょう?顔を赤らめるような失敗もしたかもしれません。でも、そこにも神さまの御手があったことは確かではないでしょうか。哀321-22「私はこれを思い返す。それゆえ、私は待ち望む。私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」アーメン。今まで、滅び失せなかったのは主の恵みであり、尽きない主のあわれみだったのです。ハレルヤ!クリスマスの日、主と出会い、主によって贖い出されたことを感謝しましょう。

 

2. No room for Christ

 

ルカ27「男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」なぜ、ヨセフとマリヤに宿屋がなかったのでしょう。そして、なぜ、イエス様は馬小屋で生まれなければならなかったのでしょう?「なぜ」という問いの答えになるかどうかわかりませんが、いくつか考えられます。当時は親戚同士で生まれ故郷に帰りました。当然、ヨセフとマリヤにも親戚があったと思われます。でも、どうして身重のマリヤを助けなかったのでしょうか?後から福音書にも出てきますが、イエス様は「マリヤの子」と私生児のように呼ばれました。昔も今も、「聖霊によってみごもった

とだれが信じるでしょうか?婚約中のヨセフは「彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めていました」(マタイ119)。しかし、主の使いが夢で告げてくれたので信じました。しかし、町の人たちは「マリヤは父親がだれかも分からない子どもを宿している」と噂していたことでしょう。だから、ヨセフとマリヤに、宿屋を分けてもらえなかったという考えです。もう1つは、実際に宿屋がいっぱいであったということです。普段は閑散とした村なのに、人口調査のために、にわかに人々が集まったからです。もし、あなたが宿屋の主人だったらどう考えるでしょうか?「身重の夫婦を一組、宿屋に入れるとしたら大変だ。すでに泊まっている客を出さなければならない。また、宿屋で産気づいたら面倒だ。

最終的に、別の宿屋の主人が「馬小屋ならあるよ」と貸してくれたのだと思います。一般に、イエス様の馬小屋を「クリペ」と言います。しかし、当時の馬小屋は横穴をくり抜いた洞窟で、入口にゴザのようなものが掛かっているだけでした。当然、隙間風がビュンビュン入る状態だったでしょう。当教会のロビーに人形が飾られています。博士や羊飼い、御使いもいて、賑やかです。実際は、野原で夜番をしていた羊飼いだけが、駆けつけたのだと思います。博士たちが到着したのは、数日後、家に泊まっていた時です。でも、どうして羊飼いが「みどり子イエス」を発見することできたのでしょうか?御使いは「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどり子を見つけます。これが、あなたがのためのしるしです」と告げました。彼らは、馬小屋だけを捜しました。飼葉おけに寝ている赤ちゃんなんて滅多にいません。彼らは、馬小屋だったのでイエス様を見つけられたのだと思います。

きょうのメッセージはNo room for Christ「キリストに部屋がなかった」という意味です。英語の聖書でルカ2:7は、because there was no room for them in the inn.「宿屋には、彼らの場所がなかったから」と訳すことができます。「彼ら」とは、ヨセフとマリヤですが、マリヤのお腹のなかにキリストがおられました。no roomとは、「空き場所がない」「満員だ」「余地がない」という意味です。たとえば、だれかから夕ご飯をごちそうになったとします。そのとき女主人が「おかわりいかがですか?」と言ったとします。そのとき、お腹がいっぱいのときは、no roomと答えます。「では、デザートはどうですか」と聞かれたら、any roomと答えるでしょう。昔、題名は定かでありませんが、『心の部屋』という映画がありました。二人の若い夫婦がアメリカの開拓地で暮らしていました。彼女の夫が一人の酔っ払いによって、銃で撃たれて死にました。町の人たちはその男を縛り首にしました。しかし、残された妻一人でどうやって生きていくでしょうか?彼女は綿花畑を始めますが、問屋はカスの種を売りつけました。そこに黒人がやってきて、「私を雇ってくれたら、綿花畑をやりますよ」と言いました。私は途中までしか見ませんでしたので、全体がわかりません。彼女があるとき夢を見ました。彼女は教会の礼拝に出ていました。そこには町の人々がいました。またそこには、死んだはずの夫がいました。また、夫を銃で撃った男もいました。私は「それは天国の夢なのかな?」と思いました。そうではなく、彼女の心の部屋だったのです。映画の主題はわかりませんが、一人ひとり、心の中に部屋を持っているということです。あなたの心の中に部屋があるでしょうか?いくつ部屋があるでしょうか?そして、部屋の中にはどのような人たちが住んでいるでしょうか?亡くなった父や母、あるいは子どもでしょうか?あるいは別れた昔の恋人でしょうか?あるいは世話になった恩人でしょうか?

でも、私たちの部屋に一番、招かなければならないのは主イエス・キリストであります。ヨハネ黙示録320「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」イスラエルでは、食事は楽しい交わりを意味します。イエス様は取税人のマタイやザアカイと食事をしたことがあります。また、ベタニヤのマルタとマリヤの家でも食事を共にしました。イエス様はあなたと一緒に食事をしたいのです。しかも、一時的なゲストではなく、ずっと一緒に住みたいと願っておられます。ヨハネ15章にはぶどうの木のたとえがあります。日本語の聖書では「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。」と書いてあります。しかし、英語の聖書はAbide in Me, and I in you.「私の中に住みなさい。私もあなたの中に住みます」となります。ウイリアム・ハントという画家が『世の光』という絵を描いています。イエス様が左手でランプを持ち、右手でドアをノックしています。そのドアはもう何年も開かれたことがないのか、草ぼうぼうで、ツタの枝が垂れ下がっています。良く見ると、そのドアにはノブがありません。ということは、その人自身が内側からドアを開けるしかないのです。これは、私たちがイエス様の招きに答え、自ら心を開けるときの状態であります。「いや、今散らかっていますので、あとで」「いや、私の部屋は暗いので、明るくしてから」と言い訳をするかもしれません。そんなことをしていたら、死ぬまでチャンスが来ないでしょう。イエス様はむさくるしい馬小屋で生まれました。だから、汚いままで良いのです。もし、救い主イエス様を入れるならば、部屋はきれいになり、また明るくなるでしょう。イエス様は世の光であり、心の中の暗闇を追い出してくださいます。Abideという意味は、一時的ではなく、ずっと住むという意味があります。イエス様があなたの部屋にずっと住むなら、平安と守りと喜びが訪れるでしょう。

しかし、イエス様を入れるためには、今あるものを出さなければならない場合もあります。宿屋の主人はヨセフとマリヤを入れることができませんでした。なぜなら、他の客を出さなければならないからです。あるいは、いろんな面倒になるかもしれません。だから、「宿屋には彼らのいる場所がなかった。

No room for Christとなります。この世には様々な宗教があります。一番難しいのは既に、他の信仰を持っている人たちかもしれません。先月、私が駐車場にいたとき、一人のおばあちゃんが「亀有教会はどこですか?」と尋ねました。私は「ここですよ」と答えました。しかし、話が通じません。「カトリック教会でしょうか?」と聞きました。「そうじゃない」と答えます。よく聞くと、金光教の亀有教会だということでした。「ああ、それだったらここを右に曲がって、300メートル位行くと左側にありますよ」と教えてあげました。その後、何とも言えない空しさを覚えました。若い頃は、他の宗教の方でも頑張って伝道しました。しかし、今は「難しい人だな」と思って諦めてしまいます。ある人たちは、キリストよりも、この世に関心があります。福音書には「いばらの地にまかれた種

のことが記されています。心がいばらの地の人は「みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです」とあります。その人は、イエス様を受け入れると、世の中の楽しみや喜びを諦めなければならないと思っています。確かに、そういうところはあります。イエス様と同居できないものもあります。しかし、世の中の楽しみや喜びは中毒性があり、最終的にはそれらの奴隷になってしまいます。イエス様はそういうことがありません。ある人たちは、イエス様を受け入れると「自分のしたいことができない」「自分らしくなくなる」と思っています。本当の自由はどこにあるのでしょう?何でもやっても良いのが自由ではありません。ある幼稚園で実験をしました。柵を全部取り払い、子どもたちを遊ばせました。すると、子どもたちはグラウンドの真ん中に固まって遊びました。なぜなら、柵がないので、怖いからです。今度は、四方にちゃんとした柵をめぐらしました。すると子どもたちは、グラウンドいっぱい広がって遊びました。柵とは神さまの律法であり、きまりです。一見、不自由に思えるかもしれません。でも、越えてはいけない限界を示しています。それと同じで、神さまが定めたきまりの中で生きるなら、本当の自由があるのです。真理はあなたを自由にします。真理であるイエス様と一緒に暮らすならどうでしょうか?イエス様が「これが道だ、これを歩め」と教えてくれます。だれも認めてくれない、だれも評価してくれなくても、イエス様が「あなたは良くやりました」と認めてくださいます。人生、失敗したり、過ちを犯すことがあります。そのとき、イエス様が弁護し、償ってくださいます。英語でVindicatorは「弁護する人」「擁護する人」という意味です。イエス様はまさしく、Vindicatorです。自分のまわりがみんな敵であったとしても、イエス様は味方であり、あなたのために正当性を立証して下さいます。イエス様はあなたを見捨てたりはしません。世の終わりまであなたと共にいてくださいます。あなたが死ぬまでではなく、死の向こうまでも一緒に行ってくださいます。主の主、王の王であるお方があなたの友になってくださいます。イエス様を心にお迎えしましょう。すでにクリスチャンの方は、イエス様を心の王座に迎え、すべての部屋を明け渡しましょう。生活のどの分野においても、王様になっていただきましょう。キリストが共におられる部屋ほどすばらしいことはありません。