2019.7.28「中世の教会 ヨハネ黙示録2:18-29」

 テアテラにある教会は中世の教会を預言していると思われます。しかし、聖書のことだけを語ると偏ってしまうので、前半は歴史的な視野から中世の教会について説明したいと思います。1000年間のことを15分で話すというのは無理がありますが、たまには歴史の勉強も良いかもしれません。前半は歴史的な立場から中世の教会を考えてみました。後半はヨハネの黙示録から中世の教会を考えてみました。 

 

1.歴史における中世の教会

 

 一般の学校では「世界史」を学びますが、神学校には教会を中心とした、「教会史」なるものがあります。私は亀有教会の私設神学校『すずめの学校』(現在はスパローズ・セミナリー)で、教会史を教えてきました。また、教会史は牧師になるための必須科目であり、どうしても勉強しなければなりません。一般に、中世ヨーロッパは暗黒時代であり、諸悪の根源はキリスト教だと思われているでしょう。血なまぐさい宗教戦争や、十字軍、魔女狩りを連想して、「教会なんか行くもんか」と躓いている人もいるでしょう。また、多くの人はキリスト教というと、ローマ・カトリック教会を連想します。初めて来た人は「あなたは神父さんですか?」と聞きます。しかも、黒いガウンを着ていないので、「教会の召使いかな?」と思うかもしれません。当教会は16世紀に興った宗教改革の流れ、プロテスタント教会です。では、中世の教会は全く学ぶ必要はないのでしょうか?私は正直なところ、聖書の初代教会からは多くのことを学ぶべきですが、中世の教会はむしろ、キリスト教信仰の後退であり、堕落だと思っています。では、「プロテスタント教会が中世の教会から全く影響を受けていないか?」というとそうではありません。私たちは「これが当たり前だ」と思っていますが、全く聖書的ではなく、中世の教会から受け継いでいるものが多くあります。ウィットネス・リーがこのように述べています。「教会には階級があってはなりません。しかし、唯一の階級だけがあるべきであるとも言えるかもしれません。しかし、それは聖職者でも、平信徒でもなく、兄弟です。ある人たちは、今、『平信徒ミニストリー』とか、『平信徒伝道者』なとど言います。しかし、私たちは聖職者でも、平信徒でもありません。私たちは祭司であり、からだなる教会の肢体です。私たちはみなキリストのからだの肢体であり、みな神の祭司です。」アーメン。

今回は『1冊でわかるキリスト教史』(日本キリスト教団出版局)を参考にしました。第一は国王と教皇の関係についてお話しします。中世のキリスト教は、ゲルマン民族の移動によって西ローマ帝国が滅亡した時(476年)から始まったと言われています。ローマの帝権が弱くなり、そのかわりローマ司教の力が強くなりました。「大司教」と呼ばれたレオ1世とグレゴリウス1世が、ゲルマン民族を積極的に教化し、改宗に導きました。西ローマ帝国滅亡後、グレゴリウスは新生ヨーロッパの教会を主導する「教皇」の基盤形成に貢献しました。ご存じのように中世の教会は、国王と教皇の権力の凌ぎ合いが1000年間も続くのであります。最もキリスト教会に影響を与えたのが、フランク族が建立した「フランク王国」です。王様や後継者が洗礼を受けて、ローマ教会に仕えるようになります。751年ピピン三世(小ピピン)は、大司教から国王就任の塗油式を受けました。つまり、ローマ教皇が国王に油を注いで任命するようになったのです。小ピピンは敵国から奪い取った土地を教皇に寄進しました。これが、教皇領(各国にまたがって教会が持つ土地)の起源となります。やがてはイングランドとアイルランドをキリスト教化し、西ローマは東ローマを凌ぐようになりました。800年、小ピピンの子、カールが戴冠を受けると、476年に滅亡した「西ローマ帝国」の復活の瞬間でした。ちなみに、カール大帝はハートのキングもモデルです。実質的に、東ローマのビザンツ皇帝から独立し、ローマ・ゲルマン・キリスト教の3要素からなる西ヨーロッパの文化が成立していきます。しかし、カール大帝の死後、フランク王国は3つに分裂してしまいます。その後、東フランク王国が「神聖ローマ帝国」と呼ばれるようになりました。今のドイツあたりです。しかし、ローマ教会は教皇権をめぐる争いが頻発し、弱体化していきます。司教職の売買、聖職者の妻帯が蔓延し腐敗の一途をたどります。叙任権闘争が起こり、国王が強くなり、逆に教皇を任命するようなことも起りました。200年に渡る十字軍の失敗によって、教皇権が弱体し、地方領主が没落して王権が強化されていきました。

第二は修道院と修道士についてです。教皇制と並んで、中世キリスト教を性格付ける重要な要素となったのは「修道制」です。キリスト教修道院の創始者は一般にエジプトのコーマ生まれのアントニウス(250年頃-356年)であると言われています。彼は「富める若者」に対するイエスの言葉に感激して自分の財産をことごとく売り、270年ごろ禁欲・断食・隠遁の生活に入りました。ただちに彼の追従者たちが現われ、4世紀の初めころシリアで急速に発展します。続いて、パコミウス(290年頃-346年)は、個人的な要素を離れてそれを制度化し、発展改善して修道院の基礎を築きましした。彼は兵士でしたが、軍隊生活中キリスト教徒に出会い、徐隊後洗礼を受けキリスト者となったと言われています。小アジアではパコミウスの伝統が受け継がれ、カパドキヤのバシリウス(330年頃-76年)によって修道院規則はさらに発展をみました。カパドキヤの洞窟修道院は世界遺産になっています。東方より少し遅れて4世紀後半から、ガリア(現フランス)とアイルランドに修道院が出現しました。西方教会の修道制を決定的に方向付けたのは、イタリヤ中部で生まれたベネディクトゥスです。彼が定めた「清貧」「貞潔」「従順」の精神を説いた『戒律』が7世紀頃にはすべての修道院において規範となりました。やがて、ベネディクト会の改革から生まれたクリュニー修道院は、10世紀にはフランス、ドイツ、イタリヤ、イングランド、スペインなど全西方に約1000を数えるように至りました。13世紀に入ると、ローマ教会と教皇の腐敗の反動として、托鉢修道会が出現しました。彼らは土地や富を蓄えることを否定して、都市や農村を歩き回り、信者からの寄進のみで生活しながら、キリストの教えに忠実に生きようとする修道士たちの組織で、ドミニコ会とフランシスコ会が代表的な組織です。従来の修道会は、人里離れた地で農耕によって自活し、沈黙と観想の生活を送っていました。しかし、ドミニクスたちは都市を中心に清貧生活と説教の巧みさで民衆を教化していきました。修道士の労働も義務付けられなくなり、それに代わって、学問の研究が修道士の必須の徳目になりました。1181年、フランシスコ会の創設者アッシジのフランチェスコは、23歳のとき信仰に目覚め、すべてを捨てて主に従う生活を開始しました。彼は「小さき兄弟会」を名乗り、「清貧」「貞潔」「従順」という従来の修道誓願に従う生活を送り、各地を放浪しながら、説教を続けました。ドミニコ会同様、清貧を掲げつつも、洗練された都市民と渡り合える知的訓練を受け、巧みな説教を行なえた彼らは、中世後期の民衆キリスト教の成熟に大きな影響を及ぼしました。

第三は神学的な面です。古代キリスト教会で最大の思想家は、間違いなくアウグスティヌスでしょう。著作の量だけでなく、その扱った問題、領域は多岐にわたり、のちの西洋思想に与えた影響も計り知れません。アウグスティヌスは北アフリカのヒッポの司教でした。ところが、ゲルマンのヴァンダル族がジブラタル海峡を渡ってアフリカに来襲しました。430年8月28日にヒッポの街がヴァンダル族に包囲される中、アウグスティヌスは亡くなりました。まもなく、西ローマ帝国が滅んで時代は中世に入ります。7世紀末、カール大帝は英国の教会から学者アルクィン(735-804年)を宮廷に迎え、王家、貴族の子弟の教育にあたらせました。宮廷学校は、ギリシア古典とキリスト教の学問上の修得に貢献しました。8世紀から「聖餐論論争」が起こりました。その頃から、パンとぶどう酒とは不死の食物であって、奇蹟によりそれらの素材はキリストのからだと血に変化すると考えるようになりました。現在のローマ・カトリックはその考えを受け継いでいます。11.12世紀にスコラ学と大学が誕生しました。「スコラ」とは、教会・修道院に属する学校(schoolの語源)のことです。スコラは元来、真理を知る方法を意味していましたが、その内容は、キリスト教信仰上の真理を理性的思考によって解き明かすことを目的としていました。神学で有名なパリ大学は、12世紀中頃、ノートルダム大聖堂付属の神学校から昇格したものです。イギリスでは、12世紀後半に神学で有名なオックスフォード大学がパリを引き上げてきた大学生によって、さらに13世紀のはじめにはオックスフォード大学の教授や学生が移ってきて、ケンブリッジ大学が設立されました。今ではだれも分からないと思いますが、もともとは神学を学ぶために設立された大学だったのです。13世紀半ば、パリ大学を卒業したトマス・アクイナスがドミニコ会に迎えられ、かの有名な『神学大全』を著しました。序文の言葉によれば、「神学の初学者向けの教科書として書かれたものである」ということです。トマス・アクイナスのようなスコラ学者たちはアリストテレスの手法を用いて神学を再構成しようとしました。どちらにしても、中世の教会は「聖書をそのまま読む」というよりも、誰かの神学や哲学者の考えを基盤にしています。その当時は「ヴルガータ」と呼ばれるラテン語訳の聖書しかなく、一般の人たちには遠い存在でした。もっぱら人々は教会の礼拝に来て、短い講和と、聖餐をいただいて帰るというものでした。元来、彼らはゲルマンの神々を信じていたので、キリスト教信仰を持ったとはいえ、同時に様々な迷信を信じていたと思われます。

 

2.テアテラにある教会

 

 テアテラにある教会に与えられている注意すべきことは何でしょうか?ヨハネ黙示録2:20-22「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。」このところに「イゼベル」という名前が出てきます。旧約聖書に書いてありますが、彼女はアハブ王の妃でした。バアル信仰をイスラエルに大々的に持ち込み堕落させた張本人です。このとき、預言者エリヤが立ち上がり、バアルの預言者と戦い、勝利して400人を切り殺しました。ところが、エリヤは、イゼベルの脅迫のことばを聞いて荒野に逃れました。大預言者がたった一人の怒った女性に恐れをなすとはどういうことでしょう?イゼベルの霊spiritは新約聖書でも働いています。バプテスマのヨハネはヘロデヤによって首を切られましたが、これもイゼベルの霊です。なぜなら、バプテスマのヨハネはエリヤの再来だったからです。また、使徒の働き16章にはテアテラ伝道のことが記されています。その町は、染色業などの取引が中心地であったようです。紫布商人のルデアが最初のクリスチャンですが、考古学的には、多くの職人組合があったようです。この職人組合には、クリスチャンは入ることができませんでした。なぜなら職人たちは、偶像礼拝をしていたからです。しかし、組合に入らなければ商売は上手く行きません。そこで教会の中にも、「偶像礼拝をしてもいいのではないか」と、妥協する人々がいたようです。その中心人物がイゼベルという女性でした。しかも、教会は、「そのイゼベルを放置して、なすがままにさせている」と非難されているようです。妥協的な信仰は、受け入れやすいので、人々に悪影響を及ぼしていきます。どんな熱心な教会、団体でも、この世と妥協したら、一度にだめになってしまいます。

 ウィットネス・リーは黙示録をこのように解説しています。イゼベルは自分自身を預言者と呼んで、主の民を教えています。新約の原則によれば、主は女が権威をもって教えることを決して許しません(Ⅰテモテ2:12)。同様に、教会自身は教えてはなりません。主の目には教会は女の地位にあるからです。しかし、歴史と現在の状況によれば、カトリックの人たちは言います、「教会はこう言っている」。カトリックの人たちに納得させることは困難です。もし、私たちが彼らに「聖書はこう言っている」と言うなら、彼らは「教会はこう言っている」と言います。私たちがどんなに多くの個所を聖書から引用しても、彼らは「教会はこう言っています」という1つの返事を持っているだけです。このように、彼らは聖書を顧みません。彼らは教会が言うことだけを顧みます。教会は最高の権威を持っています。教会が言うことはすべて正しいのです。この「教会」は邪悪な女イゼベルです。ローマ・カトリックは教える女です。この女の教えによって、多くの異教と異邦のものが教会の中にもたらされて、姦淫と偶像礼拝を引き起こしました。有名なローマ・カトリック教会の大聖堂は、イエスとマリヤの像だけでなく、ペテロやパウロや他の多くのいわゆる聖人の像を含む偶像礼拝で満ちています。多くの人々は、ろうそくをもって、これらの「教会」の中に入り、もっぱらこれらの偶像を礼拝します。カトリック教会内部の多くの邪悪な奥義は、過去、文書で公表されました。もし教会史を読むなら、私たちはテアテラに書き送られたこの書簡にある主の預言の実際の成就を発見するでしょう。その成就は、まさに主が預言されたとおりでした。6世紀から16世紀の宗教改革までの1000年間は、暗黒の時代でした。

 もし、私が個人的な意見をここで述べるならば、後でクレームを付けられる恐れがあります。でも、「ウィットネス・リーの本から引用しました」と言えば、少しは反感が和らぐでしょう。大体、私はカトリック教会に行ったこともなければ、カトリック信者と交わったこともありません。カトリック教会に行っている人で、私と同じように、プロテスタンンと教会に行ったこともなれば、交わったこともないという人もいるでしょう。おそらく、自分が通っている教会は正しいとだれでも思っているのではないでしょうか?数年前、「〇〇兄弟会」と呼ばれる、修道会に属している二人を教会に泊めたことはあります。その団体は、年に一度、一週間、何も持たずに国内を伝道旅行する訓練を持っていました。まさしく、イエス様の時代と同じことをしていました。数時間、二人とお話ししましたが、非常にまじめで信仰的にも間違っていないようでした。その中の一人は、平日は呉市の造船の検査技師として働いているそうです。もしかしたら、修道会は、カトリック教会と教義が違うのかもしれません。ローマ・カトリックは1962年から1965年にかけて、第二バチカン公会議を開いています。そこで教会の現代化(アジョルナメント)をテーマに多くの議論がなされたようです。

 マタイによる福音書13章にこのようなたとえ話が書かれています。マタイ13:33「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」このみことばの解釈は2つあり、1つは天の御国が知らぬ間に広がって行くという良いたとえです。もう1つは、聖書では多くの場合、パン種(イースト菌)は悪影響を及ぼす代名詞のように使われています。イエス様はパリサイ人やサドカイ人たちの教えに気をつけるように言われました(マタイ16:11)。そこでの、パン種は偽善をさしています。二人目の女性は、黙示録2章の教会を腐敗させているイゼベルです。そして、三番目の女性は黙示録17章に記されています。黙示録17:2「地の王たちは、この女と不品行を行い、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」17:4,5「この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン」という名であった。つまり、パン種の女、黙示録2章のイゼベル、そして黙示録17章の大淫婦バビロンも、ローマ・カトリックではないかと言うことです。

 そろそろ私たちは聖書からメッセージをいただく時を持ちたいと思います。第一は、イゼベルに対するさばきです。黙示録2:21-23「わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行いに応じてひとりひとりに報いよう。」このところに、不品行とか姦淫とありますが、これは多くの場合、霊的なものです。ある人たちは1つの宗教によって世界を統一しようと考えています。しかし、そこには、「必ずしもキリストでなくても良い」という妥協があるでしょう。神さまは「全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行いに応じてひとりひとりに報いよう」とおっしゃっておられます。つまり、神さまは私たちの隠された罪や偽善を知ることができます。私たちいつでも霊的な純潔、「キリストの御名のほかに救いがない」(使徒4:12)ことを覚えておかなければなりません。

 第二は、信仰を守る者たちへの報いです。黙示録2:24-26「しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。」道徳倫理は時代によって変わるかもしれません。しかし、私たちは相対的な考えを棄てなければなりません。神さまのことばと、キリストに対する信仰は絶対的なものです。世界には「1メートルはこの長さである」というメートル原器や「1キログラムはこの重さである」というキログラム原器なるものがあります。私たちの信仰の原器は、聖書のみことばです。教会の会議で決めたことが、基準になってはいけません。ある人たちは「聖書のみことばは解釈によって違うでしょう」と否定します。もちろん、解釈の仕方はいろいろあります。でも、これまでキリスト教会が持ち続けてきた、これが正統であるという幅があります。真理は極端な両端ではなく、真中にあります。しかも、ある程度の幅が許されています。もし、その真理の幅を超えるならば、それは異端になってしまいます。キリスト教会の歴史は、そういう意味で試行錯誤の歴史と言って良いかもしれません。でも、私たちは保守的な教会であることを喜びたいと思います。音楽や伝道の方法は新しくて構いませんが、聖書のみことばの解釈は保守的で良いと思います。なぜなら、そこには真理の研究に費やされた多くの時間と戦いのために流された犠牲の血があるからです。イエス様は何か新しいことをしなさいとはおっしゃっていません。「ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。」今、持っている信仰を持ち続けることが大切です。