2011.02.06 金銭の管理 ルカ16:10-13、Ⅱコリント9:6-8

信仰のDNAシリーズの最後の部分では、様々な管理について学んでいます。管理の中でも金銭は最も重要なテーマの1つです。教会がお金のことについて話すのは、意地汚いみたいに思われるかもしれません。一般的に宗教と言えばお金が付き物ですが、教会もそうなのでしょうか?お断わりしますが、キリスト教会は信者さんからお金を巻き上げるための宗教団体ではありません。でも、お金は非常にデリケートなものであることは確かです。なぜなら、お金のことで躓いて、教会に来なくなる人もいるからです。恐らくそこには、いろんな誤解があるのではないでしょうか?きょうは「金銭の管理」と題して、献金のことについて聖書から学びたいと思います。

1.献金の意味

 聖書で最も古いのは、創世記4章のカインとアベルが神さまに捧げものをしている記事です。カインはいくつかあるものの中から神様に捧げました。しかし、アベルは羊の群れから最上のものを捧げました。神様はアベルの捧げものに目を留められました。ヘブル11章では「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげた」と書いてあります。つまり、信仰がなければ、神さまには捧げられないということです。創世記15章にはアブラハムが十分の一を祭司であるメルキゼデクに捧げた記事があります。民数記18章にはイスラエルの民が十分の一を奉納物として主にささげることが命じられています。その十分の一は神さまに仕えるレビ人のものとなりました。旧約聖書には、農業あるいは牧畜で得たものの十分の一は神さまにお返しすべきであると記されています。そして、十分の一については、マラキ3章が最も有名です。マラキ3:8-10「人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってであるあなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。──万軍の主は仰せられる──わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」

 このように十分の一は神の律法として、旧約聖書に記されています。では、新約聖書の私たちはこの律法を守らなくてはいけないのでしょうか?マタイ23章でイエス様がこのように言われました。マタイ2323「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。」イエス様は律法学者やパリサイ人らに「十分の一よりも、正義とあわれみと誠実が大切である」と教えました。しかし、最後に「ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません」とおっしゃっています。つまり、イエス様は十分の一献金を認めておられるということです。しかし、旧約と新約で聖書全体が教えているメッセージがあります。それは何でしょう?すべては創造主なる神さまのものであるということです。詩篇241「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。」ハガイ28「銀はわたしのもの。金もわたしのもの。万軍の主の御告げ。」とあります。つまり、神さまが所有者で、私たち人間は管理者だということです。その証拠に、金銭や土地は死んだら手離さなければなりません。1坪の土地すらも、天国に持っていくことはできません。金銭や土地だけではありません。私たちの命、賜物、時間、家族、家、すべての持ち物は、神さまから預かっているのです。ですから、私たちはこれを正しく管理する必要があります。ルカ福音書1612-13「あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」とあります。他人のものに忠実であるとは、神さまのものに忠実であるということです。もし、神さまのものに忠実であるなら、天国で私たち自身に豊かなものが与えられるということです。

では、「神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」とは、どういう意味でしょうか?富は中立的な存在です。しかし、私たちは神さまよりも、富に仕えることもあるということです。イギリスの古い格言に「お金は悪い主人ではあるが、良いしもべである」というのがあります。もし、あなたがお金に支配されるなら、お金があなたを奴隷にするでしょう。主人であるお金にビシバシ打ち叩かれます。しかし、あなたがお金を良く管理すれば、お金はあなたに仕えるしもべになってくれます。あなたはお金の主人になりたいですか?それともお金のしもべになって打ち叩かれたいでしょうか?この世の中では、お金の奴隷になっている人がたくさんいます。では、どうしたらお金の主人になって、お金を正しく管理できるのでしょうか?それは、神さまを主人にするならば、お金の奴隷になることはないということです。では、具体的にどうすれば良いのでしょうか?聖書に、十分の一献金が数多く記されているのはそのためです。あなたが十分の一を捧げるとき、このようなことを神さまに告白していることになります。「神さま。この地上のすべての資源はあなたのものです。私の労働力もその賃金もあなたのものです。私は金銭を神さまとしません。あなたが私の主人です。その証拠に、十分の一をあなたに捧げます。これからも豊かにお支えください。アーメン」。十分の一を神さまにささげるということは、自分のすべての価値の源を神さまに置いているということです。マラキ書は「わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ」と述べています。聖書で唯一「神さまを試せ」と言われている箇所です。どうぞ、本当に神さまが生きておられるのか、あなたご自身が試してください。

2.献金の仕方(心構え)

 献金を捧げるためにはいくつかの順番があります。一番、最初に来るものは何でしょうか?そうです。私たちは受けなければ与えることはできません。ジョン・ウェスレーはAll you can get,

all you can save, and all you can give.「できるだけ多く得なさい。できるだけ多く蓄えなさい。そして、できるだけ多く与えなさい」と言いました。捧げるためにはまず、受けなければなりません。そのために、私たちは神さまから知恵、労働力、導き、資源を得るべきです。残念ながら、私たちはお金や物質という目に見えるものを第一に求めがちです。しかし、神さまが私たちに一番与えてくださるのは、知恵とかアイディアなど目に見えないものです。今は天に召されましたが、当教会に山崎長老さんがいました。山崎さんは戦後、北朝鮮から引き上げてこられ、ゼロから会社を興されました。肺結核を患ったため体力的には限界がありました。しかし、山崎さんには知恵がありました。朝、静まっていると「こうしなさい」と神さまから知恵がやってくるとよく言っていました。もう一人、教会には、戸叶長老さんもおられました。戸叶長老は真面目な方で、奥様は知恵者でした。ご両人とも若い頃、肺結核を患ったので体力がありませんでした。しかし、奥様には知恵がありました。商売の知恵です。だから、戸叶さんもゼロから会社を興すことができました。山崎さんも戸叶さんもよく捧げてくださいました。よく捧げるので、神様はさらにお二人の事業を祝してくださいました。ハレルヤ!ある人は「お金をもうけることは悪いことだ」と言います。しかし、聖書には「神から与えられたもので、商売をしなさい」というたとえ話がいくつもあります。どうぞ、「自分は貧しいから何もできない」と自己憐憫に陥らないでください。神さまに創造力と知恵とアイディアを求めてください。神様は創造者ですから、私たちにクリエィティブなアイディアを与えてくださいます。

 ケンタッキー・フライドチキンといえばカーネル・サンダースです。彼はクリスチャンとして、もてなしの精神でいろんなお仕事をしました。ハイウェーの建設で、町で営業していたカフェがつぶれました。彼はそのとき65歳でしたが、ふっとアイディアが与えられました。それは、町の繁華街ではなく、郊外のフリーウェイの入口にお店を設けるということでした。彼が持っていた唯一の財産は、お母さん直伝のフライドチキンの特別な製法でした。その製法で売れたら、1羽につき5セントで売るという、フランチャイズにしました。そういう考えは、当時は全くありませんでした。カーネルおじさんが、神さまから知恵をいただいたとしか考えられません。もう1つ、ドミノピザというのがあります。これはトーマス・モナハンという黒人の孤児が始めたものです。彼も人に仕えようとしたクリスチャンです。当時、ピザの宅配というものがありませんでした。「手作りならではの味を食卓へ届ける」、「30分を超えた場合は50セント引き」というシステムが、アメリカでたくさんの支持を集めました。今や世界中で親しまれ、現在55ヶ国に8,500店以上に拡大しています。これも、すばらしいアイディアではないでしょうか?また、山崎パンのことも語らなければなりません。今、「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメントを読んだら』」という本がブレークしています。山崎パンの創立者はアメリカに渡り、ピーター・ドラッカー博士から経営理論を学びました。しかし、社長と弟と息子の意見の相違が対立し、深刻化していきました。そのとき、3人で教会へ通い、洗礼を受けました。神さまの力で3人が心を一致させることができました。ところが、受洗して11日後、主力工場の武蔵野工場が全焼。その時、彼らは「火災は、あまりにも事業本位で仕事を進めてきたことに対する神の戒めである。これからは神の御心にかなう会社に生まれ変わります」と祈りを捧げました。今は息子さんが会社を継いでいますが、毎日、3つのことを問うそうです。ドラッカーの経営理論の中からですが、第一は私のミッションは何か、第二は私の顧客は誰か、第三は私の顧客にとっての価値は何か、という3つです。デフレや消費不況とよく言われます。その中にあって山崎製パンの業績が伸びているのは、その証のように思います。

 神さまからいただいたものを、私たちはどうしたら良いのでしょうか?その一部を蒔く種として捧げるのです。Ⅱコリント9:6,7「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」大きく分けて献金には2種類あります。1つは十分の一献金です。これは神さまから預かった一部をお返しするという意味があります。そうすると、マラキ3:11「私はあなたがたのために、いなごを叱って、作物を滅ぼさないようにする」と書いてあります。神さまは私たちの土地の周りに柵をもうけてくださり、泥棒や事故、災いから守ってくださいます。それだけではありません。私たちがその土地に種を蒔くことができます。それは神の国のために投資する献金です。集会献金、会堂献金、宣教献金、感謝献金なのです。1粒の種から1粒の実が得られるとはだれも思いません。多くて100倍、60倍、少なくても30倍の実を期待して良いのです。しかし、献金の原則、正しい心構えがあります。それは「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい」ということです。だれかから強制されて、いやいやする場合もあるでしょう。「しょうがないから、仕方がないので…」と捧げてはいけません。「心で決めたとおり」、つまり信仰をもって積極的にささげるということです。そういう人を神さまは祝福して豊かな報いを与えてくださるのです。多いか少ないかではありません、イエス様はささげる人の心を見てくださるのです。イエス様はレプタ2つをささげたやもめが、だれよりも多くささげたとおっしゃいました。どうぞ、神さまから多くいただき、その次は、信仰と感謝をもって種を蒔きましょう。

3.献金の用い方

 最後に兄弟姉妹から集められた献金を教会がどのように使うかという、金銭の管理についてお話したいと思います。献金は会費とかお布施ではありません。すべてを与えてくださった神さまに、感謝して捧げたものです。神さまは私たちのささげる心を見てくださいます。そして、神さまはその献金によって教会の働きをするように私たちに託してくださいます。注意すべことは、私たちの献金が直接、教会の働きのために用いられるのではありません。もし、そうだとしたら、それは会費になります。この世の中ではそういうサークルやカルチャースクールがいっぱい存在しています。そうではなく、献金はまず、神さまに私たちがささげます。その後、神さまが「教会の働きのために」と私たちに託してくださるのです。もし、会費であれば、「私たちに還元されていないじゃないか、儲けているんじゃないか」みたいな文句が出ます。実際、新興宗教はそういうところがあるかもしれません。しかし、キリスト教会は人件費、伝道費、集会費、建物の維持、保険等にあてられます。神さまに献金をしたのですから、紐つきはダメです。「神さまの御用のためにお使いください」と委ねる気持ちが大切です。だからと言って、牧師や役員が献金で投資をしたり、土地をころがしたりしてはいけません。しかし、教会によっては実際、そういうことをしたために、元金を失って、躓きを与えているところもあるようです。「新しい会堂建築のために」とみなさんにお願いしながら、全く別の用途に回したりする教会もないわけではありません。他の宗教団体ならともかく、教会では金銭のトラブルは大きなダメージを与えてしまいます。ですから、牧師と役員は金銭に対して、潔白でなければなりません。それでないと信用を失ってしまいます。

 牧師は「信仰があれば、神さまが与えてくださる。ビジョンが大切だ」と大きな予算をたてがちです。でも、役員や教会員は「でも、現実はこれしか予算がないのですよ」と言います。こういう戦いが、教会に必ずあるものです。信仰があるかないかではなく、両方とも正しいのです。大切なことは、信仰が一致するまで神さまに求めることです。セルチャーチで親しくしている、本郷台キリスト教会は、2年前8000坪のサッカー場を買うために9億円の借金をしました。今は7億円くらいのようです。彼らは20年くらい前、「神さま。ビジョンを達成したいので、1万坪の土地を与えてください」と祈りました。その後、ダイヤモンドチャペルの2000坪が与えられました。そうしたら、2年前、8000坪のサッカー場が売りに出されました。合わせて、1万坪になります。その当時、サッカー・スクールの生徒が300人くらいいたそうです。もし、持ち主の会社が外部に売却したらもうサッカーはできません。サッカー・スクールの親御さんたちから「私たちも献金しますから、なんとか教会さんであの土地を買ってもらえませんか?」とお願いされたそうです。それで、教会が立ち上がってその土地を購入しました。昨年、「サッカー場を境内地にできないでしょうか?」と県庁にお願いしに行ったそうです。もし、あの広大な土地に固定資産税がかかったら大変な額になります。本郷台キリスト教会はサッカー・スクールの他に、身障者のための働き、ご老人たちへの弁当作り、託児所、チャーチスクールいろいろやっています。宗教課の職員が何と言ったでしょう。「一般に教会さんは自分のことしか考えないけど、おたくさんは社会のためにいろんなことをしていますね。よろしいでしょう」とサッカー場を境内地に認めてくれたそうです。皆さん、借金も信仰とビジョンがあればしても良いと思います。でも、信仰とビジョンだけが先走り、教会員がついていかない場合はダメです。会堂建築もそうですが、金銭問題は分裂の原因によくなります。ですから、できるだけ信仰の一致を求める必要があります。

 私たちはこれから単立、独立になる予定です。今までは、教団と教区に年間、100万円以上の献金をささげてきました。「これからその浮いたお金をどうするか?」であります。ここ何年間か、人件費、伝道費、集会費を削ってきました。少し補充したい気持ちもあります。しかし、私は教会のビジョンのために用いていけたらと思います。私が願っている10年のビジョンは、「350名礼拝、50人の信徒リーダー、5人の牧師、5つの枝教会」です。人材というか、後継者を育てることも必要です。また、枝教会ができるように建物を借りるかもしれません。つまり、教会の成長と宣教のために用いるということです。どうぞ、神様の導きが与えられますようにお祈りください。教会によっては献金のアピールばかりするところがあります。「十分の一を」「会堂献金を」とか言います。私は極力、献金の話はしません。その箇所が来たら話します。もし、献金が足りないならば、教会はそれなりの予算でやるしかありません。では、どうしたら献金が増えるのでしょうか?それは、恵まれて人々が増えれば良いのです。人々が神さまによって祝福を得たならば、喜んで捧げます。献金は恵みの結果なのです。恵まれれば人は捧げます。捧げるとまた恵まれます。恵まれるとまた捧げます。捧げるとまた恵まれます。ハレルヤ!教会はおめでたくなくてはいけません。なぜでしょう?神さまは王様、キングです。私たち教会はキング・ビジネスをしているのです。神さまはすべてを所有しておられます。私たちの神さまは決して貧しくはありません。もし、教会が神さまに忠実に、伝道牧会をしていたならどうでしょう?必ず必要は与えられます。だから、心配することはありません。それは私たちの生活でも同じことです。

マタイ633「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」ハレルヤ!私たちが神さまのことを第一にしていけば、必要は与えられます。献金は神さまを第一にしていることの証です。もう1つの法則があります。それは与えたら、与えられるという「山びこ」の法則です。ルカ6:38「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」何故、貧しいのでしょう?それは与えないからです。独り占めしているからです。もし、私たちが信仰に立って与えるならどうでしょう?与えたら、与えられます。同じ量ではありません。「人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。」アーメン。イエス様は十字架で、私たちのために、尊い命を与えてくれました。罪の代価を払ってくださったのです。私たちはその感謝を具体的に表していくべきです。