2011.02.20 健康な教会の8つの要素 マルコ4:26-32

前回まで信仰のDNAシリーズを49回で終えることができました。きょうは、そのおまけ50回目です。50というのは、ヨベルの年と関係があり、まことにめでたい数字です。来週からはヤコブの手紙からメッセージしたいと思いますので、どうぞご期待ください。クリスチャン・シュワルツという人が、世界32カ国の教会に関わり、420万もの回答を分析処理しました。いかにもドイツ人らしいですね。そして、「文化や神学的教理に左右されない正しい教会成長の原則とは何か」という答えを出しました。その鍵になったみことばが、マルコ4章の「人手によらず」あるいは「おのずと」であります。つまり、教会の成長は作物の成長に共通しているということです。人の手によるものが人為的方策であるならば、「おのずと」は、神様が与えた生物的可能性です。彼は「成長している教会には、成長していない教会にはない独特な資質特徴がある」と主張し、以下の8つの項目をあげています。

1.能力付与的なリーダーシップ

 能力付与は英語ではempoweringですが、「人に権限を与える、権威を委譲する」というふうに訳されます。簡単に言うと、牧師一人がスパー・スターになるのではなく、他の人を育てて、任せていくということです。長年、牧師をやっていますと「自分ほど聖書的知識のある人はいない」「自分ほど経験を積んだ人はいない」と思うようになります。そして、若い人が未熟に見えてきて、任せることができなくなります。能力付与的なリーダーシップとは、一般の聖徒たちを建て上げて、奉仕を任せていくというものです。つまり、自分の権威や能力を独り占めするのではなく、聖徒たちに分散させ、委任させていくということです。そういうリーダーは上から命じるのではなく、下から支えるサーバント・リーダーです。各自が、かしらなっるキリストに聞いて従うことを求めます。かといって、丸投げ式ではありません。私はこれまで、丸投げ式であったことを深く反省しています。やはり、学びや訓練、見習い期間を経て、序々に任せていく必要があります。そのためには、弟子訓練とかコーチングがとても有効です。今、韓国の『二つの翼』を学んでいますが、働き人を再生産するプログラムが必要であると気付かされました。これから、養育プログラムのシステムを立ち上げる必要があると思います。私はこれまで何でもやってきました。しかし、今は、全く音楽関係はタッチしていません。お掃除や会計も任せています。これからは、説教や伝道牧会も任せていけたら良いと思います。「失敗を恐れずに、いろんなセルを作り、自主的にやってください」と、言うつもりです。そうなったら、もう、私のすることがなくなります。教会は牧師のものではありません。教会はみなさん、聖徒たちのものです。牧師はいつか教会から去りますが、みなさんはずっと教会に残ります。牧師が主役ではありません。みなさんが主役なのです。もし、牧師がどうしてもしなければならないものを上げるとしたら、ビジョンと方向性を示すということです。そして、「かしらなるイエス様は何とおっしゃっているでしょう。みなさん、イエス様に聞き従いましょう」と言うことです。

2.賜物に基いたミニストリー

 従来の奉仕は、使命でやっていました。自分にそういう賜物がなくても、やる人が他にいないのでやってきました。もし、使命感だけでやっていると、疲れて、いつかは燃え尽きます。しかし、神様が与えてくださった賜物で奉仕するなら疲れないし、幸福感もあって楽しいのではないでしょうか?動物たちが、未来に良い指導者を輩出するために学校を作り、かけっこ、木登り、飛び、水泳を学ばせました。入学した全ての動物たちは、例外なくこの4つの科目を受講し、全科目に合格しなければなりませんでした。アヒルは水泳では水泳の先生よりも上手でした。しかし、かけっこと木登りは全然だめでした。かけっこで成績が悪かったため、放課後もかけっこの練習をしました。時には水泳の授業をサボって、かけっこの練習をしたりもしました。かけっこを続け、木登りをしたため、彼の水かきはすり減って切れ、水泳ができなくなりました。結局、得意だった水泳のテストもDという成績しかとれませんでした。この物語はさらに続きますが、不得意な科目を上達させようとしたために、優秀な賜物がダメになったという内容です。創造主なる神さまはみなさん一人ひとりを独特に創造されました。それぞれ、何に関心を持っているのか、どんな賜物があるのか、そして性格も違います。関心、賜物、性格、これら3つを合わせると、あなたがどんな奉仕に向いているか分かります。ですから、それぞれの賜物を発見するテストを受けて、主の与えてくださった賜物にあった奉仕をすれば良いと思います。そうすると、疲れないし、楽しいし、燃え尽きることもありません。教会はキリストのからだであり、みなさん一人ひとりはからだの各器官です。手の人もおれば、足の人、耳の人、口の人、ハートの人、頭脳の人、いろいろいて良いのです。上から命令されてやるのではなく、神さまから与えられた賜物によって奉仕をする。これが一番、長続きする方法です。どうぞ、それを発見して、神さまに用いてもらいましょう。

3.霊的な熱心さ

この意味は、カリスマ的かカリスマ的でないかではなく、「この教会のクリスチャンは燃えているか」です。アントニオ猪木が「元気ですかー、元気があれば何でもできる」と言っているようなことです。律法主義・形式主義的な教会は、たいていの場合、霊的な熱心さは平均以下です。成長する教会の人たちは、イエス様と教会を愛しています。教会の歴史を見ますと、何かムーブメントが起きたときは非常に熱心です。でも、ある人たちが「極端になるのは良くない」と神学的にまとめたり、組織を作るとどういうわけか火も消えてしまいます。いわゆる、死せる正統主義になります。海の水をバケツにくんできて、「これが海の水です」とは言えません。ジャンプするかえるを解剖して、「これがかえるです」とも言えません。霊的な熱心さとは、言い換えれば「いのち」です。いのちというものは、ことばで定義することができません。子どもに「生きていますか?」と聞くと「もちろん、生きているよ」と答えるでしょう。また、熱心さと関係があるのが祈りです。祈りというと、「教会で祈祷会を持っているか」という所にすぐ行ってしまいます。調査によると、ひとりのクリスチャンが祈りに費やす時間の量とは関係ありません。それよりも、祈りが生き生きとした経験となっているどうかです。私がインドネシアのアバラブ教会に行ってわかったのは、彼らはイエス様との交わりを喜んでいることです。さらに彼らは共に祈り合うことを喜んでいます。これまでは、祈りと言うと祈祷山にこもって、何日間も断食するような悲壮感がありました。でも、24時間、共におられるイエス様と交わることによって、聖霊が自然に情熱を与えてくれます。その上に、兄弟姉妹が共に祈るとき、「薪は1本よりも、数本集まった方が良く燃える」という相乗効果が起こります。これから当教会で祈祷会を持つことは反対しません。ぜひ、持ったら良いと思います。でも、大事なのは、義務感で祈るのではなく、イエス様との交わりを喜んでいるかどうかです。日々、イエス様と交わる。問題があっても、なくても、共に祈る。これが大事なんです。

4.機能的な組織

 人為方策的な教会は、「役員会」や「委員会」を設けて、「ああではない、こうではない」と議論します。議決機関はあっても、実行する人たちがいないのです。「役員会で決めましたので誰か、奉仕をお願いします」と言うのはあまり効果がありません。世の中の構造は、お金とか権力ゆえに、上部が決めたことに、いやでも従うしかありません。でも、教会はボランティアですから、「役員が決めたからやる」いうのは、情熱がわかないでしょう。決めた人たちがやるというのが一番です。そして、役員会はそれに予算を出したり、励ましたりして後押しするという組織構造です。でも、多くの場合、役員会は「そんなのはやったことがない」と水を差します。「前例がないから」とは、どこかで聞いたことのあるようなセリフです。クリスチャン・スワルツは「伝統主義は機能的組織と正反対なものである」と言っています。韓国では一番保守的な機関が3つあるそうです。軍隊、公務員、教会です。日本では相撲協会かもしれません。デジタルの時代なのに、今だに変わらない。数十年も前から、同じ組織を立てています。いつも会議、ミーティングをしています。機能的な組織とは何でしょう?それは、それぞれの部門の働きをそれぞれの部門が決めてやれば良いということです。もちろん、それぞれの部門にはリーダーが必要です。しかし、部門ごとにやれば、無駄な会議を少なくすることができます。最も大事なのは、組織よりも本質です。本質にあっていない組織は、思い切って捨てるべきです。特に男性は、会議になると会議モードになってしまいます。会社でやっていることを教会にも求めたりします。会社と教会は違います。私たちは左脳ではなく、右脳を働かせて、神様に聞く必要があります。私は「組織はできるだけシンプルにして機能的にする」これが一番であると思います。イエス様は福音書で「新しいぶどう酒はあたらしい皮袋に入れなければならない」と言われました。皮袋とは組織とか伝統です。私たちはそういうものを、神さまに聞いていつも柔軟なものにしなければならないということです。

5.霊的感動あふれる礼拝

 礼拝が、典礼的か、自由な形式かとも関係がないというデーターが出ています。私は自由な形式を好みますが、ある方々は典礼的な方が恵まれるようです。でも、重要なことは、礼拝が参加者にとって「霊的に鼓舞し、活気を与える経験であるかどうか」です。真に生き生きとした礼拝に出席している人は、口をそろえて「教会に行くことが楽しい」と言います。私たちは訓練されたアッシャーや有能な司会者、あるいは音楽のテクニックと考えます。それも大切ですが、もっと大切なのは、私たちが聖霊様を認め、聖霊様を歓迎し、聖霊様に対して従順であることです。セルチャーチは小グループの集まりと、大勢で集まる祭典的な礼拝を持っています。小グループの集まりは家族のような親しい交わりです。互いに愛し、互いに祈り、互いに励まし合うグループです。もちろん、そういう親しい交わりも大切です。でも、大勢の人が集まり、たくさんの楽器のもとで、大きな声で賛美して、神さまをお祝いする。そういう祭典的な礼拝も必要です。大勢で賛美したら、「うぁー、天国みたいだなー」と思うでしょう。最後の主の祈りのときは、みなさんが大きな声で賛美しているので、「天国みたいだなー」と思います。聖日礼拝は、神さまを体験することができるすばらしい機会です。どうぞ、みなさんもそのために祈って、期待してお越しください。30年くらい前、チョー先生のヨイド純福音教会の礼拝に出たことがあります。ロープが張ってあって、みんな1時間待ちです。私たちは日本人だったので、脇からはいることができましたが、2万人くらいの人たちがひしめきあっていました。礼拝は1時間で終りますが、出る人と入る人が、ごったがえしして、迷子になるのではないかと思いました。必ずしも人数ではありませんが、主の復活をお祝いするにふさわしい祭典的な礼拝が良いと思います。

6.全人的な小グループ

 全人的とは、英語でホーリスティックと言います。ホールとは全部、全体という意味です。ケーキ丸ごとを、ホール・ケーキと言います。イエス様が病人に対して「癒されるように」と命じるとき、英語の聖書ではbe wholeと書いてあります。「完全になるように」という意味になります。つまり、ホーリスティックは、霊、心、体、物質、社会性を包括した、「全人的な」という意味です。では、全人的な小グループが教会にあるとどうでしょうか?そこでは、聖書のみことばを分かち合うだけではなく、身近な事柄や疑問を分かち合います。頭の考えだけではなく、感情や心の傷さえも分かち合うのです。伝統的な教会が、家庭集会を開いても、それは礼拝を小さくしたものです。先生が語ったあと、お茶を飲んで、少し交わって帰ります。交わりがおまけになっています。私たちはセル(細胞)と呼んでいますが、この小グループは集会だけではなく、生活を分かち合っているのです。自然に成長している教会では「私たちの教会には、個人的に自分の問題を話し合えるグループがある」「私たちの教会は小グループの増殖を意識的に進めている」というアンケート結果が出ています。そして、小グループの交わりは集会のときだけではなく、日々、日常的に助け合い、励まし合う親しい関係になるべきです。私たちの周りはほとんど未信者です。信仰的な問題を打ち明けても、的外れな意見しか返ってきません。私たちは滅びから救われ、永遠の御国まで続く、いわば運命共同体です。ですから、何でも腹を割って、打ち明け、共に祈る仲間が必要です。生身の人間と生身の人間ならぶつかり、傷つけ合うでしょう、しかし、贖い主なるイエス様を間に置くならば、兄弟姉妹の交わりが可能になります。多くの場合、私たちは人間関係で傷ついてきました。人間関係の傷を治すのは、やっぱり主にある人間関係しかありません。

7.ニーズ志向的伝道

ニーズ志向とは人々の必要を尊重するということです。教会はこれまで、「神・罪・救い」を伝道という名で押し付けてきました。相手の必要よりも、「あなたは、まず、救われなければならない」と、こちら側の主張を押し付けてきました。人が亡くなるという緊急の場合は、それも必要でしょう。でも、いつでもそれが良いとは限りません。聖書を見ると、イエス様のところに霊的な必要を求めてきたのは、ニコデモくらいです。多くの人は、病を癒してほしいとか、目を開けてくれとか、お腹がすいたという理由で近づいてきました。彼らは具体的な必要を満たされた後、自らの霊的な必要に気づいたのであります。ですから、隣人が何を必要としているかということに気づき、愛して仕えていくということが重要です。その人がイエス様を信じようとしなくても、教会に来なくても、福音の愛で愛するのです。そうすると、聖霊様が臨んで、その人たちに飢え渇きを与えてくださいます。だから、それまで、多くの投資をする必要があります。伝道の書111に「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう」と書いてあります。私たちは伝道というと、全く知らない人たちを教会に連れてくることだと思うかもしれません。「私は未信者の人たちとほとんど接触がない」と嘆いているかもしれません。しかし、そうではありません。今、すでに持っている人間関係から始めることが重要です。あなたの家庭や親族、会社、地域社会の人たちを数えたら10人くらいはいるでしょう。その人たちが何を求めているのか?あなたがそこを満たすように仕えていくとき、その人はあなたが持っている福音をも求めるようになるのです。

8.互いに愛する関係

 自然に成長する教会のアンケートに「愛の測定値」というものがあり、そこには12の質問があります。例えば、「教会員が教会の行事以外で、どれくらいお互いに時間を過ごしているか」。「どれくらいお互いに食事やお茶に接待し合っているか」。「教会がどれほど心を開いて祝福の挨拶をしているか」。「牧師は教会員の個人的な問題を知っているか」。その中の、「教会に笑い声があふれているかどうか」という質問は、その教会の質と成長に深くかかわっているということです。当教会のように、笑い声がある教会は、良い教会なのです。教会に怖い人がいたり、プレッシャーを与える人がいると笑い声は途絶えてしまいます。ある教会では、子どもが説教中に騒ぎ出すと講壇から「子どもを連れ出すように」と、叫ぶ牧師がいるようです。箴言144「牛がいなければかいば桶はきれいだ。しかし、牛の力によって収穫は多くなる」とあります。教会に子どもたちがいなくて静かであるなら、教会の将来がありません。子どもたちの声であふれている、それは将来性のある教会です。また、教会がミニストリー、奉仕中心になると、愛がなおざりにされます。何をするかも大切ですが、円滑な人間関係を築くことはもっと大切です。「無駄なー」と思う時間が、かえって良い場合があるのです。人間には仕事重視の人と関係重視の人が2種類いるそうです。仕事重視の人は仕事をバリバリやりますが、人間関係はなおざりにしがちです。関係重視の人はおしゃべりばかりして、仕事がはかどらない傾向があります。教会は利益をあげる会社ではありません。ですから、どちらかと言うなら奉仕よりも関係を大事にすべきです。イエス様は弟子たちとよく食事をしていました。取税人や罪人たちとも食事をしました。ザアカイに、今から家に食べに行くからと言いました。死ぬ前も食事をしました。復活の朝もテベリヤ湖で食事をしました。世の終わりも、「私の声を聞いて戸を開けるなら、私は入って、共に食事をする」と約束しています。イエス様は、イーティング、ミーティング、イーティング、ミーティング。食べながら、教え、教えながら食べていました。おそらく、イエス様のまわりには笑い声がいつもあふれていたと思います。

 大切なのは、これらの8つが、バランスがとれていることです。8つの資質は桶の8枚の板みたいなものです。水は一番低い板のところまでしか、満たされないからです。ですから、8つの中で、どれが不足しているかをチェックして、そこに力を注ぐことが大切です。教会が健康になると、自然に成長するのです。ある人たちは「教会の成長と私の生活と何の関係があるんだ」と思うかもしれません。教会の本当の意味は、「神さまによって召しだされた人々」という意味です。つまり、クリスチャン一人ひとりが教会なのです。教会とは建物や組織ではなく、クリスチャン一人ひとりです。教会と自分たちとが別ものではなく、全く同じなのです。イエス様がご自身の血をもって買い取られたのが教会です。イエス様は教会を愛しておられます。そして、イエス様を愛している人は、教会をも愛すべきです。