2011.02.27 試練を喜びと思え ヤコブ1:1-4、12-16

ヤコブはイエス様の兄弟ヤコブです。イエス様は聖霊によって奇跡的に生まれましたが、ヨセフとマリヤには自然の関係で生まれた子どもたちがいました。兄弟たちはイエス様を信じませんでしたが、あとで信じたようです。だから、ここで「神とイエス・キリストのしもべヤコブ」と自分のことを紹介しています。弟子のヤコブはヘロデに切り殺されましたが、このヤコブは初代教会のリーダーになりました。ヤコブの手紙を読むと、「信仰だけではなく、行ないも必要である」と書いてあります。「信じるだけで救われる」という、信仰義認と真っ向から戦っている感じがします。そのため、宗教改革者マルチン・ルターは「ヤコブ書は藁の書簡である」とヤコブ書をこき下ろしました。なぜなら、ルターはそのとき、信仰義認を強調したかったからです。教会は長い歴史の中で、「人はイエス様を信じるだけで救われるけれど、信じた後は行ないが重要だ」ということを、分かってきました。ヤコブの手紙はとても辛口ですが、信仰の成長のためには大切な書物です。きょうから、しばらく韓国の辛口の料理を食べるように、この書物から学んでいきたいと思います。

1.試練を喜びと思え

 ヤコブ12「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」この1節を読んだだけで、私たちは度肝を抜かされます。「えー?、そんなのできないよ!」と叫びたくなります。「さまざまな試練」と書いてありますので、試練は1つではありません。人から非難されること、失敗や喪失、病気や怪我、立ちはだかる障害が「さまざまな試練」です。人生はまるで障害物競走です。みなさんは、障害物競走を走ったことがあるでしょうか?網があります。竹の棒で両端から挟まれたりします。跳び箱、平均台、ハードル、布袋があります。オリンピックでは水溜りもあります。ほんとうに無茶苦茶にされます。人生はまさしく、障害物競走です。でも、ヤコブはなぜ、さまざまな試練に会うときに喜べと言っているのでしょうか?まず、ヤコブ1:3にありますが「信仰が試されると忍耐が生じ」ます。ローマ人53にも「患難が忍耐を生み出す」と書いてあります。それでどうなるんですか?4節「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」忍耐を働かせたら、成長を遂げた、完全な者となります。簡単に言うと、忍耐に欠けた人は、十分成長していない人ということになります。

 子どものことを考えるとどうでしょうか?子どもは忍耐深いでしょうか?「欲しい」と思ったら、今、手に入れなければ満足しません。親が「明日まで待って」と言っても、言うことを聞きません。子どもには「明日」とか、「一週間後」などという考えがありません。大人でも「今欲しい、今でなければダメ」という人もいるかもしれません。サービスエリアに来ますと、最近はコーヒー豆を轢いてから、ちゃんとしたコーヒーを出す自動販売機があります。でも、1分くらい待たなければなりません。イライラしてきます。でも、機械にはモニターが付いていて、今、どの行程にあるか見せてくれます。それで何とか待つことができます。しかし、本当の試練はいつになったら、この試練を抜けられるのか、先が見えません。人生は、ゴールが見えない障害物競走です。ヨブの人生がそうでした。今、私たちは聖書日課でヨブ記を読んでいます。ヨブは一瞬に財産や子どもたちを失い、健康までも失いました。妻からは「神を呪って死になさい」と言われるし、友達からは「お前は何か悪いことをしたからだろう」と責められます。ヨブ記はなんと、42章まであります。ヨブ記2章から41章までが、長い試練のトンネルのようです。私たちはすぐ、42章に行きたいと思いますが、そうは行きません。「ああ、なんでこんなことが起こるのか?もう耐えられない、もう嫌だ、もう死にたい」となります。ヨブはそういう長いトンネルを越えて、42章の二倍の祝福にたどり着いたのです。そういう意味で、ヨブ記は試練に耐えるとどのような結末が待っているか、教えてくれるすばらしい書物です。

 健康で物ごとがうまく言っているときは、「ああ、試練を乗り越えたら、完全な者になるんだなー」と分かります。でも、試練の中にいるときは、そういう考えが全部、吹っ飛びます。パウロが地中海で嵐に遭っているとき、どうだったでしょうか?使徒2720「太陽も星も見えない日が幾日も続き、激しい暴風が吹きまくるので、私たちが助かる最後の望みも今や絶たれようとしていた。」せめて、星くらい見えて欲しいのに、それも見えない。今、自分がどこにいて、これからどこに流されるのか分からない。自分が乗っている船がいつ難破するか、どこで座礁するのか分かりません。これが本当の試練です。でも、神さまは私たちを子どもとして扱ってくださるので、忍耐を学び、完全に成長した者となるように、あえて試練を通らされるのです。『恵みの歩み』の著者、スティーブ・マクベイ師にこのようなことがあったそうです。子どもが3歳のとき、夜中に、ものすごく苦しみながら泣いていました。他の子どもたちを妻に任せ、先生はその子どもを救急病院に急いで連れて行きました。検査をして分かりました。腸が圧迫されていて、何時間も排尿や排便ができていない状態で、そのために苦しんでいるのです。お医者さんは、「このまま放っておくと危険な状態になります。これからカテーティルを膀胱と肛門から入れなければなりません」と言いました。お医者さんは、子どもを診察台に置き、裸にして、カテーティルを息子に入れようとしました。息子は叫び出し、逃げようとしました。お医者さんが先生を見て、「しっかし、押えなければいけません」と言いました。先生は、自分の体重をかけて、台に息子を押えるしかありませんでした。息子が「お父さん、やめさせて!」と泣き出しました。「もう、やめさせてよ、お父さん。やめさせて!お父さん、お願いだよ。お願いだからやめさせて!」先生も泣きました。そして、体重をかけて押えました。そして、先生の頬を息子の頬につけました。息子の涙と先生の涙が一緒になりました。息子は「なんで、やめさせてくれないの!」と言いました。先生は、答える言葉がありませんでした。息子は3歳、どのようにして納得させることができるでしょう。先生は、抱きしめながら、息子を押えました。先生は、泣きながら息子に言いました。「お父さんを信頼して、お父さんを信頼して、これはしなければならないことだから」。

私たちにも同じことが起こります。父なる神さまは、私たちが私生児ではなく、ご自分の子であるからこそ、あえて試練を通されるのです。それは、私たちが完全に成長した者となるためです。御子イエス様ですら、試練を通され従順を学んだのですから、私たちはどうでしょうか?しかし、現実の私たちは、試練や苦しみを迂回して、楽な道を行こうとします。障害物競走で、網の脇を通ったり、跳び箱を飛ばないで横を走ったなら失格です。何故、私たちは子どものままで成長しないのでしょうか?それは、乗り越えるべき試練を乗り越えないで、迂回したからではないでしょうか?親が子どもを甘やかせたり、守り過ぎたりすることも1つの原因です。動物の世界の方がまだ、良いかもしれません。ヒョウはあるときになると、若者のヒョウを離します。若者のヒョウは自分で狩りをして獲物を捕らえなければなりません。若者のヒョウは1ヶ月も獲物が取れなくて餓死寸前まで追い込まれます。それでも親は助けません。死んだらそれが宿命くらいに思っているのかもしれません。それから、はじめて、若者のヒョウは自分で狩りができるようになるのです。人間には、それができません。親離れ、子離れができないでいます。でも、父なる神さまは違います。ご自分の子どもとして受け入れたからには、ちゃんと取り扱ってくださいます。イスラエルの民はあえて荒野を通らされました。それは、彼らを訓練するためでした。しかし、ほとんどの民は試練を乗り越えられず、荒野で屍をさらして死にました。私たちはそうであってはなりません。「試練によって忍耐を学び、その後は成長を遂げた、完全な者となるんだ!」と考えなければなりません。『荒野で勝利する』という本があります。人は緑の牧場で成長するのではなく、霊的に乾いた時期に成長して強くなるんだということです。私たちの過去を振り返って見てどうでしょうか?「一番、自分が神さまの取り扱いを受けて、成長させられたなー」という時はいつでしょうか?楽しかった時よりも、辛かった時ではないでしょうか?辛いことがあったゆえに、信仰が本物になり、1ランク上に登ることができたのではないでしょうか?ハレルヤ!だから試練は良いものです。試練がやってきたら喜びましょう。なぜなら、忍耐力が生まれ、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となるからです。ヘブル1211「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」

2.試練の中で誘惑されるな

 ヤコブ1:12-14「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。」ヤコブ書の特徴の1つでもありますが、試練と誘惑の関係であります。日本語ではわかりませんが、ヤコブ書では試練と誘惑が同じギリシャ語、ペイラスモスです。ペイラスモスは、試練とも訳されますが、誘惑とも訳されるということです。英語では試練をtrialと言います。trialは車の耐久レースの時も使います。この車が、本当に耐久性があるのか?過酷な環境のもとで、長時間走らされたりします。ある場合はエンジンが焼け付きを起したり、ミッションや足回りが壊れたりします。そのとき、「ああー、この箇所を改良しなければならないなー」と分かります。私たちも平穏無事なときは、「ああー、その人は健全で明るい人だなー」と思います。ところがどうでしょう?ひとたび、その人が不当な扱いを受けたり、思わぬ出来事に遭遇したらどうでしょうか?これまで、表面に出ていなかった、怒りや憎しみ、欠点が顔を出すかもしれません。コップに泥水を入れておいたとします。しばらくすると、泥が沈殿し、上は透明できれいな水になります。でも、そのコップの水を棒で攪拌したらどうでしょう?「ばぁー」と泥が上がってくるでしょう。救われた私たちも全く同じです。平穏なときは、「信仰、希望、愛!」と言っているかもしれません。でも、試練がやってきたら、それらのものがどこかへ吹っ飛んでいきます。そのように、試練によって、本当に信仰があるのか試されるのです。

 では、なぜ、ヤコブの手紙は試練とも誘惑とも取れるような単語を使ったのでしょうか?その人に試練がやってきたらどう思うでしょうか?たとえば、思わぬ事故とか、損失をこうむるようなことが起きたらどうなるでしょう?「ああ、これは試練だ。喜ぼう」とは、すぐなりません。「なんで、こんなことが起きたんだろう?」と思います。もっとひどくなると「神さま、どうしてこんなことが私に起こることを許されたのですか?あなたが本当に愛なるお方でしたら、こんな目に私を会わせないでしょう?神さま、ひどいじゃないですか!」となるかもしれません。ある牧師が神さまに長い間、忠実に仕えていました。ところが、長男が事故か何かで突然、亡くなりました。その時、牧師は「神さま、こんなにあなたに仕えてきたのにひどいじゃないですか。神さまのばかやろう!」と天に唾を吐いたそうです。どうでしょう?結婚している人は、夫か妻が突然亡くなったら、「神さま、ひどいじゃないですか!」と恨みごとを言うのではないでしょうか?つまり、試練は神さまに対して不信仰を持つ誘惑になってしまうことがあるということです。だから、試練とも誘惑とも取れるような単語になっているのです。では、神さまは私たちに好んで、誘惑をしかけるお方なのでしょうか?「神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。」そうです。神さまが誘惑に会わせるのではなく、私たちの欲、あるいは罪がそうさせるのです。私たちは満たされている時は、「全く問題はありません」と言います。でも、この世においては、そういう時ばかりではありません。反対に、「思うように、うまくいかないなー」「困ったことが起きたぞ」「ああー、やりたくないなー」そういうことの方が多いのです。そこに、神さまの方法でないもの、良くないものがやってきます。最初は、「ああ、こういうのはみこころじゃない」と退けるでしょう。しかし、何度も何度も、やって来ると「やっぱり、それにしようかな?」と良くないものを選びます。これが罪です。結果的に、それが盗み、偽り、ごまかしになります。窃盗、殺人、姦淫は、悪いことだと知っていますが、最初は美しい姿でやってきます。まるで、窮地から自分を救ってくれる女神にように見えるのです。それが誘惑です。

 主の祈りの中で「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」と祈ります。この世では、誘惑があるのです。だから、イエス様は「誘惑に会わせないように祈れ!」とおっしゃったのです。誘惑の背後には明らかに悪魔がいます。悪魔は私たちを神さまから離して、信仰をなくすように仕向けます。悪魔は私たちから救いを奪うことはできませんが、喜び、勝利、祝福を奪うことができます。私はもの心ついたときから、ずっと鬱的でした。いつも鬱なので、それが鬱だとは分かりませんでした。クリスチャンになったのに、「なぜ喜びがないんだろう?」としばしば、思いました。道を歩いていると、向こうから幸せそうなカップルを見ます。楽しそうに笑っています。「未信者なのに、どうして、あんなに楽しそうだんだろう」と不思議に思うときがあります。ついこの間、ようやく分かりました。ヨハネ10:10「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」アーメン。盗人とは悪魔のことです。悪魔は「盗み、殺し、滅ぼす」ために私たちのところにやってきます。私は気付きました。「なぜ、喜びがなくて鬱的なんだろう?そうだ。悪魔から喜びが奪われているんだ!」と気付きました。それからは、「悪魔よ、私から喜びを奪うな、退け!」と命じるように決めました。するとどうでしょう?不思議に喜びが湧いてきます。イエス様は私たちがいのちを得、またそれを豊かに持つために来られました。イエス様がくださるのは、鬱ではなく、喜びです。アーメン。確かに私が鬱になりやすいのは、生まれ育った環境から来ています。でも、今は救われ、心が変えられ、新しい道を歩んでいます。なのに、どうしてまた鬱になる必要があるのでしょう?それは、悪魔から喜びを盗まれているからです。

 みなさん、私たちの主イエス・キリストは悪魔の試みに会われました。洗礼を受けた後、天から御霊が降りて来て、イエス様は御霊に満たされました。それからどうしたでしょう?マルコ1:12 「そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。」うぁー、イエス様は御霊に満たされた後、すぐ公生涯に入ったのではありません。その前に、40日間、荒野で悪魔の誘惑を受けられました。しかし、ここでの「誘惑」も、「試練」と訳せる同じことばです。イエス様は神さまのお許しのもとで、試練に会い、悪魔の誘惑を受けられたのです。イエス様に罪があったのでしょうか?イエス様には罪がありませんでした。だから、「自分の欲に引かれ、おびきよせられ、誘惑される」ということはなかったでしょう。しかし、イエス様は私たちと同じ肉体を持っておられました。40日、食べないとやはり空腹になります。悪魔が「石をパンに変えよ」言ったらどうでしょう?イエス様は神さまなのでやろうと思えばできたのです。しかし、しませんでした。「高いところから飛び降りよ」と言われても、それができたのです。しかし、しませんでした。何故でしょう?それは、私たちの救い主になるためです。ゲツセマネの園では、「その杯を飲みたくない」と言いました。悪魔は「やめろ、やめろ!できっこない」と迫ったでしょう。でも、イエス様は誘惑に勝って、十字架の道を選ばれました。なぜでしょう?私たちに誘惑に勝利できる力を与えたかったからです。

みなさんは、血清はどのように作るかご存知でしょうか?動物をわざと病気にかからせ、その血清を私たちに入れます。血清には病に打ち勝つ抗体ができているのです。それを私たちに入れると、同じ病に打ち勝つのです。韓国のクリスチャンがよく賛美する賛美があります。「勝利は我がもの、勝利は我がもの、主イエスの血しおで勝利は我がもの。我がもの勝利こそ、主イエスの血しおでいつも勝利!」「罪、重荷を除くは、血の力、主の血は、悪魔のわざをこぼつ、奇しき力なり。力ある主イエスの血受けよー、受けよー。力ある主イエスの血受けよー、今受けよ」。なぜ、イエス様の血で悪魔に打ち勝つことができるのでしょうか?それは、イエス様の十字架の血は、悪魔に打ち勝った血だからです。私たちがその血を受けるときに、私たちは悪魔の誘惑に勝利することができるのです。私は、それが今、はじめて分かりました。皆さん、イエス様の血しおは贖いの血、救われるための血です。しかし、それだけではありません。私たちがクリスチャンとして悪魔の誘惑に打ち勝つために、流された血でもあります。悪魔に打ち勝たれたイエス様の血を信仰によって受けましょう。世の中の人は「え?血?なんて野蛮なんだ。キリスト教はもっと清潔なものだろう」と揶揄するかもしれません。そうではありません。キリストの血は救いの源であり、勝利の力です。どうぞ、誘惑に打ち勝つイエス様の血を受けましょう。そうするとどうなるのでしょうか?私たちにやって来るものは、誘惑ではなく、乗り越えるべき試練として見えてきます。最後にこのみことばを引用して終えたいと思います。Ⅱコリント10:13「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」神さまは真実な方です。私たちを耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。イエス様が共にいて、試練を乗り越えさせてくださるのです。そして、試練を乗り越えるたびごとに、私たちは成長し、完全な者へと変えられるのです。アーメン。