2011.01.02 「心を守れ」 箴言4:23-27

昨日の元旦礼拝では、「心を新たに」というテーマでお話しました。怒りや恐れに縛られていたら、私たちの考えや思いを変えるべきです。そのためには、一番、中心のコア世界観をAからBに変えるということをお話ししました。お聞きになられなかった方は、入り口にプリントがありますので後でお読みください。きょうは、その続きであります。私たちの考えの中心部分、コア世界観を変えなければ、すべての努力が元の木阿弥になります。多くの場合、私たちはコア世界観を変えるのではなく、周辺的なことを変えようとします。たとえば、前向き、肯定的に考えよう。積極的な考えを持とう。イヤなことは忘れて、良い面を見よう。聖書を読んで、みことばに従おう。どれも悪いことではありません。でも、効き目がないのです。なぜなら、本来、手術しなければならない病気を、塗り薬で済ましているからです。きょうのお話は、コア世界観Bに取り替えた人にはものすごく訳に立ちます。古い世界観の人は、それなりに役に立つでしょう。私たちは心を守るために、どのようなことをすべきなのでしょうか?

1.良いものを入れる

 私たちの中心部が癒されると、良いものをどんどん吸収することができます。良いものとは、自分の魂のためになることです。正しい考え、価値のあるもの、神さまによろこばれるもの、生産的なものです。パウロはこのように命じています。ピリピ48「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。」「心を留めなさい」とは、深く考える、熟考するという意味です。真実、誉れ、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、評判の良いこと…。ところが、この世が提供してくるものは、全く逆のものが多いのです。昨年、一人の歌舞伎俳優が傷害を受けました。そのことで、マスコミがいろんなことを取り上げました。私たちも「何が原因なんだろう?本当のことはどうなんだ、」とか考え、一緒に腹を立てたりします。お相撲さんのこと、中国漁船のこと、内閣の支持率低下、いろいろありました。そういうニュースのほとんどはスキャンダル的な要素が含まれています。この世の中の人たちはそういうニュースが好きなのです。でも、私たちは心を守るために、悪いものを排除し、良いものだけを入れなければなりません。

 昨年もコンピューターの話をしましたが、もう1つお話しします。コンピューターはデーターが入っていなければただの箱です。コンピューターは「ゴミを入れるとゴミが出る」ということです。私たちの頭や心もコンピューターそっくりです。男性がポルノに関した、DVDやインターネットのサイトを継続して見るとします。「おー、あー」。ポルノの画像が、どんどん心の中に入ってきます。すると情欲がどんどん養われていき、実際そういうことがしたくなります。電車の中で手を出したり、盗撮する人はそういう人です。たとえば女性がサスペンスや推理小説をいつも、いつも読んでいるとします。そうすると心の中に非現実的なことがたくさん入ってきます。「人々が信じられない、何が悪いことが起こるのではないだろうか」。そういう妄想につきまとわれるかもしれません。一番、恐ろしいのは子どもたちや若者のゲームです。バーチャル、仮想現実の中でいろんなことが起こります。人が撃たれたり、切られて、また復活し、また死にます。憎んでいる人をゲームの中で殺すかもしれません。そして、現実よりも、3Dで作ったアニメの世界で生きるようになるかもしれません。結局、現実に置かれている自分の生活や命を粗末に扱うようになるでしょう。私たちは、何でも無防備に心の中に入れてはいけません。私たちの意識(理性)は心のドアの門番です。意識は良いものは入れて、悪いものは締め出すように作られています。しかし、意識が最も弱まるときがあります。それはいつでしょう?寝る前のぼーっとしている時間です。この時が一番無防備です。みなさんは、寝る前のぼーっとしている時間、何をしているでしょうか?多くの場合、寝そべってテレビを見ているんじゃないでしょうか?寝る前に、多くの人はテレビをつけています。すると、テレビの内容が、そのまんま、あなたの潜在意識に入り、それが蓄積されていきます。私は亀有に来て23年になりますが、私が赴任する前からダイヤル一日一生をやっていました。23年間、毎日、私はずっと聖書からショートメッセージをしています。「だれがこんなことを始めたんだ」とムカついたこともありました。でも、寝る前に録音するので、どうしても聖書を読まなければなりません。今、思えば「強いられた恵みだったんだなー」と感謝しています。

 どうぞ、みなさん良いものを心の中に入れてください。そのために第一にすべきことは聖書を黙想することです。詩篇112「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」「口ずさむ」とは、黙想する、思い巡らすという意味です。みことば黙想すると、聖書の価値観、約束、希望があなたの心の中に蓄積されていきます。そうすると霊が強められ、信仰、希望、愛が出てきます。それから、信仰書を読むということも重要です。現代は活字離れが多いそうですが、1ヶ月数冊は本を読みましょう。昨年は、アメリカの牧師・ジョエル・オースチンの本を読んで、大変、力づけられました。今、ポール・J・マイヤーの『成功への25の鍵』という本を読んでいます。コーチングしていたある先生から、「ぜひ、読んでください」とプレゼントされました。本を読んで、積極的な考え、肯定的な考え、信仰的な考えを心に満たしたら良いです。私は良いセミナーがあったら、できるだけ出かけることにしています。そして、録音したものを文章化してファイルにしています。聞くだけだとほとんど残りませんが、それを文章化し、さらに人々に分かち合うと50%ぐらい残ります。そして、だれでもできることは、たえず、神様と交わることです。祈り、賛美、礼拝、告白、感謝をすると、私たちの心が満たされてきます。コロサイ312「もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」アーメン。

2.悪いものを吐き出す

私たちは毎日、生活していますといろんなことが起こります。自分はコア世界観Bコースに切り替えたつもりでも、「えーなんで?」みたいなことに遭遇します。もし、怒り、恨み、憎しみ、さばく思いが心の中に放置されたらどうなるでしょうか?心の中に、苦い根が張ってしまいます。ヘブル1215「そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように」とあります。苦い根が生えてきて、自分だけではなく、多くの人を汚してしまいます。恨みごとを言っている人のそばに座ったことがあるでしょうか?何やら不満や批判、怒りを口に出しています。実は、その人は、周りの人を汚しているのです。その人に「そんな否定的なことを言うなよ」と言っても効き目がありません。すでに、心の中に苦い根が生えているので、口が苦々しいことを語るのです。その人がいくら恨み言を吐いたとしても、解決されません。苦い根の根っこを抜かなければなりません。また、ルカ176「この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです」というみことばがあります。桑の木の根っことは何でしょう?このみことばの前後には、「人の罪を何度まで赦したら良いでしょうか?」「七度まででしょうか?」と問われています。イエス様がそれに対して、桑の木のたとえについて話しています。桑の木の根っこは地面に張っていて、簡単には抜けないそうです。つまり、人を赦さないでいると、桑の木の根っこのように心の中に深く根を降ろします。「もう、赦さないぞ!」と、一旦、根を張ってしまうと、そう簡単には赦せなくなるのです。また、エペソ426,27「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい」とあります。これも同じで、怒りを放置しておいたら、悪魔が働く足場を与えることになるという意味です。

苦い根、桑の木の根、悪魔に機会を与える。これらに対して、どのように対処したら良いのでしょうか?解決策は、1つしかありません。すぐに神さまに告白して、悔い改めるということです。次の日まで持ち越さないということです。1週間くらい放置したなら、悪い思いが居座ってしまうというでしょう。憎しみ、怒り、赦さない心、これは実際に血液を汚すそうです。人間は本来、人々を赦し、平和に暮らすように神様から造られています。しかし、それに反したことを思うと、血液が汚れ、病になります。すべての病気がそうだと申しませんが、どこかに不具合を生じることは確かです。私たちは癌になったら、「これはエライことだ!」とすぐ病院に行って、取り除いてもらうでしょう。でも、憎しみ、怒り、赦さない心はそのままにして、何度も思い起こして、その菌を培養してしまいます。憎しみ、怒り、赦さない心は心の癌細胞です。私たちは断固として、イエス様に告白して、捨て去るべきであります。

みなさんは、「境界線、バウンダリー」ということばを聞かれたことがあると思います。簡単に言いますと、他の人の問題と私の問題、あるいは他の人の責任と私の責任を分けるということです。日本人は共依存的なので、他の人の問題と自分の問題がごっちゃになってしまいます。その結果、いらいらして腹を立てたり、心配したり、がっかりします。本来、それは自分のものではないのですが、他の人の問題を自分の問題として引き受けた場合です。もちろん、聖書では互いに重荷を負い合いなさいというみことばがあります。また、同時に、「人にはおのおの、負うべき重荷があるのです」(ガラテヤ6:5)とも書いてあります。では、境界線があいまいになりやすい、他の人とはだれのことでしょうか?子どものこと、夫あるいは妻のこと、あるいは親しい関係にある人です。その人が不当な扱いを受けていると、自分がかつて経験した不当な扱いがリンクします。すると、「そんなの許せない」と怒りが湧いてくるのです。本来、自分の感情ではなかったのに、その人の問題によって触発されて、自分の傷がうずくのです。一番多いケースは、母と子どもです。「母子一体」「親子パック」などと呼びますが、二人がくっつき過ぎています。子どもが学校にいじめにあっている。もう、母親は心配でうつ的になります。自分の子どもが手術を受けるときなどは、自分が切られたような感じをするでしょう。それだけ絆が深いということです。私も常磐セルで月一回、牧師たちの証を分かち合います。中には教団の先生や役員からひどい扱いを受けたという証があります。すると、自分の中に「なんてひどいやつだ!」と、怒りがこみあげてきます。本来、それは、その先生の問題なのに、自分の経験とリンクしてしまうのです。自分の未解決な問題が、そこで顔を出すのです。もし、私たちが心を守ることを心がけるならば、「切り離し」が必要です。「この問題は、私の問題ではありません。これは、その人が背負う問題です。主よ、あなたは私だけではなく、その人にも一緒におられます。主よ、あなたがその人を助けてください」と委ねるのです。あるいは「主よ、この感情は私のものではありません。あの人の問題から来たものです。この悪い感情を切り離して、捨てます。どうか、私をあなたの平安で満たしてください」と祈れば良いのです。心の平和を保つためには、「境界線、バウンダリー」を生活の中に適用することがとても重要です。

3.良い習慣をつける

 人は意識で行動している部分は5-10%だそうです。あとの90-95%は無意識でやっていることが多いのです。私たちはコア世界観を変え、良いことばや行ないをしようと努力します。でも、知らず知らずのうちに、古いライフ・スタイルに戻ってしまいます。なぜでしょう?90-95%の無意識の世界に古いものがたくさん残っているからです。ですから、私たちは無意識の世界に、どんどん良いものを蓄積し、良い習慣を身につけていく必要があります。古いことわざがあります。「考えの種を蒔けば、行動を刈り取り、行動の種を蒔けば、習慣を刈り取り、習慣の種を蒔けば、品性を刈り取り、品性の種を蒔けば、運命を刈り取る」。簡単に言いますと、考え、行動、習慣、品性、運命です。考え、行動して、それが習慣化する必要があります。習慣というのは、無意識でなされる行為です。最初は強い意志と努力が必要ですが、慣れてくるとそれが自由になります。私はゴルフをしたことがありません。ある人が我流でクラブを振っていたとします。コーチから、「そうじゃないよ」と肩と腰の加減を修正されたとします。コーチは「そうじゃないよ」と肩と腰をクラブの柄の方で叩きます。「いたいなー」と思いながら、修正したスウィングをします。自分でも、素振りをします。「あ、ちがった。こうだ」とか言って、意識して練習します。1ヶ月くらいたつとどうでしょう?コーチから修正されたスウィングの方が自然になります。もう、意識しなくても、自然に体がそのように動くのです。つまり、意識から無意識の領域に入ったということです。私はいつも時間ギリギリの人でした。どこかに出発するとき、だれかと会うとき、時間ちょうどか、1分遅刻というのがザラでした。あるときから、やっている仕事をやめて、出発30分前、面会30分前に準備すると決めました。顔を洗って着替えて、もし、時間があったら仕事をすれば良いのです。30分前の準備を実行していますが、かなり、無意識の領域に入って来ています。

 どうでしょう?みなさん、「私はこういう良い習慣を身につけたい」というものがあるでしょうか?どうぞ、考えてみてください。最初は不自由で、ぎこちないかもしれません。意識しないと、また元に戻るかもしれません。でも、また意識して、行動し、習慣化させるのです。そうすると、良い品性と良い運命を刈り取ることができます。さきほど、紹介したポール・J・マイヤーの『成功への25の鍵』という本の中から、少し紹介させていただきます。ポール・J・マイヤーは、「あなたの考え(思考)を変えるためには、ことばを変えなさい」と述べています。たとえば、「私にはできない」「心配だ」「あまりにも危険すぎる」などと自分が考えているとします。そのときは、「もう一度見るんだ。この機会をチャンスとして与えるぞ。私にはどれができる」と自分に語りかけるのです。なすべき重要なことは、自動的に出てくる否定的な思考パターンをことばによって打ち破ることです。私たちが自然に発していることばや考え、なんと否定的なものが多いでしょう。「めんどうくさい。やりたくない。赦せない。お金がない。人がいない。不景気だから。伝道が難しい…」。そうなるとうつ的になり、情熱も低下します。では、反対に「やればできる。必要は与えられる!」自分に言い聞かせれば良いのでしょうか?これは、正直、長続きしません。なぜなら、律法的だからです。W.W.J.D「イエス様だったらどうする?」というブレスレットをしている人がいます。もし、効き目があれば大いにやって結構だと思います。「イエス様だったらどうする?」と言う度に、自分を切り離して見つめる必要があります。これも、結構、律法的ですので、疲れるでしょう。「めんどうくさい。やりたくない。赦せない」。これに対して、「イエス様一緒にやりましょう。イエス様、一緒に赦させてください。イエス様、一緒に愛させてください」。イエス様は私たちと一体になっています。わざわざイエス様を私たち自身から切り離さないで、イエス様と一緒に生きるのです。そうすればイエス様が現れてくださいます。このことは、来週、9日のメッセージで詳しくお話ししたいと思います。

 どんな時でもイエス様と一緒に生活する。これこそ、最も良い習慣であります。一年の計は元旦にありと、多くの人たちは「こうしよう。ああしよう」と計画を立てます。でも、多くの場合、3日坊主です。私たちは律法を自分に課して生きると窒息死してしまいます。私たちは、律法は正しいことを知っていますが、律法を守り行う力がないのです。人が正しいと思っていることをできたならば、警察はいりません。正しいこと思っていることができない。これは未信者もクリスチャンも同じです。では、何が違うのでしょうか?イエス様が共にいるか、イエス様が共にいないかの違いです。私たちはイエス様を離れて、独立して生きようとするなら、必ず失敗します。最初は良いかもしれませんが、完了することは並大抵ではありません。そうではなく、私たちは初めから、イエス様と共に行なうのです。「イエス様、どうしましょうか?イエス様、こうしましょう。イエス様、一緒に行きましょう」。そうすると、義務感やプレッシャーがぱーっと消えて、自然な力でやっている自分に気付くでしょう。「自分を鞭打って従わせる」という方法もあるかもしれません。私はそれよりも、イエス様を仰いで、イエス様と一緒に生活する方を選びます。もちろん、「イエス様」を聖霊様あるいは、父なる神様と置き換えても、全く、構いません。「聖霊様、一緒に行きましょう!」でも、良いです。

 私は夢がだんだん肯定的になりました。かつての夢は、バスに乗り遅れたり、ロッカーに体育用具がない、道に迷っている夢がほとんどでした。そして、寝言をしょっちゅう言って、よく叫んでいました。私は牧師たちと4人部屋で一緒に寝るのが恐いのです。夜中に叫ぶからです。でも、最近は、家内に聞くと、笑っているらしいんです。今、よく見る夢は、昔の夢ではなく、最近の夢を見ます。大川先生、家内、長男かだれか分かりませんが子どもが出てきます。嫌な夢よりも、楽しい夢が多くなったような気がします。みなさんはどうでしょうか?フロイトという人は、夢と深層心理は深い関係があると言いました。信仰が深層心理まで入ったら、すばらしいですよね。夢の中でも、「イエス様、イエス様」と言っていたら良いですよね。昔の話ですが、申賢均牧師が断食祈祷院でみんなと一緒に過ごしました。断食して祈ると、エネルギーがないので、あとは寝るしかありません。朝は5時から早天ですが、申賢均牧師はその前にちょっと眠りました。朝になって信徒の方が「先生、夜、寝言を言っていましたよ」と言いました。申先生は「あ、もしかしたら女性の名前でも呼んだかな?」と一瞬心配しました。「どんな寝言だったの?」と恐る恐る聞きました。先生はね、「おお、主よー。おお、主よー」と言っていました。申先生は「うん、それだったらまことに結構」と答えたそうです。私たちの無意識の世界まで、信仰に満たされる。そして、思考、ことば、行動が変えられていくことを願います。アーメン。