2011.01.16 執事と長老 使徒6:1-6

初代教会には執事と長老がいました。現代においても同じ名称で、組織している教会もあれば、そうでない教会もあります。長老派の教会はわりとがっちりしていますが、バプテスト教会などは民主主義的です。カリスマ的な教会は、牧師のリーダーシップが強くて、ワンマンになる傾向があります。これは教団の歴史がありますので、一概に、これが良いとは言えません。当教会はこれからどうするのでしょうか?10年くらい前に、『健康な教会へのかぎ』という本がベストセラーになりました。その本の英語の題名は、The purpose driven church.です。教会を何が動かすのかということです。伝統が動かす教会、役員が動かす教会、牧師が動かす教会、プログラムや行事が動かす教会があります。しかし、この本は「教会の目的こそが教会を動かすべきである」という主題で書いています。ある教会は、組織が手かせ足かせになっている場合があります。それで教会の存在目的を果たすことができないのです。

1.最初の執事

 まず、使徒の働き6章から最初の執事について学びたいと思います。執事がどうして任命されたのでしょうか?それは、やもめたちの毎日の配給で問題が生じたからです。あるグループはいっぱいもらって、あるグループはなおざりにされていたようです。不平等が生じたので、7人の執事が任命されました。その条件が、「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たちでした。」おそらく、彼らが教会の実務的なことをしたのだと思います。ここで、ペテロの発言に注目したいと思います。使徒62,4そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。…そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」この箇所から、教会ではこのようなことがよく言われます。「牧師はみことばと祈りに専念できるように、信徒は雑用に徹するべきである。」お聞きになられたことはないでしょうか?つまり、牧師がいつも霊的なことができるように、信徒が雑用を一手に引き受けるべきであり、「牧師に掃除させたり、送り迎えをさせるなんてとんでもない」ということです。私は掃除もしますし、送り迎えもしますけど、牧師としての権威がないのでしょうか?牧師はみことばと祈りに専念できるように、信徒は雑用に徹するべきなのでしょうか?そのとき、7人の執事が選ばれました。彼らはおそらく、毎日の配給が平等になるように奉仕したと思います。でも、そういう雑用だけではありません。使徒7章を見てみると、執事の一人ステパノは議会で、使徒顔負けの大説教をしています。イスラエルの歴史をパノラマ的に語った後、ユダヤ人の罪を糾弾しました。そのため、ステパノは教会の、最初の殉教者になりました。もう一人の執事ピリポはどうでしょうか?使徒の働き8章を見てみると、彼はサマリヤに出かけ福音を宣べ伝えました。病を癒し、悪霊を追い出しました。「それでその町に大きな喜びが起こった」(使徒88と書いてあります。使徒たちがエルサレムに留まっている間、サマリヤの町に下って行って、リバイバルをもたらしました。

 ということは、「ペテロが行ったことは本当に神のことばなのか、つまり霊感された神のことばなのか」ということが問題になります。もし、ペテロが言ったことばが神からのことばなのであれば、ステパノもピリポも余計なことをしたことになります。何と言いましょうか?まことに僭越なこと、身分を越えた振る舞いということになるでしょう。しかし、そうではありません。使徒の働き9章を見ますと後のパウロであるサウロが救われます。そして、名もない信徒たちによって、アンテオケ教会ができます。アンテオケ教会から世界宣教がなされていくのです。イエス様の12使徒はほとんど記されていません。ペテロは「私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします」と言いました。悪いことではありません。使徒だから、そうするべきです。しかし、「信徒や執事が祈りやみことばの奉仕に携わるべきではない」ということではありません。ステパノやピリポは大胆にしていました。つまり、今日的に言いますと、祈りやみことばは牧師の占有物ではないということです。そして、祈りやみことばのレベルが上で、毎日の配給は雑用ということではありません。大体、雑用という表現自体が間違っています。主の働きに雑用というものはありません。また、ある牧師たちは「牧師はプロ意識を持たなければならない」と言います。では、牧師はプロであり、信徒はアマなのでしょうか?「信徒の奉仕はアマなんだから仕方がない」みたいになります。私は主の奉仕をするのに、プロもアマもないと思います。みんながキリストのからだに属して、それぞれの働きをしているのです。それを玄人とか素人というのは失礼です。

 執事を英語でディーコンといいますが、ギリシャ語のデァコネオゥ、「奉仕する」から来ています。ですから、奉仕は身分ではなく、賜物と関係しています。キリストのからだなる教会においては、教える賜物もありますが、管理する賜物も備えられています。身分の違いではなく、それは機能の違いです。ローマ12章には奉仕の賜物や指導の賜物が記されています。また、Ⅰコリント12章には助ける賜物、治める賜物が記されています。Ⅰペテロ310「それぞれが賜物を受けているのですから、神さまのさまざまな恵みの管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい」とあります。ですから、そういう賜物を持った人に、執事とか長老の役職が与えられるのであります。人間のからだを見ると、脳以外にからだを管理している器官がいくつかあります。たとえば、肝臓は3つの働きをしています。食べた物をエネルギーに変える働き、体に取り入れた物の解毒作用、いらないものを排泄する胆汁の生成。肝臓は体内の化学工場と呼ばれるそうです。脊椎はどうでしょうか?脊椎も3つの働きをしています。脊髄などの大切な神経を保護する、上半身を支え下半身を動かす、肋骨との組み合わせで内臓を保護する。脊椎がないとナマコみたいになります。私たちは頭脳とか心臓だけを注目しますが、肝臓や脊椎もものすごく大事です。使徒の働きにおける、ステパノやピリポは12弟子を越えていたところがあります。ステパノやピリポこそが、本当の執事ではないでしょうか?日常的なこともしましたが、霊的な働きもしたということです。

2.最初の長老

 新約聖書に「教会における長老」というのはどういう存在なのか、そんなに詳しくは書いていません。ほとんどの場合、使徒たちの代わりに、預言や伝道、牧会や教えをしていたものと思われます。使徒パウロが教会ごとに長老たちを選んで、主の働きをゆだねています。今でいう、牧師の役割をしていた長老もいました。いわゆる教会の指導者であります。宗教改革者ジョン・カルバンは、教会を組織した優れた神学者です。彼の考えをもとに長老主義、長老派というものが生まれました。今で言うなら、代議員制であります。現代では小会、中会、大会と区分されています。大会は全国レベルの会議であります。いわゆる、教団総会みたいなものです。残念ながら、長老教会の特徴は何でも会議で決めるところがあります。ある場合は、牧師対長老という不毛の戦いが繰り広げられるときもあります。ですから、毎月一度、開かれる役員会、あるいは年に一度開かれる教会総会が牧師にとっては頭痛の種です。あるときは牧師が槍玉にあげられるときがあります。私も個人的ではありますが、長老制度が果たして聖書的だろうかと疑問に思っています。イエス様を十字架につけたのは、律法学者や長老たちでした。それはともかく、初代教会のころは、組織的にかなりゆるやかではなかったかと思います。彼らは祈りつつ、聖霊の導きを絶えず仰いだからです。いざ、会議モードに入りますと、左脳ばかり使う議論になってしまいます。政治とか会社は、それで良いかもしれませんが、キリストのからだなる教会ではそうであってはなりません。大体、役員に選ばれる人というのは、信仰よりも、この世で地位のある人たちです。彼らは会社を経営するように、教会を運営したくなります。「教会は組織的になっておらん!」と言う訳です。

 当教会は役員とか責任役員というふうに呼んでいます。宗教法人法には何名か責任役員がいなければなりません。私は責任役員がいることは悪いことだと思っていません。代表役員である牧師の責任を一緒に担うという役目があるからです。牧師が逸脱した行為をしたり、牧師が何らかの理由で職務を果たせない場合は、責任役員が必要でしょう。しかし、多くの場合は、役員会というのはボード、評議会のようなものです。牧師とビジョンを共有し、伝道牧会におこる問題を一緒に協議する必要もあります。私は当教会に赴任して、23年になります。私を座間キリスト教会から招聘してくれた人たちが当時の役員会です。山崎長老さんと、戸叶長老さんもその中におられました。長老制度の長老ではなく、当初の頃から教会を支えてこられたので「長老さん」と愛称で呼んでいました。その頃、教団に無認所の牧師が6人いました。なのに、「他の血を入れたいので、大川牧師の弟子を」ということで単立の教会からスカウトしたのです。すばらしい信仰ではないでしょうか?赴任して5年目くらいでしょうか?役員さんの世代交代がありました。そのとき役員会で、いろんな提案やアイディアを出す人がいました。「教会はこういうことをしたら良い。ああいうことをしたら良い」と言うのです。最初の頃は、「そうですね」とできるだけ答えてがんばりました。しかし、教会が小さいこともあって、多くのことはできないということが分かりました。あるセミナーで「差別化」ということを教えられました。つまり、デパートのような総花式ではなく、「これだけを売る」という専門店を目指しました。私は「福音を分かり易く語る」ということをモットーにしました。それでも、あれやこれやと言われました。そのとき、牧師として役員さん方に提示したことがあります。「役員会で、提案やアイディアを出すだけというのはお断わりします。アイディアを出した人が率先してやるならばいくら出しても結構です」と。それ以来、理想論は減って、実行可能なことが話し合われるようになりました。

 教団教派によってはいろんな組織があります。日本基督教団のように、長老会で教会を運営している教会もあります。牧師も長老の一人です。また、聖公会やメソジスト系は監督制で、教団や牧師に力があります。バプテスト教会や組合教会は、民主主義的で牧師も信徒の一人です。単立の教会は、牧師がカリスマ的でリーダーシップが強いかもしれません。このように、牧師の権限が大中小と分かれており、そこには長所も短所もあります。しかし、私は教会運営においても、セルチャーチの概念を取り入れています。セルチャーチとは何かと言うと、牧師も役員も信徒もみんなかしらなるキリストにつながっているということです。牧師だけではなく、それぞれがキリストに聞くことができるということです。その次に問われるのは霊的な賜物です。指導の賜物や管理の賜物、あるいは使徒的な賜物があります。牧師でリーダーシップの強い人もいれば、強くない人だっています。牧師が教師的なタイプである場合は、牧会や教会運営は他の人がやっても良いのです。ですから、賜物に応じて、生きた組織を作っていけば良いのです。教会はこの世の組織とは違います。この世の組織はトップダウン的です。何かを決める偉い人と実際に行う下の人たちがいます。教会はキリストのからだです。生物的、有機的な存在です。働きも賜物も違う者どうしが、かしらなるキリストにつながっています。みんなが、かしらなるキリストに聞いて、それを行う。そういうからだをイメージした教会を目指したいと思います。

3.牧師と役員会

 最後にまとめをしたいと思います。こういうことを礼拝説教で語っても果たして恵まれるだろうかという疑問があります。いわば教会の裏話みたいなものです。信仰のDNAシリーズの最後の段階ですのでお聞きください。牧師と役員とはどのような関係であるべきなのでしょうか?ある教会では、役員会を労働組合のように思っています。経営者側と労働者側と分けるように、教会側と信徒側みたいに考えます。「役員会というのは信徒の意見を吸い上げて、それを牧師にぶつけるんだ」と考えています。でも、役員会は団体交渉のためにあるのではありません。役員会は牧師のビジョンをになうリーダー的な人たちで構成されています。聖書全体を見てわかりますが、神さまは特定の人にビジョンを与えます。牧師にビジョンがない場合は、他のリーダーに与えます。ブラックゴスペルは11年前に、3人の兄姉が言い出しました。「私は日本人には無理なんじゃないかな?でも、セルによってみなさんが自主的にやるんだったら良いよ」と言いました。私にはブラックゴスペルのビジョンが来ませんでした。でも、牧師も役員会もそのビジョンが実現するように助けるようにしました。しかし、教会によっては牧師や役員会が信徒のビジョンを受け入れないばかりか、潰すところもあります。エリヤハウスという内面の癒しをするグループがあります。やっぱり、牧師の承認にかかっています。牧師がノーと言えば、教会にエリヤハウスを導入できません。でも、牧師だけが「セルチャーチを目指す。二つの翼をやる」と言ってもなかなか実現しません。では、教会をだれが動かすのでしょうか?牧師でしょうか?役員でしょうか?伝統でしょうか?それともプログラムでしょうか?私は神さまから与えたビジョンが教会を動かすと信じます。かしらなるキリストから与えられたビジョンによってみんなが動く、これが大事だと思います。箴言に幻(ビジョン)のない民は滅びると書いてあります。神からのビジョンがあるのか、ないのか、これが生命線だと思います。それを牧師と役員とみなさんが一緒に担う有機的な組織が教会です。

 多くの場合、牧師が「こうしよう、ああしよう」と言います。会堂建築、教会の開拓、あるいはこういう伝道プログラムをしようと言います。牧師はあっちのセミナー、こっちのセミナーにでかけ、「ああ、これだ!これしかない!」と言います。しかし、役員や信徒は「ああ、また先生はじまった。何回失敗すれば良いんだ。前も、これしかないとか言って、ダメだったじゃないか」と結構、冷めています。牧師だって馬鹿じゃありません。心の奥底に「前も失敗したので、今度はどうかな?」という迷いがあります。それを押し切って、「ああ、これだ!これしかない!」と言うのです。では、役員の人たちはどうすれば良いのでしょうか?みなさん、車にはブレーキがあります。スピードの出る車には、ちゃんとしたブレーキがなければ危ないです。スピードが出たけど、ブレーキがきかない。危なくて仕方がありません。ある意味では、役員の人たちは車のブレーキです。牧師は「ビジョンだ、信仰だ!お金は神さまが与える」と言います。しかし、役員は常識で物ごとを考えます。「とは言うけど、予算がない。どこからそのお金が出てくるのだろうか?」。牧師は「祈れば、神さまが与えてくださる!」と言うでしょう。両方正しいのです。牧師は役員の反対があれば、もっと神さまの導きを求めるので、より実行可能なビジョンになるのです。牧師がカリスマ的で超ワンマンな教会もあります。カルトとは言いませんが、役員さんはみなイエスマンです。牧師に反対できません。牧師がわき道にそれたり、罪を犯すときもあります。それを抑制できない、止めることもできない。問題が大きくなって、教会が分裂したり、信徒が散らされる場合もあります。一度、壊れた教会を修復するのは大変です。誰が、その後を継ぐのでしょうか?牧師のビジョンと役員の常識、牧師のリーダーシップと役員の抑制力、そういうバランスが必要だということです。でも、どうか役員がビジョンの火ばかり消すことにエネルギーを使わないようにしてください。一緒に、神さまのビジョンを担う者となりましょう。

 また、教会によっては牧師を雇い人のように考えている教会もあります。どこの教会とは言いませんが、幼稚園のお庭に教会の建物があります。幼稚園はとても立派で、園長さんはみんなから慕われています。でも、幼稚園のお庭に教会が間借りしている状態です。子どもたちが、教会の牧師を「おじさん」と呼んでいるそうです。それは良くないですね。幼稚園の経営も大切ですが、霊的な指導者として牧師を立てるべきであります。それは極端ですが、教会が牧師を招いた場合、牧師はサラリーをいただく立場になります。つまり、教会はその牧師をいくら、いくらで雇っているかたちになります。そうすると、役員会は牧師にいろんな要求をするし、牧師は言うことを聞かなければならないと思うでしょう。「俺たちが給料を払っているんだから、新しい人よりも、今いる人たちを世話しなさい」と言います。しかし、これは間違いです。牧師は確かにその教会から招聘されました。でも、神さまがその教会にその牧師を送ったのです。ですから、牧師のボスは役員会ではなく、イエス・キリストです。イエス様が大牧者で、その牧師は中牧者です。イエス様が、その牧師を教会の霊的指導者として派遣したのです。そういう信仰を教会の役員さんや信徒が持たなければなりません。ある教会の牧師から「雇われ牧師からオーナー牧師になれ」と教えられたことあります。オーナー牧師とは、牧師が教会を仕切るというニュアンスがあります。確かに、長い間、忠実に勤めることにより、教会員からの信頼を勝ち得る必要はあると思います。しかし、自分の思うとおりに教会を動かすというのは、行きすぎです。韓国の教会は牧師の地位がものすごく高いです。しかし、日本の教会はものすごく低いです。牧師給も低いので成り手がいません。一人の魂を救いに導いたら、いくら位の値打ちがあるのでしょうか?永遠の滅びから、永遠の御国ですよ?1億円でも足りないのではないでしょうか?Ⅰテモテ517,18「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。…「働き手が報酬を受けることは当然である」と言われているからです。今のは、フルタイムで仕えている牧師へのことばです。では、執事や長老、役員さんはどうなんでしょうか?好きでもないのに、役員に選ばれて、責任ばかり押し付けられるのでしょうか?いわゆる、貧乏くじをひかされるようなものなのでしょうか?そうではありません。Ⅰテモテ313「というのは、執事の務めをりっぱに果たした人は、良い地歩を占め、また、キリスト・イエスを信じる信仰について強い確信を持つことができるからです。」「良い地歩」とは、財産,権利などを取得する、手に入れるという意味です。ハレルヤ、神さまの報いが、この地上でも豊かにあるということです。韓国は現在とても豊かな国になりました。どうしてでしょうか?最初に教会が祝福されたからです。教会の長老さんや執事が行なっているビジネスが祝福されたからです。日本の教会も、教会が豊かに祝され、リーダーや役員さんが祝されますようにお祈りしましょう。