2011.01.30 真理(教え)の管理 Ⅰコリント13:9-13

私たちは一般的に、真理の反対は偽りであると言います。あるいは善の反対は悪であると言うでしょう。真理と偽り、善と悪がまるで両極にあるように考えます。しかし、そうではありません。真理とか善は真中にあるのです。そして、それらの両端に偽りとか悪があるのです。たとえば、悪霊について考えてみましょう。ある人は「悪霊などいない」と言います。また、ある人は「何でも悪霊のせいにします」。「車をぶつけたのは悪霊のせいだ」とか「風邪をひいたのも悪霊のせいだ」と言います。もちろん、そういう時もあるでしょう。でも、本人の不注意だったかもしれません。聖書は悪霊の存在をちゃんと明記しています。真理というものは、ちょうど真中くらいにあるのです。キリスト教会においても、神さまの真理に対して極端があります。自転車で狭い道を走るときのことを想像しましょう。みなさんは、農道を走ったことがあるでしょうか?左の溝にもはまってはいけません。また、右の溝にもはまっていけません。道の真中を走るべきです。真理や善というものは、真中にあるのです。クリスチャンの生活とはバランスをとりながらやっていく、スリルある過程であるということができます。

1.哲学と神秘主義 

初代教会の頃の極端は哲学でした。コロサイ28「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。それは人の言い伝えによるもの、この世の幼稚な教えによるものであって、キリストによるものではありません。」当時の哲学といえば、ストア学派の禁欲主義でした。パウロはコロサイ2章の後半で言っています。「すがるな。味わうな。さわるなというさだめに縛られているのですか?肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです」と言っています。また、それとは反対のエピクロスの影響を受けた快楽主義がありました。彼らは「肉体はどうせ悪なのだから、悪をしても魂には何の影響もない」と考えました。ギリシャ哲学は終ったように思えましたが、中世のトマス・アクイナスは、アリストテレスの形而上学で神学を構築しました。また、17世紀、啓蒙主義においてもう一度、復活し、キリスト教神学を土台から揺るがすほどの脅威になりました。神の啓示よりも、人間の理性が万物の尺度になったのです。キリスト教会の多くが、批評学を取り入れて、みことばの権威を失わせました。もちろん、哲学的に物ごとを考えたり、論理的に証明するという作業は大事です。しかし、神さまの啓示を否定する神学は「砂の上に建てられた家」であります。人間は被造物であり、無限であられる神さまご自身と神さまのみわざを推し量ることなど不可能です。詩篇の記者は、このように言っています。詩篇84,5「人間とは何ものでしょう?…あなたは人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶせられました」。人間は確かに尊い存在です。なぜなら、神さまがご自身のかたちに似せて造られたからです。でも、所詮、人間ですから、「しばらくの間、現れて、それから消えてしまう霧にすぎません」(ヤコブ414)。

哲学と両極をなすものが神秘主義です。初代教会の頃はグノーシスが強敵でした。グノーシスとは「隠れた知恵」という意味です。彼はいろんな儀式を通して神秘的な体験を求めました。肉体を取られたキリストを否定したために、救いの概念まで異なりました。彼らにとっては、霊的な存在と合一することが救いなのです。近代においては、宗教的な体験を強調したシュライエル・マッハーがその部類に入るかもしれません。現代においては、一部のペンテコステ教会、神の幕屋、イエスの御霊、小羊の群れ、韓国のベレヤが問題視されています。彼らを異端であると言う人もいますが、私は神秘主義という極端の溝にはまっていると思います。奇跡とか聖霊体験を否定はしません。聖書にもそういうものがたくさん記されています。しかし、イエス様のところに「しるしを見せてください。そうしたら信じます」と言う人たちがたくさん来ました。イエス様は「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません」(マタイ12:39)と答えられました。神のみことばを信じることが何よりも第一です。そのときは、何の体験もないかもしれません。それでも良いのです。しかし、神さまは、神のみことばに対してしるしを伴わせてくださいます。奇跡とか聖霊体験は伴うものですから、二番目だということです。いわばグリコのおまけです。昔はおまけがほしくてキャラメルを買いました。どうぞ、神のみことばよりも、奇跡とか聖霊体験を第一に求めないでください。極端の溝には悪魔、悪霊が待ち構えているからです。バランスが必要です。これまでのキリスト教は知的一辺倒でした。知性にだけ訴えてきました。みことばは適用して、身につきます。また信仰は体験してみて、より成長していきます。聖霊や霊的賜物は体験してみなければ分かりません。だから、知識と体験のバランスが必要なのです。

2.物質とアニミズム 

 物質は自然とも言い換えることができます。ヨーロッパは合理主義の影響を受けました。目で見えるもの、計ることのできるものがリアル(現実)だと考えました。産業革命以来、ものすごく自然科学が発達しました。その反動として、「聖書の奇跡や霊的な存在は迷信である」と排除しました。なんと、キリスト教会までも霊的な世界を排除してしまいました。「悪魔とは悪を具現化した神話であって、実際は存在しないんだ。天使もかつてはいたけど今はいないんだ」と言います。彼らは三位一体は唱えますが、聖霊を人格的なお方として認めていません。だから、聖霊のことはほとんど口に出しません。もちろん、聖霊の賜物や、癒しや奇跡も信じません。そういう教会もあるのです。聖書を誤りなきことばであると信じている福音派の教会にもあります。なぜでしょう?それは西欧の衣を着た、キリスト教だからです。西欧の教会は、合理主義を取り入れて、聖書から霊的なものをすべて排除しました。そういう神学教育を受けた宣教師たちがやって来て、日本の各地に伝道して教会を建てました。日本人ほど、真面目で、忠義な人たちはいません。100年間も、同じ教義、同じ考えを踏襲しているのです。日本には数百のミッション・スクールがあります。しかし、そのほとんどがキリスト教という宗教教育になっています。そのためキリストと出会うこともなく、新生することもありません。宗教と実際の生活とは別なのです。ある学校の先生がクリスチャンになりました。教会では創造主なる神を信じています。しかし、彼は学校では進化論を教えています。教会では「神さまが人間を造った」と言い、学校では「人間は猿から進化した」と言います。「どうしていい加減なことを言うのですか?」と聞くと、「いやー、食べるためには仕方がない」と答えます。聖書が書かれたのはヨーロッパではなく、アジアです。だから、悪魔、悪霊、天使、聖霊の働き、癒し、奇跡、預言、夢、まぼろしが当然あるのです。

 物質(自然)と対極をなすのがアニミズムです。精霊崇拝とも言いますが、霊の世界と物質の世界の境目がありません。山や海、動物、大木、死んだ人間も神さまになります。彼らにとって、霊的なものがリアルであり、物質は影なのです。東洋のシャーマニズム、仏教、ヒンズー教がそのような考えです。物質を否定するので、科学や産業は発展しません。世界でどのような国が富んでいるでしょうか?物質の存在をちゃんと認めるキリスト教の世界が富んでいます。なぜでしょう?科学的に物質をとらえ、加工して、生産しているからです。日本人はどうでしょう?頭は西洋の教育を受けています。ところが心はシャーマニズムです。頭では「神なんかいない、迷信だ」と言います。しかし、大学に入るために天満宮に行ったりお守りを持っています。さっきまで生きていた人間が死んだら礼拝の対象になります。西洋の人たちは、全く考えられないそうです。アニミズムの影響を受けたキリスト教はどうなるでしょうか?そういう人たちは、何でも悪霊のせいにします。昔、キリスト教聖霊刷新に属していた頃があります。神奈川県のある兄弟から時々電話がかかってきました。「私は悪霊からこんな妨げを受けました。娘もこういう攻撃を受けました。先生も気をつけてください。」彼のことばの中には、イエス様がほとんどありません。いつでも、「悪霊がどこにいるか、悪霊が何をしているか」に関心があります。もちろん、悪霊はいます。しかし、私たちは悪霊よりも強いイエス・キリストに焦点を合わせるべきです。

 バランスが大切です。悪魔や悪霊もいます。そして、神さまも聖霊もおられます。私たちは霊的存在ですから、両者の影響を受けます。知らないで悪魔によって欺かれている時もあります。だから、私たちは聖書のみことばを読み、神さまと交わる必要があります。そして、祈って聖霊に満たされるならば、悪魔の策略を見破り、勝利できるのです。聖霊の賜物の中に、霊を見分ける力というのがあります。これは精神的、肉体的な病なのか、それとも悪霊から来たものなのか見分ける必要があります。ある人たちはすべての病気が悪霊によるものだと言います。しかし、そうではありません。新約聖書でははっきりと分けています。寒いところにいれば風邪になります。暴飲暴食をすれば腹痛を起すでしょう。不注意で車をぶつけるときもあります。すべてを悪霊のせいにしないでください。それは、私たちの責任です。神さまはそのために、知恵と導きを与えてくださいます。だから物質と霊的なもののバランスが必要なのです。

3.神学と心理学

 イエス様の時代の神学者というのは、律法学者やパリサイ人でした。彼らは律法を厳格に守り、「律法を守れない人は罪人である」とさばきました。ケンブリッジやオクスフォード大学の創設の頃、神学は哲学と並んで、とても重要な科目でした。現代においても、神学は教義を学ぶためにとても重要視されています。神学はどちらかと言うと、神さまとの関係、霊的な面を取り扱います。教会は神学の助けを借りてきました。しかし、心の問題というものが、おろそかになっていたように思います。人間には感情がありますし、人間関係も忘れてはいけません。これまでの神学ではあまり触れられてきませんでした。

神学と対極にあるのが心理学です。心理学は人間の心を取り扱う学問です。フロイトは心理学の基礎を築いた人です。彼は「理性の下には無意識の世界がある。意思よりも無意識にある本能的な欲求が人を動かしている」と言いました。ユングは内向と外向、思考と感情ということを研究しました。アドラーは人間を取り巻く環境が人間を作ると言いました。そこには、コンプレックスの問題があります。これまでは悪霊のせいにしてきましたが、精神的な障害や病気があるということも分かってきました。近年は、良い人間関係を成立するために、カウンセリングの助けが有効であると分かってきました。しかし、キリスト教会は心理学を否定しました。なぜなら、心理学者のほとんどが無神論者だからです。彼らは神さまの存在はもちろん、人間が霊的な存在であることも認めません。彼らは人間をヒトと言って、生物学的に見ています。最も、聖書と違うのは、罪の問題です。その人が悪いことをしたのは、環境や社会のせいだとします。罪を犯したという罪責感が人を病気にしているのであり、「そういうものはないほうが良いんだ」とまで言います。ですから、彼らは患者が教会に行くことを好みません。なぜなら、もっと罪責感がひどくなるからです。そして、恐れや不安の原因を取り除くために、いろんな薬を投与します。

ある姉妹が不慮の事故で子どもを死なせてしまいました。それから、謎の病気になりました。お父さんは彼女をいろんな病院、心療内科のところへ送りましたが全く癒されませんでした。カウンセラーのところへも送りました。カウンセラーは「あなたは悪くないよ。気にしないで、早く忘れなさい」と言いました。しかし、一人の牧師のところへ行ったらたった30分で癒されました。牧師はこのように言いました。「あなたは不注意でした。だからあなたにも罪があります。しかし、イエス・キリストはあなたの罪のために十字架におかかりになりました。イエス様があなたの罪を負ってくださったので、あなたは赦されたのです。」今まで、だれも「あなたのせいではない、あなたの罪ではない」と言いました。しかし、彼女の中には深い罪責感があったのです。それが、彼女を病気にさせたのです。でも、罪を悔い改めて赦され、病も癒されたのです。現代、キリスト教カウンセリングが徐々にではありますが、市民権を持つようになりました。教会は「ああ、カウンセリングなんて!無神論者がやることだ」と目を細めてきました。人は罪を悔い改めることにより新生します。救われたので、確かに霊的には新しくなりますが、心の問題が解決されていない場合があります。その人の深いところにある考えがゆがんでいる。そのために、怒りや恐れ、不安などの悪い感情が出てくるのです。ローマ122「心の一新によって自分を変えなさい」の「こころ」は、思いのことであります。霊は新しく生まれても、思いや考えが古いままのことがあるのです。霊だけではなく、思いや考えも福音化される必要があります。そのために、キリスト教カウンセリングやインナーヒーリング、さまざまな解放のミニストリーが必要なのです。つまり、神学と心理学とのバランスが必要なのです。

4.貧しさと功利主義

 イエス様の時代、エッセネ派という人たちがいました。彼らは荒野や洞窟で生活していました。中世においては、汚れた世を離れ隠遁生活をした人たちがいました。修道士フランチェスコは清貧ということを強調しました。プロテスタント教会ではピューリタンがその影響を受けています。現代ではホーリネスとかきよめ派の教会がそういう傾向があります。聖書には「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです」(Ⅰテモテ610であると書かれています。確かに、お金は偶像になります。でも、貧しいことが清いということにはなりません。「お金がない。お金がほしい。お金をください」と言っている人も、結局、お金が偶像になっています。なぜなら、その人の関心がいつもお金だからです。教会は聖徒たちがささげる献金によってなりたっています。その中から牧師給、伝道費、設備費がまかなわれます。お金がなければ宣教師も送ることができません。なのに、教会が「貧しいことは良いことです」と言うなら、あきらかに矛盾しています。

 貧しさと対極にあるものが功利主義です。アメリカ教会において、功利主義が説かれました。確かに、聖書を読むとアブラハムなどの族長はみな裕福でした。ダビデもソロモンも富んでいました。パウロも「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」(ピリピ419と言っています。私たちはこの地上においても、天国の豊かさを味わうことができます。しかし、功利主義は明らかに行き過ぎています。富が全てであり、成功をお金の大きさではかります。教会も大きい教会が良い教会で、小さい教会は良くない教会です。功利主義がもたらす弊害は何でしょう?祝福が目的になります。「神さまを信じたら豊かになりますよ。神さまを信じたら病気が治りますよ」と言います。しかし、主のために貧しくなる場合もあります。あるときは、病気になってしまうときもあるでしょう。そういう人たちは神さまから呪われているのでしょうか?韓国の教会も以前は貧しかったのですが、70代にリバイバルが起き、国も豊かになりました。韓国のGNPが11位ですが、どうでしょう?豊かになりましたが、離婚率、堕胎率はアメリカに継いでいます。富も必要ですが、富は人を狂わせてしまうことも事実です。箴言308,9貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。ですから、貧しさと富とのバランスが必要なのです。

5.まとめ

 これまで、哲学と神秘主義、物質とアニミズム、神学と心理学、貧しさと功利主義と4つの分野をみてみました。他にも両極端があると思います。真理というのは真中にあると言えます。しかも、真理にはある程度の幅があり、右へ行っても左へ行っても極端という溝にはまります。上へ行っても下に行っても極端になります。極端にはまりこみますと、それは間違った教え、異端のということになります。現代も様々なキリスト教の異端があります。私たちは彼らの教えを受けてはいけません。あの愛の使徒であるヨハネがとても厳しいことを言っています。Ⅱヨハネ1:10「あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。」私たちは真理という枠の中に、とどまる必要があります。あるときは、左に寄ったり、あるときは右に寄ったりします。また、あるときは上の方に、あるときは下の方に寄ったりするかもしれません。行き過ぎていた場合は修正する必要があります。そういう意味で、クリスチャン生活は、両極端の中から自分のバランスを保ち続けるスリルある過程であると言うことができます。

もうひとつは、独善的にならないということです。自分のところの教義を強調するあまり、「私の教団は正しくて、他は間違っている」という場合があります。そして、お互いがキリストのからだなる教会に属していることを忘れてしまっています。分裂と分派こそが現代のキリスト教会に存在している大きな問題です。Ⅰコリント13:9「というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。」人は、所詮、盲人が象を手さぐりするように、「神さまがどんなお方か?」と言っているようなものです。ある教団は「神さまの選び」を強調し、ある教団は「人間の自由意志」を強調します。ある教団は「聖霊による聖さ」を強調し、ある教団は「聖霊の力」を強調するでしょう。また、ある教団は「霊的階層」を強調し、ある教団は「民主主義」を強調するかもしれません。しかし、両方、当たっているのです。教団が、片方だけを強調するなら、信仰が偏ってしまいます。私たちは、賜物は違いますが、キリストにあって1つなのです。いろんな器官があって良いのです。でも、おなじキリストにつながり、おなじ御霊をいただいています。私たちの知るところは一部なので、他者からも謙遜に学ぶ必要があるのです。お互いに補い合うことによって、より完全な奉仕、より完全な信仰生活になるのです。