2010.12.05 能力付与 マルコ3:13-15、Ⅱテモテ2:2

能力付与ということばはあまり耳にしたことがないと思います。英語ではempowering、「人に権限を与える、権威を委譲する」というふうに訳されます。権威の委譲ではちょっと堅苦しいと思います。私はセルチャーチネットワークに属していますが、この「能力付与、エンパワリング」は教会にとって重要な原則の1つになっています。まず、聖書において典型的な例をあげるならば、能力付与がどういうものか分かるのではないかと思います。まず、モーセがヨシュアに能力付与しました。モーセは40年間、イスラエルの民を導きました。しかし、約束の地であるカナンを指導するのは、モーセではなくヨシュアでした。ヨシュアはいきなり新しいリーダーになったのではなく、長い間、モーセの従者として仕えていました。新約聖書ではパウロがテモテを見出し、能力付与しました。さらに、パウロは他の人に能力付与するようにテモテに命じています。Ⅱテモテ2:2「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」もし、このように能力付与を継続していくならば、再生産されて、教会が進んでいくのではないでしょうか?しかし、能力を付与するためには、3つの段階が必要です。第一は行くべきゴール(目標地点)です。第二は今どこにいるのか(現在地)を知らなければなりません。そして、第三はどうやってそこまで行くのかという方法であります。

1.行くべきゴール

 私たちは何をするにしても、まず、ゴールを決めなければなりません。ゴールというのは、目標地点、あるいは青写真です。まず、初めに最終的にどうなるのかという青写真が必要です。たとえば、何か建物を建てるとします。「ここいらに柱を立てて、梁を組んで、屋根をかけよう」という人はいません。まず、設計図を書いて、それにしたがって順番に建てていくのです。犬小屋くらいなら、行き当たりばったりで建てられるかもしれません。今、スカイツリーが建てられています。現在は、500メートル越えています。ゴールは、ムサシ、634メートルのようです。音楽では楽譜、料理ではレシピ、機械では設計図、呼び方は違います。でも、物ごとを始める前に、最終的な完成図を見る必要があります。結婚や子育て、老後の生活にも青写真が必要です。どうでしょうか?行き当たりばったりで、毎日、過ごしておられるでしょうか?では、聖書が望むクリスチャンの完成図、青写真というのはどういうものなのでしょうか?案外、教会では、イエス様を信じて洗礼を受けることがゴールになっています。「ああ、救われた。良かったねー。おめでとう」。「後は何をするんですか?」「日曜日に礼拝を守り、献金して、聖書を読んで、お祈りして、何か奉仕すれば良いです。そのうちお迎えが来ます」。クリスチャンの完成図、最終地点とは天国に行くことでしょうか?そうではありません。天国に行くことが救いの目的ではありません。救われたからには、この地上でなすべきこと、あるいはクリスチャンとしての成長のゴールがあるはずです。クリスチャンとしての完成図、青写真、これが必要です。これがないと、天国を待ちながら生きる退屈な信仰生活を送ってしまいます。

 では、その完成図、青写真とは何なのでしょうか?実は私は10年後に引退することになっています。この教会の主任牧師を辞めて、他のだれかに任せる。そして、私は他の枝教会を牧会しながら、たまには顔を出す。私は今、コーチングをしていますが、将来はもっと多くの先生方をコーチングしたいと思います。どこか亀有の枝教会を牧会しながら、いろんなところに出向いて行く。日本には孤独な牧師がたくさんいらっしゃいます。コントロールするのではなく、友だちになってお助けする。大津の浜崎先生、練馬の小笠原先生がそのような働きをしておられます。とりあえずこの教会の牧師をだれかにバトンタッチするという大切な事業があります。多くの教会はバトンタッチに失敗しています。私たちは聖務表の日課で、旧訳聖書の列王記というのを学びした。残念ですが、ほとんどの王様が失敗しています。ヒゼキヤは比較的、良い王様でした。しかし、その息子のマナセは最も悪い王様でした。主は、マナセが犯した罪のゆえにユダ王国を赦そうとはしませんでした。後継者はとっても重要です。でも、みなさん、きょうは能力付与というテーマで学んでいます。能力付与というのは、リーダー一人だけを育てるのではありません。すべての聖徒たちを弟子として育て、そこからリーダーが生まれ、牧師が生まれて来るのです。つまり、教会員を育てて、底上げてしていかなければなりません。そうしないと、キリストのからだなる教会として、成長することができません。全体が成長していく。そこから、牧師が生まれて来る。これが聖書的なゴールです。

 それでは「クリスチャンとしての、全体的な完成図、ゴールとは何なのか?」と質問が出てくるでしょう。実は、昨年からずっとやって来た「信仰の12のDNA」こそが、そうなのであります。これは、救いから順番にはじまり、最後に管理者、指導者になるように組み立てられています。ちょっとおさらいしてみましょう。第一のDNAは、「救い」でした。福音を信じて救いの確信を持つということです。第二のDNAは、「聖書信仰」でした。誤りなき神のみことば聖書に信仰生活を築き上げるということです。第三のDNAは、「癒しと解放」でした。神の子としてのアイディンテティをしっかり持つということです。第四のDNAは、「キリストの弟子」です。整えられて神さまから与えられた使命を果たすということです。第五のDNAは、「聖化」です。罪から解放されて御霊の実を結ぶということです。第六のDNAは、「共同体」です。一人ではなく共同体として成長するということです。第七のDNAは、「信仰」です。神から与えられた信仰を用いてダイナミックに生きるということです。第八のDNAは、「家庭」です。第九のDNAは、「賛美と感謝と告白の生活」です。第十のDNAは、「教会」正しい教会観です。第十一のDNAは「指導者の育成」です。第十二のDNAは「管理」です。教会のマネージメントです。ちなみに、きょうお話している内容は、第十一の「指導者の育成」に関係する内容です。12では多すぎるかもしれません。昨年から、「二つの翼」というのを学んでいますが、そこは6段階になっています。とにかく、12のDNAこそが、クリスチャンのゴールです。

2.現時点

 ゴール、目標地点が分かってから次にすべきことは何でしょうか?そうです。「現在、自分はどこにいるのか?」ということが分からなければなりません。たまに、「亀有教会に行きたいのですけど?」という電話があります。私は「どちらから来られますか?」と聞きます。たいていは、電車で来ますので、「南口からこのように来れば良いですよ」と教えます。しかし、困るのは、途中で、迷って自分が今どこにいるか分からない人です。「環七まで来てしまいました」と言われると、「そこに何が見えますか?」と聞かなければなりません。とにかく、自分が今、どこにいるのかを知る。それは、クリスチャンの信仰過程にも言えることです。「クリスチャン成長の勘所」というのがあれば良いと思います。洗礼を受けてから、どういう問題にぶち当たるのか?何をクリアーしたら成長するのか?何があるとうまく成長できないのか?信仰の成長というのは、なだらかなスロープを登るというよりは、何かの壁に当たり、そこを乗り越え、ぐっと成長する。ガク、ガク、ガクと段階を経て成長するのではないかと思います。逆に言うと、その壁を乗り越えないうちは、壁の手前で成長がストップするということです。何らかの壁を乗り越えられないために、成長がストップする、あるいは教会に全く来なくなる。そういうケースがあるのではないでしょうか?ですから、問題が起こってからではなく、健康な時に、予防注射をしておく必要があります。「これから先、こういう問題が起こる可能性がありますよ、心してください」とかです。

 しかし、自分がどこにいるのか?これから先、どんな問題があるのか?分かりそうで分からないですね。そのためには診断が必要です。健康診断に行きますと、まず、身長とか体重を測ります。その後、視力、聴力、レントゲン。さらには尿とか血液、血圧、いろんな検査をします。最後に問診というのがあります。お体の具合どうですか?睡眠時間は、ストレスはどうですか?信仰生活の面でもそういう診断するものがあれば良いですね。実は、昨年の関東コーチングで渡辺牧師が「弟子のプロフィール」なるものをあげました。10個の項目があり、左側にボックスがり、チェックするようになっています。各教会によって、あるいは牧師によって表現の仕方が微妙に違いますので、そのまま持ってくるわけにはいきません。でも、先ほどの信仰の12のDNAと照らし合わせながら、クリスチャンの成熟度を測るチェックリストがあっても良いと思いました。これから、いくつかあげてみたいと思いますので、ご自分でチェックしてみてください。第一は「救いの確信はあるだろうか」。自分は救われているので、天国にいつでも行けるということです。イエス様は心の中にいらっしゃるということです。これはクリスチャンとして、最低限、必要です。第二は「聖書を神のことばと信じて、いつも聖書を読んでいるか」ということです。日々、ディボーションをしているかと言っても良いでしょう。第三「心の傷が癒されているか?」ということです。キリストの十字架の血しおを仰いで、悪霊から解放されているかということです。第四は「キリストの弟子として歩んでいるか」ということです。イエス様は救い主だけではなく、私たちが従うべき主であり、王様だということです。第五は「古い自分に死んで、御霊によって歩んでいるか」ということです。「聖霊に満たされているか」と言っても良いでしょう。第六は「兄弟姉妹との関係です」互いに愛し、互いに励まし、互いに建て上げ合う関係が大事です。第七は「信仰を用いて生きているか。祈って勝利しているか」ということです。第八は「家族との関係を大事にしているか」ということです。

 8つも言うと、頭がいっぱいになりますね。でも、ここにはリーダーとか指導者のチェックというものがありませんでした。私たちはリーダーとか指導者というと、この世の価値観で判断してしまいます。この世では、能力があって人々を指導できる人がそうなのかもしれません。でも、神の国においては、目に見えない部分が、まず重要です。また、自分がみことばを読み、自分がキリストに従っているかどうかが重要であります。人を指導するとか、人を動かすというのは二の次、三の次であります。一番重要なのは、神さまとの関係、人との関係、そして心の中にある価値観とか態度であります。人を指導するとか、人を動かすというのは、神さまがくださる賜物であります。神さまの賜物ですから、持っている人もいれば、持っていない人もいます。ですから、みんながリーダー、みんなが指導者にならなくても良いのです。逆に言うと、リーダーや指導者になることがゴールではありません。新興宗教やその他の団体では、幹部になるのがゴールかもしれません。多くの人を導いて、たくさんのものを売り上げて、資格を取って、幹部になっていくのでしょう。しかし、イエス様はそうはおっしゃっていません。イエス様は人々に仕える人がリーダーであり、指導者であるとおっしゃいました。イエス様が教えられたリーダーシップは人を支配するのではなく、人に仕えることから与えられるものです。人々に仕えたら、「ああ、あなたがリーダーになってください」と人々が推薦するのです。この世では、はじめに立場や身分が来ます。「私は偉い立場についているのだから、あなたがたは従え」であります。私たち教会はそうではなく、全く逆です。「ちゃんと自分がイエス様の弟子として生きているか。」「神さまと人々との関係はどうか。」「自分に与えられた使命を全うしているか。」これが重要なポイントです。神さまはこれだと思う人に、リーダーや指導者の賜物を与えられます。なぜなら、イエス様がこの教会のかしらだからです。もし、リーダーや指導者の賜物を与えられていると自他共に認めるならば、それこそへりくだって、その使命を果たすべきであります。しかし、基本は「ちゃんと自分がイエス様の弟子として生きているか。」「神さまと人々との関係はどうか。」「自分に与えられた使命を全うしているか。」であります。

3.どのように

 ゴール、目標地点が定まったならば、そこまでどのように行くかです。たとえば私が、大阪まで行くとします。東京から大阪まで、いろんな方法があります。新幹線で行くか、あるいは飛行機もあります。高速バスもあります。4人くらいですと車が安価です。他に、バイク、自転車、フェリーもないわけではありません。クリスチャンとしてこのようになりたい。こうなるべきだという青写真が描かれたとします。そこまで行くためにはどうしたら良いでしょうか?エペソ人への手紙4章には、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師がいます。もちろん、そういう人たちは大切です。問題は、その教え方であります。キリスト教会の場合、メッセージとかセミナーで、口頭で教えることがメインになっています。神学校へ行っても、教室で一定のカリキュラムをこなすというのが一般的です。でも、お医者さんになるとしたらどうでしょうか?教室で一定のカリキュラムをこなすだけで良いでしょうか?やっぱり、臨床というか実践が必要です。先生のもとについて何年間かインターンをして、それから一人前になります。一人前になるまで、一人か二人殺すかもしれません。分かりません。では、クリスチャンは、どうしたら、キリストの弟子となってそれぞれ与えられた使命を果たすことができるのでしょうか?ただ、一方的に教えを聞くだけでは不十分です。しかし、教会は2000年も教えを中心にして人を育てています。私もその一人かもしれません。では、イエス様はどうなされたのでしょうか?イエス様が12弟子を育てた方法が最も、すばらしいのではないかと思います。イエス様はご自分が天にお帰りになるまで、弟子たちに能力付与をちゃんとなされました。マルコ3:13-15「さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」ここに素晴らしい、イエス様の能力付与の模範があります。イエス様は弟子たちを身近に置きました。そして、福音の宣べ伝え方、悪霊の追い出し方を実際に指導したでしょう。そのとき、技術や知識だけではなく、霊的な権威も与えられました。イエス様は3年半、弟子たちを訓練しました。

 イエス様の教え方は神学校とは全く違います。神学校の場合は3年か4年、知識を詰め込むだけ詰め込み、卒業したらポーンと現場に出されます。伝道師になり、数年後は牧師になるでしょう。その牧師は教会の人たちをどのように教え、どのように訓練するでしょうか?そうです。自分が神学校で教えられたものを小出しにするのです。神学校のテキストの焼き直しです。もちろん、良いものもあるでしょう。しかし、自分が現場で学んでいないので、教室スタイルのものしか提供できません。もし、自分がイエス様の弟子のように、現場で学んでいたら、その教え方も違うでしょう。スポーツはどのように学ぶでしょうか?サッカー、バスケットボール、野球、水泳、何でも良いです。教室で理論もある程度学ぶでしょう。でも、実際はグラウンドや体育館で体を動かしながら学ぶでしょう。料理やお花、陶芸、ピアノ、書道、なんでも良いですが、実技が絶対必要です。そのときに、教えてくれる先生、あるいはコーチが必要です。先生、あるいはコーチはお手本を示しながら、「こうしなさい、ああしなさい」と易しいものから、難しいものへと伝授していくのではないでしょうか?しかし、キリスト教会は西洋的な教室スタイルがメインです。その背後には、「人は教えたら変わる」という知性偏重があるからです。残念ですが、知的な勉強だけでは人は変わりません。また、成長もしません。私はこのことを牧師になって、23年たって、やっと分かりはじめたところです。もう、ダメなんです。私の勉強の仕方は、メッセージとセミナーと本です。大変申し訳ありませんが、私のセルリーダーの任命の仕方は丸投げ方式でした。「リーダーもみなさんが推薦して選んでください。」「セル集会は、何をやっても結構です。」そうやって、特別にリーダー養成をするわけでもなく、また、個別にフォローアップするわけでもありません。本当に丸投げ方式でした。申しあげますが、私が一番不足していたことは、この能力付与でした。人々を養育し、力を与え、やがて自立して、与えられた使命を果たすことができる。このことをほとんどやっていませんでした。

 数年前からやっと、コーチングというものを学びました。メッセージや教えも、もちろん大切です。でも、能力付与をするためには絶対、コーチングが必要です。コーチングをすると、その人が今どの地点にいるか分かります。癒されていない部分もあります。でも、癒しがゴールではありません。健康になってから、神さまが与えてくださったゴールに到達することです。まず、信仰のDNAにあるように、クリスチャンとして霊的に成長すべきでしょう。言い換えると、子どもから若者、そして父に成長していくということです。しかし、神さまがその人に与えられた賜物と使命というものはそれぞれ違います。コーチングはその人と一緒に、神さまがその人に与えた賜物と使命を確認する必要があります。ある人たちは、「はっきり私の賜物と使命はこれです」と分かっています。しかし、ある人たちは「何ですかね?」と漠然としています。神さまに聞けば、必ず、答えてくれます。そのゴールを発見したら、こんどは、その人がゴールにたどりつけるように、コーチすれば良いのです。主役はその人自身であり、コーチはあくまでも脇役です。その人がイエス様と一緒に歩んでいけば良いのです。使徒パウロはテモテの霊的な父であり、またコーチでした。パウロは私に倣いなさいと何度も言いました。ある人は「私の教えることは学んでも良いが、行ないは学ばないように」と言います。しかし、それは間違った教師であり、間違ったコーチです。パウロはテモテを見出し、テモテを訓練し、テモテに能力を付与しました。それだけではありません。パウロはテモテに他の人を訓練し、他の人に能力を付与するように命じています。Ⅱテモテ2:2「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」もし、このように能力付与を継続していくならば、再生産されて、教会が進んでいくのではないでしょうか?自分がイエス様の弟子になる。これもすばらしいゴールです。でも、それだけで終ってはいけません。自分が新しいイエス様の弟子を作り、その弟子が次の弟子を作る。そのような弟子の再生産がなされるべきです。私たちは死ぬまで、天国に行くまでやるべきことがあります。それは弟子の再生産です。