2010.12.12 久しく待ちにし イザヤ25:7-9 

「久しく待ちにし」という讃美歌がありますが、救い主の到来はどれほど、待たれたのでしょうか?前半は、旧訳聖書から、救い主の到来について、預言されている箇所を上げたいと思います。イエス・キリストに関する預言は、あまりにも多いので、代表的なところだけを取り上げたいと思います。後半は、何のためにキリストが来られたのか、その目的について学びたいと思います。イエス・キリストは何を成し遂げるために、この世に生まれたかであります。クリスマスといえば、冬の寒い日、馬小屋に生まれたイエス様というロマンチックなイメージがあります。決して、間違いではありませんが、聖書はもっと、遠大な計画について語っています。もし、遠大な計画が私の救いのためだったということを知るならば、信仰は簡単にぐらつかなくなるでしょう。救いは主観的なものでありますが、同時に、全時代の全世界の人々に対する招きでもあるということを忘れてはなりません。

1.預言されて来られた方

救い主の誕生が最も早く叫ばれたのは、いつ頃でしょうか?創世記3章、人間が堕落した直後です。ですから、いつ頃なのか、はっきりとした年代は分かりません。「人類の最初の時」と言っても良いかもしれません。創世記3章に救い主を預言するみことばがあります。創世記3:15「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」ここで言われている「女の子孫」とは、イエス・キリストであります。「おまえ」であるサタンは、イエス・キリストのかかとにかみつきます。が、女の子孫であるイエス様は、サタンの頭を踏み砕くのです。これは最も古い、イエス様に関する預言です。この預言は、十字架の上で成就されました。かなり前に、「パッション」という映画がありました。サタンはユダを用いて、イエス様を十字架につけることに成功しました。ところが、逆に、十字架はサタンの頭を砕き、致命傷を負わせる結果となったのです。なぜなら、十字架の贖いによって、サタンは人類の罪を告白する権利がなくなったからです。サタンの武器は、人間の罪を告発することです。もう、それができなくなっているということです。

さらには、アブラハムも関係します。アブラハムはイスラエル民族の先祖であり、信仰の父とも呼ばれています。創世記17章で、神さまはアブラハムに「あなたの子孫によって、地の諸民族はみな祝福を受ける」と言われました。実際はアブラハムの子孫であるイスラエルによって、地の諸民族はみな祝福を受けなかったのです。彼らは罪を犯したために、祭司としての役目が果たせませんでした。では、本当のアブラハムの子孫とはだれなのでしょう?イエス・キリストであります。マタイ11「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」と書いてあるのはそのためです。ガラテヤ書3章にあるように、イエス・キリストによって、アブラハムへの祝福が、異邦人に及ぶようになったのです。さらに、救い主はユダの部族から出ると預言されています。創世記4910「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。

さらに時代が進んで、モーセも救い主について預言しています。モーセは紀元前1400年くらいの人です。申命記1815「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。」この聖句は、ペテロがペンテコステの日に引用しました。イエス様はモーセのような預言者として、来られました。モーセはイスラエルの民をエジプトの奴隷から救い出しました。パロ王がイスラエルの民を離しませんでした。しかし、過ぎ越しの羊の出来事により、イスラエルを手放しました。イエス様は神の小羊です。人類をエジプトならぬ、罪の奴隷から救い出してくださったのです。私たちは救われる前は、罪とサタンの奴隷でした。不思議なことに、イエス様を信じて救われてから、「ああ、私は奴隷だった!」ということが分かります。私たちは奴隷の中に生まれ育ったので、麻痺していたのです。あなたは罪とサタンの奴隷から解放されているでしょうか?

こんどはダビデに与えられた預言からです。イエス様はダビデの子と呼ばれました。なぜでしょう?Ⅱサムエル712-13「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」そうです。救い主はダビデの子孫から出て、とこしえの王国を建てるのです。同じような預言が、母マリヤにも与えられました。ルカ132-33「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」アーメン。ダビデはイスラエルの王様でした。そして、イエス・キリストは御国の王様なのです。ハレルヤ!みなさんは、イエス・キリストの王国の民なのです。父なる神さまは御子イエスのために、永遠の御国をご用意されました。私たちは御国が完成した暁には、そこに迎えられるのです。まだ、御国の席は開いています。だから、世の終わりが来ていないのです。でも、締め切りが迫っています。どうされますか?

預言書にはイエス様の生涯にわたる預言が記されています。どこで生まれて、何をして、どのように死ぬかまで預言されています。ミカ52「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」これは、博士たちがエルサレムを訪れたとき、律法学者たちが彼らに示した聖書箇所です。ヨセフとマリヤはナザレに住んでいました。ところが、ローマ皇帝によって「人口調査をするので、生まれた町に帰って登録せよ」という勅令が出ました。身重のマリヤは遥々ベツレヘムに来て、馬小屋でお産することになります。マリヤはローマ皇帝によって動かされたような感じがしますが、神さまがローマ皇帝を動かしたのです。救い主をベツレヘムで誕生させるためです。

イザヤ書は最も、イエス・キリストについて預言している書物です。ですから、学者たちは第五福音書と呼んでいます。イザヤ7章、9章、11章に誕生の預言が記されています。「処女が身ごもっている」「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる」「エッサイの根株から新芽が生え」と書いてあります。そして、最も有名なのはイザヤ53章です。このところには、救い主は全類の罪のために身代わりとなって死ぬとはっきり書かれています。イザヤ5345「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」アーメン。私が救われた頃、イザヤ書53章を読んだとき、あまりぴんときませんでした。「なんと暗い箇所だろうな?」と思いました。でも、その一字一句が、十字架による罪の赦しと私たちの心の癒しについて語っていることに驚きました。イエス様は自分の罪のために死なれたのではなく、私たちの罪、私たちの咎のために死なれたのです。イエス様はまさしく、死ぬためにこの世に来られたのです。

ダニエル書には、いつメシヤがいつ殺されるか預言されています。ある計算によると、AD32年4月6日となります。ゼカリヤ書にはメシヤがろばの子に乗るとか、からだを突き刺されるという預言があります。マラキ書にはメシヤが来る前にエリヤが道を備えるためにやってくると預言されています。旧約聖書、最後のマラキの預言から、新約聖書の間は400年間あります。400年間預言が途絶えていたということになります。イスラエルのほとんどが、メシヤが来るという預言を忘れていました。ですから、「久しく待ちにし、主よとく来たりて」は短くて400年、長くて人類が堕落した時に遡ります。イエス・キリストは突然来られたのではなく、生まれる何千年も前から聖書の中で詳しく預言されていました。歴史上、世界的な「聖人」と言われる人は何人かいます。しかし、生まれる前からその生涯が預言されていた人はキリスト以外しかしません。この数限りない預言を満たすお方は歴史上、たった一人しかしません。仮に、「私がキリストです」と名乗る人がいたとしても、聖書の預言をいくつ満たすことができるのでしょう?ですから、私たちは安心して、イエスこそ、メシヤ、キリストなんだと信じて良いのです。イザヤ25:9その日、人は言う。「見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。」アーメン。

2.来られた目的

イエス・キリストが人間としてこの地上に来られた目的とは何でしょうか?何のために来られたのでしょうか?イザヤ257,8「この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。」この箇所から、3つ取り上げることができると思います。第一は顔おおい、つまり罪を取り除くためです。おおいというのは、顔にかけるおおいのことです。顔おおいのかけられた人は、裁きのもとにおかれているということです。これからさばきをうける人間を象徴しています。エステル記にありますが、ハマンはユダヤ人を撲滅しようと考えていました。しかし、謀反のかどで王様からさばかれました。そのとき、ハマンの顔はおおわれました。その後、彼は木にかけられて殺されました。一方、顔おおいを取り除かれた人とはどういう意味でしょうか?それは、単に「取り除く」というよりも「引き裂く」という意味があります。イエス様が十字架で叫ばれた直後、神殿の幕が上から下まで裂けました。神さまとの隔ての壁がなくなったということです。罪が赦され、もう裁かれないということです。また、おおいとは心のおおいをも意味しています。罪人は心におおいかがかけられ、神さまのことが分かりません。しかし、聖霊によって、「顔のおおいをとりのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行くのです(Ⅱコリント3:18)。テレビで死刑を待つ人のドラマがありました。死刑が確定した人というのは、何をやっても良いそうです。訓練も作業もありません。部屋の中で好きなことをして過ごしています。中には、3年間、執行されない人もいます。最も恐いのは、朝、突然、執行が知らされることです。ですから、彼らは朝が最も恐いのです。ヘブル9:27「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」とあります。私たちは死んだらおしまいではなく、神さまの前に立ってさばかれる運命にありました。ところがどうでしょう?しかし、この27節の前後にすばらしい福音があります。ヘブル926「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです」28節、「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」そうです。イエス様はご自分をいけにえとしてささげ、罪を取り除くために来られたのです。多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられたのです。イエス様を信じている人は、神さまのさばきを恐れることはありません。いつ死んでも大丈夫です。なぜなら、イエス様が代わりにさばかれたからです。

キリストが来られた第二の目的は永遠に死を滅ぼすためです。ヘブル214,15「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」アーメン。イエス様が何故、肉体を取ってこの世に来られたのでしょう?それはご自分が人間と同じように一度、死んで、その死を滅ぼすためです。この死に対してはだれも勝利することはできません。だれしもが死ぬ運命にあります。ある村で、一人の子どもが死にました。そのお母さんは、死んだ子どもを抱いて、お釈迦様のところを訪れました。「何とか死んだこどもを生かしてください」とお願いしました。お釈迦様が言いました。「分かりました。では、この村の、先祖代々続いている家々に行きなさい。そして、死者を出したことがない家があったならば、その家のかまどの灰を持ってきなさい。その灰をかけたら子どもは生き返ります」と。彼女は一軒、一軒「これまで死者を出したことはありませんか」と、尋ねて歩きました。しかし、すべての家には死んだ者がいました。お母さんは帰ってきて「どの家にも死んだ者がいました。死者を出したことのない家など一軒もありませんでした」と悲しげに報告しました。お釈迦様は「人というものはそういうものです」と言われたそうです。しかし、イエス・キリストは死を受け入れず、人類の敵とみなしました。イエス・キリストは死によって死を滅ぼしたのです。十字架について死の原因である罪を贖い、3日目に墓からよみがえりました。そして、二度と死なない栄光のからだを与えると私たちに約束されたのです。黙示録21章には永遠の御国のことが記されています。そこにないものが幾つか記されています。それらは、涙、死、悲しみ、叫び、苦しみです。永遠の御国には、死はないのです。ハレルヤ!私たちのこの肉体は滅びますが、やがて復活し、栄光のからだに変えられます。この福音を信じている人は、死の恐れから解放されます。パウロのように、早く、主のもとへ行きたいと思うようになるのです。

第三は「涙とそしりが取り除かれる」ということです。そしりとは何でしょう?人から悪く言われること、非難されたり、けなされることです。日本人はそしりよりも、恥の方が多いかもしれません。ですから「涙とそしりと恥が取り除かれる」と言っても良いでしょう。イエス様はナインのやもめに、「泣かなくても良い」と言われました。ナインのやもめは一人息子を失ったばかりで、その棺が町から出されるところでした。イエス様は棺に手をかけ「青年よ。あなたに言う、起きなさい」と言われました。死んだ息子を生き返らせて、母親に返されました。私たちの多くの涙は喪失の悲しみから来たものです。大事なものを奪われた、かけがえのないものをなくしてしまった。父や母、子ども、あるいは自分自身、大切な持ち物、地位や名誉かもしれません。「弁償してくれ、取り返してくれ」と泣いたかもしれません。この世では、取り返し不可能です。でも、イエス様はそれを弁償し、それを回復してくださるお方です。イエス様にあって、手遅れとか、取り返し不可能はありません。私は天国に行ったら必ず償われる、報いられると信じています。同じものかもしれないし、それ以上のものかもしれません。それが、あまりにもすばらしいので、失った過去の悲しみを忘れるのです。もちろん、そしりも恥も取り除かれます。なぜなら、直接、イエス様が慰め、イエス様が癒してくださるからです。

私たちはもう「久しく待ちにし」を歌う必要はありません。なぜなら、救い主が既に来られたからです。私たちは救いを受けるのに、天国まで待つ必要はありません。私たちは「御国が来ますように」と祈ります。御国と天国は違います。天国は死んだのち行く場所です。しかし、御国は神の支配です。御国が来ますようにとは、「神のご支配が来ますように」という意味です。神の支配が来たなら、この地上でも天国のような喜び、天国のような豊かさを味わえるということです。あるクリスチャンは、救いとは天国へ行くことだと思っています。私たちがこの世の人に、「イエス様を信じたら天国へ行けますよ!」と伝道します。しかし、今はそれが通じなくなりました。テレビでは有名人が死ぬと、「天国へ行った」と平気で言います。ですから、多くの人は死んだらみんな天国に行くのだと勘違いしています。天国の大安売りで、天国のありがたみがなくなりました。ですから、「イエス様を信じたら天国へ行けますよ!」と伝道すると、「俺を殺す気か!俺はまだ死にたくない」と言われるかもしれません。私たちも気をつけなければなりません。イエス様を信じて天国に行くことだけが救いであるなら、洗礼を受けたあとは、自由気ままに暮らすでしょう。イエス様を信じたら確かに死後、天国へ行けます。でも、天国に行くことだけが救いではありません。私たちはこの地上で、救いを味わい、喜びながら生きることができるのです。では、どうすれば良いのでしょう?天国ではなく、御国、あるいは神の国と言うべきなのです。つまり、イエス様を信じた瞬間、その人は神の国に入るということです。私たちはこの地上で暮らしながら、神の国の住民なのです。私たちは神の国、神のご支配が生活のすべての分野に臨むように祈るべきです。もう1つは、信じたら、神の命、復活の命が与えられるということです。私たちは肉体的に生まれたら、生物学的な命はだれしもがもっています。肉の命はギリシャ語でビオスと言います。バイオロジー(生物学の語源です)。肉の命は猫も犬も、植物も持っています。しかし、クリスチャンは、神の命、復活の命を持っています。この命はギリシャ語でゾエーと言います。神さまの命ですから、永遠で豊かな命です。神の命、永遠の命は天国に行ってからいただくのではありません。イエス様を信じているならば、今、持っているのです。私たちは神の命、ゾエーに頼るべきです。この神の命を用いるときに、快活で聖い生活ができるのです。

今、ハイブリッド・カーが流行しています。ハイブリッド・カーはガソリンと電気で走ります。走りながら、充電します。そして、自動的にガソリンから電気で走ります。電気のときは、とても静かです。私たちも肉の命と神の命の両方を持っています。生物学的な肉の命も必要です。でも、神さまのみこころを行なおうとしたり、神さまの奉仕をするときは、肉の命では限界があります。ぶつぶつ、不平不満が出ます。疲れてやる気がなくなります。でも、神の命、ゾエーを用いるとどうでしょう。神の命、ゾエーが私たちを動かしてくれます。私も奉仕で疲れるときがあります。そのときは祈ります。神さまの命、神さまの力で満たしてくださるように祈ります。すると、急にやる気が出てきます。キリストの救いは天国に行くためだけのものではありません。救いは、この地上でも効き目があるのです。「効き目がある、具合良くいく」ことを英語でwork wellと言います。救いはwork well、効き目があります。そのためにはこのことを理解しなければなりません。クリスチャンは、この世に生きてはいますが、神の国に属し、神の命を持っているんだということを。神のご支配がどの分野にも来るように、神の命がどの分野にも発揮されるように祈りましょう。