2010.12.26 五職の意義 エペソ4:11-15、Ⅰコリント14:23-31

聖書には「キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになった」と書いてあります。この5つの聖霊の賜物を「五職」とか「職務の賜物」と呼んでいます。五職は教会を整えるために神さまが特別にお与えになったものです。しかし、現代の教会において、真っ向から対立する考えがあります。ある人たちは、「聖書が完成したときから、使徒や預言者はもういない」と言います。しかし、ある人たちは、「終わりの時こそ、これらの五職を回復しなければならない。使徒や預言者は存在している」と主張します。ある人たちは、「私は使徒○○である」とか「私は預言者の○○である」と自分に称号を付けて呼んでいます。ちょっと行き過ぎている感じがします。しかし、教会に牧師と教師しか存在していないと主張するならば、バランスを欠いてしまうでしょう。

1.五職の意義

 では、五職あるいは、職務の賜物が教会に与えられた目的は何なのでしょうか?エペソ4:12、13「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、

ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」教会に五職が与えられた目的が2つあります。第一は、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるため」だということです。奉仕の働きをするのはだれなのでしょうか?聖徒たちです。聖徒というのは、教会のクリスチャンです。クリスチャンが、第一線で奉仕の働きをするのです。しかし、奉仕の働きができるためには、整えられる必要があります。「整える」は、英語でequipping と言います。これは装備させるとか、能力を養うという意味があります。第二の目的は、「完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」。これは、信仰、知識、人格的な面が強調されると思います。技術もさることながら、精神面の強さや協調性も必要です。教会は「キリストのからだ」と呼ばれています。キリストのからだとはどういう意味でしょうか?私たち一人ひとりが器官だということです。心臓や手足がからだから独立して存在できないように、私たち一人ひとりはからだにつながらなければ、まともな働きができません。

 五職の人たちは、いわば教会の指導者です。聖徒たちがキリストのからだをちゃんと建て上げることができるように指導するように、キリスト様が立てたのです。しかしながら、現代、使徒とか預言者、あるいは伝道者と呼ばれる人たちは、キリストのからだなる教会を無視して、自分のミニストリーをしています。「私は使徒○○です」「私は預言者の○○です」「私は伝道者○○です」。そういう人たちは、どこかでセミナーを開いたり、大会を開いて人々を集めます。彼らはだれを指導するのでしょうか?牧師を指導すれば良いのですが、教会の枠を超えて、一般信徒にミニストリーをします。一般信徒たちは、あっちのセミナー、こっちの大会に行って、新しいことを学びます。霊的賜物もいただくかもしれません。そういう人たちが教会に帰って来ると、「うちの牧師は遅れている。霊的賜物について無知で力がない」と裁きます。そうすると、牧師はむかっと来て、その信徒を追い出すか、あるいは使徒、預言者、伝道者のミニストリーを批判します。そういう問題がかなり前から起きています。五職の人たちが教会に仕えるのではなく、教会を越えて自分のミニストリーをすると変になるのです。エリヤハウスもある意味では、預言者的な働きです。でも、ちゃんと教会の牧師の理解を得ながら、ミニストリーをしています。それが大事です。

 また、もう1つは新約聖書で言われている教会のサイズです。初代教会のサイズはどれくらいだったのでしょうか?さきほどⅠコリント14章をお読みしました。彼らはそこで、預言を話したり、異言を話したり、あるいは、賛美したり、教えたりしています。100人くらいでしょうか?私はもっと小さな集会ではないかと思います。みなが学んだり、みなが預言したり、その預言を吟味するくらいの大きさです。初代教会はたくさんの家の教会がありました。私たちのような教会堂というのはおそらくなかったでしょう。ですから、Ⅰコリント14章の集会は20人、多くて50人くらいではないかと思います。このところで言われているのは、コリントの町全体のクリスチャンの集まりではないと思います。五職の人たちは、町にある教会を行き巡って奉仕をしていたのではないかと思います。何のためでしょうか?聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。そして、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。五職の人たちが各々教会に関わるときに、キリストのからだとして、バランスの取れた働きとバランスの取れた成長ができるのです。

2.五職の働き

 後半は、それぞれの五職の賜物がキリストのからだなる教会でどのような働きをするのかをお話しいと思います。順番は、預言者、伝道者、牧師、教師、使徒にさせていただきます。第一番目は預言者です。旧訳聖書にはたくさんの預言者が登場します。新約聖書にはアガボという預言者がいました。預言者はどのような働きをするのでしょう?教会に神の御心や将来の方向を示してくれます。ある時は、厳しく罪を糾弾するかもしれません。預言を受けた人は、「パァー」と信仰と希望が出てきます。また、預言者は人々に霊的な賜物を注ぐ器としても用いられます。彼が按手すると、御霊に満たされたり、御霊の賜物を直接授けることができます。リバイバルになるとこういう器が用いられます。でも、欠点もあります。罪を示したり、悪霊を追い出したりしますので、信徒がびくびくして近寄ることができません。では、預言者はキリストのからだなる教会に何をさせるのでしょう?それは、互いに預言することを勧めます。使徒パウロは、Ⅰコリント14章でみなが預言することを強調しています。しかし、ここで言われている預言と預言者の預言とは違います。Ⅰコリント14:3「ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。」一般にだれでもが話せる預言は3つの働きがあります。第一は徳を高める。人々の人格や信仰を建て上げるということです。第二は勧めです。これは励ましとも言えますが、人々がさらに神さまに近づくことができます。第三は慰めです。神さまは預言を通して、私たちの心を癒してくださいます。この預言は未来を予知したりするものではありません。励まし程度の預言ですから、安心してください。そして、神さまは3つの方法で語ってくださいます。Ⅰコリント2:9「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」第一は耳ではなく、霊の耳に語ってくださいます。耳で聞こえる肉声ではありません。霊に1つか2つのことばが与えられます。完全な文章ではありません。1つか2つの単語です。浮かんだことばを口に出すと、次のことばが出てきます。預言のギリシャ語は「湧き上がる」と意味があります。勇気を出して、そのことばを口に出すと、次のことばが出てきます。さらにことばが出てくると、物語になります。第二は目ですが、肉眼ではなく霊的な目です。霊に絵やビジョンがはっと見えます。第三は心です。これは印象、あるいは直感です。私たちは「ああ、これは自分の感情だ」と思って退けるかもしれません。しかし、聖霊が与える印象があります。預言者は何をするのでしょうか?キリストのからだの中で、互いに預言をして、徳を高めるように指導するのです。

第二は、伝道者です。この人はどんなところへ行っても福音を語ることができます。「滅び行く魂の救い」こそが、彼のキーワードです。大勢の前でも、また個人でも、いつどんな時でも、福音を語って人々を救いに導こうとします。彼のメッセージはとても単純です。でも、彼が語ると人々が霊的に感動し、「信じます」と、前に出てきます。多くのリバイバリストは、伝道者です。DL.ムーディ、チャールズ・フィニー、ビリー・グラハムがそうです。天に召されましたが本田弘慈先生がそうです。伝道者が教会に来ると、「あなたは伝道していますか?あなたも伝道しなさい」とチャレンジします。教会が内向きになっているとき、伝道者を呼ぶと失われた魂に関心を持つようになります。伝道者の人が牧師になるとどうでしょうか?外にばかり出て行って、牧会が留守になります。いつもメッセージが単純なので教会員が養われません。栄養失調がちになります。でも、教会が外向きになって魂を捕らえることのため、とても重要な賜物です。これまで、私たちは伝道というと、伝道者を呼んで特別集会を開いたり、大きなクルセードに人々を誘いました。昔はともかく、現代ではそういう方式はあまり効果的ではありません。多額の予算をかけても、人々が来ません。では、「四つの法則」使って誰か人を捕まえて、個人伝道できるかというとこれも無理です。どうすれば良いのでしょう?今は人間関係を通して、福音を伝えることが効果的だと分かってきました。教会はキリストのからだです。一人ではなく、からだを通して伝道すれば良いのです。からだの中にはいろんな器官(賜物)があります。福音を語れなくても、もてなしたり、仕えたりして関係を持つことができます。他に、口の達者な人が語れば良いのです。でも、その前に人間関係が築かれている必要があります。一人ではなく、からだの伝道、関係中心の伝道が今、注目されています。伝道者の賜物人は、教会の人たちを失われた魂に関心を持たせます。私たちは、いろんな賜物を提供して、失われた人に福音を伝えるべきです。

第三は牧師です。牧師は人々の霊的な状態に気を配ります。そして、みことばを与え、彼らを養います。ちょうど、羊飼いのようです。牧師は同じ場所で、同じ会衆でも、ずっとやっていくことができます。人々を養い、養い、さらに養います。欠点は何でしょうか?信徒が栄養過多、太りすぎて活動が鈍くなるということです。だから、使徒や伝道者が来て、お尻をひっぱたくことが必要です。以前は、人々のお世話をすることが牧師だと思われてきました。神学校でも、みことばによって、人々を慰め、人々に仕えることが牧会だと教えています。しかし、最近は、「真の牧師とは、人々を整え、彼らが奉仕できるようにすることなんだ」と弟子訓練を強調するようになりました。つまり、お世話型の牧師から、訓練型の牧師になるということです。もし、牧師が問題の火を消す消防士だったらどうでしょうか?四六時中、電話から離れられず、しょっちゅう出かけて、火を消すというのはどうでしょうか。もちろん、ある時は、そういうことも必要でしょう。でも、教会員が訓練され成長し、自分たちで問題を処理できたら何と幸いでしょうか?ですから、問題が起こる前に、教えと訓練を与えておく必要があります。

牧師一人では限界があります。神さまは、キリストのからだなる教会において、互いにケアーをするように願っておられます。聖書には「互いに励まし、互いに勧め、互いに慰め合い、互いに助け合い、互いに愛し合い、互いに祈り合い、互いに赦し合いなさい」とたくさんの「互い」が記されています。昔の教会は、牧師にみんながぶらさがっている。まるで、長良川の鵜飼いのようです。一人、いったいどれくらいの鵜を操作できるのでしょうか?ある人は「牧師が50人、牧師夫人が50人と100名まで行ける」と言いました。そして、自分に教会員を依存させることによって、満足する。牧師はお世話することに喜びを感じ、教会員はお世話されることに喜びを感じる。これは、キリストのからだなる教会ではありません。からだの中で、互いにケアーする。互いに重荷を負い合う。エディ・レオ先生は、「ボディ・ライフ(からだの生活)」であると言いました。初代教会は毎日、だれかと合って、毎日、祈り合っていました。教会の兄弟姉妹が、肉親以上に親しかったのです。ボディ・ライフ(からだの生活)これが、理想的な教会です。

第四は、教師です。教師は聖書を学問的に良く学び、それを体系的教えることができます。教師は書斎にこもって本を読むのが大好きです。ギリシャ語やヘブル語、いろんな人の学説、いろんな資料から、みことばを解き明かします。「そんな問題は、重箱の隅をつっつくようなものでしょう」と言われても、全く意に介せず、とことん研究します。こういう人は、神学校の教授に向いています。欠点は何でしょうか?それは、教え過ぎるということです。そのかわり実践や適用がほとんどありません。そのため、その教会の信徒は頭でっかちになります。教師の賜物の先生は、元雪ノ下教会の加藤常昭先生、ホーリネスの小林和夫先生、教団教派の中にたくさんいらっしゃいます。教師の賜物は、勧めの賜物とか牧師や伝道者と連携するならば、豊かに用いられます。一人だけだと、象牙の塔にこもって、ひたすら研究に没頭することになります。教師の賜物は、自分が発見した真理を実践し、適用するように教会に働きかけていけば良いのです。

それでは、キリストのからだなる教会において、教師はどのようなことをさせる必要があるのでしょうか?教師の賜物は、自分も確かに教えるでしょう。しかし、それだけだと教会員は真理を自分のものにすることができません。ある人は、「口で教えられたことを聞くだけだと3%しか残らない」と言いました。しかし、自分で教えるならばどうでしょう?50~100%残るのではないでしょうか?コロサイ3:16「知恵を尽して、互いに教え合いなさい」と書かれています。では、どのように教え合うのでしょうか?セルチャーチで最も多いのが、講師が語った後、小グループで分かち合う時を持ちます。そこで、最も教えられたこと、あるいは理解できなかったところなどを分かち合うのです。そうすると、教えが頭から心の中に入ってきます。また、小グループでテキストを用いて、これはどういう意味なのか、どう適用したら良いのか、互いに教え合うのです。そういう場合、一人の人が一方的に教えるというよりも、みんなの意見や考えを引き出すようにしなければなりません。教える賜物のある人は、自分一人で語る傾向があるので要注意です。私は聖契神学校に入ったとき、ピーターソン校長先生というすばらしい教師に出会いました。これまでの先生は自分が得た知識を学生たちに提供するというものでした。しかし、ピーターソン先生は逆に質問して考えさせます。また、自分で調べて来るように課題を出します。そのとき、「イエス様の教え方は、むしろ、こうだったんじゃないか?」と思いました。西洋の教え方は頭脳だけに偏っています。しかし、東洋の教え方、イエス様もそうですが、考えさせて体験的に教える。自分で考えて、答えを出していくようにする。「私などはまだ、まだだなー」と本当に思います。とにかく、教師の賜物の人は、キリストのからだなる教会で互いに教え合うように勧めます。

最後は使徒です。本来、イエス様のもとにいた12弟子が使徒です。でも、バルナバとか直接イエス様と会っていない人たちも、聖書では使徒と呼ばれています。使徒の賜物は何でしょうか?使徒はまだ伝道されていない新しい地に出かけ、福音を宣べ伝え、教会を設立します。そして、キリスト教の教理を分かり易く教え、教会の基礎を作ります。使徒は、5本の指の親指のような存在です。親指は人指し指、中指、薬指、小指、どれにも接することができます。他の指でそれをするなら、できても2つか3つくらいです。うまく動きませんし、顔までゆがみます。でも、親指は自在です。これはどういう意味かと言うと、使徒は預言者、伝道者、牧師、教師、何でもできるということです。使徒パウロがそうでした。パウロは牧師であり教師であり、伝道者でした。でも、使徒には1つだけ欠点があります。同じところにずっと留まっていることができません。教会ができたら、新しいところに出かけて、また新しい教会を設立したくなります。使徒的な人は、1つの教会だけではなく、日本の教会、世界の教会を視野に入れています。「すべての国民を弟子とする」。これが彼のキーワードです。

 では、キリストのからだなる教会において、使徒の賜物はどういう働きをするのでしょうか?そうです。使徒的な人が来ると、人々の視野が広くなります。私たちはいつも、自分の教会、自分の群のことしか考えません。使徒的な人は、「今、日本の教会はどうなのか?世界の教会はどうなのか?」ということを教えてくれます。そして、教会が持つべきビジョンとか、いろんな戦略を与えてくれます。教会はどうしても、保守的になり、停滞してしまいます。しかし、使徒的な人が教会に来ると、カンフル剤が打たれたように、「おおー!」と奮い立ちます。日本では奥山実先生、草加の天野先生、それから天に召されましたけど石原先生がそうではないかと思います。使徒的な牧師は、牧師を指導する牧師でもあります。だから、そういう人は、教会を行きめぐり、教会を活性化する使命があります。

 このように神様は教会に五職の賜物を与えられました。それは教会を健全に建て上げるためです。牧師は教会の指導的な立場におりますが、牧師の中にも5種類の人がいます。使徒的な牧師、預言者的な牧師、伝道者的な牧師、いわゆる牧師、教師的な牧師です。さきほど申しましたが、自分の賜物だけを強調したならば、かならず偏りが出てしまいます。もし、自分と違った賜物の先生と会いますと、刺激を受け、視野が広くなります。当教会にも様々な立場の先生をお呼びしますが、そういうチャレンジを受けるためであります。ですから、神様はキリストのからだなる教会が、バランスを取りながら成長できるように、5つの職務の賜物を与えておられるということです。最後に、五職の賜物を矢印で説明するならばどうなるでしょう。ここに1つの教会があるとします。預言者は人々を神さまに向けさせようとします。「神さまに祈り、神さまから知恵と賜物を得なさい」と言うでしょう。ですから、預言者はからだを上に向かわせる人です。伝道者はどうでしょうか?伝道者はキリストを知らないこの世の人たちのところへ、からだを向けさせます。ですから、外向きであります。牧師は教会員を育てつつ、互いにケアーし合うようにさせます。ですから、それは内向きであります。教師は人々を教えて、成長させるように仕向けます。ですから、からだを前向きにさせます。では、使徒はどうでしょうか?使徒的がいないと、大きな絵、ビジョンが見えません。神さまの目的も分かりません。でも、使徒は建築科のように全体を見せてくれます。英語ではwholeです。ケーキを丸ごと、ホール・ケーキと言います。五職の賜物は、私たちを上向き、外向き、内向き、前向き、そして、全体に目を向けるように導いてくれます。このように、五職の賜物がキリストのからだなる教会に関わるとき、バランスよく成長できるのです。