2010.11.14 世の終わりの教会 マルコ13:5-23

伝統的な教会は罪の世からできるだけ離れて、福音宣教のみに力を注いできました。しかし、これまで3回のメッセージで教会がこの世においてどのような使命があるのかお話ししました。私たちはむしろ、この世に出て行って、地の塩、世の光として御国の価値観を浸透すべきです。また、私たち自身が教会であり、私たちが行くところで教会を行うということです。そして、ビジネス、政治、芸術いろんな分野に、神さまの良きものを運ぶ存在として教会があることも学びました。このように、私たち教会は、この世に御国が来るように励むべきであります。そして、この4回目はこれまでのメッセージと矛盾しているようなことも話さなければなりません。まことに残念ですが、私たちがいくら良くしようと思っても、この世は、まもなく終わりを告げます。ですから、世の終わりの時代に住む者として、私たちはどのように生きるべきなのでしょうか?「世の終わりの教会」と題して、メッセージさせていただきます。

1.惑わされないように

世の終わりにどのようなことが起こるのでしょうか?イエス様はマタイ、マルコ、ルカの福音書で世の終わりの前兆について語っておられます。まず、戦争や民族間の争いがあります。それから、方々で大地震やききんが起こります。しかし、それらは産みの苦しみの初めに過ぎません。さらにクリスチャンに対する迫害が起こります。それから「かつてなかったような苦難」がやってきます。それは黙示録に記されている7年の患難であろうと思います。そのときは、エルサレムに神殿が再建され、「荒らす憎むべきもの」が、その真中に立って、世界を支配するでしょう。紀元70年に起こったローマによる迫害に似たようなことが、患難の時代にも起こるということです。3つの福音書で共通して言われていることは「惑わされないように」であります。マルコ135「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそそれだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」とあります。また、マルコ1322「にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。」世の終わりには、にせ宗教、にせキリスト、にせ預言者が現われ、多くの人を惑わすということです。少し前に「ノストラダムスの大予言」というのがありました。人類は1999年で滅びることになっていました。それで終ったかなーと思いきや、「2012年人類滅亡説」が出てきました。これはマヤ文明の神話からきたもので、かなりオカルト的です。確かに、終末は近づいていますが、教会も同調して、そういう説を唱えてはいけません。ものみの塔のエホバの証人は、何度も主の再臨と世の終わりを預言しましたが、ことごとくはずれてしまいました。もう、完全な異端です。世の終わりの恐れをあおって、布教活動しています。

また、にせキリストとは、自分が救世主であるという意味です。韓国の文鮮明がまさしく、そうであり、多くの日本人が惑わされています。統一教会は、聖書を使ってはいますが、全くひどい解釈です。日本人は聖書の知識がないので、「聖書にありますよ」と言われると、ころっと騙されてしまいます。海外では「自分はキリストだ」と名乗る人が1000人以上もいるということです。日本でも、それに近い人たちがいます。様々な新興宗教の教祖がそうです。「幸福の科学」の大川なんとかという人も困った人です。大和カルバリーの大川牧師も有名ですが、本の数ではあちらの方がまさっています。新興宗教はお金儲けの手段になりやすいようです。でも、今、最も脅威になっているのが「ニュー・エージ」です。これは一口に言えませんが、汎神論的な宗教です。東洋のヨガや禅とも似ていますが、チャネリング(降霊術)や超能力を行います。「啓発セミナー」というのが会社で開かれていますが、「自分が神のようになって、能力を現す」ことが目的です。音楽や漫画、映画、さまざまなところに、ニュー・エージの思想が現れています。背後にスポンサーがいるのかもしれません。私たちクリスチャンは神の子でありますが、神さまと一体になるわけではありません。神さまの人格と私たちの人格は別々です。しかし、ニュー・エージの場合はこうです。自分が無になって、宇宙の大霊と一体化されることにより、自分が神の一部になるのです。私たちは無になってはいけません。イエス様のご人格と親密な関係になるのです。

教会は聖書の真理を保つところであります。最近、セルチャーチとか、ハウスチャーチとか小さなグループが強調されがちです。悪いことではありません。でも、エペソ4章にはキリストのからだが健康に成長するために仕える五職の人たちがいることを明記しています。エペソ411「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」とあります。私はいろんなセミナーに出かけて、学ぶタイプの牧師です。30年前は韓国のリバイバル聖会に良く行きました。弟子訓練や教会成長、癒しの集会、カウンセリングなど、あっちこっち行きました。今も行っています。この間は若木先生が強く勧めるので『二つの翼』というのにも行きました。最近、よく言われることは、健康な教会を形成するためにはバランスが重要だということです。ある教会は預言を強調しすぎて、信仰的におかしくなっています。また、ある教会は昔のリバイバル集会を今も続けています。いくら、お金をかけても教会につながりません。私は癒しも預言も信じます。でも、教会はバランスがとれていなければなりません。これは人間のからだにも言えることです。人間のからだが健康に成長するためには、バランスのとれた食物と適度な運動です。教会の真理の土台は聖書です。終わりの時代、「聖書が何と言っているのか?」ここにいつも立ち返らなければなりません。昔、Back to the future.という映画がありましたが、大切なのはBack to the Bible.であります。ある人たちは「聖書は古い、時代遅れだ」と言いますが、そうではありません。マルチン・ルターは「聖書は古いものでもなければ新しいものでもない。聖書は永遠のものである」と言いました。キリスト教会の中でも聖書をまともに信じない教会があります。マルコ1331「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」終わりの時代だからこそ、私たちは永遠に変わらないみことばに信頼を置くべきなのです。ハレルヤ!

2.迫害の中で証をする 

世の終わりに必ず迫害がやってきます。しかし、それは福音を証するチャンスになるということです。マルコ139-10「だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。」福音宣教と証と、どこが違うのでしょうか?福音宣教とは福音を語ることに力点が置かれます。こういう会衆の前で、文書や放送などいろんな手段があります。牧師や伝道者は福音を論理的に分かり易く語ることができます。でも、多くの人たちは福音に対して耳や心を閉ざしています。そういう人たちに「宣教大会や教会に行こう」と誘ってもなかなか来ません。証というのは、私たちが自分の体験を通して、福音を語るということです。しかも、対象の人たちは少人数であなたと何らかの関係のある人たちです。昔はどこかの大きなホールや競技場で福音を語りました。路傍で福音を語っても人が救われる時代でした。しかし、今は関係の時代です。人間関係を築いて、そして福音を証することが、効果が上がっています。語り方はフォーマルではなく、とてもぶっちゃけた話し方です。説教というよりも、「俺はこうだった。私はこうだった」と自分の体験を分かち合うことが主流です。どうでしょう?自分が健康になったという自然食品とかサプリメントを私たちは隣人に「これ良いよー」と、勧めたくなるでしょう。私たちは同じノリで、イエス様を証することが可能なのです。

しかし、ここで言われていることは、強制された証です。「お前は、なんでキリストを信じるのか?話してみろ!」という感じです。今の時代は、信教の自由がまだ保障されています。しかし、終わりの時代は、信仰を持っているがゆえに捕らえられたり、死に渡されたりするということがあるということです。ローマの時代は、キリスト教に対するものすごい迫害がありました。使徒の働きを見ると、パウロは何度も捕らえられ、そのたびごとに証をしています。大勢の裁判の席の場合もあれば、少人数の場合もありました。使徒の働き16章では、牢獄の中で看守に証をしました。使徒の働き27章では荒れ狂う船の上で証をしました。パウロの場合は福音宣教と証の境目がはっきりしません。それでも、機会あるごとに自分の体験談と共に福音を語りました。私たちに「そんなことができるだろうか?」という心配があります。でも、イエス様は何とおっしゃっているでしょうか?マルコ13 11「彼らに捕らえられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。」ハレルヤ!聖霊が、私たちに何を言うべきか教えてくれるというのです。みなさん、説教とか公の証は準備しておくべきです。なぜなら、限られた時間内で話さなければならないからです。原稿用紙に書いて、横道にそれないように準備すべきです。でも、突然の証は原稿なしで、やらなければなりません。「わぁー、頭、真っ白だ」という時もあるでしょう。そのときに「主よ、何をどのように話すべきでしょうか?」と一寸、聞くのです。その後は、主にゆだねます。そうすると、口を開いたとたん、何かが出てくるということです。相手もびっくりするかもしれせんが、当の本人もびっくりします。「私は、なんとすばらしいことを語っているんだろう?」と驚きます。まさに、聖霊様の超自然的な働きです。

第二次世界大戦のときも、キリスト教会が迫害を受けました。ホーリネス系の牧師はそのままストレートに語り、牢獄の中で殉教した先生もいます。それも、1つの道ですが、聖霊様が与える知恵で弁明することもできます。銀座教会の牧師で、神学博士の渡辺善太という先生がおられました。先生は官憲に呼ばれ「キリストが神だとしたら、天皇はだれか?」と聞いたそうです。「人間だ」と答えるならば、即、牢獄行きです。渡辺先生は一寸、目をつぶってからこう答えたそうです。「うんー、畏れ多くてお答えできません」と。すごいんじゃないでしょうか?否定もしていないし、肯定もしていません。これこそ、聖霊様がくださる知恵ではないかと思います。イエス様は「蛇のようにさとく、鳩のように素直でありなさい」と言われました。使徒パウロはあるときは、「自分は純粋なユダヤ人だ」と言いました。しかし、あるときは「自分はローマ市民権を持っている」と言いました。どちらも嘘ではありません。語るべき対象によって使い分けているのです。私たちは年下に語る口調と、年上に語る口調を変えるべきです。学校の先生はどうしても「上から目線で語ります」。私もそうなるときがあって、注意されます。セールスマンで成功する人というのはどちらかと言うと自信満々の人ではありません。誠実で熱心だけど、どこか弱そう。「買ってあげようかな」と、同情したくなる。こっちは「あのセールスマンを助けてあげた」と思っています。ガンガン強気な人よりも、どこか弱そうな人の方が成績が良いようです。私たちは演技してはいけませんが、自分が罪人の頃のことを思えば、反抗的な人のことを思いやることができます。反抗的な人ほど、一度、信じたら信仰が強くなります。「何でも信じるよ」と言う人はかえって危ないですね。とにかく命を大事にしながら、迫害の中で証をするのです。しかし、命が取られる時が来たなら、それも感謝です。どうせ、殺されても、彼らは肉体しか殺せないのです。魂を殺せるのは神さまだけです。神さまを恐れていたなら、人は恐れる必要はありません。どうぞ、機会を逃さずに、逆に機会を捕らえて、福音を証する者となりましょう。

3.きよい生活をする 

マルコ1333「気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。」マタイ25章には「10人のおとめのたとえ」が書かれています。花婿が来るのが遅いので、かしこい乙女も愚かな乙女もみんな眠ったと書いてあります。末の時代の教会は、霊的に眠ってしまう教会が多くなるということです。世の中は悪くなり、教会は霊的に眠ってしまう。これはどういう意味でしょう?教会堂やキリスト教の組織はあります。しかし、命がないのです。そして、世俗主義に陥って塩気のない教会になっています。ヨハネ黙示録には7つの教会が記されています。いろんな解釈がありますが、ラオデキアの教会は世の終わりの教会を象徴しているとも言われています。ラオデキアの教会とはどんな教会でしょうか?熱くもなく、冷たくもない教会です。「自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」と言っています。しかし、実際は貧しくて、盲目で、裸の者であることを知りません。そして、イエス様を外に締め出している教会です。イエス様を信じていない教会があるのでしょうか?ヨーロッパの教会がまさしくそのような状態です。アメリカの教会も後を追っています。一番深刻な問題は、キリスト以外にも救いがあるとする多元主義的な教会です。「ヒンズー教も仏教も、イスラム教も同じ神さまを仰いでいる。現われ方、啓示の仕方が違うだけなのだ。私たちキリスト教だけが絶対と言ってはいけない。彼らにも救いがある。私たちは彼らと交わることが可能である。」カトリック教会やWCCに属しているエキュメニュカル教会がこのようなことを言います。とんでもありません。世の終わり、「背教の教会が起こる」と言われています。やがて、宗教が統一され、そういう教会が吸収されてしまうでしょう。ヨハネ146「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」使徒412「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」だから、私たちは霊的に目覚めていなければなりません。眠ってはいけないのです。

マタイ24章には「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります」と書いてあります。また、Ⅱテモテ31-4「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり…」とあります。新聞やテレビのニュースを見ると、ドラマなのか本当のことなのか区別がつかなくなりました。犯罪がエスカレートして、殺人事件が毎日のように報道されています。「この間もバラバラ死体があったけど、これとあれとは違うのか?」ということがよくあります。「オレオレ詐欺」もありますが、最近は高齢者の年金をそのままいただいているというケースもあります。日本は長寿国と言われていますが、本当はどうなんでしょうか?不遜な者、神をけがす者、情け知らずの者…私たちはこういう人々を避けて、聖い生活をしなければなりません。もちろん、彼らに対しても証をしたり、伝道しなければなりません。でも、彼らは福音を足で踏みにじり、向き直って私たちを引き裂こうとするでしょう。世の終わり、聖い者たちはますます聖くなり、汚れた者たちはますます汚れの中に落ちていくでしょう。クリスチャンでもそうです。世の終わりは迫害と誘惑がものすごく強くなります。ですから、命がけで信じるか、それとも信仰なんか捨ててしまうか、2つに1つになるのです。イエス様を信じて、神さまと結ばれ命にあふれた正しい生活をするか?それとも、自分の腹を神として、この世の罪と快楽の中でどっぷりと浸かって暮らすか?2つに1つです。一方は永遠の御国ですが、他方は永遠の滅びです。一方は報いと栄光の喜びですが、他方は裁きと暗やみと恥です。コロサイ32,4「あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。…私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」アーメン。

何故、私たちは霊的に目をさまし、きよい生活を心がけるべきなのでしょうか?それは、イエス様が来られたとき、信仰のある者は天に引き上げられるからです。マタイ2437-41「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。」これは携挙と呼ばれている箇所です。世の終わり、イエス様が来られるとき、携挙が起こります。でも、それがいつなのか?神学的に物議をかもすテーマです。ある人は大患難の前だと言うし、ある人は大患難の途中、またある人は大患難の終わりであると言います。私は奥山実先生の説がすばらしいと思います。クリスチャンであっても携挙を信じている人と信じていない人がいます。つまり、イエス様が来られたとき、自分は引き上げられる携挙を信じている人が、携挙される。しかし、「そんなものはない」と信じていない人はそのまま残される。残されたクリスチャンも信仰はあります。でも、大患難を通して、ある場合は、殉教して救いを全うするということです。ですから、世の終わり、一番最初に起こるイベントは「携挙」だと言われています。世の終わり、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしています。悪いことではありません。でも、人々は世の終わり、イエス様が来られると言うことを信じて準備していません。洗礼を受けてクリスチャンになった人も、この世の中でべったりと暮らしているかもしれません。もう、教会の礼拝にもしばらく行っていないかもしれません。そういう人は霊的に眠っているので、取り残されてしまうでしょう。私たちはヨハネ黙示録の最後にあるように、「主よ、来てください!」と待ち望む教会になりたいと思います。そのためには、私たちは一緒に集まり、共に励まし合う必要があります。ヘブル1024,25「また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」