2010.10.03 賛美の生活 詩篇100:1-4 

前回は礼拝についてお話ししましたが、2回目は賛美についてです。賛美はことばでも歌でも両方とも可能です。でも、きょうは歌う賛美の方にポイントをあてたいとおもいます。礼拝と賛美は分けることができません。なぜなら、賛美自体が主をほめたたえる行為だからです。日本人ならご飯と味噌汁、アメリカ人ならパンとミルクみたいな関係です。でも、どうでしょうか?賛美は礼拝の前座みたいに扱われる場合があります。どこの教会か分かりませんが、司会者がこのように言ったそうです。「まだ全員の方がそろっていないようですので、皆さんが集まるまで賛美でもして待ちましょう」。これは良くありません。賛美が時間待ちみたいになっているからです。そうではありません。賛美は礼拝の一部なのです。いや、賛美が礼拝と言っても過言ではありません。きょうは、賛美というものが一体どういうものなのか、ともに学びたいと思います。

1.賛美とは?

賛美とは何でしょう?詩篇1001-4「全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。」ここで分かることは、私たちが近づくとき、携えていくものであります。喜び歌いつつ、賛美しながら神さまの前に近づくのであります。ある人たちは、賛美は神さまに近づく手段だと言います。しかし、そうではありません。私たちが聖なる神さまに近づける手段は、主イエス・キリストの血潮しかありません。イエス・キリストが、私たちの罪を贖ってくださったので、私たちは罪赦され、神さまのもとに近づくことができるのです。旧訳聖書のレビ記を見ますと、罪の赦しのためのいけにえ、献身のためのいけにえ、和解のためのいけにえなど、たくさんのいけにえがあります。しかし、世の終わり、イエス・キリストが一回ですべての贖いをなしてくださいました。ですから、私たちは主イエス・キリストの血潮を通して、大胆に神さま御座に近づくことができるのです。私たちは一週間前、いろんなことをしました。さっきまで喧嘩をしていたかもしれません。汚れた思いを抱いていたかもしれません。でも、私たちはイエス・キリストの血潮を通して、罪きよめられ、主の前に近づくことができるのです。そして、そのときに携えていくのが、賛美であります。喜び歌いつつ、賛美しながら神さまの前に近づくのであります。ハレルヤ!

賛美の中にいくつかの種類があります。一番、多いのが神さまの救いをほめたたえる賛美です。出エジプト記15章にミリヤムが歌った賛美が記されています。出エジプト151-2「主に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに。主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。」これは、神さまがエジプトから自分たちを救い出してくださった、すばらしい力ある主のみわざをほめたたえています。また、Ⅰサムエル記2章にはハンナの賛美があります。ハンナは不任でありましたが、神さまによって、子どもが与えられました。そして、その子を神さまにささげたときに、この賛美をしました。Ⅰサムエル21-2「私の心は主を誇り、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私はあなたの救いを喜ぶからです。主のように聖なる方はありません。あなたに並ぶ者はないからです。私たちの神のような岩はありません。」ハンナの賛美は、新約聖書のマリヤの賛美ととても良く似ています。ダビデやソロモンもたくさん賛美を作りましたが、一番、多いのが詩篇であります。詩篇は圧倒的に「嘆きの歌」が多いのですが、後半には「たたえの歌」があります。ある場合は、1つの詩篇において、前半が嘆きで後半がたたえで終わっているものもあります。旧約の人たちは、詩篇に抑揚をつけて神殿や会堂で歌ったのではないかと思います。預言書の中にも賛美があります。

キリスト教会ではどうでしょう?バロック音楽やコラールという拡張高いものもありました。一方、宗教改革者マルチン・ルターは当時の酒場でよく歌われていた曲に、詩篇の歌詞を載せました。『神はわがやぐら』というのが有名です。民謡の曲を借りて讃美歌にしたのもたくさんあります。18世紀、ジョン・ウェスレーによってリバイバルが起こりました。兄弟のチャールズ・ウェスレーが、みんなで歌えるような讃美歌や聖歌をたくさん作りました。その後、アメリカでリバイバルが起こると、いろんな聖歌が作られました。不思議なことに、教会にリバイバルが起こると新しい賛美が生まれるのです。最近ではどうでしょうか?ヴィンヤード教会の賛美もありました。オーストラリアのヒルソングの賛美も有名です。日本の教会はもっぱら英語を和訳したものを賛美します。しかし、それではよくないということで、日本人独自で作詞作曲した賛美も歌われています。滝元明師が指導した日本リバイバル・クルセードからたくさんの賛美が生まれました。シティ・プレイズとか、ジェイ・ワシップというのもあります。日本では、最近、ブラックゴスペルで神さまを賛美しています。ハレルヤ!

時代によって教会の賛美がどうなったのでしょうか?昔は(30-40年前は)、讃美歌や聖歌のように信仰を鼓舞したり、証の歌が多かったように思えます。しかし、現代は神さまご自身を賛美する、ワーシップとかプレイズソングが多くなりました。「ギターを弾いて、ちゃらちゃらした歌は歌いたくない」という教会もあります。彼らは讃美歌21とか新聖歌を作りました。しかし、私から言わせますと、歌詞は新しくなったのですが、曲が古いということです。今の若い人たちが聞いている曲はとてもテンポが速くリズミカルです。もし、若い人たちに伝道したいと思うならば、年配者は少し譲る必要があると思います。私が礼拝形式や賛美を選ぶとき、このみことばを思い出します。ルカ537-38「また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。」皮袋にあたるものが、教会の礼拝形式や賛美であります。年輩の人たちは古いぶどう酒が良いと言います。なぜなら、これまで馴染んできたやり方だからです。しかし、新しい人、若い人たちはどうでしょうか?「それでは退屈だ、賛美している気にならない」と言うのです。これはまさしく、好みの問題です。聖書に「こういう賛美をこういう曲で歌いなさい」とは書かれていません。リック・ウォレン師が、『魅力的な礼拝のかぎ』という本の中でこう言っています。「教会で用いる音楽スタイルを決定することほど、重要であり、かつ論議を呼ぶものはあまりないだろう。教会が今後どのような人々をキリストに導けるか、また教会が成長していけるか否かは、音楽によって決まるといっても過言ではない。教会の音楽は、その教会が伝道の対象としている人々に合わせていくべきである」。つまり、教会音楽に良い、悪いはないということです。しかし、教会がどの歌を選ぶかによって、会衆が決まってくるということです。リック・ウォレン師はみんなに合わせるために、いろんな種類の曲を混ぜて賛美しました。すると、みんなが気持ち悪くなったのです。それで、「自分たちの教会が、どの年代、どういう人たちに伝道したいのか?」ターゲットを絞ったそうです。明日の教会を支えるのはどういう人たちでしょうか?教会が存続していくためには、すでに救われている人たちよりも、これからの人たちの救いに的を絞る必要があると思います。

「歌は世につれ、世は歌につれ」という格言みたいなものあります。まさしく、賛美もそのような性質があるということです。もちろん人間中心ではあってはなりません。私たちは曲とともに、その歌詞を味わいながら、賛美を神さまにささげていくということです。ヘブル1315「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか」と書かれています。賛美は、神さまにささげるいけにえであり、果実だということです。ですから、カラオケのように自分たちが喜ぶというよりも、神さまを喜び、神さまをたたえることが重要です。同時に、聖日礼拝においては、失われた人々に対する伝道ということも忘れてはならないと思います。

2.賛美の回復

数十年前から「ダビデの幕屋の回復」ということが言われています。「ダビデの幕屋」とはどういう意味でしょうか?ダビデの幕屋とは、ダビデ王によって創立され、始められた礼拝のことです。Ⅰ歴代誌15章と16章に、当時の記録があります。Ⅰ歴代誌1516「ここに、ダビデはレビ人のつかさたちに、彼らの同族の者たちを十弦の琴、立琴、シンバルなどの楽器を使う歌うたいとして立て、喜びの声をあげて歌わせるよう命じた」とあります。ダビデは神の箱が運びこまれるとき、力の限り踊ったのであります。ダビデは、神の箱が安置された後、和解のいけにえをささげさせました。Ⅰ歴代誌16:4-5 それから、レビ人の中のある者たちを、主の箱の前で仕えさせ、イスラエルの神、主を覚えて感謝し、ほめたたえるようにした。かしらはアサフ、彼に次ぐ者は、ゼカリヤ、エイエル、シェミラモテ、エヒエル、マティテヤ、エリアブ、ベナヤ、オベデ・エドム、エイエル。彼らは十弦の琴や、立琴などの楽器を携え、アサフはシンバルを響かせた。」このところから、当時の礼拝はどうだったのでしょうか?とても、にぎやかな礼拝であったということです。ある人たちは「ギターやドラムを礼拝に使って良いのだろうか?」と言う人たちがいます。しかし、ダビデが指導する礼拝では、大歓迎です。詩篇150篇にも同じようなことが記されていますが、いわゆる「鳴り物入り」です。おそらく、そこには踊り(ダンス)もあったでしょう。タンバリンをたたきながら、踊ったかもしれません。また、詩篇1342「聖所に向かってあなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ」とあります。さらに詩篇471「すべての国々の民よ。手をたたけ。喜びの声をあげて神に叫べ。」とあります。つまり、礼拝において「手を上げよ」「手をたたけ」あるいは「神に叫べ」と命じられていたということです。しかし、今日の教会の礼拝では、それを交読文にして読んで済ませています。たとえば、司会者が「聖所に向かってあなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ」と言うと、会衆は「すべての国々の民よ。手をたたけ。喜びの声をあげて神に叫べ」と言います。明らかにみことばに違反しています。実際に手をたたき、手を上げ、神に叫ぶべきなのに、交読文でお茶を濁すとは何事でしょうか?私たちの礼拝は静か過ぎます。ペンテコステ系の教会やアフリカの教会が聖書的ではないかと思います。

私は以前、松岡欣也師が主催する「パワープレイズ」というのに参加していました。当教会にもケン&アヤさんも加え、お招きしたことがあります。松岡先生は礼拝メッセージの中で「みなさん、手を上げるのに勇気がいるでしょうか?いらないでしょう。どうぞ、別な方に勇気を用いてください」とチャレンジして下さいました。先生は早稲田教会という、教団本部のすぐ隣で、「パワープレイズ」を毎週、開いていました。同じ曲を20分くらい賛美するときがあります。「今が恵みのとき、今が恵みのとき、今が恵みのとき」。まるでレコードの針が飛んでいる感じです。もう、ずっと同じ賛美をします。すると「ああ、そうなんだ。今が恵みのときなんだ。そうだ、今が恵みのときなんだ」。深いところから信仰がわいてきます。どうでしょうか?みなさんは賛美しながら、口ぱくで、他のことを考えているんじゃないでしょうか?体がそこにあっても、心がそこにない。イエス様はマルコ福音書では「力を尽して主を愛しなさい」と言われました。力を尽して神さまを愛するとは、私たちの身体をさしていると思います。世の中のコンサートやライブに行きますと、みんな立ちながら、全身を震わせて参加しています。どうでしょうか?私たちは本来、永遠の滅びに行く予定だったのに、イエス様によって贖われ、永遠の御国に入ることができるんです。いや、もう入っているのです。聖書にヨベルの年というのが記されています。50年に一度、巡ってくる贖いの年です。角笛が吹かれ、彼らは喜びと賛美をささげます。なぜなら、借金が棒引きされ、土地が回復されます。奴隷であったものは自由になります。私たちはどうでしょうか?すべての罪、咎が赦され、天国が与えられています。罪とサタンの奴隷であったのに今は自由です。神の子とされ、神さまの膨大な財産を受け継ぐことができるのです。それを思うと、「うぁー!すげぇー!」と賛美できるのではないでしょうか?不思議なことに、手足や体をつかって賛美し、喜びの叫びをあげると、「わぁー、本当に神さまはすばらしい」ということが分かるのです。頭だけ、交読文で「手をうちたたけ、主の前で踊れ」ではわかりません。実際に手をたたき、踊るのです。ハレルヤ!終わりの時代は、まさしく「ダビデの幕屋の回復」のときです。初代教会の議長であったヤコブがこう言っています。使徒1516「この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。」つまり、ダビデの幕屋の回復とは恵みにおける教会のことであります。ユダヤ人とか異邦人の差別もなく、またエルサレムとかシオンの地域でもなく、全世界で、全人類が集まって主を礼拝するということです。数年前、長沢兄によって、そのような、すばらしい賛美が作られました。「その日、全世界が、主の御名、高く掲げる。叫べ、王の王、イエスは、ハレルヤ、栄光、とわにあれ」。

3.賛美の目的

 もう一度、リック・ウォレン師の『魅力的な礼拝のかぎ』という本からいくつか引用したいと思います。先生は「音楽を吟味する」という章でこのようにおっしゃっています。「音楽はしばしば、説教にはできない方法で人の心に触れることができる。理性の壁を通り抜け、直接、心にメッセージを届ける。音楽は有効な伝道の道具である」。私は今、50代後半ですが、若いときはアメリカではロック、日本ではフォークソングが流行りました。その中で歌われる歌詞によって、若者たちの価値観が形成されたのです。教会が音楽の力を過少評価していたとき、サタンがこれを暗黒の力をもたらすために用いてきたのであります。教会は18世紀のヨーロッパで書かれた音楽だけが神聖な音楽だと言うのは、聖書的な根拠はありません。いろんなスタイルの音楽があって良いのです。大切なのは歌にこめられている、使信(メッセージ)であります。また、忘れてはならいのはサウンドであります。時代によってサウンド感覚が変わるんです。ひところは賛美歌をオルガンやピアノで伴奏しました。今はシンセサイザー、ドラム、ギターが主流です。そして、映像も駆使され、目でも訴えるようにしています。アメリカで信仰を持った若者たちは、普通の教会に来ません。礼拝のスタイルが全く違うからです。彼らはどうしても、ヒルソングとか、ニューホープの教会に行きます。では、彼らに迎合するのか?迎合ではなく、現代の人たちのサウンドに、使信(メッセージ)をこめるべきだということです。リック・ウォレン師が音楽スタイルを決めるときのいくつかのルールを提唱しています。第一は、「用いる音楽はすべて、前もって打ち合わせしておく」と言うことです。神学的に健全か、教会につながっていない人に理解できるか、歌詞と曲の両方を考慮するということです。第二はテンポを速める。多くの賛美は祭典的というよりお葬式に近いということです。第三は歌詞も現代風に変えなさい。賛美歌に出てくる聖書的比喩、神学的用語はわかりやすく書き直す必要があるということです。第四は教会員が新しい賛美を作るように励ます。多くの教会は牧師か賛美リーダー個人の偏向で、賛美歌の選択が偏る傾向がある。いつも使い古い賛美ばかりを歌うと礼拝心をそいでしまう。リック・ウォレン師の特徴は、たえず求道者のことを考えているということです。

賛美の目的とは何でしょうか?確かに、現代のサウンドで求道者にもわかる賛美を捧げる必要があるでしょう。しかし、もっと大事なことは私たちの心であります。賛美は、いわば神さまへの愛の告白であります。ですから、まるで目の前に、三位一体の神さまがおられるように賛美をいけにえとしてささげるのです。ですから、賛美は私たちのためというよりも、神さまのためであるということです。私たちが「きょうは、良い賛美で恵まれたなー」ということは悪いことではありません。でも、それ以上に「きょうは、全身全霊で神さまを賛美できたなー」という方が大事なのです。宣教師たちは、ジャングルの奥地に入って行って伝道します。キリストを信じてクリスチャンになった人たちは、生活も変えなければなりません。かつては偶像の神さまにお供えを捧げ、歌や踊りを捧げてきました。しかし、これからは天地を作られた神さまと、十字架で罪をあがなわれた御子イエス・キリストへの礼拝になります。村人たちは1週間、一生懸命、賛美と踊りの練習をします。そして、日曜日の礼拝が来たとき、準備した賛美と踊りを神さまの前にささげるのです。彼らはうかれてなんかいません。神妙になって、一週間準備した、賛美と踊りを神さまにささげるのです。私はかなり前に、台湾の原住民の夕方の礼拝に出たときがあります。ふだんは農作業で汚れているのに、リードする人たちは、おそろいの衣装を着て、首にレイをかけています。会衆全体の賛美は本当にすばらしく、透き通っています。純粋な神さまへの愛が、伝わってくるのです。私たちの賛美に対する姿勢はどうでしょうか?「前の人たちが歌えば良いんだ、自分たちはその他、大勢だから」という気持ちはあってはいけません。私たち一人ひとりが心をこめて、神さまに賛美をささげるのです。最後の主の祈りを賛美しますが、前で聞いていると、とても感動します。本当にみなさんが神さまに向かって賛美しているその声が聞こえてくるからです。うまい、下手ではありません。魂の内側から賛美することが重要なのです。私たちが主を賛美するとき、主が私たちをさらに恵んでくださるからです。詩篇1031-5「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。主はすべてしいたげられている人々のために、正義とさばきを行われる。」