2010.10.10 感謝の生活 エペソ5:20、コロサイ3:17、Ⅰテサ5:18

クリスチャンの基本的生活の第3回目は感謝と賛美についてです。あとでもお話ししますが、マーリン・キャロザーズという先生は、感謝と賛美が主の前にいかにすばらしいものであるか何冊も本を書いています。先生だけではなく、それを実行した人たちが、困難な状況から救い出されたという証が数え切れないほど書いてあります。私たちはこのような公の集会だけではなく、日々の生活で、困難の真中で、感謝と賛美をする必要があります。公の集会はそのことを練習していると思えば良いでしょう。もっと重要なのは、この場を去って、家庭や職場に行ったときであります。この場所で感謝や賛美をささげることは簡単かもしれません。みんながやっていますから。でも、あなたが遣わされた場所で、現場で、感謝と賛美をするならば何と幸いでしょうか?きょうはそのことをチャレンジさせていただきます。

1.感謝は神の命令

 みなさんは、感謝することは神さまの命令であることをご存知でしたでしょうか?詩篇のいたるところには「主に感謝せよ」と記されています。また、新約聖書ではパウロの書簡に記されていますので、代表的なものを引用いたします。エペソ5:20「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」コロサイ317「あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい」。Ⅰテサロニケ518「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」当然といえば当然ですが、パウロが書いたものであるなら、共通しているはずです。しかし、なぜ、パウロは「すべてのことについて感謝しなさい」と命じているのでしょうか?私たちはこのみことばを見るとき、「そんなの不可能ですよ」と一蹴するのではないでしょうか?常識的には、良いことがあれば感謝し、悪いことがあれば怒ったり、悲しんだりするでしょう。しかし、「すべてのことについて」とは、良いことはもちろんですが、悪いことや困難に遭遇したときもです。「わぁ、そんなのできっこないよ!」と思ってしまいます。

 この聖句を良く見ると、ただ「感謝しなさい」とは命じられていません。「主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝する」あるいは「キリスト・イエスにあって神に感謝する」と書かれています。つまり、感謝とは神さまへの祈りであり、届け物であります。目の前に悪いことが起きたとき、「今、こういうことが起こりました。でも、主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝します」ということなのでしょうか?実はそうなのです。でも、実際のところ私たちはどうするでしょうか?たとえば、車をぶつけた時はどうするでしょうか?「わぁ、なんてこった。何でこんなことになったんだろう」と困惑します。その次に、「だれが悪い」とか、人のせいにします。人や物のせいにできなければ、最後に仕方なく自分のせいにします。「あぁ、どうやって直すんだ。損害はどのくらいだ。どこから出すんだ!」と後始末のことを考えます。困惑、怒り、心配、絶望はやって来ても、感謝はやってきません。どうでしょう?みなさんも、病気とか怪我をしたとき、すぐ感謝できますか?「果たして、治るだろうか?治療費はいくらだろう?ああ、痛い、ああ、苦しい」とかで、感謝がやってくるのはいつでしょう?治ってからでしょうか?問題や困難が起こったときに、感謝をするってとても不可能のように思えます。

 では、そういう時、感謝の代わりに自然と出てくるものは何でしょう?特に、失敗したとき、不運な事故、不当な扱いを受けたときはどうでしょう?感謝ではなく、つぶやき、不平不満、怒りが出てくるのではないでしょうか?生身の人間だったら当然です。この間、T兄が自転車に乗っていたとき、前のタクシーが突然ドアを開けました。T兄は飛ばされ、地面にたたきつけられました。タクシーの運転手に「テメー、コノヤロー、○○してやるぞー」と言ったそうです。道路に寝ながらです。これは条件反射的なものですので、罪と言ってはかわいそうです。でも、あとから、「そうじゃないよなー」と悔い改めたそうです。でも、すぐに感謝するというのは、よっぽどでないとできそうもありません。聖書には感謝だけではなく、「喜びなさい」とか「愛しなさい」という命令もあります。もし、それらが感情であったならば、すぐには不可能です。しかし、感謝や喜び、愛は感情ではなく、自分の意思で選択するものです。それだったら、どうにもならないような状況でも、「主イエスの御名によって感謝します」と言えるはずです。最初は3分くらいかかるかもしれません。でも、訓練によっては10秒、いや3秒くらいで「感謝します」と言えるかもしれません。香港のベン・ウォン師は、「私は今では、2秒で言えるようになりました」と証ししておられました。座間キリスト教会で、大川牧師が「ハレルヤ!主よ、感謝します!」というのをはやらせました。「はやらせた」というのは変ですが、そういうことをみんなでやりました。新会堂ができてまだ間もない時、ある事件が起こりました。一人の青年があることをするために、屋根裏を渡りました。そこには二枚の細い足場板が渡されているだけで、あとは金具で天井板が吊られている構造でした。中が暗かったのでしょう。2,3メール先で彼は足場板を踏み外し、天井を踏み抜いてしまったのです。大川牧師が天井を見て「あぁー」と嘆きつつうなだれました。ちょうど、先生の後ろに私がいました。私は反射的に「ハレルヤ!主よ、感謝します!」と言いました。大物である大川牧師は「そうだったなー」と悔い改め、そのことをみんなの前で告白しました。新会堂天井事件であります。教会主事である私が後から、穴を修繕しました。

 当時、安藤先生という小学校の先生を引退し、日曜学校の教師をしている姉妹がいました。もうかなりの高齢でした。ある日、教会に来るとき、側溝に足をすべらせてころんだそうです。そのとき思わず言ったことばが「ハレルヤ!主よ、感謝します!」だったそうです。そこまで、いくと、もう聖域に達しているという感じです。でも、「ハレルヤ!主よ、感謝します!」によって、教会全体が恵まれていました。でも、何故、問題や困難に遭遇したときも感謝しなければならないのでしょうか?マーリン・キャロザーズ師が、『讃美の力』という本の中でこのように教えておられます。「困難な問題や病気や災難のゆえに神を讃美するということは、文字通り、その病気や災難が起こったことを私たちの人生における神のご計画の一部として受け入れて、賛成することを意味します。それは、今起こっているその事に対して神が責任を取っておられるという事実を受け入れることになるのです。そうでないなら、その事で神に感謝するということは意味を成さないでしょう。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています(ローマ8:28)。」つまり、こういうことなのです。どのような状況の中でも、これが神さまのご計画の一部であり、神さまが益になるように働いてくださることを私たちが感謝するのです。そうすると、神さまは「では、そうしましょう」と働いてくださるのです。逆に、私たちが嘆いたり、不平不満をもらすなら、神さまが益になるように働こうとしておられるのを、留めてしまうことになるのです。マーリン・キャロザーズ師はさらに教えておられます。「あなたの人生のために、神はすばらしいご計画を持っておられるのです。もし、あなたが神に信頼し、あなたの身に起こったあらゆる事を神に感謝するなら、今ここで、神があなたを助けようとしておられることが分かるでしょう」。多くの人は、マリーン先生に「この事を神に感謝するんですって?」と反発します。しかし、その人たちが絶望的な状況の中で、神を讃美し感謝するとどうでしょう。あとから、すばらしい奇跡が起こるのです。その手の証が、3冊も4冊もあります。エペソ5:20「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝し」ましょう。神さまの命令であり、神さまのみこころなのですから、そうさせていただきましょう。

2.つぶやきと不平不満

 感謝の反対は何でしょうか?それはつぶやきであり、不平不満です。これは神さまが最も、お嫌いなものであります。旧訳聖書を見てわかりますが、イスラエルの民はエジプトを奇跡的に脱出したのですが、どうだったでしょうか?出エジプト記、民数記、あるいは申命記に彼らの罪が克明に記されています。それは、つぶやきと不平不満です。なんと、エジプトを脱出して、まだ3日しかたっていないのに、「私たちは何を飲んだらよいのですか?」とつぶやきました。さらに、イスラエルの民は、荒野を旅しました。「ああ、肉が食べたい。魚が食べたい。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。何もなくて、このマナを見るだけだ」と泣いて言いました。それで、神さまはあきるほど、うずらを降らせました。さらに民は「どうしてモーセだけが神さまと話すのか?私たちとも話されないのか?」と非難しました。Ⅰコリントに、不平不満やつぶやきがいかに罪が深いのか書かれています。Ⅰコリント1010「また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。」この出来事は、民数記16章の出来事を背景にして書かれたものであります。コラとダタンというレビ人が、モーセとアロンに逆らって焼き滅ぼされました。その後、民たちが「あなたがたは民を殺した」とつぶやきました。そうすると、神罰が民にくだり17,000人が死にました。つぶやきがなぜ、そんなに悪いのでしょうか?

 つぶやきの反対は、神さまを賛美し、感謝を捧げることです。私たちが神様を賛美するとき、神様は賛美の中に住まわれます。つまり、神様を賛美したなら、私たちは神様の摂理の下に身を置くことになるのです。神様に感謝するならば、神様にこう言っていることになります。「神様、あなたは良き神様です。あなたは世界をご支配することをご存知です。あなたの下には、何も悪いことはありません。ローマ8:28を信じます。すべてのものを働かせて益としてくださいます。神様、感謝します。神様、感謝します。あなたは良き神様です。」それが神様をほめたたえることです。神様をほめたたえることの反対は何でしょう。それは、つぶやくことです。不平不満を言うと何が起こるでしょうか?神様のご摂理(ご支配)の下から逃げてしまうことになります。神様は良い神様であることを受け入れないばかりか、その神様を批判することになります。神様に文句を言います。「神様、あなたは良き神様ですか?もし、本当に良い神様だったら、何で、この町の小さな教会で奉仕させるのですか?神様、あなたは本当に良い神様ですか?もし、良い神様だったら、何故、日本にリバイバルが起きないんですか?神様、あなたが本当に良い神様だったら、どうしてゴリラと結婚させたのですか?(これはエディ・レオ師が言ったこと)」。このように、いつも不平不満を言う。これは、「神様、あなたは本当に神様ですか?」と言っているのと同じことなのです。多くの人たちはつぶやきのために尊い奉仕が死んでしまいます。つぶやきや不平不満を言ったために家族が死んでしまいます。つぶやきや不平不満を言ったために可能性が全部死んでしまいます。だから、つぶやきや不平不満を悔い改めなければなりません。

 インドネシアのエディ・レオ師がこのようなメッセージをしてくださったことがあります。賛美と感謝は神さまを引き上げることであり、つぶやきと不平不満は神さまを天から引き降ろす事であると言われました。そして、1つの例を上げて教えてくださいました。ある人が魚を干して干物を作っていました。日本人のクリスチャンです。あるとき多くの魚が捕れました。全部売りさばくことができません。そして、売れ残ったものを全部、干物にしました。干物にするためには太陽光線が必要です。天気が良くなるまで待っていました。「ああ、太陽が出てきた。この日は、この日は、主が造られた、主が造られた」と賛美しながら干物を干しました。1時間もすると雲がやってきました。「あー、雲ってきた」とその魚を引き上げ家の中に入れました。すると、神様に対して怒りがこみ上げてきました。上を見上げて「神様、何故ですか?何故、1時間しか太陽を照らしてくれないのですか?」。そう言っているうちに、また日が再び照ってきました。「ああ。この日は、この日は、主が造られた、主が造られた」と、魚を再び干しました。たった30分後に、また雲が出てきました。今度は、雲だけではありません。雨が降ってきました。そして、全部の魚がびちょびちょになりました。そして、もうかんかんに怒って、雨の中に突っ立って、上を向いて「神様、あなたは天気もコントロールできないのですか?あなたが天気をコントロールできないなら、私がそこへ行って天気をコントロールします。そして、あなたがこっちに降りて来て、干物を干してください」。隣の方に「これが、文句ですよ」と、言いましょう。不平不満を言うとはどういうことでしょう?神様を引き降ろすことです。それが最も大きな罪、クーデターです。王様を引きずり降ろすことができるでしょうか?そういうことを企てたら殺されるでしょう。それは神の国のクーデターです。神様を引きずり下ろそうとする謀反です。不平不満を言っているなら、悔い改めましょう。

3.感謝と賛美の力

 私はクリスチャンになる前、感謝するということがほとんどありませんでした。生まれ育った環境のせいもあり、いつも不平不満を言っていました。私は何につけても文句を言いました。一番上の姉は私と18歳も違うので、何かと面倒見てくれました。あるとき、グレーのセーターを買ってくれました。私は色が気に入らないと言いました。あるとき、百科事典を買ってくれました。「小学館」と書いてあるので、「これは小学生用だろう」と文句を言いました。結婚してから、家内が私に言いました。「あなたはいつも文句を言っている」と。「文句じゃないよ」と反発しましたが、やっぱり文句でした。クリスチャンになってからも、なかなか感謝するこということができませんでした。何故でしょう?不平不満を言うということが、習慣になっていたからです。もう、口を開けば、自動的に舌が不平不満を言うのです。ヤコブの手紙36「舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます」。私は本当に悩みました。何故、私は文句を言うようになったのでしょうか?それは、私の父や母が私を非難したからです。兄たちも私を非難しました。だから、私の中に苦い根が生えたのです。これを直そう、直そうとしても草をかってもまた生えてきます。私は毎朝、中川を散歩していますが、草が良く生えます。ときどき、区の人たちが機械で刈り取ります。しばらくはきれいです。でも、また生えるんですね。そうです。表面的な方法では不可能です。私は私をさばいた父や母、兄たちを赦しました。そして、父なる神さまから、「お前は価値があるよ。お前を受け入れるよ」と頭をなでてもらいました。それから、すこしずつ感謝が出るようになりました。

 みなさん、不平不満やつぶやきは習慣になっている場合があります。なおそうと思ってもなおらない。ついつい、「ポロ」っと、出てきてしまう。どうしたら良いでしょうか?まず、私のようにそうなった原因を探る必要があります。何がきっかけや原因があったのです。環境かもしれないし、両親や兄弟かもしれません。でも、人のせいばかりにしてはいけません。赦すべき人を赦し、悔い改めるべきことを悔い改めます。そして、自分の性格の一部になってしまった不平不満やつぶやきを十字架につけるのです。「私の不平不満とつぶやきの性質を十字架につけて死なせます。アーメン。」その次に、新しい命を神さまからいただきます。不平不満とつぶやきの反対は何でしょうか?そうです。感謝と賛美です。「おお、主よ、感謝と賛美という新しい性質をください」と願い求めるのです。アーメン。でも、それだけだとまた元に戻ります。どうしたら良いでしょうか?自分の意思で、どんなことがあっても感謝と賛美を選び取るのです。エペソ5:20「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」コロサイ317「あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい」。Ⅰテサロニケ518「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」アーメン。エディ・レオ師は、何でも40日間、継続するならば、自分のものになると言いました。みなさん、習慣には力があります。自転車も初めて乗ったときは大変でした。でも、一旦、なれると平気です。水泳もどうでしょうか?初めて泳いだときは大変でした。でも、一旦、なれると平気です。だから、不平不満やつぶやきという習慣を直すためには、感謝と賛美を継続しなければなりません。40日間かどうかわかりませんが、とにかく、何につけても、感謝と賛美をすることを選んで実行します。すると、こんどは条件反射的に、「感謝します」と言えるようになります。前の安藤先生が側溝にはまって転んだ時、「ハレルヤ、主よ感謝します!」と言ったのと同じであります。

 みなさん感謝と賛美には力があります。どんな力でしょう?それは運命を変える力です。クリスチャンは運命ということばをあまり使いません。神さまの摂理とか、神さまのご計画という風に言います。でも、この場合は、運命とか環境と言っても良いと思います。なぜなら、父なる神さまがすべてのことが益になるように私のために働いておられるからです。もし、私たちが不平不満やつぶやきを言うならば、神さまの御手はそこで止まってしまいます。しかし、そうではなく、「主よ、感謝します。このような状況の中でもあなたが共におられ、全能の御力をもって働いておられることを感謝します。主よ、あなたの御手にゆだねます。主よ、あなたの御名があがめられますように。御国がきますように。アーメン」。そうしますと、無駄な力が抜けてきます。心配も去ります。なぜなら、主に信頼しているからです。究極な祈りとは何でしょう?それは、父なる神さまに感謝と賛美をささげることであります。感謝と賛美こそが、全能なる御父の御手を動かすからです。今のありのままの状況を主に告げ知らせながら、感謝することであります。「父なる神さま、あなたが今も私のためにすべてのことを益とするために働いていることを、イエス様のお名前によって感謝します。アーメン」。どうぞ、実行してみましょう。思いがけないことが起こったときもやってみましょう。そして、主のみわざを、奇跡を、現実の真中で、見させていただこうではありませんか。