2010.10.17 告白の生活 Ⅰヨハネ1:9、ヤコブ5:16

クリスチャンの基本的生活の第4回目は罪の告白です。私たちが日常生活において、習慣としなければならないことは、罪の告白であります。しかし、このテーマほど暗くて、嫌なイメージを与えるものはありません。私もこのテーマは、できれば話したくはありません。でも、このことをないがしろにしているため、多くのクリスチャンが、あるいは牧師たちが敗北的な生き方をしています。決して信仰がないわけではありません。でも、日の当たらないところで、秘密を持って生活しています。なぜでしょう?それは罪を神さまの前に言い表していないからです。きょうは、2つのポイントで、神さまの前に言い表す罪と、互いに言い表さなければならない罪について学びたいと思います。どうぞ、シートベルトを締めて、お聞きください。

1.神の前での罪の告白  

Ⅰヨハネ19「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」これはクリスチャンに対するみことばです。何故なら、ヨハネ第一の手紙は、神の子とされた人たちに向けて書かれた手紙だからです。私たちはクリスチャンになるために、個々の罪を悔い改める必要はありませんでした。「私は神の前で罪人です。私の罪のために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたイエス様を救い主として信じます。」これで、人は救われます。でも、クリスチャンは、2種類の罪を神さまの前に告白し、悔い改める必要があります。1つは、自分が縛られている過去の罪であります。過去に犯した罪のために良心に呵責があり、しっくりこない。そのため悪魔から訴えられている場合です。もう1つは、現在、犯した罪によって神さまとの交わりが絶たれている場合です。私たちはたとえ罪を犯しても、神の子の身分はなくしません。永遠の命はなくすことがありません。でも、なくすものは神さまとの親しい交わりです。神さまとの交わりを回復するために、私たちは犯した罪を告白し、罪から離れる必要があります。これを悔い改めと言います。イエス様を信じるときの悔い改めは一生で、一回で良いのです。でも、クリスチャンになって天国に行くまで、私たちは何度も何度も罪を犯すでしょう。だから、罪の悔い改めは一生涯続くのです。

Ⅰヨハネ19の「罪を言い表す」はギリシャ語でホモ・ロゲオーと言います。ホモとは「同じ」という意味です。ロゲオーは「言う」という意味です。つまり、ホモ・ロゲオーとは「同じことを言う」という意味です。つまり、神さまの前で、「これこれ、しかじかのことをしました」とそのままを申し上げることを「罪を言い表す」「告白する」というのです。「罪を具体的に言い表すことがそんなに大事なのですか?」大事なのです。そうすることによって、その罪がキリストの血によって赦され、またその悪からきよめられるからです。丸ごとではダメです。風呂敷から出して、1つ1つ並べる必要があります。神さまの前に1つ1つ差し出すのです。最初は言い訳がましいかもしれません。「だって、しょうがなかったんですよ」とか。でも、そのうち罪が示され、「ああ、主よ、お赦しください」と言えるでしょう。神さまは怒るのに遅く、恵みとまことに富んでおられます(詩篇86:15)。エペソ5書には、罪を告白することに対する、すばらしい約束が記されています。エペソ5:11-14「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。」これはどういう意味でしょう?私たちの罪を明るみ、つまり神さまの光の前に差し出すのです。すると、その罪が光によってきよめられるということです。梅雨のシーズンは、クローゼットの衣類にカビが生えることがあります。どうしたら良いでしょう?カビの生えた衣類を日干しにするのです。カビは紫外線によって消毒されます。あとで「パン、パン」と叩けば良いですね。私たちの罪も暗やみの中にあるときは、ものすごく勢力があって、手のほどこしようがないかもしれません。でも、聖霊の助けによって、光の中に差し出すのです。そうするとあれほど大きかった罪が、「シューン」と小さくなります。そうです。イエス様の血しおには力があるからです。イエス様の血しおはどんな罪をも赦すことができます。

私はクリスチャンになりたての頃、とても反抗的でした。礼拝に出ていて、メッセージの前半は耳に入ってきません。最後の10分間くらいのところで、心が柔らかくなり、メッセージが入ってきます。みなさんもそういう人はいないでしょうか?「主の祈り」の賛美で、ジーンと来るのはもったいないですね。私は育ちが悪くてというか、育てられ方が悪くて、「ごめんなさい」が言えませんでした。なぜなら、私は不当な扱いを小さなときから受けたので、「自分は悪くない!」と思ってきたからです。だから、ちっとやそっとでは「ごめんなさい」は言いません。しかし、教会で「恵み」ということばを始めて聞きました。また、その頃、教会では「さばき合わない」という運動がなされていました。「ああ、私はさばかれていない。ここは大丈夫だ」という安心感がありました。ある日曜日、放蕩息子のお父さんの物語を聞きました。お父さんは放蕩して帰ってきた息子をひとことも責めないで、赦してあげました。さらに靴を履かせ、着物を着せ、指輪もはめてあげました。なんという愛でしょう。私は、神さまは恐ろしい神さまではなくて、放蕩息子のお父さんのような方なのだということが分かりました。つまり、父なる神さまは初めから赦そうということをお決めになっているのです。私たちが罪を告白して、「ごめんなさい」と言うならば、赦してあげるというのではありません。キリストにあって、私たちを既に赦しておられるのです。私たちは、親や先生から「なんて強情なんだ。ちゃんと謝らなければ赦さないぞ。ごめんなさいと言いなさい」と、言われ続けてきました。あるときは、仕方なく、口を開いたかもしれません。でも、父なる神さまはそうではありません。御子イエス様が十字架で血を流し、すべての罪を贖ったので、赦しておられるのです。父なる神さまはあなたを、私を赦したいと願っておられるのです。私たちは神さまのすばらしい愛と恵みに出会うとき、罪を告白せずにはおれなくなるのです。そして、その後は、お風呂から上がったように、きれいさっぱりなるのです。ハレルヤ!私たちは神さまの愛の中にいると、罪を持ち続けるのがイヤになるのです。Ⅰヨハネ19「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」アーメン。

2.互いに罪を告白する

ある神学者が、「今日の教会で、最も従っていない神さまの命令は何か?」ということを調査しました。それは1つだけありました。今日の教会で最も従っていない聖書の箇所はヤコブ5:16です。ヤコブ516「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」聖書は「お互いに罪を告白し合いなさい」と言っています。これは命令であって、招きではありません。何故、今日の教会は、この聖句に従わないのでしょうか?それは「私は神さまに告白しているから、それで良い」と思っているからです。何故、今日、たくさんの病気が教会にはびこっているのでしょうか?情緒的な問題をかかえているクリスチャンがたくさんいます。何度も癒しの集会に行っても癒されない。人々はそこへ行って泣いて悔い改めるかもしれません。でも、家に帰ったらまた元に戻ってしまいます。なぜなら、その人は、まだ罪に縛られているからです。ヤコブ書には「互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです」と書いてあります。ある人は、この癒しというのは、肉体的な病気ではなく、精神的な病気の癒しであると言っています。なかなか癒されないので、たくさんの人がカウンセリングに行きます。丸屋先生のところは、予約しても3ヶ月か、4ヶ月待ちだそうです。本当に今は、カウンセリング・ブームです。でも、初代教会にはカウンセリングはほとんどありませんでした。なぜでしょう?彼らは集まったら、互いに罪を告白したからです。罪をお互いに告白してから祈ります。するとどうでしょう?「義人の祈りは働くと、大きな力があります。」アーメン。義人の祈りは働くと力があります。でも、どうして義人なのでしょうか?義人とはどういう人たちのことなのでしょうか?それはお互いに罪を告白した者たちのことです。だから、彼らの祈りには力があるのです。

では、どういう罪をお互いに告白するのでしょうか?第一のポイントでは、神さまに罪を告白するということを学びました。でも、ヤコブの手紙には「互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい」とあります。つまり、ある罪は神さまの前にだけ告白すれば良いのです。神さまとの関係で犯した罪であるならば、神さまに告白すれば良いですね。でも、ある罪はお互いに告白する必要があります。では、どういう罪についてなのでしょうか?私たちは2つの罪をお互いに告白する必要があります。1つは、共同体における罪であります。つまり、だれかを傷つけたり、だれかに悪いことをした場合です。そういう時は、互いに罪を告白する必要があります。マタイ533-34「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」このみことばを守っているでしょうか。ある男性は、奥さんと喧嘩をしました。家族のだれを批判して傷つけました。その後、日曜礼拝に来て、手を上げて「ハレルヤ!」と賛美します。しかし、マタイ5章には何と書いてあるでしょう。「供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい」とあります。「礼拝よりも、その人と仲直りすることが大事ですよ」と言っています。しかし、特に日本人は罪を告白しません。父親は権威を持たなければならないので、息子には罪を告白しません。こういう状態で、どうして回復できるでしょうか?他に共同体の罪とは何でしょう?それは教会の中で、お互いを裁いたり、傷つけることです。放っておくと、教会が分裂や分派が起こります。また、姦淫は共同体において、最も大きな罪です。個人の問題ではありません。共同体を汚してしまいます。ですから、他の人や共同体に対して犯した罪は、互いに告白しなければなりません。そして、被害者は「あなたを赦します」と言う必要があります。日本人は「いいよ、いいよ。気にしていないから」とごまかします。でも、心の中では赦していないのです。赦すことは、忘れることではありません。自分の意思で「赦します」と言うならば、時間が経つと忘れるのです。

第二に、お互いに告白すべき罪とは何でしょう?ここに「互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです」とあります。「赦されるためです」ではなく、「癒されるためです」と書かれています。ある罪はお互いに言い表さないと、癒されない罪があるということです。それは、繰り返しの罪、習慣的な罪です。もし、悪いとは思っていながらも、何度も何度も繰り返してしまう。それは癒されていない罪です。このような罪から解放されるためには、言い表さなければなりません。ある姉妹は怒りでとても悩んでいました。どうしても娘たちに怒ってしまう。一度怒り出すと、怒りがおさまらない。「こういう訳ですので、私のために祈ってください」と頼まれました。私はイエス・キリストの御名によって、怒りから解放されるために祈りました。もちろん、ある場合はカウンセリングが必要なときもあるかもしれません。幼い時に、父や母から不当な扱いを受けたのかもしれません。ある場合は、父や母を赦す祈りも必要です。でも、最後にイエス・キリストの御名によってその人が怒りから解放されるように祈ります。するとどんなことが起こるのでしょうか?これまでは自分一人で神さまの前に出て「ああ、主よ、どうか私が怒らないように助けてください」と祈りました。しかし、その後も怒ってしまいました。でも、他の人から祈ってもらうと、その祈りが楔のように働くのです。ふっと怒りそうになったとき、その祈りが歯止めになるのです。これは、ポルノとか性的な罪、盗癖、うそ、飲酒、拒食症にも有効です。なぜでしょう?私たちはロープで後ろ手に縛られた場合、自分でほどくことはできません。やっぱり、だれかからロープを切ってもらう必要があります。特に中毒性の罪は、お互いに言い表す必要があります。AAとか、リカバリーでは、週一回集まって、お互いに告白し合うのです。それによって、彼らはいろんな罪から守られているのです。

でも、みなさん、何でもかんでも、人に告白すれば良いというのでもありません。ごみ出しの日でないのに、勝手にごみを出したら、近所迷惑になります。ですから、知恵が必要です。では、どういう罪は人に言わなくて良いのでしょうか?それは神さまとの縦の罪です。他の人を直接、傷つけていない場合です。たとえば、だれかが私にこう言ったとします。「私は鈴木先生をこういうことで、とても誤解していました。先生はそういう人じゃなかったのですね、ごめんなさい」。私にはぜんぜん、身に覚えがありません。その人が勝手に思い込んでいたのです。でも、私がそういわれると、「え?そんな風に思っていたの!」と記憶に残ります。ですから、神さまとの縦の罪は、人には言わなくて良いのです。また、過去において多くの罪を犯したかもしれません。でも、今はそのことは繰り返していません。そのような罪については告白する必要はありません。ある男性は若いときプレイボーイでした。75人の婚約者がいました。かなりの人と肉体関係もありました。でも、その後、イエスさまを信じて新生しました。そして今は、そこから全く解放されています。その人がもう一人の新生したクリスチャンと結婚しました。わざわざ、その男性は「若いときプレイボーイで、75人の婚約者がいました。」と言う必要がありません。もし、言ったなら、その女性は傷つくでしょう。そして、「どうやって75人もの女性を作ったの?一人ひとり聞かせてくれない」と言うでしょう。そのため、新しい問題を作り出してしまうでしょう。既に葬りさられた罪は告白しなくて良いのです。それが相手の徳を高めないのであれば、告白しなくて良いのです。

しかし、今の今まで、その問題をずっと繰り返しているならば、その罪は告白しなければなりません。では、だれにどのようにして罪を告白するのでしょうか?もし、あなたが結婚しているならば、妻か夫に告白するのが最も良いでしょう。夫婦間で罪を言い表すのがベストです。しかし、ある場合は、相手が準備ができていないかもしれません。特に、新生していない場合はそうです。だから他のクリスチャンの友人に告白します。そういう罪の告白は同姓が良いでしょう。LTGという小さなグループを持っている教会があります。マタイ18章のように、2人もしくは3人の小さなグループを持っている。そこで、罪を告白したり、みことばを分かち合うのです。今はメールが流行っているので、携帯でも可能です。とにかく、一緒に祈ってくれる信仰の友を持つことが重要です。もし、いなかったなら牧師か牧師夫人がお祈りいたします。でも、多くの場合、牧師が罪を犯しても、告白する人がいないのです。アメリカの教会の調査によりますと、牧師の70%が親友と呼べる人を持っていない。牧師夫人の80%が教会のメンバーたちから疎外され、十分に感謝されていないと感じているそうです。アメリカでも、特に日本ではそうですが、牧師が性的な罪を犯したら、クビです。再起不能です。ですから、黙っているケースがとても多いのです。4,5年前、インドネシアに行ったことがあります。1万人くらいの集会のメインスピーカーの一人が、アメリカから来ていました。彼は教会員が5万人いるアメリカ最大の福音派の教会の牧師でした。素晴らしいメッセージを語ってくださいました。一緒に食事をしたとき、握手もしました。しかし、数ヶ月後、彼が同性愛者であることが発覚しました。「うぁー、握手したのに?」後で、エディ・レオ先生にあったとき、「先生、あのような人をメインスピーカーに呼んで、後から大変だったでしょう?」と言いました。すると、先生は、「問題ありません。インドネシアでは罪を告白することに慣れていますから、ちっとも驚きません」と言われました。

エディ・レオ先生はあとから、こういうメッセージを語ってくださいました。ルカ12章でイエス様はこのように言われました。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。おおいかぶされているもので、現されないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。」12章を見てわかりますが、パリサイ人たちは、外側の目につくことばかり大事にしていました。中味が本当に良くなることではなく、外側が良く見えることに気を使っていました。でも、イエス様は彼らに「あなたは白く塗られた墓である」と言われました。イエス様は偽善が大嫌いです。教会員も偽善的な人がいますが、牧師の方がもっと偽善になる傾向があります。「ああー、それをみんなに見せたくない」という罪があるかもしれません。隠れたところで罪を犯し続けています。もし、見せたくないならば、イエス様がそれを助けてくださいます。どのようにしてでしょうか?「おおいかぶされているもので、現されないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。」明るみに出したくないなら、それでも良い。だが、イエス様はあなたを心底、愛しておられるので、それを明るみに出される。暗やみでやっていたことをみんなの前に現す。家の中で隠れてやっていたことを公にする。さきほどのアメリカの牧師は、自分で明るみに出さなかったので、神さまがそれを手伝ってくださいました。ですから、2つの選択肢があります。自分から明るみに出す方法。もう1つは、イエス様によって明るみに出してもらう方法です。自分で告白する場合は、被害が最小限に済まされます。でも、イエス様が手伝ってくれると大変なことになります。私たちは人の顔を恐れて、罪を言い表すことをなかなかしません。しかし、聖書は何と言っているでしょうか?ルカ124,5「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。」どうぞ、人よりも神さまを恐れましょう。でも、その神さまはキリストにあって、私をあなたを豊かに赦してくださるお方です。