2010.10.31 動く教会 マタイ18:20、Ⅰコリント3:16

「日曜日は教会へ」というキャッチ・フレーズを時々、見たり、聞いたりします。しかし、ここにはいくつかの問題が隠されています。第一は教会とは建物ではないということです。教会とはクリスチャンの集まりです。第二は「日曜日さえ教会に来れば良い。月曜日から土曜日まではどうでも良い」というふうに解釈できます。これはインドネシアのエディ・レオ師がよく話すことです。日曜日は教会で「ハレルヤ!この手はきよいです。ハレルヤ!」と賛美する。しかし、家に帰ってから妻をビシュ、ビシュと叩く。そして、次の日曜日、教会へ行って、「ハレルヤ!この手はきよいです。ハレルヤ!」と賛美する。しかし、家に帰って、妻をビシュ、ビシュ。バキ(蹴る)。そして、次の日曜日、教会へ行って、「ハレルヤ!この手はきよいです。ハレルヤ!」。そこに天使がやって来て、「ぺっ」とつばきをかける。きょうは、教会という私たちの概念をひっくり返すようなメッセージをさせていただきます。

1.教会とは何か?

 私たちは「日曜日は教会に行く」と言います。するとどうなるでしょうか?日曜日の朝は神様を礼拝します。しかし、日曜日の午後、教会から帰るとこの世のものを追い求めます。午前中は神さまを追い求めるかもしれません。しかし、日曜日の午後から月曜日、火曜日、水曜日、木曜日、金曜日、土曜日、この世のものを追い求めます。もし、「日曜日は教会に行く」ということを言うと、サンディ・クリスチャンを生み出してしまいます。しかし、日曜日、教会に行かない場合はどうでしょうか?「え?クリスチャンなのに教会に行かないの?なんてひどいクリスチャン、信仰があるの?」と言われてしまいます。クリスチャンとは日曜日、教会に行く人たちなのでしょうか?そもそもどこが問題なのでしょうか?「私たちは教会に行きます」。これが間違っているのです。この考えが、日曜日だけのクリスチャンを生み出しているのです。私たちは教会に行くことはできません。「え?何を言っているんですか?私たちはこうやって教会に来ているじゃないですか?」と思っているでしょう。でも、みなさんは、教会に行くことはできません。教会とは何でしょうか?教会とは、本来、人々のことを指していることばだからです。教会はギリシャ語でエクレーシアと言いますが、「神様によって召し出された人々」という意味です。ですから、教会は建物でもなければ、場所でも、施設や団体でもありません。教会とは何でしょう?あなたが教会なのです。隣の人に言ってください。「あなたが教会です。」。あなたが教会であったならば、教会に行くということは不可能です。人々が集まるところ、それが教会です。今、亀有教会という建物の中に、教会という人たちが集まっているのです。もし、私たちは水元公園に集まって礼拝をしているなら、そこが教会になります。アリオに集まれば、そこが教会になります。アリオのあの丸いテーブルに座っても大丈夫です。そこが教会になります。

 現代は、「教会」ということばが、聖書的な意味を表していないので、別な呼び方をしている教会がたくさん出ています。大和カルバリーチャペルは「チャペル」と言っています。新松戸クリスチャンセンターは「クリスチャンセンター」と呼んでいます。大阪には「Jハウス」と呼んでいる教会もあります。呼び名はどうでも良いのですが、教会とは建物ではなく、人々であるという考えが重要です。旧訳聖書では神殿に神様がおられました。しかし、イエス様は「私は死んで3日目に神殿を建てる」とおっしゃいました。それはどういう意味でしょう?Ⅰコリント3:16「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っていることを知らないのですか」と書かれています。つまり、私たちが神の宮、神殿なのです。アメリカに行くと、テンプル・オブ・ガッドという名前の教会があるそうです。「神の神殿」という名の教会であります。あるところでは、礼拝堂を聖堂、サンクチャリーと呼んだりしています。新約ではそういうことはありえません。なぜなら、私たち自身が神の神殿であり、サンクチャリーだからです。旧約の時代は、神様の前に近づくとき、いろいろな手順がありました。動物を携えて行って、身代わりにささげました。動物の血を流すことによって、罪がきよめられたのです。でも、自分が近づくのではなく、祭司や大祭司が間で奉仕をしていました。至聖所におられる神様に近づけるのは年に一回、大祭司がきよい動物の血を携えて近づくことができました。聖所と至聖所に厚い幕があって、ふだんは入ることが絶対、許されなかったのです。しかし、イエス・キリストが十字架で死なれたとき、至聖所の幕が上から裂けました。それは何を意味するかと言うと、私たちはイエス・キリストの血によって、神様の御前に近づくことができるということです。マルチン・ルターは「私たちは万人祭司であって、だれでも神様の前に近づくことができるんだ」と言いました。私たちが教会なのです。私たちが神殿なのです。そして、私たちが祭司なのです。

 教会は場所ではない。教会は建物ではない。教会は私たち自身であるというなら、どのような信仰生活を送るべきなのでしょうか?それは私たち自身が動く教会だということです。少し前に、「ハウルの動く城」と言う映画がありました。中に火が燃えていて、それが原動力になっていました。私たちの内側に聖霊の火が燃えているなら、動くんじゃないでしょうか?それはともかく、私たち自身が教会であると明確に考えるならどういうことが起こるでしょうか?教会は葛飾区亀有2-27-3という固定したところにはないということです。ここは建物、ここは私たちが集まる場所です。でも、本当の教会はどこにあるんでしょうか?本当の教会は、家庭や職場、学校、地域社会に点在しているということです。しかも、じっとしていないで動いているということです。あるときは満員電車に乗っているかもしれません。また、あるときはオフィスビルにいるかもしれません。また、あるときはショッピングモールにいるかもしれません。するとどういうことになるでしょうか?教会は日曜日ではないということです。教会は24時間であるということです。あなたは教会から離れられないし、教会をやめることもできません。つまり、教会は単なる名詞ではなく、教会は動詞になります。「教会をする」「教会をしている」ということになります。かたつむりをご覧になったことがあるでしょうか?みんなお家を持っています。みんな、お家を背負っています。私たちクリスチャンも教会というお家を背負って生きているのです。教会を捨てることはできません。もし、教会を捨てたらナメクジになって、「人々から気持ち悪い」と言われます。私たちクリスチャンは神殿を背負っている、かたつむりのような存在です。「教会とはかたつむりのようなものである。」これはものすごく画期的な神学、教会論であろうと思います。

2.教会をする

 ベン・ウォン師がコーチングのために2年間、香港から通ってくださいました。先生は何度も「教会は建物ではなく、私たち自身が教会である」と教えてくださいました。第一ポイントの内容の半分はベン・ウォン師が言ったことです。「私たち自身が教会であり、教会をやめることができない。私たちが行くところどこでも、そこが教会になりうる。教会は、家庭や職場、学校、地域社会に点在している。」これは、コペルニクス的な新しい考えではないでしょうか?でも、1つだけベン・ウォン師に文句があります。文句というと強い表現になりますので、訂正すべき点があります。それは教会とは個人ではなく、共同体だということです。では、最低、何人いればそこが教会になるのでしょうか?マタイ18章には「二人もしくは三人」と書いてあります。ですから、私はクリスチャンが二人もしくは三人、集まれば、そこは教会になりうると考えます。でも、これに対して、異論を唱える牧師や神学者はたくさんいます。でも、文句の言えない教会のプロトタイプ、教会の原型は何でしょうか?それはイエス様と12人の弟子たちです。イエス様の周りに、この世から呼び出された12人の弟子たちがいました。イエス様はルカ12:32で「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです」とおっしゃいました。小さな群とは、イエス様と12弟子の集団です。ですから、教会の最小単位は二人もしくは三人、多くて12人だということです。今、外国ではG12とかG10というふうに、教会の中を小分けしている教会がいつくかあります。1つのセルが、12人もしくは、10人で構成されているということです。そのような核があれば、1万人、2万人の会衆が集まっても組織として耐えられるということです。

 私たちは職場に一人しかクリスチャンがいない場合があります。でも、なんとかあと二人くらいクリスチャンを発掘したら良いですね。他のクリスチャンを探すか、新しくクリスチャンにするかです。そうしますと、お昼、一緒に食事をしたり、祈り合うことも可能になります。もう、そこが教会になります。私が招かれている区役所セルもそうです。固定メンバーは3人です。そこに求道者1名、クリスチャンが2名加わったりします。彼らは月2回、お昼、食事をしながら聖書を学んでいます。そして、3000名の区役所職員のために祈ります。そこも立派な教会ではないでしょうか?インドネシアでは、学生が喫茶店で集まって集会をします。たまに、そこで悪霊追い出しがなされる時もあるそうです。日本で悪霊追い出しは無理かもしれませんが、集会ならできます。福沢満雄先生は中学を卒業して、ニコンで働いていました。ニコンで働きながら夜学の高校へ通っていました。まもなく、上司の田中さんから、誘われて、聖書研究会に入りました。やがて、福沢青年はクリスチャンになりました。ある時、お昼の集会で、田中さんが「この会社からどうか伝道者が出ますように」と一生懸命にお祈りしました。でも、その当時、聖書研究会に常時、出席していたのは、田中さんと福沢青年の二人だけでした。「うぁー」と驚きました。なぜなら、長男である自分が牧師になったら、家が経済的に立ち行かなくなります。福沢青年は、家族の反対を押し切って、直接献身の道を歩むようになります。でも、先生の信仰の土台は会社の小さな聖書研究会だったのです。やろうと思えば、どこでも、教会はできます。たとえば、教会が特別伝道集会を開いたとします。95%がクリスチャンで、5%が未信者です。100人中、5人のために、特別講師を呼んで、多額の予算で行います。それだったら、未信者がいるところで集会を持ったら良いのではないでしょうか?名古屋の山下先生は、路上でライブをしています。そこで音楽をして礼拝をしていると、他の未信者の若者が集まってきます。教会で伝道集会を開いても、未信者を集めるのが難しい。でも、未信者がいるところで集会を持つなら、なんとすばらしいでしょう。KGC亀有ゴルペルクワイヤーも時々、アリオで賛美します。すごい未信者の数です。普通はチラシを取らないのですが、あのようなところだと、みんなもらいます。教会という建物から外へ出て、教会を行う。そうしたら大勢の未信者と会えます。すばらしい発想の転換ではないでしょうか?

私たちは「教会堂という建物があるところが教会である」という固定観念があります。そうすると、どうしても人を集めることしか考えなくなります。いろんなプログラムをして、何とか人々を集めようとします。そういう教会もあります。あっても良いと思います。でも、動く教会、こちらから出向いて行く教会がもっと聖書的ではないでしょうか?旧訳聖書では、人々が礼拝するためにエルサレム神殿に行きました。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう」と人々が歌いました。「世界の諸民族は、イスラエルにやって来て、神の栄光を仰ぐべきである」と考えられていました。なぜなら、エルサレムの神殿に神様がおられるからです。でも、新約聖書はどうでしょうか?弟子たちが「何とすばらしい建物でしょう!」とエルサレムの神殿を指差して言いました。イエス様は「この神殿を壊してみなさい。私は3日で建てる」とおっしゃいました。紀元70年、ローマによってエルサレムの神殿は破壊されて、今はありません。でも、その前に、イエス様は素晴らしい神殿を建てておられたのです。それはご自分の体である、教会であります。イエス様の体が、神殿であり、また教会なのです。イエス様はマタイ28章で「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と命じられました。マルコ16章でも「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」と命じられました。つまり、旧訳聖書は「集まれ!」と言われていますが、新約聖書は「行きなさい」と命じられているのです。でも、どういう訳か、教会堂に集まって、礼拝をささげるので「来なさい」と言われています。西暦313年、コンスタンティヌス帝の後に旧訳聖書に戻されてしまったのです。しかし、本当の教会は世界に出て行く教会です。教会に人々を連れてくるのではなく、人々の所に教会を持っていくのが本当の教会です。

3.動く教会

 新約聖書の教会は人々が来るのを待っている教会ではありません。むしろ、人々のところへ行くのが教会であるとしたら、頭がパニックになるでしょうか?多くの場合は、教会を開拓する、新しい教会を建てるとき何をするでしょうか?「どこに集まるべきか?」と建物を探します。教団がお金をかけて始める場合は、教会という建物をまず建てます。そこに人々を集めようとします。どこの教会か名前を忘れましたが、ある村に立派な教会堂を建てました。しかし、牧師夫妻の他に、信徒が一人もいないのです。果たしてそれが教会でしょうか?「そのような教会開拓をしていいのだろうか?」と思います。でも、クリスチャンを長くやっていますと、教会堂という建物から離して物ごとを考えることができません。「では、日曜日の礼拝はどうなるんだ?」と文句がでるでしょう?私たちは日曜日、ここで集まって礼拝をささげる。これが教会のすべてであるかのように思っています。「日曜日、教会で礼拝を守る」これは悪いことではありません。とっても良いことです。でも、日曜日に礼拝を守ることが、クリスチャンのすべてではありません。問題なのは、教会堂という建物ですべてのことを行うことです。当教会も17年前にこのすばらしい会堂が建てられました。礼拝堂、多目的室、そして、冷暖房、音響設備、ピアノやオルガンもあります。設備が整っているということは、とてもすばらしいことです。でも、建物の中ですべてをしてしまう。そして、この建物に人々を集める。そのことに集中してしまうということです。どうでしょう?私たちの職場にあるいはご家庭に、「一生、教会に来ない」という人がいないでしょうか?その人たちをここに連れてくるのは99%不可能です。そういう人は永遠に救われないことになります。みなさんのように来れる人は本当に幸いです。でも、いろんな事情で来れない、来たくない人の方が圧倒的に多いのではないでしょうか?

 私の家内は毎年、岩手の実家に帰ります。この間も、8月に1週間ほど帰りました。日曜日が間にあると、弟さんの車で近くの教会へ行きます。でも、30分はゆうにかかります。下手したら、1時間かかるかもしれません。その場合、お母さんと弟さんが一緒に行けば良い方です。お父さんは絶対に行きません。お父さんはもう、80歳を超えています。いろんなところが悪くなり、病院にも通っています。特に、田舎に住んでいる人は、「教会に行け」と言っても、行かれません。家内と子どもたちが、毎年、通っているので、いつかは信じると思っています。でも、私たちも、勘違いしているところがあるのではないでしょうか?まず、教会に連れてこなければならない。「あの人は、教会に来ないから絶対だめ!」みたいなところはないでしょうか?しかし、あなたがた教会だったら、話は違います。また、あなたの家で教会をはじめたらもっと良いのではないでしょうか?もちろん、私たちのように立派な教会堂があり、このような礼拝をささげられるのはすばらしいことだと思います。礼拝に出ると神様を体験することができます。この時間は、私たちの信仰の基盤であり、信仰のよりどころと言っても良いでしょう。でも、何度も言いますが、これだけだと、新約聖書の教会ではありません。人々のところへ行く教会、動く教会こそが、新約聖書の教会です。

 では、具体的にどうしたら良いのでしょうか?何からはじめたら良いのでしょうか?まず、自分の家庭です。自分の住所が新小岩だったら、新小岩の住民が救われるように。「ここに教会ができるように、つまりここにクリスチャンの群ができるように」と祈るべきです。新小岩には亀有教会まで来れない人がいっぱいいるでしょう。あなたの家が教会になれば良いのです。あなたが○○株式会社に勤務しているとします。その会社の上司や同僚が、「教会に行きなさい」と行っても無理かもしれません。それよりも、あなたが教会の核になり、もう一人の人を導いて、会社に教会を作ったらどうでしょうか?やがて、お昼休みに、集会を持つことが可能になるでしょう。もしかしたら、近くの別の会社にもう一人のクリスチャンがいるかもしれません。その人と、ビジネス街で、教会を作ることも可能です。日本にVIPクラブというのがありますが、会社の人たちが、ビジネス街に集まっています。教会はベースキャンプです。ここには牧師もいるし、いろんな設備もあります。でも、小さなキャンプを方々に作ることも可能です。今、日本において注目されているのが、ハウスチャーチ、あるいはチャーチ・プランティングです。家で教会をはじめる。あるいはいろんなところに教会を作るという働きです。でも、私が見るところ、あまり成果をあげていないように思えます。こう言ったら怒られるかもしれません。なぜでしょう?ベースキャンプである教会がないからです。小さな教会はあります。でも、経済的なサポート、あるいは牧師の霊的なサポートがありません。だから、小さいままです。常磐牧師セルの仲間である大喜多先生が牧会している教会はとても成功しています。どんな方法でしょうか?それは「ストロベリー教会開拓方式」と言うようです。みなさんは、いちごがどのように増えるかご存知でしょうか?親の株から、何本か枝が出ます。枝の先に根があって、地面に着地します。しばらく、親とつながって栄養をいただきます。でも、ある時になると、株別れしたところに根がはえ、葉っぱも生えるので独立が可能になります。そうです。中央に教会があり、そこから小さな教会がいろんなところに派遣されるのです。そして、日曜日に戻って来て、また派遣される。それを繰り返しているうち、やがては、その株別れした教会で礼拝をはじめる。

 私たちは教会を動かない建物として考えるのではなく、動く教会として考えるべきです。会社でも、学校でも、保育園でも可能です。もちろん家庭でも可能です。公園でも、喫茶店でも、マックでも可能です。なぜなら、二人三人集まるなら、そこが教会だからです。どうぞ、人々が来るのを待つ教会ではなく、人々のところへこちらから行く教会になりたいと思います。