2010.09.12 走るべき道のり Ⅱテモテ4:6-8 

パウロは、「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです」と言いました。Ⅱテモテはパウロが書いた最後の手紙ですので、これはテモテに宛てた遺言のようなものです。パウロは自分の人生が何のためにあるのか良く知っていました。そして、今、走るべき道のりを走り終えようとしているところです。それは、まもなく天に召されるということです。そこでは、イエス様から義の栄冠を受けることができます。私たちもパウロのような「走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」という人生を送りたいと思います。英語で、finish well は、直訳すると「良く終る」という意味です。キリスト教的に言えば、「堕落しないで、最後まで忠実に走り終える」ということになるでしょうか?私たちは人生において走り終えるべきものがあると思います。それが仕事であったり、奉仕、あるいは家庭としての働きではないでしょうか?

1.仕事と家庭

仕事は、私たちの人生にとってどれほど重要なものなのでしょうか?また、家庭との関係はどのようなものであるべきなのでしょうか?仕事の起源は、創世記2章に遡ります。最初の人間であるアダムはエデンの園において、土地を耕していました。動物たちの名前をつけていますので、何らかの交わりもあったと思います。しかし、罪を犯して、堕落してから、どうなったのでしょうか?創世記3章には罰として、2つのことが強いられるようになりました。女性はみごもりの苦しみを受けました。「あなたは、苦しんで子を産まなければならない」と主が言われました。男性にはどうでしょうか?「土地が呪われたので、あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る」と言われました。エディ・レオ師がこんなことを言ったことがあります。それでは、女性と男性ではどっちらが苦しいだろうか?女性の産みの苦しみは、半ぱじゃありません。「本当に苦しい!」そうです。これは男性には分かりません。では、男性はどうでしょうか?「一生、苦しんで食を得る」とありますので、一生、労働の苦しみが与えられるということです。女性は一生で何人の子供を産むでしょうか?平均3人位ではないでしょうか?現代はもっと少ないかもしれません。一生において、3度、死ぬほどの大きな苦しみを体験するということです。一方男性は、死ぬほど大きくはないかもしれませんが、一生ずっと労働の苦しみがあります。では「どっちが苦しいでしょうか?」ま、今は、女性も働いていますので、愚問かもしれません。

でも、ここに勤勉である日本人がよーく知るべき点があります。人間が堕落してから、仕事にも呪いが入ったということです。聖書的には「汗」というものは呪いの象徴であります。もちろん、良い汗もあります。勤労の喜びというのもあるでしょう。しかし、仕事をすればするほど、どんなことが起こるでしょうか?男性は仕事中毒になります。仕事ばっかりして、家庭を顧みなくなる場合もあります。そのため、子どもがおかしくなったり、離婚ということもありえます。男性はどういうわけか、仕事は好きなんです。仕事中毒になりやすいのです。そして、仕事、つまり職業というものが、自分のステイタスになります。職業が自分の身分や価値を決めるということです。どうでしょう?「あなたはだれですか?」と人に聞くなら、普通は、自分の職業を答えるのではないでしょうか?もし、自分が一流企業の重要なポストにいるならば、名刺も出しやすいですね。でも、それがいつまでも長続きするわけではありません。失敗して左遷されたり、クビになるかもしれません。会社が倒産する場合もあるでしょう。無職になるとどうなるでしょうか?全部、失った気持ちになるかもしれません。幸い、停年退職まで会社で勤めたとしてもどうでしょう?退職したら、やはり、その身分を失います。男性はとたんに鬱になり、生きる目的すらも失うようであります。今は、「社友」と言って、会社のOB会に属することによって、緩和するように工夫されているようです。でも、気付くべき点は、職業(仕事)は、自分の本質的な身分ではないということです。なぜなら、いつかなくなるからです。それなのに、医者や弁護士、一流企業あるいは、公務員のエリートコースを目指して頑張っています。悪いことではありません。でも、職業が自分の身分、アイディンテティではないということを知るべきです。

では、何のために仕事をするべきなのでしょうか?また、家庭との関係はどうなのでしょうか?パウロはⅡテサロニケにおいて、こう教えています。Ⅱテサロニケ310「私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました」。12-13節「静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。しかしあなたがたは、たゆむことなく善を行いなさい」と書いてあります。つまり、労働というものはパン、食物を得るためであります。また、社会に貢献するためにあります。日本では「働かざる者、食うべからず」ということばがあります。しかし、聖書は「働きたくない者は食べるな」と言っています。この2つには微妙な違いがあります。聖書は、働きたくても働けない人のことを考えているということです。そして、「働けるのに働かない者は食べる権利はないよ」と言うのです。ですから、私たちは健康である限りは、自分で働いて、糧を得るという責任があります。でも神さまは、どんなお方でしょうか?天の父は空の鳥を養い、野の花を育てて下さいます。「ましてや、神の子である私たちを良くしてくださらないことがあろうか」とおっしゃっています。つまり、天と地を造られた神さまが、あらゆる源であって、私たちに必要なものを恵んでくださるということです。日本人は世界で最も勤勉な人種でありますが、天の父に対する信仰がありません。だから、たとえ寝ないで働いても、満たされることがないのです。また、日本は家庭よりも仕事が大事だという価値観があります。昭和の高度成長期は、このように考えられたのではないでしょうか?夫は外で働くことが仕事、妻は家で家庭を守ることが仕事、子どもは勉強と分業制にしました。それは家族ではなく、まるで会社であります。するとどうなるでしょうか?子どもに何か問題が生じたときに、夫は妻に「家のことは全部、お前に任せているんだから」と言うでしょう。つまり、子育てのことは全部、妻がやって自分には責任がないということになります。そういう父親不在のために、大きな間違いを生じさせてしまったのです。確かに時間的な割合は少ないかもしれませんが、家庭における父親の責任、父親しかできない役割もあるのです。家庭は会社と違います。決して、分業ではないことを知るべきです。昔、モレクという醜悪な偶像礼拝がありました。自分の愛する子どもを火の中に投げ入れることが、信仰の証でした。現代のモレクとは何でしょうか?家庭の父親が仕事を偶像にしているということです。そして、モレクに最愛の子どもささげているのです。「俺は仕事で忙しいんだ」と家に帰りません。しかし、お家では妻や子どもが泣いています。まさしく、モレクの偶像です。

日本の場合は、仕事至上主義で、単身赴任がよくあります。妻だけで、子どもを育てます。そして、本来なら夫に分かち合うべきことを、子どもに分かち合ってしまいます。子どもがお母さんのカウンセラーになります。また、ある場合は、数年で転勤させられることもあるでしょう。そうすると、子どもは転校しなければなりません。「でも、生活のために仕方がない」と言います。しかし、欧米にはそういう考えはありません。昔、阪神にバースというホームラン・バッターがいました。彼の子どもがアメリカで重い病気にかかりました。絶好調だったのに、バースはさったと球団を辞めて、国へ帰りました。彼にとっては、仕事よりも家族が第一だったのです。日本人としてはとても不思議に思われました。現在、バースはオクラホマ州の上院議員として活躍しています。私は建設業から、小さな貿易会社に入社しました。私がミスすると先輩は「たかが、仕事じゃないか?人生にはもっと大事なことがあるよ」と励ましてくれました。彼はクリスチャンだったのです。仕事を馬鹿にするわけではありませんが、ギリシャやローマ時代は、仕事をするのは奴隷でありました。一般の市民は政治や哲学をしていたのです。私が言わんとしていることは、職業が自分の身分やアイディンテティではないということです。私たちが持つべきアイディンテティとは何でしょうか?それは、私は神の子、クリスチャンであるということです。この身分は退職後も、持ち続けることができます。私も牧師である前に、神の子、クリスチャンであることの方が大事だと思っています。でも、みなさん神さまは私たちに天職、これをもって神の栄光を現しなさいという仕事も与えておられるということです。その仕事をもって人々に仕えることができたら幸いです。現代はお金儲けがすべてみたいなところがありますが、社会に役に立つ生産的なものであるべきです。イエス様はこの地上では、大工をなされ、仕事を聖めてくださいました。私たちも神さまから手のわざが祝福され、必要が満たされるように、大胆に求めていきたいと思います。アーメン。

2.老いと死

 年を取るというのは、一般に嬉しくないものです。子どものときは誕生日が来ることは嬉しいことでした。しかし、大人になると誕生日が来ることがあまり嬉しくありません。特に、40、50、60と、桁数が変わるときはショックであります。それと同時に、体力も気力も記憶力もガクンと落ちてきます。ですから、おのずと自分の年を受け入れなければなりません。女性では更年期というのがあります。男性もありますが、女性の方がいろんな障害が起こります。教会では霊的なことばかり強調されますので、更年期になって感情が不安定になると、「霊的じゃない」と裁かれるかもしれません。確かに、更年期になるとホルモンのバランスの変調から、感情も不安定になるようです。私たちはこういうことをあらかじめ知っておかないと、裁き合ったりする可能性もあります。今は、いろんなサプリメントとか自然食品で軽くする方法もあるようです。また、家の中でじっとしていないで、何か気持ちをまぎらわすことをすると良いということも聞いています。とにかく、夫の理解と労わりが必要だということです。また、もう1つ「空の巣症候群」というのがあります。ウェブで調べてみました。「40代から50代の女性によく見られる抑うつ症状。子育てが終わり、子どもが家を巣立っていったあたりから出てくる事が多いので、こう呼ばれる。子どもが自立し、夫は仕事で忙しく、構ってくれず、夫婦生活もないに等しくなり、涙もろくなる。夫の定年が近いと、退職、即離婚といった方に展開していく事もある。」今までは、子どもがいたので、何となくやってこれました。しかし、今度は夫と二人っきり。話す話題もありません。どうしてもうつ的になります。

少し前の「共同体」のところで、私たちは色んなコミュニティに属する必要があると申し上げました。奉仕やボランティアも良いと思います。教会は神の家族ですから、育てるべき霊の子どもがたくさんいます。そういう意味で、いくらでも、必要があるのではないかと思います。また、男性にとっても、女性にとっても、一生涯貫くものが必要です。前のポイントでお話ししましたが、男性は退職してしまうと自分のアイディンテティもなくしてしまいます。女性ですと、子育てが終ったり、若さと美貌がなくなると、自分の存在価値もなくなった感じがします。ですから、たとい老いがやってきたとしても、継続すべきものが必要です。一般的には趣味とかボランティア、お稽古ごとが良いと言われています。しかし、私たちクリスチャンはもう一歩踏み込んだ、神さまとの関係でそういうものがあれば幸いです。堅苦しい言葉でいうなら、使命とでも言いましょうか?自分の一生涯貫くテーマというものはないでしょうか?もし、それが自分の職業と結びついている場合もあるし、そうでないものもあるかもしれません。たとえば、音楽はどうでしょうか?職業としてできる人はほんの一部かもしれません。でも、音楽を通して一生涯、神さまや人々のために、できることってあるのではないでしょうか?賛美やゴスペルでも良いし、日曜学校もあります。また、自分の興味あることを研究するというのはどうでしょうか?たとえプロにならなくても、アマであってもかなりの領域に達することのできるものはたくさんあります。私は聖書の他に、心と体の癒しに関してとても興味があります。ですから、退職後はカウンセラーもしくはコーチとして働き場を求めていきたいと思います。みなさんの中にも得意分野、専門分野というものが1つや2つはあるのではないでしょうか?それを神の国の1つに取り入れて、伝道のために用いることもできます。本郷台キリスト教会では、囲碁のサークルもあります。また、山登りもあります。一人でお住まいのお年寄りのために弁当をつくるグループもあります。自然食、菜園、絵画、習字、さまざまなものがあります。当教会でも、この間、お茶会がありました。ゴスペル、フラ、サインダンスもあります。私たちは生きている限り、一生、勉強であり、一生、何かのために働くことができます。でも、手足が思うように動かなくなったらどうしたら良いのでしょう?祈りこそが、もっともすばらしい奉仕です。本来、祈りによって多くのことができたはずです。でも、自分の体が丈夫だったために、祈りに時間を割かなかったということもあります。しかし、手足が思うように動かなくなったら、最も効果的な、とりなしの祈りをすることができます。祈りこそ、神の御手を最大限に動かすものがないのに、どうして、私たちは祈りを後回りにするのでしょうか?ですから、老後に再発見すべきものは祈りだということです。人々からいろんな祈りのリクエストをいただいて、「私は祈るのに忙しい!」となったらすばらしいと思います。

老後とは何でしょうか?人生の冬でしょうか?確かに、人生の冬と言えるかもしれません。でも、見方を変えるならば、人生の収穫期かもしれません。「私は走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通した」という満足感は、何よりも代えがたいものではないでしょうか?マイ・ウェイというフランク・シナトラの歌があります。また、マイ・ウェイという映画もありました。未信者のときは、あのような生涯を送りたいと憧れました。「すべては、心の決めたままに」生きたいと思いました。しかし、クリスチャンになると、マイ・ウェイではありません。ヒズ・ウェイであります。イエス様が道であり、真理であり、命だからです。イエス様に導かれ、神さまが進みなさいという道を歩むのです。この世の中から見たらどうか分かりませんが、神さまの御目からみたら、「アーメン、ハレルヤ!」であります。finish well は、「良く終る。堕落しないで、最後まで忠実に走り終える」という意味であると申し上げました。私たちにとっては、「私は走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通す」ということであります。ある人が調べました。聖書に出てくる人物で一体、どれくらいの人が、finish well走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通したのか?なんと30%だそうです。70%の人は、うまくいかなかったということです。サウル王やソロモン王は、最初はとても良かったです。しかし、最後は悲惨で、神さまから捨てられました。すばらしいことに、ヨシュアとカレブは最後まで信仰を守り通しました。香港のベン・ウォンが私たちに聞きました。「世界の牧師がどのくらいfinish wellしているでしょうか?」その答えは20%だそうです。聖書よりも率が悪いのです。私が知っている、活躍している牧師たちも「不祥事で辞めた」という人が何人もいます。私は、主のあわれみによって、なんとかfinish wellをしたいと願っております。

そして一番、最後に死がやってきます。老後の場合もあるし、「人生の半ばに」という人もいないわけではありません。お役目柄、今まで、他の人のお葬式は何十人もやってきました。火葬場に入って、お骨を引き上げるのも立ち会ってきました。いずれは、「私もあの中に入るのかなー」と思います。できたら、私の場合は、「お骨を拾うことは無しにして、人々がお茶を飲んでいる間に、係り員によって骨壷に入れてもらいたいなー」と思います。ハワイでは実際、そのようにやっているそうです。「全部、見せるというのは恥ずかしいなー」と思います。今後、そういう方がおられましたら、そのようにすることも可能です。ご検討ください。でも、それよりも大切なのは、死ぬときが来た時であります。『死ぬ瞬間』という本があるようですが、読んだことはありません。世の終わりの再臨が来ない限りは、みんな死ぬことになります。ですから、死に対する備えが必要です。ご家族が未信者の場合は、「お葬式は、キリスト教式でお願いします」と一筆書いておかれた方がよろしいと思います。たとえ仏式でも本人は天国に行けます。でも、伝道になりません。教会のお葬式は、一生一代の伝道集会であります。一人でも多くの人が、道連れに天国へ、いや、救われて天国に入れたら良いですね。

私もいざ、死ぬときが来たら、怖いと思いますが、安心に思うところもあります。なぜなら、イエス様も死を経験なさったからです。イエス様は十字架で「私の霊を御手にゆだねます」と祈られました。まるで、自分が子どものようになって、御父にゆだねたのです。また、ステパノも同じ祈りをしました。ステパノもイエス様に倣ったのでしょう。天が開けて、イエス様が見えるかもしれません。でも、見えるのは本人だけで、周りの人はわからないかもしれません。御使いがお迎えにこられて、貧乏人ラザロのように天に引き上げてくださるでしょう。きっと、二人の御使いが両脇を抱えて、パラダイスに引き上げてくださる。多くの人たちは天国があまりにもすばらしくて、もう帰る気がしなくなるそうです。アフリカのガジマという牧師も一度死んで、天国に行きました。イエス様が「戻れ」と言っても、彼は「いやだ、ここが良い」とごねたそうです。でも、イエス様が命じるので、地上に戻ってきた。そして、自分のからだの中に飛び込んだそうです。そうして、生き返ったのであります。よみがえる場合は、病気や怪我も治っているそうです。ま、そういうこともあるかもしれません。神さまから信仰が与えられたときは、「よみがえれ!」と大胆に、命じてください。でも、そうならない場合は、お送りしましょう。私たちは行くべきところがちゃんとあります。ですから、キリスト教では死と言わないで、召天、「主が召してくださったのだ」と言います。私たちはこの地上から、天に移り住むのです。残された人はそれでも悲しいと思います。特に、自分の子どもが召された時はそうでしょう。この地上では、「どうしてなんだろう?」ということがたまにあります。でも、聖書に「あとになってから分かる」つまり、天国に行ってから分かるということがあります。おそらく、そちらの方が多いかもしれません。パウロは「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです」と言いました。アーメン。天国ではいくつかの冠があります。私たちが忠実に信仰を守りとおしたならば、素晴らしい報いが与えられます。この地上とは比べようもない素晴らしい世界です。神ご自身が涙をぬぐってくださる。死もなく、悲しみ、叫び、苦しみない。涙も、別れもないすばらしいところです。