2010.09.26 礼拝の生活 詩篇111:1-10

信仰のDNAシリーズも後半になりました。これから4回に渡って、クリスチャンの基本的生活についてお話しさせていただきます。第一回目は礼拝です。最近、『いつも礼拝していなさい』という本を読んで、礼拝がいかに大切か、目が開かれました。私は自分で、「ある程度は礼拝している」と思っていました。しかし、私たちが日々の生活の中で、神さまを礼拝し、神さまをほめたたえていないために、得られなかったものがたくさんあることに気がつきました。「こんな基本的なことを何故、おろそかにしていたのか!」と悔しいばかりです。もし、私たちがこの礼拝を個人の生活で、あるいは私たちの集いで行うなら、これまでとは、ぜんぜん違ってくるでしょう。きょうは、『いつも礼拝していなさい』という本から、かなり引用しながらメッセージをお届けしたいと思います。

1.礼拝の重要さ

 『いつも礼拝していなさい』の著者、ノーベル・ヘイズという人が、あるとき、車を運転していました。その時、神の御霊が臨み、彼にこう言われました。「子よ、教会には、欠けているものが、悲しいまでたくさんあります」。彼は「それは、どういうことでしょう?」と聞きました。すると御霊は「私の子どもたちは確かに私を愛していますが、貧困と病気と敗北の中で過ごしています。彼らは天の祝福の中で過ごしていません。それは、彼らが私を十分なまでに礼拝していないからです」。彼は「おっしゃる通りです。主よ。事実、あなたを礼拝することに少しも時間を費やしていない教会を、私はいくつか知っています。そういう牧師たちは『しばらくの間、神さまを礼拝しましょう。彼は神であられるから』とは決して言いません。彼らが会衆に教えているのは、教会に通うことと、少し歌を歌うことだけです。しかし、彼らは本当にあなたを礼拝しているのではありません」と言いました。すると、御霊が「あなたもそうです。あなたが私の子どもたちに、もっと私を礼拝するよう教えるなら、私は彼らのために大いなる力あるわざを行うようになります」と言われました。

ノーベル・ヘイズ師があるところで礼拝のすばらしさをお話しました。「病気がちで、貧困に打ちのめされ、弱々しく、混乱した生活をしている信者たちがいますが、そういう生活は、神が私たちのために備えてくださった種類の生活ではありません。神が私たちのために備えてくださった生活とは豊かな生活です」。メッセージの後で、一人の姉妹がこう言いました。「でも、ノーベル先生、私の子どもたちは信仰から離れています。私の夫は病気で、医者たちは、彼には何もしてあげられないと言っています。『どうして、こんなことばかり私に起こるのかしら?どうして神さまは私のために何とかしてくださらないのかしら?』といつも思っています。」先生は彼女に「お尋ねしますが、今月、あなた自身はどのくらい神を礼拝してきたでしょうか?」と聞きました。彼女は「はい。私はいつも立派な教会に通っていますし、私の牧師はすてきな方なんですよ?」と答えました。先生は「あなたの教会や牧師が、あなたに代わって礼拝をすることはできません。あなたは今月、イエス様を少しでも礼拝したでしょうか?あなたは今月、イエス様の御前で身をかがめ、あなたの救い主、あなたの癒し主、あなたのために奇跡をなしてくださる方として彼に呼びかけたでしょうか?あなたの名が天に書かれていることで、あなたは彼に感謝をささげたでしょうか?彼がいかにすばらしい方であられるかを、あなたは彼に話して、彼を、彼だけを礼拝したでしょうか?」。彼女はしばらく、言い訳をしていましたが、最後に「実を言うと、私はそういうことはしていません」と答えました。

 私はその本を読みながら、「ああ、うちの教会でも、あまり礼拝をしていないな」と気付かされました。確かに賛美をしています。お祈りもします。聖書からのメッセージも頂くでしょう。「でも、神さまを礼拝し、神さまをほめたたえているだろうか?」と思いました。私たちが礼拝で祈る祈りは「○○して下さい」という求める祈りはあっても、「あなたはすばらしいです。あなたをほめたたえます」と主をほめたたえていません。「主を賛美します」という歌は確かに歌います。しかし、全身全霊で「主よ、あなたを賛美します!」と告白しているでしょうか?私たちは礼拝式を行なっているように思います。そのため、本当に神さまのすばらしさを思って、神さまを礼拝し、神さまをほめたたえるということが少ないのです。私は、「何かが足りない」とずーっと思ってきましたが、これだったんですね。また、みなさん個人の生活ではどうでしょうか?あなたは平日、どこかの時間を割いて、神さまを礼拝し、神さまをほめたたえているでしょうか?私は聖書を読んでディボーションをしています。その後、できるだけ声を出して祈ることにしています。しかし、神さまを礼拝し、神さまをほめたたえる時間は、ほんのわずかでした。「家庭でも、家内との関係でも、どうだろうか?」と自らに問いました。確かに祈るときはありますが、家庭で神さまを礼拝し、神さまをほめたたえることは皆無でした。聖書を読み、勉強はします。お祈りもします。しかし、神さまを礼拝し、神さまをほめたたえることが本当に少なかったということを告白します。

 ノーベル・ヘイズ師は、あの日、御霊が臨んだ日までは一人で部屋に閉じこもって神を礼拝する時間を過ごしたことはありませんでした。確かに、集会の前に神さまから油注ぎを受けようとして祈ることはありました。しかし、だれにも見られない自分の部屋で一人になり、充実した時間を過ごしたことはなかったのです。けれども、先生は、ある期間、一人で部屋に閉じこもり、身をかがめて神を一人で礼拝することを始めました。それからどんなことが起こったでしょうか?「私はこのことを実行し始めた日以来、経済的な問題を1つも経験していません。私は聖書学校のための土地も購入しました。愛するみなさん、私は本当のことをお話しますが、私たちは現在4つの会堂を所有しています。しかし、私はそのうちのどの建物の支払いのためにも献金を募らなかったのです。」とにかく、神さまのさまざまな恵みが望み、全き祝福が臨んだということです。ノーベル・ヘイズ師がご自分の体験から、強調していることはこのことです。「もしあなたが、あなたの周囲に人々が何人か一緒にいないと神を礼拝できないとすれば、あなたの神との関係は、半ば病的です。神を礼拝するのに、だれかがあなたと一緒にいなければならないというようでは、いけません。神に対するあなたの礼拝は、それを一人でするのを神がご覧にならないうちは、十分に神を喜ばせるものとはならないでしょう」。つまり、神さまの前に一人で出るということです。マタイ66「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」アーメン。ある人から先生のもとに手紙が来ました。「ノーベル先生、私は一年間、神さまを礼拝したところ、いろいろなことが起こりました。現在、私の生活は完全に変わり始めています。私にとって人生は、もう、辛いことではなくなっています。神さまは私にさまざまな恵みを注いでおられます。耐えられないくらいです!」。礼拝の基本はこのような公けの礼拝ではなく、個人的に神さまの前に出ることです。そして、個人的に神さまを礼拝し、神さまをほめたたえ、神さまと蜜のような時を過ごすことです。何時かとか、どのくらい礼拝するとか決めないで、一人でひざまずいて、神さまを礼拝するときを持ちましょう。何かを求めるのでなく、神さまが既に自分に与えておられるものを感謝しましょう。詩篇136篇に「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」とあります。

2.礼拝の祝福

では、私たちが神さまを礼拝するという、第一のことを第一のこととして行うならどのような祝福が訪れるのでしょうか?詩篇1111-2「ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝しよう。直ぐな人のつどいと集会において。主のみわざは偉大で、みわざを喜ぶすべての人々に尋ね求められる。」「主のみわざは偉大でみわざを喜ぶ」とは、まさしく神さまを礼拝し、神さまをほめたたえている内容です。神さまは全世界、全宇宙を造られたお方です。そして、それを今も保持しておられます。そして、私たちのために御子イエス・キリストを送ってくださいました。かつて、私たちは罪の中にいて、滅びる運命の中にありました。しかし、イエス・キリストが2000年前、十字架で身代わりに死んで、罪の代価を払ってくださいました。私たちは、イエス様を信じるだけで救われたのです。なんという恵みでしょうか?神さまが、私たちが救われるように、いろんな人を遣わしてくださり感謝します。今までもいろんな辛い経験がありました。しかし、主は私を癒してくださり、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせてくださいました。ハレルヤ!主こそまことの神です。あなたのくださった平安と喜びと希望を感謝します。家族を感謝します。結婚を感謝します。仕事を感謝します。このように、恵みを数えていきます。「ああ、なんと私は主の恵みを当たり前のように受けてきたのだろうか?」とガクゼンとします。不思議なことに、最初の祈りは「私たち」でしたが、最後は「私」になります。「私の神さまはすばらしい」となるのです。礼拝の土台は、やはり、自分と神さまとの関係です。「世界で、私が一番、神さまから愛されている」と考えても間違いではありません。

詩篇111:3-5「そのみわざは尊厳と威光。その義は永遠に堅く立つ。主は、その奇しいわざを記念とされた。主は情け深く、あわれみ深く、主を恐れる者に食べ物を与え、その契約をとこしえに覚えておられる。」私たちが神さまを礼拝し、神さまをほめたたえるとどうなるのでしょうか? ノーベル・ヘイズ師は『いつも礼拝していなさい』という本の中で、神のみわざにはどんなものがあるか教えています。第一に神のみわざは、いやすことです。聖書には、たくさんの病の癒しや奇跡が記されています。いやしを受けた人は、必ず、神様を礼拝し、神さまをほめたたえています。使徒の働き3章の生まれつき足なえ人が癒されたらどうしたでしょうか?彼は「歩いたり、はねたりしながら、神を賛美した」と書いてあります。第二に神のみわざは、経済的な必要が満たされることです。神さまがノーベル師にこう言われました。「私が望むのは、私の民が私を礼拝して過ごすことです。私の望むのは、私の教会が礼拝することです。しかし、それ以上に私が望むのは、一人ひとりが私を礼拝することです。特に、一人ひとりが私の前で一人でいる時にです」と。先生が神を礼拝し、ほめたたえることを第一にすると、先生にも先生のミニストリーにもお金が入って来るようになりました。教会員も同じです。さまざまな必要やお金がないことにばかり目を留めるのではなく、神を礼拝し、神をほめたたえ、天に目を向けることにもっと多くの時間を費やさなければなりません。アーメンです。詩篇1115「主を恐れる者に食べ物を与える」と約束されています。第三に神のわざは、御霊からの贈り物です。先生はこう述べています。「あなたが神を礼拝し、ほめたたえるとき、それはあたかもごちそうと盛り沢山の食物が備わった神の食卓に座るようなものです。神の食卓の上にある1つ1つのお皿には、救い、癒し、信仰、奇跡、解放、知識、知恵などが盛られています。あなたは食べたいだけ、それらの容器に手を伸ばして、食べて良いのです。あなたは食べるとき、それを一回一回、よくかんでください。口に入れるたびに喜びをもって食べてください。そうすれば、あなたは堂々とそれを受け取るようになるのです。」アーメン。

私たちは神さまと契約を結ぶべきです。詩篇1115「主は、その契約をとこしえに覚えておられる。」そもそも、契約というものは私たち人間からするものではなく、神さまから私たち人間に交わされるものです。神さまは最初、エデンにおいて、アダムと契約を結ばれました。アダムは神を礼拝しながら、何でも神さまに従いました。しかし、堕落してからは、神よりも自分が大事だと思うものを礼拝するようになりました。堕落した人間にとって、もはや、神さまが第一ではありません。自分の願い、自分の生活、自分の命が第一になり、そういうものをかなえてくれる神さまを礼拝するようになったのです。ある人たちはイエス様を信じてクリスチャンになるかもしれません。でも、どうでしょうか?神さまが第一になっているでしょうか?相変わらず、自分の願いをかなえてくれる神さまを求めているのではないでしょうか?ただ相手が偶像の神さまから、まことの神さまに変わっただけです。どうでしょう?あなたは自分の大切なものをささげるかもしれません。時間をささげ、お金をささげ、自分の生活をささげるかもしれません。実際、今、こうやって皆さんは、日曜日の午前中をささげ、献金し、聖書の教えに自分の生き方を修正し、神さまに従って行こうとしています。私たちはここで、確かに神さま礼拝を捧げているのです。でも、お聞きします。みなさんは、自分の命を神さまにささげているでしょうか?本当の礼拝とは、自分自身を神さまに捧げて、神さまをたたえることであります。『いつも礼拝していなさい』という本で、このような契約を神さまと結びなさいと書かれています。「イエス様、私はあなたをほめたたえます。主よ、私はあなたを愛しています。あなたは私の主であられ、私の神であられます。主なる神の御名がとこしえにほめたたえられますように!主なる神さま、あなたを礼拝し、あなたをほめたたえます。あなたこそ、生けるまことの神であられます。ああ、神さま、私はあなたと契約を結びます。すなわち、私は生きている限り、イエス様の御名をほめたたえ、あなたを礼拝するという契約です。主よ、感謝します。私を弱い者ではなく、強い者としてくださることを。主なる神の御名がとこしえにほめたたえられますように。ああ、イエス様、あなたを礼拝します。あなたの聖なる御名をほめたたえます。主よ。感謝します。あなたを礼拝し、あなたをほめたたえます。イエス様の御名によって」。もし、あなたが神さまと契約を結び、神さまをほめたたえ、神さまを礼拝することを始めるならどうでしょう?あなたは神さまが備えておられる豊かな命に入るようになり、それがあなたを自由にしてくれるようになります。神さまはあなたを祝福したいと願っておられるのです。

3.礼拝による奇跡

私たちは問題や困難の中でも神さまを礼拝すべきであります。ある人たちは「問題や困難が解決したら、神さまを礼拝し、神さまをほめたたえますよ」と言うかもしれません。そうではありません。私たちは問題をぶらさげてでも、神さまの前に平伏して礼拝をささげるべきです。礼拝というギリシャ語は「プロスキュネオー」と言いますが、かつてペルシャやギリシャでは、王様や神さまの前に平伏して、床や地面、足または衣服の裾に接吻しました。「平伏して崇拝する」これが礼拝の意味であります。福音書を見ますと、ある人たちはイエス様の前に平伏して、自分たちの必要を申し上げました。会堂司ヤイロの一人娘が死にかかっていました。ヤイロはどうしたでしょうか?マルコ5章、彼はイエスを見て、その足もとにひれ伏し、いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」と願いました。ヤイロはイエス様の前に平伏しました。イエス様はヤイロの信仰を通して、一度死んだ娘をよみがえらせてくださったのです。それから、らい病人がイエス様のところに自分を清めてくださいとお願しました。最近の聖書はツアラトと訳されています。ルカ5:12 さて、イエスがある町におられたとき、全身ツァラアトの人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」彼は、イエス様に平伏してお願しました。つまり、イエス様を礼拝したのです。イエス様はなんとおっしゃったでしょう?ルカ513イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに、そのツァラアトが消えた。アーメン。ツロ・フェニキアの女性はどうだったでしょうか?彼女は最初、「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです」と叫びました。しかし、イエス様はひとこともお答えになりませんでした。しかし、彼女は途中からアプローチを変えました。マタイ1525「しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言った。つまり、イエス様を礼拝したのです。すると、イエス様は子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくない」と言われました。彼女は「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と言いました。そのとき、イエス様は「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりなるように」と言われました。イエス様とこの女性とのやり取りは、どうだったでしょうか?おそらく、彼女は平伏しながら、イエス様に求めたのではないでしょうか?私たちは自分の問題をくどくどと言ってはなりません。神さまはあなたの問題をすでにご存知なのです。その代わり、神さまを礼拝し、神さまと時間を過ごすのです。神さまは私たちの礼拝を喜び、私たちが求める救いを与えてくださるのです。

『いつも礼拝していなさい』の著者ノーベル・ヘイズの娘は、3年間、麻薬の中にいました。先生がどんなに努力しても、娘にそれをやめさせることができませんでした。先生は、ただ、娘のためにあわれみを求め、泣いて祈るばかりでした。なぜなら、娘の友だち5人か6人、麻薬のやりすぎで死んでいたからです。電話が鳴るたびに、悪魔が「お前の娘のことだぞ。娘は死んだんだよ」と言いました。先生は「イヤ、娘は死んではいない。イエスの御名によってやめろ、サタン。お前に命じる。娘から手を離せ、彼女を解放しろ!」と祈りました。さらに、先生は神さまの前にひざまずいて礼拝しました。3年間そのように祈りました。ある晩、彼女が麻薬をしていたクラブの天井が父の顔に変わりました。彼女は飛び起きて、そこから走り去りました。部屋に帰ると、男性二人分くらいの天使が訪れました。その天使が現れると彼女は「ああ、あーっ!」と言いました。そして、その日から今日まで、彼女はもう麻薬をやっていません。ノーベル・ヘイズ師はこう勧めています。「神さまが事を行う仕方は、あなたの仕方とは少々違うかもしれません。けれども、私の言うことを信じてください。あなたの問題は神にとってむずかしすぎるものではないのです。ただし、あなたは第一にすべきことを第一にすることを学ぶ必要があります。あなたは神を礼拝しなければなりません。あなたの口から神の御名を語り、出してください。あなたの口から神への礼拝が出てくるようにしてください。こう言ってください。『イエス様、あなたを礼拝します。あなたを愛します。』」