2010.08.08 癒しに関する信仰 イザヤ53:4-5、マルコ16:17-18 

肉体の病気はどうし起こるのでしょうか?それはアダムとエバが罪を犯したからです。そのために、私たち人類に、死と病が入り込みました。私たちに死がある限り、病も存在するのです。しかし、イエス・キリストは十字架で病を負い、死に勝利してくださいました。ですから、私たちが天国に行ったならば、死も病もありません。多くの教会はこのところで満足します。しかし、聖書を読むならば、主イエス・キリストがなされた三分の一の奉仕が病の癒しと悪霊の追い出しでした。また、イエス様は弟子たちにも「それをせよ!」とお命じになられました。ある人たちは「使徒の働きの出来事は聖書の成立と同時に終った」と言いますが、そうではありません。福音宣教とともに、病の癒しも私たちに与えられた大切な命令であります。本日は、癒しを受ける信仰と癒しを行なう信仰について両方からお話したいと思います。

1.祈りによる癒し

 イエス様は「私の名によって求めなさい」と何度もおっしゃいました。ヨハネ1623,24「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」私たちが病気になったとき、「私を癒してください」と祈ることはいけないことなのでしょうか?「求めなさい。そうすれば受けるのです」の中には、癒しのための祈りも含まれるのではないでしょうか?もし、自分や自分の家族が癒されたなら、喜びが満ち満ちたものとなるでしょう。Ⅲヨハネ2「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康であるように祈ります」と書いてあります。神さまのみこころは私たちが健康であって、神さまと人々に仕えて、神の栄光を現すことです。病気のままでは、それがかないません。だから、イエス様は「私の名によって、求めなさい。そうすれば受けるのです」と約束されたのです。

 また、自分でなかなか祈れないときは、他の人たちからも祈ってもらう必要があります。マタイ1819「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」これは教会の祈祷会だけではありません。二人がどこにおいても「一緒に祈ろう」と祈るならばイエス様がそこにおられて、かなえてくださるのです。毎週月曜日、亀有ゴスペルクワイヤーの練習がここでなされています。最後に、祈りの課題を出し合って祈ります。ある時は、「お店の店長の姪ために」とか「私の友人のお母さんのためにお祈りください」という課題も出ます。私は心の中で「ちょっと遠すぎるんじゃないの?そういうのはどうかな?」と思います。ある病院で、祈りがどのくらい効果があるか実験したそうです。人数は定かではありませんが、AとB病棟には同じような患者さんが入院していました。それで、お医者さんがA病棟の人たちの名簿を差しあげて、「この人たちのために祈ってください」とお願したそうです。B病棟の人たちのためには祈らないでそのままにしておきました。教会の人たちは1ヶ月間、A病棟の人たちのためにお祈りしました。名簿の人たちは顔も見たことのない人たちです。病院も自分たちのところから離れている場所にあります。でも、とにかく心を合わせていのりました。するとどうでしょう?がぜん、A病棟の回復率がアップし、退院する人たちも多かったそうです。このように私たちが主イエス・キリストの御名によって祈るとき、神さまは祈りに答えてくださるのです。たとえ、お薬やお医者さんよる治療であっても、主の御名によって祈るときに、効果が現われるのです。

2.みことばによる癒し

 第二番目は、神さまは、私たちにご自身のみことばを与えて、私たちを癒してくださいます。詩篇10720「主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。」アーメン。聖書には癒しを約束しているみことばがたくさん書かれています。聖書を読んでいると、あるとき、「これは私に対するみことばだ。私の病気がいやされるのは神さまのみこころだ。主よ、信じます」ということが起こります。病の癒しで最も有名なみことばはイザヤ53章です。イザヤ534-5「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」「主イエス・キリストが、私たちの罪を負ってくださり、そのために私たちの罪が赦された」ということは、クリスチャンならだれでも知っています。しかし、このみことばを読むと、イエス様は罪だけではなく、病を負ってくださったということがわかります。ですから、ある人たちは、イエス様の贖いの中に病の癒しが含まれていると言います。つまり、2000年前に罪が解決されたように、病の問題も解決したということです。私たちが自分の罪を背負わなくても良いように、病気も背負う必要がないのです。なぜなら、イエス様が2000年前に取り去ってくれたからです。私たちが罪の赦しを信仰によって受け取ったように、病の癒しをも信仰によって受け取ることが必要なのです。

 韓国のあるご婦人が癌になりました。お医者さんから「もう手遅れで手術してもだめです」と言いました。そのご婦人はⅠペテロ2:24「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」というみことばを紙に書いて壁にはりました。ベッドの上から、来る日も、来る日もそのみことばを口ずさみました。体はどんどん弱まって行き、もう立ち上がることもできます。それでも、あきらめずそのみことばを繰り返しました。ある日、突然「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」というみことばが、心の中で、「ぴかーっ」と光ました。そうしたら体中が熱くなりました。そして、急にお腹がいたくなり、トイレに駆け込んだそうです。そうしたら、汚いものが全部出て、完全に癒されたそうです。これはまさしく、みことばの信仰による癒しです。韓国のチョー・ヨンギ先生は一人ひとりに手を置いて癒すことをもちろんします。それよりも、教会員に「みことばを読んで、そこから信仰をいただくように」と教えます。それで多くの癒しや奇跡が起こったのです。私たちも聖書を読んでそこから自分に語られる生きたことば「レーマ」を求めるべきであります。聖書は「ロゴス」書かれた神のことばです。しかし、主を待ち望みながら聖書を読んでいくと、突然、レーマに変わります。レーマとは、今、神さまが私に語られたことばです。そのみことばを握って「私の病は癒された。アーメン」と宣言するのです。たとえ、まだ症状があっても、痛みがあっても、「私は癒された」と信仰をもって受け取るのです。

3.手を置くことによる癒し

福音書を見て分かりますが、イエス様はよく手を置いて癒しておられます。ご自分の郷里ナザレに戻られたときのことが書いてあります。彼らは「なんだ、大工のせがれじゃないか」と躓きました。マルコ65「それで、そこでは何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。」イエス様は彼らが不信仰なために力あるわざを何一つ、できませんでした。でも、他のことはうまくいかなくても、手を置くことはうまくいきました。少数の人たちは、イエス様が手を置くことによって癒されたのです。他の町では、人々が手を置いてくださるように懇願しました。そのたびごとに、イエス様は手を置いて癒してあげています。マルコ16章でイエス様は、「信じる人々は、病人に手を置けば病人はいやされます」と約束されました。これは大宣教命令と一緒に与えられた命令でも言えるでしょう。使徒ペテロも、使徒パウロも、やはり病人に手を置いて癒しを行なっています。

でも、手を置くということに抵抗を覚える人たちもおられるでしょう。なぜなら、使徒パウロがテモテに「だれにも軽々しく按手をしてはいけません」と告げているからです。聖書を見ると指導者を任命するとき手を置きました。使徒パウロが人々の頭に手を置くと、聖霊に満たされたと書いてあります。現代も牧師を任命するときに手を置きます。ですから、頭の上に手を置くというのは、簡単にはやるべきではないと思います。でも、マルコ16章のみことばは、信じる人々ですから牧師でも伝道者でもありません、すべてのクリスチャンが対象です。任命式をやる以外であれば、私は手を置いて癒しをなさって結構です。残念ながら、現代のキリスト教会はあまりそれをしません。だから、真光という変な宗教が手を置いて町角に立って祈っているのです。そして、本当に癒されています。でも、それは悪魔の力です。本当は私たちがイエスの御名によって、すべきことなのです。

アメリカのテキサス州の田舎にあるご婦人がいました。彼女は学校から50キロも離れているので学校に通いませんでした。何の教育も受けず、大人になってから近所の青年と結婚しました。子どもたちが大きくなったとき、ある人たちがやって来て、集会を始めました。その時、彼女はイエス様を信じて、聖霊に満たされました。それまで全く読み書きできなかったのに、聖書だけは読むことができました。他のどんな本も読むことができなくても、聖書だけが読めました。その後、彼女の家は町に引っ越しました。夫と子どもたちは農場に仕事にでかけましたが、彼女一人、家に残されました。彼女は「主よ、私にできることは、何かあるでしょうか?」と祈り求めました。私は教会で歌うこともできません。日曜学校で教えることもできません。教材を読むことができないからです。彼女が家でマルコの福音書を読んでいると、「信じる人々には次のようなしるしが伴います。…病人に手を置けば病人はいやされます」。彼女はこう考えました。「人々に手を置くのは、何の教育もいらないのだわ」。それで彼女は近所を回って、見つけることのできる病人を捜しました。午前9時から午後3時まで、毎日病人たちを訪問して、彼らにいやしの聖書を読んであげて過ごしました。三日間くらい彼らに読んであげた後、彼女はこう尋ねます。「あなたに手を置いてもよろしいでしょうか?」彼女が手を置いたほぼ全員が癒されたのです。驚いたことに、手を置いた人のほとんどが、寝たっきりで、医者から死ぬしかないと諦めていた人たちでした。アーメン。手を置くことは、私たちすべての者に与えられていることなのです。牧師や伝道者だけではなく、信じている人たちができるのです。

4.賜物による癒し

Ⅰコリント12章には、「癒し」の賜物が記されています。これは聖霊の油注ぎによって与えられる賜物です。同じコリント12章には、使徒や預言者のほかに「癒しの賜物を持つ者」がいると書いてあります。ケネス・ヘーゲン師は、この癒しを「油注がれた人による按手」と呼んでいます。8年くらい前に岡山県から中嶋長弘先生が来られました。そのとき、癒しをどのように行なうか、先生から実際に教えていただきました。そのとき、両腕を左右に広げ、ぱちんと合わせました。そうすると片方の手が短かったのです。つまり、体がどちらかにねじれていたわけです。中嶋先生が「イエス・キリストの御名と聖霊の力によって、短い方の手を伸びよ!」と言われました。そのとたん、手というか腕が前の方にひっぱられました。「おおー」なんだろう!その時から、「癒しはできるんだ」という信仰が与えられました。もちろん、その前から、私は癒しのためにお祈りをしてきました。しかし、顕著な癒しは起こりませんでした。しかし、中嶋先生が来てから、賜物が開かれたような感じがします。それからと言うもの、腰が痛い人、首が痛い人、どこか悪い人のために祈るのが大好きになりました。正直、「癒しの賜物が与えられたら、夜昼『癒してください』と電話や人が来て嫌だなー。あんまりいらないなー」と思っていました。ところが、癒しの賜物が与えられてから、同時にあわれみの心が与えられ、ぜんぜん苦にならなくなりました。むしろ、「どんどん癒して差し上げたい」と思うようになりました。

しかし、これは牧師だけができるというのではありません。聖霊様が教会を見回して、「今この人に」ということで与えます。その時は、「癒しの管」として用いられるのです。ですから、大胆に行なえば良いのです。ただし、祈るのではありません。命じるのです。祈りというのは、「天のお父様、○○してください」という願いであります。しかし、病の癒しや悪霊の追い出しは、いわゆる祈りではなく、要求であり命令です。聖書をよく見るとイエス様は病の癒しのとき、一度も祈ったことがありません。常に命じておられます。「手が伸びるように」「開け」「立って歩け」「病の霊よ、出て行け」とか、すべて命令であります。私たちの場合は、「イエスの御名」を用いる権威が与えられています。ですから、イエスの御名によって、患部に命じると良いのです。するとどういうわけか、体は言うことをきくようです。そのとき大切なことは、癒しを受ける人は、祈らないで、受け取ることに専念することです。リラックスして、「アーメン、受け取ります」という姿勢が必要です。

自分でも祈っても癒されないときはどうしたら良いでしょうか?どうぞ、牧師あるいは癒し賜物のある人を呼んでください。遠慮せずに「祈ってください」と要請するのです。ヤコブ5:14-15にこのように書いてあるからです。「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」アーメン。そうです。信仰による祈りは、病も癒されるし、また罪も癒されるからです。

5.神の超自然的な現われ

使徒1038「それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。」ここには、「油注ぎ」「聖霊」「力」と言うことばが出ています。私は「信仰」とか、「病の癒し」のために、ケネス・ヘーゲン師の本を10冊以上読みました。ある本の中に、「油注ぎ」「聖霊」「力」は、実際は同じ意味のことばであると書いてありました。さらにこのように書いてありました。「電気は、自然の領域における神の御力です。一方、聖霊の力は、霊の領域における神の御力です。電気が自然の世界に存在しているように、神の御力は霊の世界に存在しています。人間は電気にプラグを差し込んで、それが人間のために働くようにする方法を学ばなければなりません。同様に私たちは天来の電気、すなわち、神のいやしの御力が私たちの生活の中で現されるために『プラグを差し込む』方法を学ばなければなりません。」とありました。でも「プラグを差し込むという」みことばがあるのでしょうか?ヘブル42「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」「信仰によって、結びつける」とありますが、「結びつける」は英語でミックスアップ、「混ぜ合わせる」「結合させる」という意味です。つまり、神のいやし御力に自分を混ぜ合わせるということです。

福音書に長血を患った女性の物語があります。彼女は婦人特有の病で12年間も苦しみ、治療のために生活費を全部使い果たしていました。イエス様が近くに来られたというニュースを聞いて、彼女の中に「イエス様の着物にでもさわれば癒される」という信仰が芽生えました。彼女は群衆を掻き分け、這うようにして、後ろから近づきました。「イエス様の着物にでもさわれば癒される」そう言いながら、イエス様の着物のふさに触りました。そうすると、イエス様から力が流れ出て来ました。たちどころに出血が止まり癒されました。イエス様は「だれかが、私にさわった。私から力が出て行くのを感じた」と言われました。彼女は隠しきれず「私です」と震えながら前に進み出ました。イエス様は彼女に「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい」と言われました。ここに、さきほど話した、霊的電気のようなことが書かれています。この女性はイエス様ご自身には触れていません。着物のふさ、一番端っこであります。それでも、イエス様から霊的な力が流れてきたのです。つまり、彼女は「ブラグを差し込んだ、混ぜ合わせた」のであります。そうしたら、「がー」っと力が流れてきたのです。

今は、ペンテコステ以来、イエス様は聖霊によってこの地上にいらっしゃっています。聖霊がイエス様、イエス様が聖霊であります。聖霊の臨在が溢れますと、癒しや奇跡が起こります。でも、だれでも自動的に受けるのではありません。長血を患った女性がそうであったように、「プラグを差し込む」信仰がなければなりません。今、聖霊様はすぐ近くにおられ、神としての力も満ち溢れています。ナイアガラの滝が1000年前から轟々と流れているように、聖霊様の力もペンテコステ以来、轟々と流れています。要は、こちらの信仰であります。昔はキャサリン・クーマン、現代はベニーヒンがそういう働きをしています。その人たちが賛美して、聖霊様の力を祈り下すと、あちら、こちらに奇跡が起こります。つまり、信仰によってプラグを差し込んだ人たちが癒されるのです。有名な先生でなくても、私たちも聖霊様の力を祈り下すならば、死人さえよみがえるでしょう。タンザニアにジョセファット・ガジマという若い牧師がいます。そこでは癒しや奇跡が顕著で、死からよみがえってきた人たちが150名を超えるそうです。彼らの祈りは半ぱじゃありません。4時間くらい祈ると、聖霊様の力が下ってきて、死んだ人がよみがえるのです。本日は5種類くらい、癒しの方法を語りました。神さまは同じ方法ではなさいません。だから、聖霊様にその都度、聞くしかありません。でも、父なる神さまのみこころは、あなたが病のままいることではなく、一日も早く癒されることです。