2010.07.18 信仰によって歩む ヘブル11:1-6

私たちクリスチャンは、主イエス・キリストを信じることによって救われました。これは、私たちが救いを得るための基本的な信仰であります。しかし、神さまは「この信仰を用いて生活しなさい」と願っておられます。神さまは信仰を用いてご自分に願い求めるなら、それをかなえようというのがみこころなのであります。ある人たちは、せっかくクリスチャンになったのに、信仰を用いないために、現実に打ち負かされて、貧しく敗北的な生き方をしています。私たちは神さまの子どもであり、御国の世継ぎなのです。ですから、この地上でも神さまの子どもらしく、堂々と胸を張って、豊かな生活を送ることが可能なのです。でも、そのためには信仰が必要です。私たちが信仰によって歩むときに、喜びと感謝に満ちた、神さまが望まれるような生活を送ることができるのです。信仰のDNAシリーズの7回目は「信仰」であります。信仰に関して、4回に渡ってお話したいと思います。

1.信仰とは

 信仰とは何でしょう?信仰の定義を教えている、みことばがヘブル11:1であります。ヘブル11:1「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」ヘブル11:1を最も端的に言うならばこうなります。信仰=保証、あるいは信仰=確信であります。私がどこかの銀行の小切手張を持っていたとします。そこに私が100万円と書いて、自分の名前を裏書きしたとします。それをあなたに「どうぞ差し上げます」と言ったとします。ある人はその小切手をいただいても、「嘘だろう!鈴木先生はそんなにお金を持っていないよ。これは単なる紙切れだよ」と銀行に行かなかったらどうでしょう?100万円は永久にその人のものになりません。もう一人の人は、少し疑いましたけど、銀行に行ってその小切手を差し出しました。カウンターの女性は「お待ちどうさまです」と言って、100万円の現金を渡してくれました。ここで言う信仰とは何なのでしょうか?100万円と書いた小切手はお金ではありません。でも、それは単なる紙切れではなく、100万円の価値がある証書です。なぜなら、銀行へ行けば100万円に換えてくれるからです。ここで言う、信仰とは「これはお金に換算できる」と信じて、その小切手を銀行に持っていくことであります。神さまの方法は、実物をあなたに上げる前に、小切手をあなたに手渡すのです。裏書の名前は、ジーザス、イエス・キリストであります。とっても、分かり易い例話ではないでしょうか?でも、問題が残っていないわけではありません。神さまも見えないし、その小切手も目に見えないということです。ですから、信仰とは神さまからの保証、あるいは神さまからの確信があなたの心の中にしっかりと与えられるということです。それは単なる確信ではなく、「かーくーしーん」であります。

 もう1つ別な方法で信仰について説明させていただきます。たとえば、下の食堂であなたがカレーライスを食べていたとします。だれかがあなたに冷たい水をサービスしようとします。あなたはお皿を出しますか、それとも両手を出すでしょうか?まちがいなくコップを出すでしょう。こんどは、だれかがあなたにお金の入った財布をあげようとします。現実にはめったにいませんがたとえばです。そのとき、コップを出すでしょうか?おそらく手を差し出すでしょう。また、ある人がパソコンの大事なファイルをあなたにあげますと言ったとします。そのとき、手を差し出すでしょうか?おそらくUSBスティックを出して、「これに入れてください」と言うでしょう。今、言った、コップ、手、そしてスティックにあたるものが信仰であります。では、信仰とは何でしょう?神さまがあなたに与えようとしているものを受け取るものであります。つまり、信仰という、見えない器、あるいは見えない手がなければ、受け取ることができないということです。

 今から17年前に、この会堂が建てられました。この建物は信仰によって建てられたということは確かです。昔の会堂はとても古くて床があちこちいたんでいました。雨漏りもするし、戸の開け閉めにも問題がありました。そのとき、山崎長老さんがハガイ書のみことばから「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ」と会堂建築を訴えました。そのとき全教会員に「ああ、そうだ」と信仰が与えられました。どんどん献金がささげられました。バブルの頃だったので、銀行に預けたお金にものすごく利息がつきました。しかし、問題が起こりました。山崎長老さんは、「教会は借金をしてはいかん。捧げられる範囲の会堂でなければならない。予算は備品も全部入れて1億円にしょう」と言いました。私は「土地が150坪もあるので、建坪80坪くらいじゃ小さすぎる。120名収容するためには、どうしても130坪でなければならない」と主張し、その大きさの図面を書きました。130坪だと1億3000万円くらいになります。そこで、私は「予約献金をしよう。予約献金を上乗せした額に匹敵した、教会の大きさにしよう」と提案しました。それで、予約献金が3000万円になり、図面どおりのサイズにしようと思いました。ある土曜日の晩、何かの用事で、山崎長老さん宅を訪れました。山崎長老さんは「予約献金なんてあてにならない」と言い出しました。私も若かったので「会堂は人間の予算ではなく、信仰によって建てるものです」と反論しました。議論になり、「私はそれだったら牧師やめます」と言いました。山崎長老さんも「わしも教会にいかん」と言いました。ちょうどそこに、ご長男の和章さんが「まあ、まあ」と間に入ってくれました。山崎長老さんから「わしも教会に行くから、あんたも教会をやめないように」と言われ、そうしました。結論を申しますと、1億4300万円集まって、オルガンをはじめすべての備品を購入することができました。つまり、信仰によってこの会堂が建ったということです。会堂建築のときは、経済的な常識、自分のふところ、神さまからの信仰、これらがごちゃ混ぜになり、ひどい場合は教会が分裂します。しかし、会堂建築は私たちの信仰がテストされるときでもあります。もちろん、会堂だけではありませんが、みなさんの人生において、本当に信仰によって立たなければ、前に進めないという時が必ずあるはずです。

2.信仰がなければ

 ヘブル11:6「 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」神さまは、信仰がある人を喜ばれます。どんな信仰でしょうか?信仰をもって神さまに近づき、求める人であります。「神さまは、求めることに対して、必ず報いてくださるんだ」と信じることです。新約聖書には、イエス様に近づいて、求めた人たちが何人も記されています。長血を患った女性は、イエス様のうしろから近づき、「きっと直る」と口ずさみながら、イエス様の衣の裾に触りました。するとどうでしょう。イエス様から力が流れ込んできて、血の源が癒され、すっかり良くなりました。イエス様は彼女に「あなたの信仰があなたを直したのです」と言われました。また、スロ・フェニキアに行ったとき、カナンの女性が「私をあわれんでください。娘がひどく悪霊に取り付かれてします」とお願しました。イエス様は「子どもたちのパンを取り上げて小犬に投げてやるのはよくないことです」と断りました。その女性は「主よ、そのとおりです。ただ小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と言いました。イエス様は「ああ、あなたの信仰は立派です。その願いどおりになるように」と言いました。また、盲人の乞食が、「ダビデの子イエスさま。私をあわれんでください」と道端で叫びました。弟子たちは「黙れ」と彼をたしなめました。すると彼はもっと大きな声で「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫びたてました。イエス様は彼を呼び、「私に何をしてほしいのか」と聞かれました。彼は「先生、目が見えるようになることです」と言いました。イエス様が「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われると、すぐさま、彼は見えるようになりました。福音書の物語からも分かりますように、人々はイエス様のもとに信仰をもって近づきました。すると、イエス様は、彼らの必要を満たしてあげたのです。でも、条件があります。彼らは3人とも、そうなる前から、「必ず、そうなるんだと確信していた」ということです。

 ヘブル11章には、すばらしい信仰を持っていた人たちのことが列挙されています。「信仰によって」「信仰によって」と書かれています。神さまは人間的な正しさよりも、信仰のある人を喜ばれるようです。ヤコブは兄と父を騙して、長子の権利を奪い取りました。彼はそのため家を出なければならなくなりました。荒野で一人淋しく、石を枕にして寝ていたとき、主が現れてくださいました。「私はあなたとともにあり、…決してあなたを捨てない」と言いました。ヨセフは兄たちに「私は夢を見た」と自慢した人でした。でも、やがてエジプトの総理大臣になりました。ダビデは8人兄弟の末っ子でした。サムエルが、二代目の王様に油を注ごうとエッサイの家にやってきました。サムエルもお父さんも「主が選ばれるのは、兄たちだろうな」と思いました。「主は、この者たちを選んでいない。他にいないのか?」とサムエルが言いました。エッサイは「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています」。主は「あれ」と言われた、数に足りないダビデを選びました。でも、ダビデは王様になってから、姦淫と殺人を犯してしまいました。でも、神さまは罪を悔い改めたダビデを赦し、王のくらいどころか、ダビデの末に王国を与える約束をしました。サウル王とダビデ王が犯した罪の大きさを考えるならば、ダビデ王の方がはるかに重いでしょう。でも、サウル王には信仰がなかったので、神さまから捨てられてしまいました。新約聖書ではどうでしょうか?ペテロはイエス様の一番弟子でした。でも、彼の性格には幾つかの問題がありました。1つは自己主張が強いこと、2つ目はおっちょこちょいで、しゃべらなくてよいときにしゃべる。3つ目は大胆なわりには、気が小さくて心が安定していませんでした。ですから、大祭司の中庭でイエス様を3度も知らないと言ってしまいました。イエス様を裏切ってしまったのです。イスカリオテ・ユダもイエス様を裏切りました。でも、罪の大きさはさほど変わりありません。ペテロは「どのつら下げて」と言われるかもしれないけど、イエス様のもとに行きました。一方、ユダは「私は罪を犯した」と後悔はしましたが、イエス様のところへは行きませんでした。ペテロには「イエス様はきっと赦してくださる」という信仰があったのです。やっぱり信仰なのです。もちろん、人格も大切です。でも人格はやがて、信じたとおりに変わっていくのです。みなさんも、「今の生活では証ならない。こんな私を見たらみんな躓く」とおもっている方もおられるかもしれません。そうじゃありません。「こんな私をも神さま愛してくださる。」こういう信仰のある人と神さまが共におられるのではないでしょうか。

 私が教会に来だした頃、おどろくべきみことばを発見しました。マタイ11:11-12「まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」これは天の御国の価値観を教えている箇所であります。イエス様は、バプテスマのヨハネは人間の中で一番偉大な人であるとおっしゃいました。しかし、彼が天の御国に行ったならばどうでしょうか?天の御国で一番小さい者であっても、ヨハネよりは偉大だということです。なぜでしょう?何故、天の御国にいる人がヨハネよりもすばらしいんでしょうか?それは人格とか行ないとは関係ありません。イエス・キリストを信じているならば、神の義が与えられるからです。それでは、どういう人たちが、この天の御国に真っ先に入るのでしょうか?「激しく攻める者たちがそれを奪い取る」人たちです。激しく攻める者とは、見栄や外聞にこだわらないで、「私も天の御国に入れてくれ!」と求める人たちのことです。では、具体的にどういう人たちだったのでしょうか?イエス様が当時の宗教家たちにこう告げています。マタイ21:31,32「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。」ハレルヤ!どうぞ、人々をこの世の基準で、「立派だとか立派でない」と、見るのはやめましょう。 信仰をもって神さまの前に近づく人がすばらしいのです。神さまは何よりも、信仰を持っている人を喜ばれるのです。

3.信仰の大切さ

 マルコ9章に、ある父親が、悪霊のためてんかんの症状のような子どもを連れてきました。しかし、弟子たちは悪霊を追い出すことができませんでした。イエス様は「その子を私のところに連れてきなさい」と言われました。イエス様が父親に「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか?」と尋ねました。父親は言いました。「幼い時からです。この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください」。イエス様は「できるものなら、と言うのか?信じるものにはどんなことでもできるのです」と言われました。すると父親は「信じます。不信仰な私をお助けください」と叫んで言いました。ここで、問題になるのは何でしょう?父親が「もし、おできになるものなら」というふうに願ったことです。英語の聖書では「if You can do」であります。これは、大変、不信仰な求め方であります。でも、私たちもこれに似たような求め方をしているのではないでしょうか?「もし、みこころであるならば、どうかお願します」。これは一見、敬虔そうな感じがしますが、やっぱり不信仰な祈りです。この人は、それが神さまのみこころなのか、みこころでないのか分からない状態です。それだったら、まず、神さまに「本当に、これはみこころでしょうか?」と聞けば良いですね。もし、「これは神さまのみこころだ!」と確信が来たなら、そういう前置きはしないで単純に「お願いします」と求めれば良いのです。「もし、できるならば」と言うのは、謙遜ではなくて、全能なる神さまに失礼であります。では、その父親はどうしたのでしょうか?「信じます。不信仰な私をお助けください」と叫んで言いました。「信じます」と言いながら「不信仰な私を助けて」というのは変です。しかし、ギリシャ語や英語の聖書はちょっとちがいます。「信じます。私の不信仰をお助けください」となっています。これは、「信じます。どうか、私の信仰の足りない部分を助けてください」と言う意味です。

 どうでしょう?この地上にあって、完全な信仰を持つというのは不可能な場合が多いでしょう。いくら祈ってもどこかに疑いや恐れが残っているかもしれません。不信仰を追い払っても、追い払っても、また、戻ってくるかもしれません。でも、どうでしょうか?不足なところに、イエス様の信仰で満たしていただけば良いのでしょうか?そうすれば、疑いや恐れが追い出され、信仰で満たされるのではないでしょうか?マルコ11章にすばらしいみことばがあります。マルコ11:22-23イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。アーメン。日本語の聖書は「神を信じなさい」と書いてあります。しかし、原文は「神の信仰を持て」「神にある、信仰を持て」という意味です。つまり、私たちの信仰すらも、神さまがくださるということです。自分の信仰で間に合いそうもないなら、「おお、主よ、あなたの信仰をください。あなたの信仰で満たしてください」と願えば良いのです。そうすると、心の中から疑いが去って、「神には何でもできるのです」と信じることができるのです。何故、神さまは私たちに信仰を求められるのでしょうか?それは、天の御国とこの世との関係があります。天の御国では神さまのみこころが100%なされます。なぜなら、神のご支配が100%及ぶところだからです。しかし、この世はどうでしょうか?この世は神から離れた人間が、罪と死の中で暮らしているところです。そこには悪魔や悪霊も働いています。神さまは神さまでありますが、かといって、この世に勝手に手を出すことができません。もし、神の子である私たちが、イエス様の名によって求めるならば、神さまはご自身の手を差し伸べることができます。つまり、神さまは私たちの信仰を通して、救いのみわざをなされるのです。ですから、信仰の大小はあまり関係なくて、その信仰が本当かどうか、命があるかないかが問題なのです。だから、イエス様は「もし、からし種のような信仰があったら、この山に、ここからあそこに移れ、といえば移るのです。」と言われました。つまり、からし種のほどでも良いから、生きている本当の信仰があれば良いのです。神さまはその信仰を通して、働いてくださるのです。

 私は子どもたちが小さいころ、自転車の乗り方を教えたことがあります。最初は自転車の後ろをこっちが、がっちり押さえてあげます。子どもはハンドルを握って、ペダルを踏めば良いだけです。最初は、子どもはフラフラしながらも、進んでいきます。でも、スピードが出てくると怖くなります。それで「怖いよー」と言って、ハンドルから手を離します。するとどうでしょう?ハンドルがガクッと曲がってしまって、こっちがいくら押しても、前には進みません。子どもは怖がらないで、ハンドルをただ握っていれば良いのです。そうすると、こっちはちゃんと自転車を押さえて、進ませることができます。信仰とは何でしょう?私は自転車のハンドルを握ることだと思います。私たちが信仰というハンドルをちゃんと握ってさえいれば、神さまが動かしてくださるのです。神さまが後ろから、右だとか、左だとか言ったら、それに合わせれば良いのです。でも、私たちが恐れたり、疑ったりして、両手を離すならば、それでおしまいです。私たちが「ああ、もうできないよー」と、諦めるなら、いくら、神さまでもみわざをなすことができません。この世とはそういうものなのです。この世で、神さまが働かれるためには、私たちの信仰が必要なのです。私たちの信仰を通して、神さまは働くということにご自身を制限なされているのではないかと思います。ヘブル人への手紙11章を見ると、神さまは人々の信仰を通して、働いているのがはっきりと分かります。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」イエス様を信じている人なら、だれにも天国に行く信仰が与えられています。しかし、神さまは、その信仰をこの地上でも用いてもらいたいのです。どうぞ、何ごとでも、信仰を用いて生活しましょう。