2010.06.06 御霊の実を結ぶ ガラテヤ5:19-23

これまで聖化、聖くなるということについて学んできました。私たちはすでに古い人に死んでおり、キリストにあって生きています。私たちの内におられるキリストの御霊が、死と罪の法則に対抗して、私たちを支えてくださいます。私たちには肉、つまり罪の性質がありますが、それに打ち勝つことができるということです。さらに、私たちはキリストの御霊と共に歩んで行くときに、御霊の実が結ばれていくことができます。これは実ですから、時間がかかることが予想されます。「桃栗三年、柿八年」ということわざもあるくらいですから、昨日、今日で結ばれるものではありません。でも、私たちが御霊の実を結ぶときに、神さまが喜ばれるだけではなく、自分自身も、また私たちと交わる人々も、その実を味わい喜ぶことができます。神様は、天国に行ってからではなく、地上においてそのような実を結ばせてくださるのです。

1.御霊の実とは

ガラテヤ人への手紙を見ますと、肉の働きと御霊の実とにはっきり分けられています。肉の働きというのは、古い人に属する罪の性質です。私たちはキリストを信じて新しく生まれましたが、私たちの魂や肉体には、罪の性質が残っています。これを肉と呼んでいます。肉の働きには、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興などがあります。このリストを見ますと男性が陥りやすいものもあれば、女性が陥りやすいものもあります。今、私たちは聖書日課で「士師記」を読んでいますが、サムソンという人は怪力の持ち主でしたが、いったって女性に弱かったようです。また、イスラエルの民は平和になると、すぐ、偶像崇拝に走り、不品行や、汚れ、好色に陥ります。さらに、部族間の敵意、争い、そねみ、憤り、分裂、分派、ねたみ、そういったものが全部あります。私たちも「ぼーっ」としていると同じことをしがちであります。では、反対に、御霊の実にはどのようなものがあるでしょうか?5:22-23「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」「しかし」と書いてありますので、肉の働きと対抗するものであります。肉の場合は「働き」「わざ」となっていますが、御霊は「実」「おのずと結ぶ実」になっています。この表現の違いに、解決のヒントがあるようです。

御霊の実は、私たちが御霊によって歩むときに、結ばれる実であります。ですから、最も重要なことは、神さまと日々、交わることにあります。「祈り」というと私たちは手を組んで、「天のお父様」と祈ることだと思いがちです。もちろん、そういう祈りも大切ですが、日中、心の中で会話をすることも可能です。電車に乗りながら、道を歩きながら、ご飯を食べながらも主と会話することができます。しかし、「交わり」と言う場合は、祈りだけではなく、礼拝も含まれます。このような日曜日の公の礼拝だけが礼拝ではありません。ことあるごとに、感謝したり、「ハレルヤ!すばらしいですね」と主をあがめることもできます。賛美を口ずさむことも礼拝です。私たちがこのように主と交わるとどうなるのでしょうか?「朱に交われば赤くなる」ということわざがありますように、主と交われば主のようになります。Ⅱコリント3:18 「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」アーメン。これは新約時代の私たちに与えられている特権です。モーセが主と交わって山から降りたとき、顔の皮膚が光を放っていました。人々は「ああー、神の人だ!」と恐れて、モーセのことばに耳を傾けました。しかし、時間がたつと、モーセの顔の光が失せてしまいました。それを隠すために、モーセは顔におおいを掛けました。その後、主と交わると、再び、顔の皮膚が光を放ちました。そして、人々の前に立ち、み旨を告げました。その後、また自分の顔におおいを掛けました。つまり、モーセの顔にあった栄光は一時的であったということです。なぜなら、外からの栄光だったからです。しかし、新約の私たちは御霊が内側におられて、内側から永続的に栄光を現してくださるのです。だから、外なる人は滅びても、内なる人は日々、新しいのです。これにはドモホルンリンクルも敵いません。外側からのお化粧も大切ですが、魂の内側からにじみ出てくる主の輝きもより大切です。

では、御霊の実は、イエス・キリストとどのような関係があるのでしょうか?エペソ人の手紙を見ますと、「古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着るべきです」と書いてあります。また、コロサイ人への手紙にも「古い人をその行ないと一緒に脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです」とあります。そして、新しい人とは造り主のかたちに似せられることであり、深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、慣用、愛を着るということです。また、ガラテヤ書やローマ書には、「キリストを着る」と書いてあります。つまり、御霊の実とは、キリストの品性でありキリストに似ることなんだということです。私たち人間は神のかたちに似せてつくられました。神の栄光が内に秘められていたのです。ところが、罪を犯してから神のかたちがあとかたもなく損なわれてしまいました。まるでそれは、鏡を割ったような状態です。そのかけら1つを取って、「ああ、神の栄光が見える」ということもできます。神から離れた罪人の中にも、少しだけ、神の栄光を見ることができるかもしれません。しかし、それはほんのわずかです。イエス・キリストは私たちの罪を贖うためにこの世に来られました。さらに、イエス・キリストは私たちが神のかたちを回復するために、2つの資源を与えてくださいました。1つは聖霊です。私たちがイエス様を信じると新生し、内側にキリストの御霊が与えられます。私たちの内におられる聖霊が栄光から栄光へと主の姿に変えさせてくださるのです。もう1つはキリストによる模範です。イエス様は私たちを贖うだけではなく、完全な人として、神に従われました。私たちもイエス様に倣い、イエス様を仰いでいくときに、キリストに似たものになるのです。つまり、御霊の実を結ぶということは、神のかたちを回復することであり、それはキリストに似た者になるということです。つまり、聖化の最終ゴールは、私たちクリスチャンがキリストに似た者になるということです。ハレルヤ!

2.御霊の実の目的

御霊の実の「実」とはフルーツであります。ぶどうやオレンジにたとえられます。実というのは人が食べて、それを味わうようになっています。御霊の実もだれかが食して、「いやー、おいしいなー。すばらしいなー」と喜びと感動を与えることができたら幸いです。では、だれがその実を食べるのでしょうか?ビリーグラハムは『聖霊』という本の中でこのように述べています。「愛、喜び、平安は、特に私たちの神へ向かっての関係を物語っています。寛容、親切、善意は対外的な人間関係において、私たちがどんなクリスチャンであるかに関連しています。誠実、柔和、自制は、内面の関係(自己の態度と活動)に特に見られます」と、このように3つに区分しています。ビリーグラハム師の分類を参考にするならば、3種類の方々が御霊の実を食べるということではないでしょうか?愛、喜び、平安は神さまが食べます。私たちが神さまを愛し、神さまを喜び、神さまとの平安を持って、神さまと交わるならどうでしょう?神さまご自身がとっても喜んでくださるということです。ですから、聖書には「心を尽しし、思いを尽くし、力を尽して、主を愛しなさい」と命じられているのはそのためです。次に寛容、親切、善意は人々が食べます。寛容で親切で善意にあふれている人と交わるのと、怒りっぽくて意地悪で、何でも悪く捉える人と交わるのでは、どちらが良いでしょうか?人々は、私たちの内側から生産された寛容や、親切、善意を食べると喜ぶのではないでしょうか?最後に、誠実、柔和、自制の実があります。これは自分自身が食べるものです。「え?自分が食べてどうするのですか?」と言うかもしれません。でも、私たちの中には良心とか人格があります。自分自身に対して、誠実で柔和で自制心があったらどうでしょうか?とても満足するんじゃないでしょうか。私たちは人に対して誠実で柔和で自制的ある前に、まず、自分自身に対して誠実で柔和で自制的であるべきです。

イエス様は私たちに「あなたがたは、地の塩、世界の光です。」とおっしゃいました。塩には2つの効果があります。1つはものを腐らせないようにする力があります。そのため、昔は魚を塩漬けにして保存しました。クリスチャンもこの世において、腐敗をとどめる役割があります。また、塩は料理のときに用いられます。いっぱい入れると塩辛くて食べられませんが、少しだけ入れると素材自身の味を引き立たてることができます。クリスチャンも地の塩です。でも、「私はあなたがたとは違いますよ」と言って、孤立するなら塩の役目は果たせません。塩が自らの姿をなくして溶け込むように、私たちも世の中に入り込むのです。私たちがいるだけで、周りの人たちが生き生きする。私たちが人々の良いところや賜物を引き出すことができたら何と幸いでしょう。また、世界の光とはどういう意味でしょう?光は不思議な存在で、光自体は見えません。光そのものを見ると目がくらみます。光は物に反射してはじめて、まわりを明るくすることができます。私たちが神の国の価値感で生きているなら、世の人たちはそれを見て、「すばらしい」と思うのではないでしょうか?この世界はあまりにも、ギスギスしています。怒りや恐れ、疑いでいっぱいです。そういうところで、私たちが愛とか平安、親切、誠実さをもって生きているならどうでしょう?もちろん、やっかむ人もいるでしょう。イエス様だって、当時の宗教家から嫌われていました。でも、真理を求める人からは好かれていました。私たちもこの世で誠実に生きようとしたなら、最初は、波風が立つかもしれません。しかし、そのように継続して生きているなら、少しずつ分かってもらえるのではないでしょうか?注意しなければならないことは、地の塩や世界の光として生きるためには、孤立しないということです。私たちの存在そのものに価値があることを覚えましょう。私たちがどうのこうのではなく、私たちの内におられるキリストの御霊が働いてくださるのです。「どうしたら塩の役目を果たすだろうか?」とか「どうしたら世の光として輝くことができるだろうか?」などと、律法主義的な考えは捨てましょう。イエス様は私たちに「地の塩になれ」とか「世界の光になれ」とはおっしゃっていません。「あなたはすでに地の塩であり、世界の光である」とおっしゃっています。何ができるかではなく、あなたの存在そのものがすばらしいということを自覚しましょう。そうすると、キリストの御霊は自然に、私たちに創造性を与え、隠された知恵を与えてくださるでしょう。Ⅰコリント1:30には「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました」とあります。私たちは旧訳聖書のダニエルのように、神の英知をもって、人々をリードすることができるのです。あなたはそのような神の恵みによって、周りの人たちを生かすことができるのです。ハレルヤ!

3.御霊の実がみのるため

御霊の実がみのるために、重要ないくつかの点があります。第一は、キリストにとどまるということです。ヨハネ15:4「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」イエス様は私たちが実を結ぶための重要な条件として、「私にとどまりなさい」と何度も言われました。これはどういう意味でしょう?私は青森でリンゴがなっている木を見たことがあります。でも、リンゴが「私は立派な実をならせるぞ!」とプルプル震えているところを見たことがありません。リンゴはただ、枝によって木につながっているだけです。つながっているならば、木の方から必要な養分が流れてくるのです。私たちが一番、集中すべきことは、キリスト様につながっているかどうかです。キリストにつながるとは具体的にどういう意味でしょうか?それは、キリスト様に聞き、キリスト様から知恵と力を得るということです。そうするなら、自然と、自分の中からキリストによる実が現れ出てくるということです。つまり、キリストと命の関係、有機的な関係になるということです。このことを個人的に言っても、だれも反対する人はいないでしょう。みんな「アーメン」と言うでしょう。しかし、教会という集団になるならどうでしょうか?私たちは教会の役員会、教会の総会、さまざまな会議となるとそういうことはどこかに置き忘れ、ひたすら左脳で議論するんじゃないでしょうか?会議となるととたんに、会社モードになる人がいます。しかし、教会はキリストのからだです。私たちはかしらなるキリストに聞き、そして従うべきであります。ですから、議論をする前に、御霊の声に耳を十分に傾ける必要があります。アンテオケの教会はどうだったでしょうか?使徒13:2-3「彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、『バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい』と言われた。そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した」とあります。だれか力のある人が言ったのではなく、聖霊ご自身が命じたのであります。私たちが聞こうとする気持ちがあるならば、聖霊は今も語ってくださるのです。

また、御霊の実がみのるためには人と関わることをパスしてはなりません。御霊の実の多くは、人間関係を通して成熟していくのです。人々から離れて、隠遁生活をしていたならば、決して、成熟しません。他の人というのは、自分が足りないところを指摘してくれます。自分の顔が見えないように、私たちは自分の本当の姿というものが見えません。人から指摘されたとき、むかっと来て、嫌な思いをするときもあるでしょう。しかし、多くの場合、その人たちが言うことは十中八九当たっています。当たっているから悔しいんです。当たっていない場合は、聞き流すことができます。もちろん、ひどいことを言われたときは「私はこのように傷つきましたから、次からはそのような言い方はやめてもらえないでしょうか?」と言うことも大切です。これはバウンダリーの問題です。でも、重要なのは他の人は、私の御霊の実が成熟してくれるように助けてくれるということです。色んな状況で、人との中で生きていると、「私には愛がないなー」「寛容さがないなー」ということが分かります。山の中で、一人で暮らしてしている分には、「私には愛があるし、寛容だよなー」と思うかもしれません。でも、人々の中に入ったときに、それが本物かどうか試されるのです。あなたの前に、とてもじゃないけど愛せない人が一人や二人、三人、現れるはずです。もし、あなたがむかーときて、怒りや憎しみがおさまらないとしたら、あなたにはやっぱり愛がないのです。つまり、御霊の実は人々の中で結ばれ、成熟していくということです。もし、あなたが嫌いな人、苦手な人を避けて、自分と気の合う人とだけ交わっていたならどうなるでしょう。それも平和で良いかもしれません。しかし、私たちはキリストのからだなる教会において、共に生きるときに避けられないことが多々あります。そのときこそ、私たちに御霊の実がみのる機会となるのです。私たちは人々を避けて、できるだけ傷つかないようする傾向があります。そして、最後には「自分はあの人たちと違うんだ」と誇るようになります。

イエス様の時代にパリサイ人や律法学者という宗教に熱心な人たちがいました。彼らは「自分たちは律法を守っているし、彼らと違ってきよいんだ」と自らを誇っていました。しかし、イエス様は彼らを偽善者と呼んで、とても嫌いました。彼らは人々に聖書を教えましたが、自分たちが汚れるといけないので、人々と親しく交わろうとはしませんでした。彼らは本心を隠して、仮面をかぶって生きていました。だから、イエス様は「白く塗った墓のようなものです。外側は美しく見えても、内側は汚れたものがいっぱいです」と言われました。イエス様はどうだったでしょう?イエス様は取税人や罪人たちと一緒に食事をしました。人々の間に出て行き、彼らと一緒に生活しました。人々はイエス様をどう思ったでしょうか?パリサイ人たちのように、近寄り難いと思ったでしょうか?パリサイ人たちは「寄らば、切るぞ!」みたいに、すぐ人々をさばきました。だから、一般の人たちは近寄ることはできませんでした。でも、イエス様の場合はどうでしょうか?イエス様の行くところどこでも、多くの人たちが集まりました。そして、彼らはイエス様に近づいて、着物に触ったりして、癒しや祝福を得ようとしました。イエス様ご自身も当時、人々から嫌われていた、ツアラト(らい病人)に自ら触れられました。触ったイエス様が病気になったでしょうか?逆にイエス様のきよさによって、その病気がきよめられたのです。ハレルヤ!ですから、同じようにあなたが御霊の実に満たされたならば、人々があなたの周りに自然に集まってくるでしょう。人々はあなたによって恵みと平安を受けるのです。

石塚兄姉は10数年間、この教会に在籍していました。今は、実家のある日立に住んでおられます。お二人が引っ越してから何度かお会いし、その後の様子を聞くことができまた。石塚兄姉は月に一回、自宅でセル集会を開いており、茨城大学や茨城キリスト教大学の学生さんたちが多く集まっているそうです。前半は一緒に食事をし、後半は聖書に何が書いてあるか、発見したことを分かち合ってもらうそうです。彼らはそれが楽しくて、夜11時になっても帰らないそうです。石塚姉は教会や教団の婦人部で活躍しておられるようです。石塚兄はもと太陽エネルギーの仕事をしていました。現在は日立市民のサークルに属しながら、自然エネルギーを教えています。「日立は日が立つと書くので、太陽エネルギーのことです」とみんなに言ったそうです。最近は、若い人も「エコ」に興味があり、加わっているそうです。また、「日立理科クラブ」にも属しており、学校の実験室の実験を手伝っています。ふだんはあまり使われなかった実験室が、リタイアした技術者のボランティアによって活気付いているそうです。石塚兄姉は、当教会におられたときから、本当に肯定的な人でした。批判的なことは一切言わず、小さなことも喜んで励ましてくださいました。ブラック・ゴスペルで多くの人が救われたとき、一番喜んでくれたのが石塚兄姉です。すずめの学校を創設したときも、退職金の一部を献金してくださいました。今は、日立の方で地の塩、世界の光として活躍しておられます。このように、御霊の実は、概念的なものではなく、実際的なものです。家庭、教会、会社、学校、地域社会で人々と触れたときに、御霊の実が生かされてくるのです。私たちは、神さまとの関係ももちろん大切です。しかし、その実が存在価値を示すのは、人々と関わったときであります。ですから、バランスが重要です。まず、イエス様の内にとどまって力をいだだき、その次には、イエス様と共にこの世に遣わされていくのです。そのようなプロセスの中で、御霊の実が成熟し、キリストに似た者となるのです。