2010.06.27 セル集会の持ち方 使徒2:43-47、コロサイ3:16

きょうは「セル」という言葉を使います。別にセルと言わなくても良いんです。セルとは方策のように思われていますが、そうではありません。セルとはキリストのからだの細胞という意味から来ています。日本の教会ではセルという言葉をあえて使わない教会もあります。ですから、小グループと呼んでもさしつかえありません。でも、私が当教会で15年間、セル、セルと言ってきたので、「セル集会」と呼ばせていただきます。でも、セルといわなくも、全く、構いません。重要なのは新約聖書が言っている教会を目指せば良いのです。新約聖書の教会には、キリストを中心とした麗しい共同体、コミュニティがありました。この共同体とセル集会とが深いつながりがあります。

1.セル集会とは

 ペンテコステの日、3000人の人たちがいっぺんで救われました。彼らはどのような集まりを持ったのでしょうか?使徒の働き2章後半に、初代教会の様子が記されています。まず、彼らは神殿に集まって礼拝をしていました。今で言う、聖日礼拝であります。もう1つ彼らは家々で集会を持っていたとあります。おそらく、10名前後の人たちが平日、集まっていたと思われます。その小さな集まりを「セル集会」と呼んでいます。もちろん、スモールグループとか、ファミリーと呼んでもぜんぜん構いません。では、従来の「家庭集会」とどこが違うのでしょうか?多くの場合、家庭集会は牧師や伝道師が、ある信徒の家庭におじゃまします。そこに近くのクリスチャンが集まります。だいたい、そこでは牧師がメッセージして、お祈りし、お茶を飲んで終わりというプログラムです。そこでの会話の方向は、牧師からメンバーへと一方向です。しかし、セル集会の場合は、牧師がそこに行きません。そこに集まるクリスチャンの主導で行なわれます。だれか一人が教えるというよりも、みんなでみことばを分かち合うということがなされます。会話の方向は、あっちから、こっちから、こっちから、あっちからと入り乱れています。リーダー的な人はいますが、集会をコントロールするというよりも、交通整理的な役割が求められます。だれかが一人で話題を独り占めしているときは、「ちょっと控えて、他の人の話も聞きましょう」と言います。リーダーの主な役割は、集会を仕切るのではなく、人々の心が開かれ、気軽に話せるような雰囲気を作るということです。特に、黙りこんでいる人の口を開かせる。そのためにはリーダー自身の恥や失敗を喜んで、分かち合う必要があります。

 セル集会には最低限度のきまりが必要です。第一はフラットな関係です。フラットとは平らという意味であり、上下関係がないということです。だれか強い人が、「私の言うことを聞きなさい」とコントロールしてはいけません。セル集会には父親的な人はいても、ボスはいないということです。私はJCMN関東セルチャーチのコーディネーター(世話役)をしています。年に3回か4回、牧師やリーダーのためにセミナーを開きます。そこに出席した牧師たちがまずびっくりします。あまりにもフラットで解放的な雰囲気でふらっとするみたいです。普通、キリスト教の集会では、大教会の牧師は上座に座ります。小さい教会の牧師は、どうしても卑屈になります。しかし、セルチャーチでは、偉い人がいないんです。それと同じように、セル集会でもそのようなフラットな関係が必要です。第二は秘密を守るということです。そこで話された内容を他のところで話さないということです。もし、そうしないならば、表面的な話しかできません。そこが安全であるならば、どんな深い内容でも、分かち合うことができます。秘密を守るとは、ここは安全な場所であるというしるしです。第三は人の噂話はしないということです。特に、そこに参加していない人の話題は避けるということです。この世ではゴシップというのはおいしいご馳走のようにみなされています。ご近所でも、会社でも、PTAでも、そういうゴシップに花を咲かせます。私がある教団の牧師に「セルはどうですか?」と聞きました。すると、「セルはだめだよ。牧師の悪口を言う場になるから」とつっぱねられました。それは、牧師が信徒を信頼していないからかもしれません。でも、そういう危険性はあるということです。第四は、セル集会は教えるということよりも、「私がこのように教えられました」と分かち合い形式で言うということです。「あなたはこうした方が良いですよ」「あなたはここが間違っています」と言うと、雰囲気が悪くなります。それよりも、「私がこうしたら、こうなりましたよ」と私メッセージで伝えれば良いのです。

2.セル集会の目的

 昔の教会は、「礼拝が終ったなら、さっさと帰るように」と言われました。それは、語られたメッセージをじっくり噛締めるためです。人と話すと心が乱れて、恵みが消えてしまうので、そのまま帰るのかもしれません。でも、どうでしょうか?教会は神さまとの縦の関係だけではなく、兄弟姉妹の横の関係も必要です。なぜなら、教会とは「聖徒の交わり」と言われているからです。聖徒とは、罪が贖われて、神さまとの縦の関係のある人たちのことです。そして、「聖徒の交わり」となると、個人と神さまとの関係だけではなく、罪が贖われた者同士との関係も必要だということです。なぜなら、神さまからの戒めがそのようになっているからです。イエス様は、マタイ22章でこのようにおっしゃられています。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。これがたいせつな第一の戒めです。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよという第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」そうです。私たちは神さまを愛するだけではなく、隣人を自分のように愛するように命令されているからです。そして、教会の兄弟姉妹が持つ集会というのは、この隣人愛の練習の場になるということです。この世における人との関係とはどういうものでしょう?親子や親族などの血縁関係、会社においては利害関係、男女においては恋愛関係です。この世においては友だち関係というのがなかなか作りにくいですね。本来、友だち関係というのは夫婦の間にも、教師と生徒、牧師と信徒、あらゆる関係の基盤になるべきなのです。しかし、特に日本人はそれができません。必ず、年齢とか役職、身分が土台した上下関係になります。アメリカには敬語というのがほとんどありません。YOUとかファーストネームで呼び合っています。しかし、日本は上下関係が強いので、敬語や丁寧語がものすごく多いんです。しかし、教会というところは身分も年齢も、男女関係もありません。みな、兄弟姉妹の関係であります。頭では分かりますが、それを体験していく場がセル集会なのであります。柏に「人生やりなおし道場」という教会があります。ミッション・バラバの鈴木啓之師が牧会しています。教会も神の愛、兄弟姉妹同士の愛を学ぶ、道場なのであります。

 そして、セルのもう1つの目的はお互いに建て上げるということです。建て上げるとは、ギリシャ語で、オイコドメオーと言います。新約聖書にこのことばが非常に多く用いられています。このことばは実際、家や建物を建てるという意味です。しかし、聖書では「神の家を建てる」というふうに用いられます。そうすると、その意味が若干、変わってきます。「信仰を強化する、人を向上させる、品性を高める、相手の徳を高める」というふうになります。英語ではedify、edification(啓発)と言ったりします。では、「建て上げる」の反対は何でしょうか?「こきおろす、批判する、ダメ出しをする」というふうになります。日本人はこれをやったり、やられたりしていますので、もうビクビクしています。「また、何か言われるかなー」と構えてしまいます。大体、日本は、励ましたり、ほめたりする文化ではありません。どしても短所や欠点、間違いの方に目がいきがちです。あっちを切られ、こっちを切られ、盆栽のようにちぢこまってしまいます。ですから、セル集会では励ましたり、ほめるということがとても重要です。4月は東京ホープチャペルで関東コーチングセミナーがありました。先生方がいろんな発表をします。「いやー、これよかったね」「あれはよかったねー」とほめるんです。もちろん、悪いところや足りないところもあるんです。でも、言い方ひとつ、見方ひとつで、肯定的になることが可能です。その集会に、「葛飾中央教会」という名札をつけた牧師が参加しておられました。私はその先生のところに行って、「ようこそ、私は亀有です。先生はどちらからですか?」とお聞きしました。先生は「柴又一丁目にあります葛飾中央教会です」と答えました。私は「わあ、すごい。葛飾中央教会というのが良いですねー」と言いました。すると先生は、「うちは家族7人でやっている教会です。こういう名前をつけて、いろんな教会から批判されました。ほめてくれたのは先生がはじめてです」と言われました。私は「葛飾中央じゃ、そんなに大きくないですよ。東京中央教会でも良いんじゃないでしょうか」と言いました。すると、先生はそれがとっても励まされたということなんですね。私は「日本の教会の牧師は、励ましが必要なんだなー」と思いました。

 一口に「建て上げ」と言いますが、具体的にはどういうことなのでしょうか?新約聖書には「互いに」という表現がたくさんあります。「互いに」ということが実行できるのは、二人以上、十名未満の人数ではないでしょうか?50人では「互いに」は不可能です。ですから、小グループが必要になってきます。では、新約聖書にどのような「互いに」というのがあるのでしょうか?みなさんもお考えください。「互いに愛し合いなさい」「互いに赦し合いなさい」「互いに祈り合いなさい」「互いに励まし合いなさい」「互いに教え合いなさい」「互いに戒め合いなさい」「互いに重荷を負い合いなさい」「互いに注意し合いなさい」「互いに預言し合いなさい」「互いに親切にし合いなさい」「互いに語りなさい」「互いに従いなさい」「互いに徳を高め合いなさい」「互いに平和を保ちなさい」…本当にたくさんあります。これらを一口に言って、「建て上げ合う」ということだと思います。もし、これが教会の兄弟姉妹の間でなされるなら、信仰が強化され、力がついてきます。そして、こんどは家族や会社、学校、地域社会で実行していけば良いのです。日本にはそういう文化がほとんどありません。あなたから新しい文化を作っていけば良いのです。ハレルヤ!

3.セルの一生

 セルとは細胞であると最初に申し上げました。実は私たちのからだの細胞も「生まれては死に、生まれては死に」を繰り返しています。ある人から、玄米を勧められました。その人は「6ヶ月ぐらいで、体全体が玄米でできた細胞になりますよ」とおっしゃっていました。どのくらい生物学的な根拠があるか分かりません。でも、細胞が生き延びるためには、たえず増殖し、そして、古い細胞は死んでいくという運命にあります。しかし、細胞核にあるDNAはちゃんと伝達されるということです。同じようにセルグループにも一生があります。はじめ生まれたてのセルグループは新鮮で喜びがあります。「こんにちは、こんにちは」と、いろんな人と親しく交わることができます。兄弟姉妹がみんな良い人に見えます。自分が本当に受け入れられ、歓迎されているように感じます。それは結婚で言うと、ハネムーン期です。でも、結婚された方はご存知ですが、ハネムーン期間は長くは続きません。1年くらいたつと、相手の欠点やアラが見えてきます。「こういうところがだらしない。あんな言い方はないだろう。なんで支配するんだ。なんであんなに軟弱なんだ。ちょっと変わっているんじゃないかなー。あれでもクリスチャンなのかな?」これが第二期の葛藤期です。セル集会では自分の内面を出して良いところです。そうすると自分の良い面も出ますが、悪い面も当然、出てきます。その人のバックグラウンドと申しましょうか、生い立ち、これまで受けた傷、自分の考えや好み、主義主張、こだわり…そういうものがバーッと出てきます。そこで、衝突が生じてきます。しかし、それは良いことなんです。それがないと本当の親密さには発展しません。第三期は調整期です。どういうことかというと、不一致を調整するということです。「こういう言い方をするとあの人がカチンと来るらしい。だから、表現を変えよう」「ああ、あの人にはこういう弱さがあるんだから、別の角度で見て行こう」「私の流儀や考え方のこの部分をなおさないとダメだな。こういう場合はだまって同情した方が良いんだなー」。こういうふうに調整していきます。これを聖書的に言うならば、悔い改めと建て上げであります。壊して建てるということです。私たちの内面を見て、良くないところは取り壊し、良いものに取り替える必要があります。そして、第四期は円熟期です。もう、しっかりと信頼関係ができています。親密さにあふれている関係です。夫婦もここまで来ると良いですね。兄弟姉妹もそういう関係を目指すべきです。第五期は死です。そのグループはやがて死を迎えます。「えー死ってひどいじゃないですか?」と言うかもしれません。そうです。3年も4年も、同じメンバーだとそのグループは死んでしまいます。

では、細胞、セルが死なないためには、どうしたら良いのでしょう?増殖です。細胞は細胞分裂し、増殖しながら生き延びています。セルグループも新しい人を加え、細胞分裂して、増殖しなければならないのです。1つの同じセルグループを、ずーっとやっていたのでは、そのグループは死んでしまいます。亀有教会もある時は12個くらいのセルがありました。しかし、今では4個くらいかもしれません。なぜでしょう?ずーっと同じメンバーだったからです。私たち日本人は、メンバーを換えるということにはとても消極的です。「せっかく慣れたのに、別なグループを作るのは嫌だわ、別れたくない。ずっといたい」。気持ちは分かります。でも、長年、グループにいた人は、新たに自分がリーダーとなってグループを作る必要があります。なんのためでしょうか?それは新しい人が救われ、育成され、やがては大人のクリスチャンになるためであります。つまり、セルグループの最終的なゴールは伝道によって新しい人が加えられ、やがては増殖することにあるということです。ですから、細胞分裂して増えるため、別れることは良いことなのです。「別れることは良いことです」と言いましょう。つまり、セルは内向きだと死んでしまいます。ですから、たえず外に向かう必要があるということです。

4.セルの重要なポイント

最後にセル集会において重要なポイントを3つ上げて終りたいと思います。セル集会が生き生きとした交わりになるため、つまり、お互いがお互いを高め合うためにどういうことが大切なのでしょうか?第一はお互いに心を開くことです。男性は気持ちを分かち合うということが女性と比べてとても下手です。どうしても自分の考えとか知識を分かち合います。しかし、もっと分かち合うべきことは、自分の感情であります。心の傷や痛み、悲しみを分かち合うべきです。そのためには、心を開くということです。お互いが心を開けば、開くほど、そのグループの新密度が高まります。多少の衝突があるかもしれません。でも、人間関係の傷は人間関係で癒されるしかないのです。もし、あなたが関係を絶つならば、その部分だけ手付かずのままで、残ってしまいます。私たちの成熟度、あるいは聖化という面を考えると、どうしても人間関係を抜きにしては考えられません。私たちは人間関係によって、人格が成長するようになっているのです。そのためには心を開くということがとても重要です。第二は帰属意識です。私たちはどこかに属しているという意識がとても必要です。人間は元来一人では生きて行けません。でも、これまでさんざん傷ついてきたので、一人にさせてくれという人がいるかもしれません。でも、自分を受け入れてくれるグループに属するということはとても重要です。では、どういうグループが必要なのでしょうか?それは自分がグループにとって、必要とされているという意識です。そうです。そのグループは、あなたの賜物、あなたの性格、あなたの考えが必要なのです。あなたはグループから必要とされているのです。しかし、同時に、あなたもそのグループが必要なのです。手の指が一本で存在できないことと同じです。指は手の平につながり、手の平は腕につながり、腕がからだにつながっています。キリストのからだなる教会もそれと同じです。キリストのからだなる教会はあなたを必要とし、あなたもキリストのからだなる教会を必要としているのです。第三は聖霊を歓迎するということです。イエス様はマタイ18章で「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」とおっしゃいました。今、イエス様は聖霊によって、私たちのところにお越しになっています。イエス様は個人の中にもおられますが、私たちの間にもおられます。私たちは心を合わせて祈るなら、どんなでもかなえてくださると約束しておられます。つまり、セル集会の原動力は生けるキリスト、聖霊であります。聖霊様が私たちに愛を与え、知恵を与え、賜物を与えてくださるのです。一人ひとりは取るに足りない者であったとしても、そこに聖霊が臨在してくださるならばどうでしょうか?聖霊様ご自身が、すばらしいわざをなしてくださるということです。

かなり前、インドネシアのセル集会の証を聞きました。一人の男性は脳腫瘍にかかりました。何度も手術を受けましたが、全部の腫瘍を取り除くことができませんでした。お医者さんは「数ヶ月後に、また来てくださいよ」と言いました。しかし、彼はお金がなくて行くことができませんでした。それで、セル集会に参加したとき、みんなから祈ってもらいました。するとどうでしょう?彼の目の前に見上げるほどの大男が立ちました。大木のような足ですから、10メートルもの身長です。彼は「ああ、この方はイエス様だな」と分かり、「主よ、大き過ぎて分かりませんので、もう少し小さくなってください」と心の中でお願しました。すると、するするとその人は小さくなりました。顔を見上げましたが輝いて見ることができませんでした。彼は「お願です。イエス様、私の頭を癒してください」とお願しました。すると、その方は自分の頭の上に按手してくれました。他の人は分かりません、彼が見た幻であります。それから半年くらいたって、頭のことは忘れていました。他の用事で病院に出かけました。お医者さんが「君どうしたの?」と聞きました。「いや、別に?」と答えました。詳しいことは忘れましたが、とにかくCTスキャンで見てもらいました。しかし、頭の中の腫瘍が全く消えていたということです。だれかが特別に祈ったのではなく、セルのみんなが祈ったときに、イエス様が来られて、その人を癒してくださったのです。イエスの御名によって集まるところに、主がおられ、みわざをなしてくださるのです。どうぞ、個人で信仰を守るだけではなく、互いに建て上げ合うために、小グループに身を置いてください。