2010.05.02 整えられる エペソ4:7-16

整えられるとは、いわばアドバンストコース、上級コースであります。スキー場に行きますと、なだらかなゲレンデがあります。それは初心者コースです。さらにリフトを上っていくならば、傾斜がきつくなり、ところどころにこぶがあります。それは、上級者のためのコースです。これまで私たちが学んで来たことは、初心者コースです。「自分の好きなこと、得意なものをやってみるように」と勧めてきました。しかし、あるところまで行くと私たちは整えられる必要があります。そうでないと、もっと上のコースに行くことができません。では、整えられるとはどういう意味でしょうか?ギリシャ語には2つの意味があります。1つは装備する、equippingという意味です。兵士にたとえるなら、武器を与え、その武器を十分に使えるように訓練するということです。そして、もう1つは整理整頓するという意味があります。これは網を修繕するという意味もあります。私たちの人格的な欠点を修復し、完全な人格にする、perfectingということです。イエス様も山上の説教で、「天の父が完全なように、完全でありなさい」と言われました。

1.武器を装備する

 装備するとはどういう意味でしょうか?さきほどは、「武器を持たせて、その武器を十分に使えるように訓練する」と言いました。「たとえが、戦争ではちょっと?」と文句が出るかもしれません。表現を換えるならば、スキル、技術面をのばすということです。初心者コースでは、自分の好きなもの、得意なもの、「これが召されているんじゃないだろうか?」ということをやってきました。でも、次の段階は、それらをフォーカスする必要があります。フォーカスとは、焦点をしぼるとか、集中するということです。つまり、「自分が本当にやりたいこと、専門的にやりたいことは何か?」ということです。私たちのこの地上での人生はそんなに長くはありません。「あれもやって、これもやって」となると、人生が終るとき、「何やってきたのかなー?」と悩むかもしれません。使徒パウロは「ただ、この一事に励んでいます」「目標を目指して一心に走っています」と言いました。そして、パウロは最後に、Ⅱテモテ4:7「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」と言いました。ということは、私たちは、走るためには明確なゴールを持っていなければならないということです。ただ、やみくもに走っているのは初心者コースの人であります。オリンピックでは、強化コースというのがあります。オリンピックに出られそうな人たちをどこかに集めて、彼らを訓練します。戦争ではブートキャンプと言います。少し前に、ビリーズブートキャンプという短期集中型のエクササイズがありました。しかし、本当は、新兵に対して行われる教育・訓練プログラムです。だいたい、6週間くらいの特別訓練です。とにかく、聖徒(セイント)を神の国で戦える聖徒に訓練するということです。みなさんは、今のまま、マイペースで良いでしょうか?それとも、「ああ、整えられたい」と思うでしょうか?

 私たちが戦うことができるために、神様は霊的賜物を与えておられます。これは神様がくださる能力、武器であります。エペソ4:7「しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました」とあります。この賜物とは具体的に何でしょうか?それは、Ⅰコリント12章にあります御霊の賜物です。これはクリスチャンが神様の奉仕ができるように、御霊が与える賜物です。そこには9つあげられています。知恵のことば、知識のことば、信仰、いやし、奇蹟、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力です。ローマ12章にも御霊の賜物がありました。どこが違うのでしょうか?Ⅰコリント12章の賜物は、キリストのからだなる教会全体に与えられるものです。つまり、聖霊が教会を見渡して、聖霊が「今、この人に」と思う人に与えます。聖霊が意志したときに現れるのであって、個人が常に所有しているという訳ではありません。現れるときもあれば、現れないときもあるということです。ですから、Ⅰコリント12:11「みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださる」と書いてあります。私は、病のいやしのために用いられるときがあります。手を置いて祈りますが、癒されるときもあれば、癒されないときもあります。私の願いとしては「癒されるように」という強い思いがあります。しかし、癒されない場合もあります。足腰が痛いといのは、80%は癒されると信じます。でも、病気や障害の場合は、正直、30%ぐらいではないかと思います。先日も、尾山先生が親知らずを抜いたことが原因で、あごの神経が麻痺していました。私がお祈りしました。あとから「先生、ぜんぜん直っていないよ!」言われました。以前だったら、落ち込んでいたでしょうが、御霊に主権があるということを知ってからは、「ああ、そうか残念だなー」くらいしか思わなくなりました。この賜物は、いくら私たちが力んでもダメなのです。でも、現れるときには、ちゃんと現れます。聖霊が「ああ、この人は忠実な人だなー」と認めてくだされば、もっと現れるかもしれません。この賜物が現れるためには、信仰が必要です。

 また、私たちは「自分がこれをもって奉仕する」というものがあったら、それをもっと鍛える必要があります。もっと専門的に学んで、スキル(道具)を身につけるということです。プロレスを見てよく思うのですが、彼らには必殺技というのがあります。このわざを使えば相手を倒すことができる。彼らは、そういう必殺技を1つ以上持っています。力道山には空手チョップ、ジャイアント馬場は16文キック、猪木ですと卍固めがありました。他に四の字固め、ブレーンバスタ、ラリアート、パイルドライバー…。何を言っているのか、横道にそれました。えーと、必殺技です。つまり、自分の得意技です。あなたの得意技、専門とするものは何でしょう?私たちは1つ自信を持つなら、あともう1つ、あともう1つと増やしていけるのではないでしょうか?ある牧師は、「私は伝道はできるけど、牧会はできないんだよな」とはっきり言います。しかし、それはハナから諦めていると思います。伝道を極めると、救われた人を牧会したくなるでしょう。救われた人が自分と同じように伝道をする人にできるはずです。多くの人たちは、「Aがだめだったら、Bにしょう」とAを捨ててしまいます。「統合」integrateということばがあります。いろんな要素や部分を統合する、まとめるということです。私は説教することが得意といえば得意です。でも、カウンセリングにとても興味があります。しかし、人の話を聞くのがあまり得意ではありません。では説教とカウンセリングを統合したらどうでしょう?カウンセリング的な説教をすることができるでしょう。つまり、そういう問題が起こる前に、予防的に教えることができます。「このようにしたら、こういう問題が起こらないのですよ」と教えることができます。イエス様はペテロに「人間を取る漁師にしてあげよう」と言いました。ペテロは魚を取ることはプロでした。では、人間を取るのとどう共通しているのでしょうか?魚の場合は、魚の習性を知る必要があります。「網なのか、釣り竿を使うのか?どんな魚を取りたいのか?どんなしかけか?どんな餌か?時間帯はいつなのか?」いろいろ調べ、道具を選択します。人間も同じであります。ターゲットにするのは子どもか、若者か、それとも年配者か?主婦かビジネスマンかそれとも浮浪者か?山の手か下町か、ブルーカラーかホワイトカラーか?まず、自分が得意で、自分が持っている資源(リソース)で始めるでしょう。だんだん、それが広がっていくかもしれません。ですから、自分の得意なものをのばし、専門化する必要があります。そのためには、たえず研究し、そのための訓練を受ける必要があります。

 ゴリアテが、イスラエル軍に「おれと勝負し、おれを打ち殺すなら、おれたちはおまえらの奴隷になる。もし、おれが勝って、それいつを殺せば、おまえらがおれたちの奴隷となり、おれたちに仕えるのだ。ひとりをよこせ、勝負しよう」と挑発しました。ガチンコというかタイマン勝負です。相手は3メートルもある巨人ゴリアテ、戦いのプロです。イスラエルの兵士たちは震え上がりました。そのとき、少年ダビデが、お兄さんのために弁当を届けにやってきました。ダビデはそれを聞いて「このしもべが、あのペリシテ人と戦いましょう」と言いました。サウル王は、ダビデに自分のよろいかぶとを着させました。頭には青銅のかぶとをかぶらせ、身にはよろいをつけさせました。ダビデはそれを着て、思い切って歩いてみました。ダビデは「こんなものを着けては、歩くこともできません。慣れていないからです」と言って、それを脱ぎました。川からなめらかな石を5つ選び、それを袋にいれました。そして、いつも自分が愛用していた石投げを手にして向かいました。ゴリアテはダビデを見下ろして「おれは犬なのか?」とダビデをのろいました。ダビデはたった一発で巨人ゴリアテを倒しました。彼が放った石が眉に食い込んだのです。これと同じです。借り物ではダメだということです。自分がいつも使って、使い慣れている武器。そういう武器を身につける必要があります。そのためには、たえず研究し、実践し、自らを訓練しなければなりません。どうぞ、自分の目指すものは何か?何に時間とエネルギーを費やすのか?そして、自分は何をもって神様に仕えるのか?神様に聞きましょう。

2.人格的に整えられる

 もう1つ、「整える」は、整理整頓するという意味があります。これは網を修繕するという意味もあります。私たちの人格的な欠点を修復し、完全な人格にする、perfectingということです。第一のポイントでは武器を装備し、能力を伸ばすというところにポイントがあてられました。しかし、もう1つ重要なことがあります。それは人格的に整えられるということです。「え?なんでそんなものが必要なんですか?力があれば、能力があればそれで良いじゃないですか」と言うかもしれません。実はこのことは私が最も課題にしていたことです。私は朝青龍関が好きです。何故でしょう?彼は強いからです。でも、日本では相撲は国技なので、強いだけではだめで、横綱の品格というのがあるようです。「横綱の品格とは何か?相撲もプロレスと同じで強ければ良いだろう」と、私はテレビに向かってよく言います。「何、やくみつるだ、だまって漫画かいていろ!」と言いたくなります。なぜ、ムカツクのでしょうか?それは、私が責められているような気がするからです。朝青龍とオーバーラップするところがあるからかもしれません。私は救われて1年後、東京聖書学院に行きました。確か、木曜日の午後でしたが、川越で伝道実習がありました。私たちが商店街でチラシをくばって、喫茶店の2階で伝道集会をしました。そのとき、私が救いの証をすることになっていました。集会前、上級生の渡辺姉妹が私のとなりで祈ってくれました。「神様、どうか鈴木兄弟の唇をきよめてください。どうか、その唇をきよめてお用いください。どうか鈴木兄弟の唇を、どうかきよめてください」。「やかましい!これから証をしようとする時、あてこすり的な祈りはするな!テンション下がるだろうが!」と思いました。そんなことで、きよめを主張する、ホーリネス教団にはちょっと穏やかでないものがあります。しかし、それから10年以上たってからでしょうか?大和キリスト教会にアルゼンチンからソーサーという伝道者が来られて一人ひとりに預言してくれました。みんなバタン、バタンと倒れて、それから先生が耳元で預言してくれました。何百人もいるので、彼は私がだれか知る由もないでしょう。ソーサー先生は「あなたがもっと整えられるなら、あなたを通して、もっと大勢の人たちが救われるでしょう」と言いました。「うぁー、当たっているなー」と思いました。

 神様がその人を用いるために、必ずその人を訓練するということが聖書を見るとよくわかります。困難や試練を与えて、その人の自我を砕き、神の人として整えることがわかります。モーセは40歳のとき、「この私がイスラエルの民をエジプトから救い出してやる」と思いました。たまたま、喧嘩の仲裁に入り、エジプト人を打って死なせました。そのことがパロ王の耳に入り、モーセはエジプトをのがれ、ミデヤンの荒野に住みました。なんとそこで、40年間も羊を追って暮らし、気がついたら80歳になっていました。革命を起すのには年が取りすぎています。モーセが神様から「行け」といわれたとき、「私は一体、何者なのでしょう」と言いました。しかし、主はそのモーセを指導者に立てて、100万人以上いるイスラエルの民をエジプトから脱出させたのです。ヤコブはどうだったでしょう?彼はお兄さんとお父さんを騙して、長子の権利を奪い取りました。ヤコブの性格は、まさしく「押しのける者」でありました。彼は父のもとから逃げ、おじのラバンのもとに身をよせました。ヤコブが「押しのける者」であるなら、ラバンは「押しのけるチャンピオン」でした。神様はあえてそういう人のところにヤコブを送ったのです。ヤコブは何度も約束をくつがえされました。そして、20年もただ働きをさせられました。しかし、ヤボクの渡しで、天使と格闘(レスリング)しました。彼は「私を祝福してくださらなければ、離しません!」と言いました。天使は勝てないのを知り、ヤコブのつがい(腿の付け根)を打ちました。彼は完全にくだかれたのです。そして、「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ」と言われました。名前が、「神の皇太子」に変わったのです。旧訳聖書の最大の預言者エリヤはどうだったでしょうか?彼は天から火を下して、450人のバアルの預言者にかったということで有名です。彼は偶像崇拝をやめないアハブ王に「これから3年は雨降らず、露も降りない」と言いました。エリヤは命を狙われ、ケリテ川のほとりに身を隠していました。すると、カラスが朝と夕に、パンと肉を運んで来てくれました。人間がカラスから養われたのです。その後、ケリテ川が枯れたので、ツァレファテのやもめのところに行きました。そのやもめと子どもは最後の麦粉でパンを作り、死のうと思っていたところです。ところが、エリヤは「小さなパン菓子を作り、私のところに持ってきなさい」と命じました。「この、人でなし」と叫ぶかもしれません。でも、どうでしょう。地の上に雨が降るまで、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなったのです。エリヤは3年間、最もあてにならないカラスと、最も力のないやもめから養われました。これが、整えられるということです。エリヤはこのレッスンを通された後、天から火を下して、バアルやアシュラの預言者850人を倒すのです。私たちは華々しいところに目が行きがちでありますが、日陰の人生があったということです。あのパウロだって、10数年間、アラビヤと故郷のダマスコに留まっていたのです。神の人は、みんな整えられるという期間を通らされたのです。

 しかし、みなさん新約聖書がいう「整える」とは、もう1つ意味があります。神様は、困難や試練で整えてくださいますが、それだけではありません。なんと、私たちを人間の中に置いて、人間関係の中で私たちを整えてくださるのです。それがこのエペソ4:16です。「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」私たちが「しっかりと組み合わされ、結び合わされる」ためには何が必要なのでしょうか?みなさん、お家を建てるところをご覧になった方はおられるでしょうか?基礎の上に、大きな角材を回します。その上に柱を建てます。さらに柱の上には梁を渡します。そのつなぎ目をご覧になったことがあるでしょうか?「ほぞ」といいましょうか?柱や梁には、出っ張りと穴ぽこがあって、それぞれが組み合わされる必要があります。ほとんどは工場で作るのでしょうが、木材をそのままは使えません。切られたり、削られたり、穴をあけられたりするでしょう。「俺は、私は、このスタイルで良いんだ。俺流でやらせてもらいたい!」と主張しても、神の教会ではそれは通じません。神様は人間関係の中で私たちを整えたいと願っておられます。「あの人が嫌いだ」「あの人とは馬が合わない」。そういう理由で、関係を絶ちます。そして、自分の気の合った人とだけ交わります。もし、関係を絶ち、孤立しているなら、整えられることは決してありません。ある人たちは、聖書的な知識を得、罪から離れて生活をしているかもしれません。しかし、そういう人たちが聖められた人なのではありません。律法学者やパリサイ人たちがそうでした。本当に聖められた人と言うのは、イエス様のように人間関係を保ちながら聖い生活をしている人です。神様はあなたを整えたいと願っておられます。だから、あえてあなたのそばに、嫌な人、攻撃的な人、気の合わない人を送っているのです。「あの人があんなだから!」と人のせいにしているうちは、整えられることはありません。私たちは他人を変えることはできませんが、自分を変えることができます。自分が変わることにより、その結果、人も変わるのです。

 最後に、どうして教会に、イエス様は、使徒、預言者、伝道者、牧師また教師をお立てになったのでしょうか?エペソ 4:12 「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるため」です。私たちには自分をコーチしてくれる人が必要です。第一のポイントでは武器を装備するためには、訓練を受けるということでした。第二のポイントでは、神の人になるために、人格的に整えられるということでした。一方は技術やスキルを伸ばし卓越したものになります。もう一方は品性が整えられ、愛の人になるということです。Ⅰコリント13章でも、いくら賜物があっても、愛がなければ無に等しいと書いてあります。ガラテヤ人の手紙には御霊の実について書いてあります。そういう人格的なものが必要だということです。でも、どうしたら技術を身につけ、人格的にも整えられるのでしょうか?みなさん、そのためにはあなたをコーチしてくれる人が必要です。スケートでもコーチを受ける必要があるでしょう。ピアノや歌もそうでしょう。いつまでも我流でやっていたら、あるところでストップしてしまいます。しかし、ある人は「いえ、私は結構です。だれからも教えられたくありません」と拒否します。ヤコブ書には「上からの知恵は温順であり」と書いてあります。温順とは、ある英語の聖書にはteachable personと書いてあるそうです。このみことばは、大川牧師が。私が神学校に行くときに、くださったことばです。大川牧師は有名な車田秋次という先生からいただいたとおっしゃっていました。温順とは、だれからも教えられる、柔らかい心です。この世のコーチはとても厳しいですね。罵倒したり、足で蹴ったり、気絶したら水をぶっかけるかもしれません。その点、キリスト教界のコーチは優し過ぎるかもしれません。私たちは人々を教えたり、訓練するためには、まず、自分がだれかから教えを受けていなければなりません。神の人として整えられ、用いられるために、喜んで、訓練を受ける者となりましょう。