2010.05.30 御霊の法則 ローマ8:1-7、ガラテヤ5:16-18

私たちは自分の力、つまり肉によって神様の要求を満たそうと努力すればするほど、律法の法則にはまりこみます。律法は「まだ足りない、まだ不十分だ」と、あなたに叫ぶでしょう。律法はあなたの中にある不十分さや罪を暴露して、決して「これで良い」とは言いません。私たちはキリストと共に葬られ、キリストと共によみがえらされました。つまり、律法という夫と別れて、こんどは新しい夫、イエス・キリストと結婚したのです。やさしいイエス様は「私に重荷をゆだねなさい。私と一緒にやりましょう」とおっしゃってくださいます。私たちがなすべきことは、自分の力で努力することではなく、私たちの内に働いてくださるキリスト御霊にゆだねることなのです。神様は私たちを通して、神様ご自身が働きたいのです。きょうは、私たちの内側に、キリストの御霊がどのように働くのか、詳しく学びたいと思います。

1.御霊の法則

 使徒パウロは「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と自分に絶望しました。なぜなら、「自分の肉のうちには善が住んでいない。善をしたい願いがあるのに、かえってしたくない悪を行なってしまう」からです。でも、どうでしょうか?ローマ8:1-2「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」7章と8章の間に何があったのでしょうか?実際、聖書の原文には何章とか何節と分けられていません。これは後代の人が便宜上、文脈を見ながら付けたものです。でも、パウロは何かを発見して、その絶望のどん底から脱出したのです。自然科学には原理とか法則というものがあります。私たちは学校で、アルキメデスの原理とか、ボイルの法則など、いろいろ学びました。霊的な世界にも原理や法則があるのです。パウロはその大切な原理を発見しました。ローマ7章の後半を見るとどうでしょうか?21節には「私に悪が宿っている原理を見出す」とあります。23節「私のからだの中には異なった律法がある」「からだの中にある罪の律法」とあります。25節には「肉では罪の律法に仕えている」と書いてあります。ギリシャ語の聖書は全部、ノモスであります。ノモスは「原理、法則、律法」と訳されています。つまり、私たちの内側(肉)には、神の律法に逆らう別の律法があるんだということです。これをパウロは「罪と死の原理(律法)」と呼んでいます。

 では、肉の中にある「罪と死の原理」と相対するものとは何でしょうか?パウロは、それは「いのちの御霊の原理」であると言っています。私たちの肉は「神様の律法に逆らう」という原理を持っています。一方、御霊はどのような原理を持っているのでしょうか?ローマ8:2「罪と死の原理から解放した」とあります。解放とはどういう意味でしょうか?私たちの肉は、これから先ずっと、神の律法に逆らい、したいと思う善を行なわずに、かえってしてはならない悪を行ないます。しかし、どうでしょう。その原理に打ち勝つ力があるのです。それが、「いのちの御霊の原理」です。ウォッチマン・ニーの『キリスト者の標準』に、このように分かりやすく解説されています。引力の法則は、どのようにしたら無効にすることができるでしょうか。私のハンカチに関しては、この法則ははっきり作用しており、いつでもそれを下へと引っ張っています。しかし私がハンカチの下へ手をもっていきさえすれば、それは落ちません。なぜでしょう。引力の法則はなおも存在しているはずです。私は引力を処理したのではありません。事実上、私は引力の法則を処理することはできません。では、なぜハンカチは地に落ちないのでしょう。それは、そうなることを食い止め、支えている力が存在するからです。引力の法則は存在しますが、それにまさったもう1つの法則が、それに打ち勝って作用しているのです。つまり、それはいのちの法則です。もし私たちが鳥に、「引力の法則に恐怖を感じていませんか」と尋ねることができたなら、鳥はどう答えるでしょう。「私たちはニュートンという名前を一度も聞いたことがありませんし、その人の法則について何も知りません。私たちが飛ぶのは、飛ぶことがいのちの法則であるからです。」鳥の内側に飛ぶ力を備えているいのちがあります。つまり、引力の法則に勝たせるいのちの法則を持っているのです。それでも、引力は依然として存在しています。もし、地面の上に死んでいるすずめを見つけるとすれば、私たちはただちに引力の法則の永続性を思い出すでしょう。しかし鳥は、生きている間はそれに勝つのです。鳥が「飛ぶ」ということは、もはや鳥の意志の問題ではなく、いのちの問題なのです。

 ウォッチマン・ニーが言いたいことは、「私たちの中には肉の法則があるけれど、それをとどめるいのちの御霊の法則が働いている」ということです。では、私たちがなすべきことは何でしょうか?自分の力でもっと努力することでしょうか?そうではありません。御霊の法則の中に落ちることです。力を抜いて、御霊にゆだねることです。そうするなら、御霊ご自身があなたの中に働いてくださるのです。ハレルヤ!私は、せっかちな気持ち、汚れた考え、軽率なことば、批判的な思いを取り除いて、「自分を変えよう、変えよう」と努力してきました。それで、数時間は持つかもしれません。しかし、半日もすればケロっと忘れ、軽率なことを語り、せっかちな自分を発見します。「うぁー、イエス様のように聖くなろう」と、また努力します。しかし、そういう努力は肉に対してちっとも役にたちません。空しい努力です。私たちのすべきことは、私に欠けている聖さ、謙遜、柔和を作りだしてくださる御霊を仰ぐことです。自分の意思の力で自分をなんとかしようとしても無理です。そうではなく、御霊にゆだねて歩むのです。たとえば、あなたの心臓をあなたの意志で動かしているでしょうか?「自分の心臓の鼓動はどうだろう?ちゃんと休まないで動くだろうか?」と気にします。そうするとどうでしょう?あなたの心臓はとたんに不具合を生じるでしょう。心臓は私たちのどこか知らないところがコントロールしているんです。それを私たちの意思が横取りするならば、心臓はぎこちなくなるでしょう。私たちのすべきことは自分に集中することではなく、御霊に集中することです。そうすると、あなたの中にある御霊が働いてくださるのです。ハレルヤ!

 ガラテヤ人への手紙5章には「御霊によって歩みなさい」と書かれています。これは、未信者ではなく、クリスチャンに書かれている内容です。未信者には御霊が宿っていませんので、このような葛藤はありません。クリスチャンならではの経験です。せっかくクリスチャンになったのに、こんな戦いがあるのですか?あります。使徒パウロが7章で経験した、全く同じことがこのガラテヤ5章に書いてあります。自分の内側に肉と御霊との戦いが繰り広げられています。私自身の意思はどこに向けられるべきなのでしょうか?「こら肉よ、お前は怒ってはならない。御霊から忍耐をいただくように!」と命じるべきでしょうか?自分の意思が飛行場の管制塔のように交通整理をするのでしょうか?しかし、御霊によって歩むとはそういうことではありません。「主よ、私はこういう原因で怒ったのです。あの人があのように言ったからです。この怒りの感情はそこから来ているんです。でも、主よ、あなたがさばいてください。私自身は赦します。どうか私にあなたからの平安と寛容さを与えてください。主の御名によって祈ります。アーメン。」私たちは、日々、いろんなことがあります。怒ったり、悲しくなったり、混乱したり、あせったりするでしょう。そのときに、主と交わり、自分の状況を主に申し上げるのです。さらに、自分の思いと感情はこうなんですと申し上げます。すると、主は「なるほどそうだね。でも、あなたはどうすべきでしょうか?」「はい、あなたのみこころは分かっております。私はこうすべきだと思います。そうします。アーメン」。主にゆだねるのですが、丸ごとではなく、風呂敷から1つ1つ問題を取り出してゆだねていくのです。すると、自然に私たちは悔い改め、新しい道を歩むことができます。御霊によって歩むとは、御霊と一緒に交わり、導かれて歩むということです。御霊ご自身が私たちに意思を与え、思いを与え、そして命の道へと導いてくださるのです。御霊と親しく交わっていくと、やがて、それが自分の中に実として表れてきます。それが御霊の実なのです。ガラテヤ5:22「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」アーメン。

2.恵みによる歩み

 クリスチャンになって一番、陥りやすいのが律法主義です。律法と律法主義は違います。律法というのは神のさだめ、戒め、命令ですから、それ自体は悪くはありません。律法は、正しくて中立的です。問題なのは、私たちが「律法を守ることによって、神様に受け入れられよう」と努力することです。私たちは一度死んで、律法という夫から、イエス様という新しい夫と結ばれたはずです。にもかかわらず、律法があまりにも完全で立派なので、ふらふらと寄ってしまうのです。これは霊的な浮気であります。イエス様の恵みよりも、きまりや命令を重んじているからです。大体、律法主義には共通したセリフがあります。どういうものでしょうか?「聖書を読まなければならない」「伝道しなければならない」「祈らなければならない」「献金しなければならない」「罪を犯してはならない」「良い証を立てなければならない」。そうです。「…しなければ、ならない」というセリフです。昔、本田弘慈先生は、「…しにゃーならん、…しにゃーならん。これを猫信者という」とおっしゃっていました。どうでしょうか?みなさんの中に、そういう習慣があるでしょうか?スティーブ・マクベイという先生が、『恵みの歩み』という本でこのように教えておられます。「多くのクリスチャンは救われるために行ないは必要ないと理解しているものの、救われた後、信仰生活の勝利のためにそれが必要だと信じているのです。本当は信仰生活の勝利というものは報酬ではなく賜物なのです。神のために一生懸命行ないをもって努力している人は信仰生活で勝利を体験できないのです。聖書を読まなかったときはやるべき事をしなかったので、罪悪感を覚えました。律法は聖書を読みたくない気持ちを起させ、読まなかったときは罪の宣告をしたのです。奇妙に聞こえるかもしれませんが、聖書を読まなくてもいいということに気づいたとき聖書をエンジョイして読むようになりました。聖書をなぜ読むのでしょうか?みことばを通して神と交わりたいという願いがあるからです。恵みによる聖書研究はみことばの飢え渇きを造り出しますが、律法によるアプローチはやらなければならないという疲労感を残します。律法主義者だった頃は聖書を読むという義務感に縛られていました。しかし、今はそうしたいので聖書を読む自由があります。読まない自由を発見するまで、聖書を読む自由がありませんでした。」

 意味がご理解できたでしょうか?マクベイ先生は、長年「良い」クリスチャンになるためには、教会に出席し、聖書を読み、祈り、キリストを人々に伝えることなどをしなければならないと信じていました。これらの行ないは、クリスチャンにとって重要だと思います。でも、どこが間違っているのでしょうか?それらの行ないの真の目的は、イエス様と親しく交わることであります。私たちはイエス様と交わるために、教会に出席し、聖書を読み、祈るのです。でもそれを、義務にしたらどうでしょうか?「これをしなければ、神様に喜ばれない」としたら、律法主義に片足をつっこんでいます。何度も言いますが、神様はイエス・キリストの贖いを信じた私たちを喜んでおられます。私たちは肉によって神様を喜ばせることはできないし、喜ばせる必要もないのです。では、どうしたら良いのでしょうか?奉仕や伝道はしなくて良いのでしょうか?クリスチャンとしてやるべきことがたくさんあるでしょう?アーメン、あります。最も重要なことはこのことです。律法とは私たちが神さまのために何かをすることを意味します。一方、恵みとは、神様が私たちに何かをされることを意味します。では、律法から解放されるとはどういうことでしょうか?私たちがそれを行なうことを免除され、恵みにあって神ご自身がそれなされるということを意味します。私たちは神様のために、何もしなくて良いのです。私たちが肉によって何か努力しようとするなら、律法の罠に陥ります。では、どうしたら良いのでしょうか?私たちは神様ご自身に目を向けるのです。神様が私たちを通して、伝道したいのです。主役は神様で私たちはあくまでもその管であります。神様が私たちを通して、良い行ないをしたいのです。主役は神様で私たちはその手足です。ハレルヤ!イエス様はそのご生涯において何とおっしゃられたでしょうか?ヨハネ5:19「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」アーメン。イエス様は救い主でありますが、同時に、私たちの模範であられました。イエス様が御父にいつも、お聞きしながら歩まれました。「自分からは何事も行なわない」とは、私たちに言われれば「肉によっては何事も行なわない」ということではないでしょうか。イエス様は自分の神としての力ではなく、御父の力と導きによって、この地上を歩まれたのです。同じように、私たちはイエスの御霊に聞き従って歩むべきであります。これが、恵みによる歩みです。

 当教会に、インディアンのメルボンド先生が来られたことがあります。先生は、天に引き上げられ、イエス様とお会いした人物です。イエス様が先生に、「これこそが教会の成長を妨げている最も悪いものである。それは律法主義である」とおっしゃったそうです。うぁー、律法主義、これはぜがひでも避けなければなりません。「なりません」と言うと、律法になるかもしれません。丸屋真也先生も律法主義には口をすっぱく、注意しておられます。律法的に「こうあるべき」「こうでなければならない」と、律法的な信仰に進むと、もっとしなければならないと思うようになる。「あかしをもっとしなければならない」という律法的なアプローチをする。「あー、自らの方法で、職場のだれかに、あかしを正しくしなければならない」と思う。もっとしなければならないと思う。そして、私たちは祈り、救われるように、より良い証ができるように、具体的に誘うことができるように計画する。思い切って、声をかける。しかし、家族、友人、職場においてうまくいくかどうかは分からない。なかなか、それで結果が出るだろうか?全体として、証をするとき、うまくいかないことが多い。自分の信仰がまだまだダメなんだと罪悪感を覚える。さらに祈って、次にチャレンジをする。必ずしもうまくいくわけではない。証をして、何百回して、限られた人しかクリスチャンにならない。そんなに多くはいない。しかし、「なんとなく信仰者としてダメかもしれない」と罪悪感を覚える。律法的な姿勢で何回も繰り返す。だれかが救われる。「自分がこうしたから」と自分を誇る。周りの人もそれを律法的に受け止める。律法的になればなるほど、罪が増してくる。「自分はまだダメなのかな?」「もっと聖書を読まなければ」「いろんなものをしなければ」。ある人は、わりと考えているほどうまくいかない。あまり触れたくないので、自分でできること(奉仕)に熱心になる。罪悪感は表に出ないかもしれない。しかし、この罪悪感が深いところで居座る。意識していなくても、心の中にある。「何かしなければ、こうでなければ」。その罪悪感がふっと出てくる。それは、霊の世界ではない。私たちの精神的、心理的なものである。

 私も牧師として、一ヶ月間、どう過ごしたら良いでしょうか?毎月、聖務表というのが作られます。いろいろ、スケジュールを立てて、埋めていきます。でも、そんなに毎日、忙しいというわけではありません。ゴスペル、コーチング、勉強会、説教準備、たまにだれかと面談します。ある人は、「牧師先生って楽だよね。日曜日、説教すれば良いだけだもんね。それで一か月分の給料もらえるんだから」と言うかもしれません。私も何度か間接的にそういうことを聞いたことがあります。ですから、あるときは一生懸命、何かスケジュールを入れて、忙しそうにふるまいました。「あの人のところに訪問しよう。この人にコンタクトを取って伝えよう」と追い立てられるように生活していました。いわゆる業績思考、パフォーマンス思考でした。しかし、あるときから「牧師は忙しくしてはいけないなー」と思いました。何か相談事があっても取り付く島がないというのは困りものです。でも、人のお世話に日夜、ふりまわされるような牧師も問題だと思います。今は、私は人からではなく、神様の御目で「お前は、忠実にやっている」と評価されたらそれで良いじゃないかと思っています。牧師として一番重要なのは、忙しく動き回るのではなく、神の御声を聞いて、霊的な洞察力、創造性、方向性をいただくことであると確信しています。ですから、私もあるときから律法主義から解放され、主体的に生きることができるようになりました。みなさんはいかがでしょうか?周りの必要から動かされているでしょうか?あるいは、心の中からくる「あれもしなければ、これもしなければ」という義務感で生きているでしょうか?もし、そうであるならばそれは律法主義の中にいます。

私たちはこの世において、自分がすることと他人がすること、そして、神様がすることの境界線(バウンダリー)を持つ必要があります。境界線を犯してまで、人のことに首をつっこんだり、人をコントロールしたりしてはいけません。ある人は神様をコントロールする人もいたりします。それは、恵みの歩みと反するものです。恵みの歩みというのは、ある意味では、神様がなさる分と自分がする分の境界線をはっきり理解することであります。「ああ、これは神様のなさることだなー」と思うなら、神様にゆだねるべきであります。もし、神様があなたに「これをすべきですよ」と促すならば、「はい、聖霊様、一緒にまいりましょう。どうか私の力となってください。アーメン」と祈れば良いのです。恵みの歩みをしている人は、寝るときや寝て、休むときは休みます。詩篇127:2「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」アーメン。また、恵みの歩みをしている人は、あまり思い煩いません。Ⅰペテロ5:7「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」アーメン。昔の私は歯を食いしばり、「ちくしょう、ちくしょう」と、生き延びるために生きてきました。私の中の原動力は怒りであり悲しみでした。しかし、今は神様の深い愛と恵みの中で生かされています。主は私を忠実な者と見ておられます。だから、それに喜んで応えたいと思います。みなさんの人生、それぞれ神様から与えられた人生があると思います。恵み深い主は最もあなたが最も満足するような愛し方で、あなたを満たしてくださいます。