2010.04.25 召された目的 マルコ3:13-15、16:15-18

前回は、キリストの弟子とは、くびきを負って従っていく必要があることをお話ししました。では、私たちはどのようなくびきを負うべきなのでしょうか?私たちはかつて罪の中にいました。ところが、恵みによって救われました。その後、癒しと解放を受けました。神様は、今度はあなたを通して、他の人々が救われ、また癒しと解放を受けるよう願っておられるのではないでしょうか?イエス様は「受けるよりも与える方が幸いです」と言われました。不思議なことに、人の世話をするとき、自分が成長します。人から受けているだけでしたら、成長しないのです。ある人は「十分成長してから、人々のお世話をします。まだまだ私は力不足です」と言うかもしれません。でも、「自分が十分に成長してから」だとしたら、そういう時は一生来ないかもしれません。きょうは、「召された目的」と題して、キリストの弟子としてどのようなことをすべきなのか学びたいと思います。

1.召された目的

イエス様の地上での使命はどういうものだったでしょうか?福音書から分かりますが、第一は福音宣教、第二は悪霊を追い出し、病を癒すことです。第三は人々を教えるということです。教えるとは、おもに弟子たちに教えるということです。群衆にはたとえで語りましたが、弟子たちにはその奥義を教えてあげました。イエス様の地上での公の時間は、たったの3年半でした。ですから、イエス様は弟子たちを召し集め、彼らにご自分の働きを伝授しました。それは、ご自分の働きを彼らに継続・拡大させるためです。マルコ3:13-15「さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」とあります。呼び寄せる、つまり召し集めるとはどういう意味でしょうか?昔、王様が自分の国を治めるために、国民の中からある人たちを召し集めました。集められた人たちはいわば大臣(公僕)であります。そして、ある大臣には軍事の領域に仕えるように、ある大臣には経済の領域に仕えるように、ある大臣には教育の領域に使えるように任命しました。王様が、そのように召した人たちを、ギリシャ語ではエクレーシアと言います。エクレーシアはやがて、教会ということばに置き換えられました。神の国の王である神様も、ご自分の国を治めるために、クリスチャンを召しておられるのです。ですから、みなさんは救われて天国に行くだけではなく、この地上において神の国を広げるために、何らかの使命があるということです。もう一度繰り返します。イエス様が12弟子を召し集めたのは、ご自分がしていることを任せるためでした。つまり、福音宣教、癒しと解放、教えの3つができるように、弟子たちを養成したのです。

ここで、問題になるのが「私たちが12弟子と同じか?」ということです。「イエス様は12弟子に、これらのことをするように命じたけど、私たちは平信徒、ただのクリスチャンじゃないか」と言うかもしれません。もう、ここから間違っています。使徒と呼ばれる12弟子と私たちクリスチャンの違いは1つだけです。使徒たちはキリスト様と一緒に生活し、教えを受け、十字架と復活を見ることができました。そして、イエス様から受けた教えと目撃したことを聖書に書いて残しました。残念ながら、私たちはイエス様を直接、見てはいません。でも、12弟子たちに与えた使命と私たちクリスチャンに与えた使命は同じです。もしも、「そうではありません。私たちと彼らとは違います」というなら、使徒性を欠いた異端の教会です。私たち教会は、キリストを信じるだけではなく、使徒たちに与えた命令をも受け継いでいるのです。マルコ16章の終わりに何と書いてあるでしょうか?マルコ16:15-18それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」この命令は使徒たちだけに与えられたのではありません。私たち、すべてのクリスチャンに与えられた命令でもあります。ここには2つの命令があります。第一は福音を宣べ伝えることです。第二は悪霊を追い出し、病を癒すことです。ここには「信じる人々には次のようなしるしが伴います」と書いてあります。「牧師や伝道者だけに」とは書いてありません。キリストを信じるすべての人ができるということです。また、マタイ28章には「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい…彼らを教えなさい」と命じられています。マタイ28章には、「教えよ」という第三番目のことが命じられています。この命令も、すべてのクリスチャンに対する命令であります。

イエス様はこの3つのことを弟子たちが実際に行なえるように、何度か彼らを遣わしました。マタイ10章には二人一組で彼らを遣わしたと書いてあります。またルカ福音書には70人の弟子たちを遣わしたとも書いてあります。イエス様の教え方は、教室でやるような教え方ではありません。少し教えたら、「実際の現場でやってみなさい」と派遣しました。つまり、イエス様は頭ではなく、体験的に学ばせました。弟子たちは、あるとき、悪霊を追い出すことができませんでした。イエス様は「それには祈りと断食が必要だ」と教えました。このように、弟子たちは失敗を通しても学びました。しかし、中世の神学校は西洋の哲学的なスタイルを取り入れました。それがプロテスタント教会にも受け継がれています。教室の中に生徒たちを3年か4年間、入れてありったけの知識を詰め込みます。一定のカリキュラムを終了したら、学位を与えます。確かに、生徒たちは神学的な知識はいっぱいになったかもしれません。しかし、実際の現場で適用できないのです。なぜなら、適用の仕方を現場で教わらなかったからです。逆に、膨大な知識がじゃまになり、恐くてできないのです。知識が増すと、恐れも増すのです。神学校に入る前は、熱心に伝道したかもしれませんが、神学校を卒業した頃は、もう人が恐くて伝道ができないのです。なぜでしょう?現場でトレーニングを受けていなかったからです。イエス様の教え方は、on the job training 、現場で教えたのです。イエス様が道を歩いていると、律法学者たちから難問をふっかけられました。そのとき、イエス様が神からの知恵によって答えました。弟子たちはそれを見ていました。イエス様のもとに大勢の人たちが病の癒しを求めてきました。弟子たちはどう癒すのか見ていました。そして、次回からは、自分たちでやってみました。あるときはイエス様から「5000人の人たちに食物を与えなさい」と言われました。彼らは「そんなことはまだ、教えられていませんよ。とんでもない」と思ったでしょう。イエス様は、5つのパンと2匹の魚を手に取って祝福しました。弟子たちはイエス様の手から、増えたパンと魚を取って群衆に渡しました。そこで、弟子たちは、イエス・キリストがいのちのパンであり、このお方を通して人々を養うことができると分かったのです。

私たちと12弟子とは、使命は同じです。私たちもイエス様によって召された者であり、同時に使命があるのです。召された以上は、イエス様の使命をも受け継ぐべきであります。第一は福音宣教、第二は病の癒し悪霊の追い出しです。第三は教えることです。「えー?そんなことは、牧師や伝道者、フルタイムの献身者がすることでしょう?」そうではありません。あなたもクリスチャンであったなら、キリストから召された者であり、使命があるのです。違いはフルタイムでそれをするか、それともパートタイムでそれをするかです。そのためにはどうしたら良いでしょう?まず、あなたが、現在、遣わされたところで、3つのことをすべきです。あなたはキリストの弟子として家庭に派遣されています。あなたはキリストの弟子として会社に派遣されています。あなたはキリストの弟子として学校に派遣されています。あなたはキリストの弟子として地域社会に派遣されているのです。あなたはだれかに福音を伝え、だれかの病を癒し、だれかを教えているでしょうか?もし、その働きが一般の仕事よりも大きくなったならば、フルタイムでそれをする人になれば良いのです。大事なのは、実が現れてからフルタイムの牧師になるということです。ある牧師たちは、実が十分見えていないのに、神学校へ行って牧師の免許を取ります。そして、どこかの教会のフルタイムの牧師として招聘されるかもしれません。でも、牧師になる前に伝道したり、人を教えたりしなかった人が、牧師になってからできるでしょうか?十分な賜物と召命がないのに、牧師になったら行き詰まってしまうのは当然です。ですから、まず、あなたが、現在、遣わされたところで、それらをすべきです。イエス様は山上の説教で「あなたがたは地の塩です。あなたがたは世界の光です」と言われました。イエス様は「地の塩、世の光になれ」とは言われませんでした。クリスチャンであるならば、すでに地の塩であり、世界の光なのです。ですから、程度の差はあれ、遣わされたところで、3つのミニストリーは可能なのです。

2.あなたのミニストリー

前半は、神学的で少し抽象的でした。後半は、あなたのミニストリー、あなたの奉仕とか使命は何かということです。「私たちは具体的に何ができるか?」ということです。私たちは、何をしたら良いのでしょうか?何ができるのでしょうか?そのヒントとなるものがいくつかあります。第一は、「あなたがどこから救われたか?あなたはどのようなところから癒され解放されたか?」に関係があります。神様は訳あって、あなたが苦しいところを通ることを許されたのです。今度、神様はあなたが負ってきた傷や問題を、ご自身の栄光のために用いたいのです。アルコール依存症から解放された人は、アルコールで苦しんでいる人たちを助けることができます。離婚を通った人は、離婚で痛みを覚えておられる人たちを助けることができます。劣等感から解放された人は、劣等感で悩んでいる人を助けることができます。私のように父親の虐待を受けた人は、虐待の傷を負っている人を助けることができます。子育ての悩みから救われた人は、子育てで悩んでいる人を助けることができるでしょう。あなたは全部の人たちを助けることはできないかもしれません。でも、少なくとも、自分と同じような苦しみを負った人に対しては専門家なのではないでしょうか?このことを李光雨先生は「逆転勝利」と言われました。それは、あなたの傷が役にたつということです。ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」アーメン。つまり、あなたが何に召されているか?それは、自分がどこから救われたのか?ということと関係があるということです。CSで、子どものときに救われたのだったら、CSの重荷があるかもしれません。青年のとき救われたのであったら、青年に重荷があるかもしれません。音楽関係で救われたのでしたら、音楽を通して伝道することに重荷があるかもしれせん。大切なのは、人と比べないことです。大きいか、小さいかも問題ではありません。それぞれの人たちが、それぞれの経験をしてきました。教会にはいろんな人たちがいます。それは、いろんな人たちに福音を届けることができるためです。どうぞ、自分自身の召命と使命を発見してください。

 第二のヒントは「それをやっていてとても好きだ」ということです。別な言い方をすると、「それをしていて、疲れない。いつまでもそのことをしていたい」というものです。多くの場合、神様がすでにあなたに与えておられます。ただ、あなたは頭からそれを否定して、開発してこなかったのかもしれません。イギリスのブリストルの出身でポール・ポッツという人がいます。幼い頃から家が貧しく顔立ちがあまり恵まれず、それ故に周囲からいじめられ続けていました。10歳から教会で聖歌隊として歌い始めました。彼は2003年(33歳の時)、自転車で出勤中に交通事故に遭い、鎖骨を骨折しました。そのため、むち打ち症にも悩まされていました。退院すると莫大な治療費の請求が来たため、妻の反対も押し切って歌のレッスンを辞め、所属していたアマチュアのオペラ劇団も退団しました。彼は携帯電話のセールスマンとして働きました。歌からは4年間遠ざかっていましたが、2007年、妻の後押しもあり、イギリスで放映されているタレント発掘オーディション番組へ出場を決意しました。これで駄目なら歌は諦める覚悟で臨みました。彼はすごく恥ずかしがり屋で、自ら「私にとっての一番の葛藤は自信が持てないことです」と言っていました。審査員が「きょう、あなたは何を歌ってくれるのですか?」と聞きました。彼は「オペラ」と言いました。3人の審査員が意外な顔をしながら「まあ、いいですよ。歌ってください」と言いました。彼が歌い始めたらどうでしょう?審査員は「これはどうしたことか」と唖然。最後は観客も総立ちになりました。ある審査員は「鳥肌が立った」と言いました。もう一人の審査員は「ダイヤモンドの原石を見たようだ。だれにも、ダイヤモンドがあるんだ」と言いました。彼がアルバムを出したら、すぐ200万枚以上売れました。ここで私たちが学べるのは、人は外形によらないということです。一人ひとりのうちに神からのダイヤモンドが備わっているのです。

 第三のヒントは、人々もあなたの賜物を認めているということです。これは第三者による評価ということです。「あなたは良い声していますよ」「あなたはとても思いやりがあります」「あなたは細かい作業ができます」「あなたのケーキはとても美味しいですよ」…何か1つぐらいはあると思います。学校では、不得意の科目が目立ちます。でも、得意な分野も結構あったのではないでしょうか?神の国では必ずしも、一流でなくても良いのです。私は家族みんなから「お前は不器用だ、不器用だ」といわれて育ちました。18歳で工業高校を卒業し、高速道路の現場に配属されました。自分たちの工区が5.5キロくらいありました。そこに、100メートル毎に、看板を書く作業がありました。「鈴木がうまい」と言われ、50枚くらい書いて、それを立てました。また、座間キリスト教会の大川牧師から「鈴木君は絵が上手だ」と言われ、コンサートのたびごとに大きな看板を描かされました。プロではありませんが、それなりに用いられたのです。どうでしょうか?他の人から「あなたにはこういう賜物がありますよ。こういうことが得意ですね」と言われたものが1つや2つはあるでしょう。そこに、神様の賜物と召命があるかもしれません。

 第四のヒントです。ローマ12章にあります。ここには7つの資質の賜物が記されています。これは生まれつきの賜物ではなく、聖霊によって新しく生まれたときに与えられた賜物です。賜物というよりも動機です。神様は、あなたに何らかの動機を与えておられます。ローマ12:6-8「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。」主のからだなる教会には、預言、奉仕、教える、勧める、分け与える、指導、慈善の7つ賜物が与えられています。これは、Ⅰコリント12章の御霊の賜物とは別な基本的な賜物です。この7つの賜物は、クリスチャンであるなら、もれなく与えられています。「預言」は、旧約の預言者のような気質を持っています。ものごとを善か悪、正しいか正しくないか分けたがる傾向があります。主の体の目です。聖書ではバプテスマのヨハネとペテロがそうです。「奉仕」は目に見える兄弟の必要(物質的な必要)に非常によく気がつき、率先してそれを行ないたいと思う人です。主の体の手です。聖書では、パウロに仕えたテモテがそうです。「教え」は、真理を探究し、それを伝えることを好む人です。ものごとを、「真理か偽りか」見分けたがる傾向があります。主の体の頭脳です。聖書ではルカやエズラがそうです。「勧め」は、他の人が勝利の生活を送れるように勧めることを好む人です。この人の関心事は人々の霊的状態です。主の体の口です。聖書ではバルナバとパウロがそうです。「分け与える」は、他の人の益になるような資力(お金、持ち物)を惜しみなく与える人です。神様の入り用に備え、ささげる心の動機があります。主の体の腕です。聖書ではアブラハムとマタイがそうです。「指導」は、組織だて、導き、指導することを好む人です。群れを目標までどういうふうに導くかに関心があります。主のからだの肩(権威を表わす)です。旧約聖書のヨセフとネヘミヤがそうです。「慈善」は、必要な人に愛とあわれみと思いやりを示す人です。傷ついている人や弱い人や小さな人に関心があります。主のからだの心臓です。聖書ではルツと使徒ヨハネがその人です。

 私たちは生まれた瞬間ある程度の気質や能力が備えられています。それと同じように御霊によってクリスチャンとして生まれたときも、御霊の気質と能力が与えられるのです。神様は、「その賜物によって、キリストのからだなる教会に仕えるように」と召しておられるのです。ですから、生まれつきはそうでもなかったけど、クリスチャンになってから急に、「こういうことに興味がわいてきた。こういうことに重荷や使命を感じる」ものはないでしょうか?聖書にはタラントのたとえが書いてあります。主人が、ある人には5タラント、ある人には2タラント、またある人には1タラントを預け、それで商売するように命じました。5タラントの人は自分の能力に応じて5タラントをもうけました。2タラントの人は、自分の能力に応じて2タラントをもうけました。1タラントの人はどうしたでしょうか?おそらく、5タラントや2タラント預けられた人をねたんだのかもしれません。それで、自分のタラントを地面に埋めました。そして、主人が帰ってきたとき、そのまま返しました。主人は彼に対して「悪いなまけ者のしもべだ」と叱って、そのタラントを取り上げました。1タラントは今日でいうと、6000日分の給与ですから、決して少ない額ではありません。彼が1タラントもうけたら彼らと同じように「よくやった。良い忠実なしもべだ」と言われたでしょう。いや、彼が一生懸命やって、その1タラントをなくしたとしても、「良い忠実なしもべだ」と言われたに違いありません。私たちはこの世にあって、神の国をもたらすように召し集められた存在です。どうぞ、この世の生活だけではなく、神の国のためにも自分の能力と資源を投資してください。今、持っているものに忠実であるならば、主はもっと多くの物をあなたに任せてくださるでしょう。主は、「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたはわずかな者に忠実だったから、あなたにたくさんの物を任せよう」と言ってくださいます。