2010.03.07 聖書の世界観 Ⅰコリント13:8-13 

世界観ということばをお聞きになったことがあるでしょうか?それは「めがね」のようなものであります。あるものはちゃんと見えるけど、あるものは歪んで見えます。あるものは入ってきますが、あるものはフィルターにかけられて見えないのです。しかも、それが無意識的に行なわれているのです。パウロが「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ています」と言っているのと同じです。私たちは、真実(現実)を完全に把握することはできません。その人が育った文化的な背景が多大な影響を与えているからです。人々が真実(現実)をとらえるときに、そのとらえ方の根底にある前提条件を世界観と言います。西洋の人たちには西洋の世界観があります。東洋の人たちには東洋の世界観があります。しかし、私たちは聖書の世界観を持つべきであります。

1.西洋の世界観

 西洋の世界観に多大な影響を与えたのは、17世紀にイギリスで興った「理神論」です。理神論とは、「神様がこの世界を創造したとき、世界がひとりでに動くように法則を与えた。今は、神様はこの世に対して干渉しない」という考えです。だんだんと科学が発達し、この世界のことがすべて証明できるようになりました。医学も発達し、薬や手術で病気が治るようになりました。もはや、祈りなどというのは時代遅れです。産業も発達し、別に神さまに頼らなくても、生きていけるようになりました。彼らはこのように考えました。「目に見えるものだけが真実(現実)であり、目に見えないものは存在しないんだ。人間のあらゆる問題は、理性で解決できる。理性に合わないものは除外するしかない」と考えました。そして、聖書に対する見方も変わりました。「人間には霊があるといわれてきたけど、本当は他の動物となんら変わりない。死んだら無になるんだ。聖書に記されている、悪魔とか悪霊とか天使などは迷信であり、そういうものは存在しないんだ。奇跡や病気の癒しだって本当かどうかわからない。神話かもしれないし、作り話かもしれない。当時は文明が発達していなかったので、そのように描写するしかなかったんだ」。このように考えるようになりました。

では、宗教はなくなったのでしょう?宗教は相変らず存在していました。彼らはそれでも、神さまを信じていたのです。「神さまは宗教の世界であり、私たちが住んでいる現実の世界とは違う。宗教の世界は、目に見えない精神的なものを扱う。だから教会では、神さまを礼拝し、祈りをささげても良い。でも、自分たちが住んでいる物質的な世界は、科学や理性が支配している」と、言うでしょう。もし、公共の場、たとえば学校教育や政治に宗教を持ち込むならどうでしょう?それはノーです。「宗教は宗教の世界でやってください。公共の場ではいけませんよ。人には信仰の自由がありますので、押し付けてはいけませんよ」と言うでしょう。この考えは、世界中、どこにでもあるのではないでしょうか?でも、彼らの中に矛盾が生じました。「聖書を見ると神さまは祈りに答えてくださると書いてある。聖霊がおられて、私たちを助けてくださると書いてある。私たちは教会で祈りを捧げる。でも、本当に神さまは答えてくださるのだろうか?聖霊の導きというものが本当にあるのだろうか?いや、それは精神的なものであって、実際は私たちが努力しなければならないんだ。祈っただけでは状況は変わらない。祈りも必要だけど、実際は、私たちが考え、努力しなければならないんだ。天は自ら助くる者を助く、自力で努力する人には天が援助を与えるんだ」ということです。どうでしょうか?どこかおかしいと感じませんか?この考えは、自分が一生懸命やって、そのあと「神さまの助けがあれば幸いだなー」ということです。ひょっとしたら、その助けがないかもしれません。

まとめてみますと、西洋の世界観とはこういうものです。神さまがおられる宗教的な領域と科学で証明できる自然の領域の2つに分けたということです。奇跡(超自然的なこと)はたまには起こるかもしれないが、めったには起きないということです。西洋の世界観の欠点は、霊的な世界、つまり中間層が全く排除されていることです。だから、科学で証明できない、悪魔、悪霊、奇跡、預言、病気のいやし、聖霊の導きさえも、排除してしまいます。実はこの考え方は、キリスト教会にも多大や影響を与えました。キリスト教はイスラエルに始まり、ヨーロッパ、そしてアメリカに渡りました。戦後、日本に入って来たキリスト教は、欧米の衣を着たキリスト教であります。「欧米か?」であります。このことは最後に詳しくお話します。

2.東洋の世界観

一方、東洋の世界観とはどういうものなのでしょうか?西アジア、東南アジア、インド、中国、韓国、日本であります。東洋人はアニミズム的な世界観を持っています。アニミズムは、精霊崇拝ともいいますが、すべてのものに霊があるという考えです。「山、樹木、岩にも霊が宿っている。動物の霊、死んだ人の霊(先祖の霊)、悪霊、さまざまな霊がいる」と言うのです。では、神さまはいるのか?彼らは天地を造られた神という概念をあまり持っていません。もちろん神さまを信じてはいますが、あまりにも遠くはなれているために、地上のことには関与していません。ですから、霊の世界の存在は、地上で生きている人たちが支配しなければならないのです。だから、霊の世界を支配する特別な賜物を持ったシャーマンを用意します。彼らは魔術とか魔法、特別なことばや霊力によって、霊の世界をコントロールします。日本では、祈祷師、拝み屋、霊媒師、霊能者、陰陽師(おんみょうじ)、いたこ、ユタ…いろんな人たちがいます。日本人の多くは「自分たちは学問をした知的な人たちであり、迷信なんか信じない」と言います。しかし、会社にスーパーコンピューターを設置するときは、神主を呼んで御祈祷してもらうそうです。家を建てるとき、子どもが生まれたとき、七五三、入学試験、厄年になったとき、お世話になったという人はいるのではないでしょうか?野球でもそうなんですね。シーズンが始まる前に、監督、選手たちが総出で、御祈祷を賜るんじゃないでしょうか?私はやめてくれと思っていますが、毎朝、テレビに「きょうの占い」というのが出てきます。日本はまさしく、アニミズムの世界です。

では、東洋のアニミズムの欠点は何でしょうか?まず、絶対者なる神様がいません。いたとしてもそれは諸霊であります。死んだ人が神になったり、動物が神になったりします。つまり、最上階の絶対的な世界が欠落しているということです。そして、見えない霊の世界と物質的な世界の境目があいまいだということです。山や石、樹木、死んだ人の霊、諸霊がここにも飛び交っているということです。霊たちと一緒に生活していると言っても良いでしょう。テレビでやっていましたが、「家の中で変な物音がする、なぜだろう?」と霊能者を呼びました。霊能者は「ああ、この家は霊たちが行き来する通り道になっています。家を建て替えるか、何か特別なことをしなければなりません」と言っていました。アニミズムの考え方からは、科学や医学、産業は発達しません。なぜなら、物質と霊とは別の法則があるということを受け入れないからです。たとえば、彼らはこの世における物質は影であり、霊魂が永遠なんだと考えます。物質よりも霊魂に関することが大事なのです。ですから、僧侶たちは世俗と離れて暮らします。一昔前、インドでは「天然痘はマイサンマという神が怒っているんだ、怒りをしずめるために水牛を捧げなければならない」と考えていたそうです。しかし、天然痘のワクチンが入ってからその病気はなくなりました。農業においてもさまざまな祈祷を捧げます。でも、肥料や様々な技術によって、2メートルものとうもろこしが作られるようになりました。

アニミズムの考えはイスラム教、仏教、神道の中にも入り込んでいます。現在は、ニューエイジという危険な宗教が盛んですが、それは欧米の衣を着たキリスト教に力がないからです。西洋の世界観を持つ人たちは、そういう奇跡や超常現象を見ると、コロッとひっくり返って、彼らの言う神様を信じてしまうのです。なぜなら、東洋のアニミズム、霊の世界に対して抵抗力がないからです。アニミズムの人たちは、事故に会うのも、病気になるのも、何かの霊のせいではないかと恐れます。物質的な考えがないので、全部、霊のせいにしてしまうということです。彼らはこの世界を科学的に見ることができません。

3.聖書の世界観

さて、やっと本論に到達しました。みなさん、キリスト教の発祥地、パレスチナ(イスラエル)はどこにあるでしょうか?本当はアジアにあるのです。みなさん、あそこは西アジアなんです。不思議なことに地球儀を見ると、3つの大陸のおへその部分に位置します。南に行けばアフリカ大陸、東に行けばアジア大陸、そして北に行けばヨーロッパ大陸です。キリスト教の主流は、パレスチナからヨーロッパに渡り、それから南北のアメリカ大陸、そのあとアジアとアフリカに渡りました。でも、みなさん、聖書が書かれたのは、アジア地です。ですから、当然、夢や幻、預言も信じられていました。預言者たちが、隠れたことや未来のことを預言しています。奇跡もバンバン起こりました。私たちは、奇跡を超自然的出来事として区別しますが、神様にとっては奇跡と一般の区別はありません。神様は、ご自分が造った法則を尊重していますが、それを変えたり、早めたり、遅くしたりすることが可能なのです。なぜなら、神さまは目に見える世界と目に見えない世界の両方の支配者だからです。新約聖書を見ると、イエス・キリストが病を癒し、悪霊を追い出しました。悪魔(サタン)も登場し、ユダが彼に入ったと書いてあります。ヨハネ黙示録では、悪魔は火の池に投げ入れられると書いてあります。では、霊だけでしょうか?そうではありません、聖書は物質のことも書いてあります。聖書の神さまは宇宙、万物、そして私たちをも創造されました。すべてのものが良かったと言われました。つまり、物質や肉体は悪ではなく良いものです。人間は霊魂もありますが、物質や肉体も必要なのです。キリスト教の救いの完成は復活にあります。アニミズムは霊魂だけですが、キリスト教は死んだ肉体が復活することによって救いが完成します。そして、イエス・キリストが天の御住まいに(豪邸に)私たちを迎え入れてくださるのです。ハレルヤ!

では、聖書の世界観とはどういうものなのでしょうか?聖書の世界観は3層あります。まず、は天の御座には、神さまとイエス様がおられます。パウロはそこを第三の天と言いました。ロケットが行く天ではなく、もっと次元の異なった世界です。神さまは今もこの天と地を保持しておられます。そして、イエス様が御国の権威を教会に与えています。その下には中間層があります。そこには御使い(天使)が働いています。天使長や大天使、天の軍勢もいます。さらには悪魔とその手下である悪霊どもがいます。国の上を支配し、文化や宗教、政治にも影響を及ぼしています。個人個人の中に働く悪霊もいます。悪魔は未信者に対してどのようなことをするでしょうか?悪魔は偽りの父と呼ばれていますので、悪魔の策略はあざむきであります。未信者に対して、「人生において完全になるために、十字架以外に道がある」と言います。そして、キリストの十字架以外に代わるもの、他の宗教、哲学、物質主義、異端を持ち込みます。キリストの救いから離しておけば、悪魔の支配下にあるので、未信者のことは心配しません。でも、目ざわりなのはクリスチャンたちです。悪魔は神さまにははむかうことはできませんが、その代わり、神の子たちを攻撃します。クリスチャンが神の栄光を現して、未信者たちに影響を与えるのが一番困るのです。悪魔と悪霊は、未信者よりも、クリスチャンの方に誘惑や問題を持ってきます。今、あなたがた抱えておられるトラブルはどうでしょうか?それは人間や出来事だけではなく、背後に悪魔が働いていると考えるべきです。エペソ6:12「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」

では、私たちの地上の世界、物質の世界はどうなのでしょうか?確かに、私たちの上には悪魔や悪霊の妨げがあります。でも、神さまは私たちに助けの手を伸べてくださいます。西洋の世界観はこの世界と神さまのとの間に断絶がありました。しかし、そうではありません。神さまがご自分が望むなら、いつでもこの世界に救いの手を差し伸べることができるのです。その第一の手段は聖霊であります。聖霊は神の霊として私たちのところに来られ、私たちを導き、私たちを助けてくださいます。第二の手段は御使いです。ヘブル1:14「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか」とあります。今も、数知れない御使いたちが、私たちのために働いておられるのです。しかし、御使いは私たちの言うことには従わないし、聞くこともしません。御使いはただ、神さまだけの方から、一方通行的に来るのです。私たちがすべきことは、主イエス・キリストの御名によって父なる神様に祈ることであります。だから、御使いのことは意識しなくても良いのです。私たちが父なる神様との関係が正しければ、神の守りがあるということです。また、神さまは創造主として、物質世界にも一定の法則を与えました。数学、物理、化学、生物、経済、芸術…それぞれの世界に法則や原理があります。ですから、アニミズムのように何でも悪霊と関係があるとは考えてはいけません。何か問題が起こるのは、それなりの原因があるのです。たとえば病気になったとします。すべての病気は悪霊のせいではありません。不摂生が原因であったり、ストレスが原因かもしれません。私たちは怪我や病気を治すために、医者や薬に頼っても良いのです。なぜなら、それは神さまが与えてくれた一般恩寵だからです。でも、そのときに祈って医療を受けるのと、祈らないでい医療を受けるのとではぜんぜん違います。アメリカのある大学でテストしたそうです。クリスチャン100人に、「A病棟の人たちのためにお祈りください、でもB病棟のためにはお祈りしなくても良いです」とお願しました。彼らは顔も名前も知らない人たちのために、1ヶ月間、一生懸命お祈りしました。するとどうでしょう、がぜん、A病棟の人たちの回復率が良かったということです。

4.私たちの聖書の見方

アジアの私たちに伝道してくださったのは欧米の宣教師たちです。「欧米か?」日本は宣教国であり、その人たちに心から感謝しなければなりません。でも、欧米のキリスト教は神さまとこの現実の世界を信じていますが、中間層という霊の世界が欠落しています。奇跡や病いの癒しはめったには起こらないんだという考えがあります。また、聖霊に関しては頭では理解していましたが、実際、私たちの信仰生活でどのように働くのか体験がありません。そういう人たちが、日本に教会を開拓し、日本の教会を指導したのです。当然、教えられた私たちも、西洋の世界観、西洋のメガネで聖書を解釈してしまいます。冒頭で、Ⅰコリント13章をお読みしました。実はⅠコリント12章と14章は聖霊の賜物について書かれている箇所です。その12章と14章の間に、13章の内容が記されています。西洋の世界観でこの聖書を見るなら、13章の愛だけが最も重要であり、12章と14章は付随的なもの、あまり大事なものでないと思われてしまいます。今から20年前に、いのちのことば社から「注解・索引付、チェーン式聖書」が発行されました。ページの下の段に、簡単な解説が載っています。Ⅰコリント13:11をこのように解説しています。「キリストが再臨していない、現在の不完全な時代には、成長の段階がある。キリスト教会の発達当時は、まだ未成熟の時代であり、教会の成長と各章のために、目を見張るような、御霊の賜物による働きが必要であった。しかし、新約聖書が完成した今は、そのような賜物の必要は消えた」と書いてあります。だれが書いたか分かりませんが、これはかなりの問題発言です。これはディスペーショナリズムという時代を区分的に分ける神学から来ています。聖書が完成したので、聖霊の賜物、異言や預言、癒しも終ったという考えです。

1966年から奥山実先生がこの様な神学で、インドネシアに宣教にでかけました。当時、インドネシアではリバイバルが起こっており、悪霊追い出しや奇跡が日常茶飯事でした。「悪霊などいない」と神学校で教わってきたのにとんでもない。「使徒の働き」は現在も続いているとはっきりわかったそうです。そうです。福音派の教会は、聖書は神の霊感によるもので誤りがないと信じています。しかし、西洋の世界観で、聖書を読んでいるので、「奇跡はもうない。病の癒しもない。聖霊の賜物も終った」というのです。少し前まで、福音派の教会はペンテコステ・カリスマを毛嫌いしてきましたが、もうそうは言っておられません。アジアやアフリカ、南米の教会はペンテコステ・カリスマの教会がほとんどです。もちろん、バランスは大切です。でも、聖書の読み方において、私たちは西洋の世界観という色めがねをはずして、「霊の世界はあるんだ」という、見方をしていかなければなりません。では、Ⅰコリント12,13,14章のバランスのとれた理解とはどのようなものでしょうか?「御霊の賜物はキリスト教会に与えられた、いわばからだの器官のようなものです。ですから、各々クリスチャンが与えられた御霊の賜物を用いるべきです。異言、預言、知識、信仰、知恵、様々な賜物があります。しかし、愛がなければ全く役には立ちません。コリントの教会のように、愛を忘れ、賜物を競うならば、高慢と分裂のもとになるでしょう。そうではなく、愛をもってそれらの御霊の賜物を用いるとき、御国の働きをこの世に向かって推し進めることができるのです。やがてイエス様が戻ってこられます。私たちが持っている預言や知識や知恵は一部分です。完全なイエス様が来られたら、それらのものはすたれるでしょう。だから、自分の賜物には限界があることを認め、キリストの器官として、互いに補い合いましょう。いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」ハレルヤ!私たちは聖書が神の霊感によって書かれた誤りなき神のことばとして信じます。と同時に、私たちはイエス様の世界観、聖書の世界観をもって、聖書を読んで行きたいと思います。