2010.03.14 あなたはだれか? イザヤ43:1-4、Ⅰコリント1:1-3

信仰のDNAシリーズの3つめは、「癒しと解放」です。このテーマを4回に分けてお話ししたいと思います。本日は、その基礎にあたるものです。みなさんは「あなたはだれですか?」と聞かれたら何と答えるでしょうか?「私はだれだれです」と名前を答えるかもしれません。あるいは「私は何をしています」と、職業を答えるでしょうか?他に、性別、年齢、家族構成、出身地、学歴、特技、趣味、持っている資格等を答えるかもしれません。しかし、それはあなた自身を表しているでしょうか?名前を呼ばれても、自分の名前を嫌いな人もいるかもしれません。職業を聞かれても、無職だったらどうでしょうか?年齢や学歴、資格を答えるとなると、うっとうしくなるかもしれません。では、私たちの人生を支え、しかも永遠に続く、自己証明とは何なのでしょうか?

1.あなたはだれか?

 アイディンテティということばは、既に日本語になっているのではないでしょうか?IDカードといえば、身分証明書であります。でも、アイディンテティを1つの日本語にするのはとても困難です。本来、Identityは「同一であること、自己同一性」という意味です。でも、これだとよくわかりません。今回は「自己存在、自己認識、自分の身分」と文脈の中で、置き換えながらお話したいと思います。創世記1章と2章を見るとまず私たちは神様によって造られた存在であることが分かります。天と地を創造された神様がはじめからおられて、その神様がご自分のかたちに似せて私たちを造られたのです。おそらく学校では、「人間はサルから進化したんだ」と教えるでしょう。そして「能力がある人が、価値があるんだ」と頭の中に入れられるでしょう。その結果、「私は何ができるのか?」「私は何を持っているのか?」。そういうことで、自分の価値を推し量ってしまうのです。学校教育はすでにスタート地点から間違っています。そうではありません。人間は神のかたちに造られたのであり、存在そのものに価値があるのです。つまり、「何かできるか」という前に、「自分は何者なのか」ということを知ることがもっと重要なのです。なぜなら、「自分は何者なのか」が「何をするか」を生み出すからです。人は自分が考えているように生きます。これをセルフイメージとも言います。そうです。みなさんはだれでも、自分が考えている自分にあったように、生きているんです。多くの場合は、無意識的で行なわれていますが、みな自分に対して抱いているイメージどおり、生きています。英語の聖書、箴言23:7を直訳するとこうなります。「彼は、自分が心の中で考えているような人です」。他の英語の聖書は「彼は、自分が考えていることを全部合計した人です」。まさしく、私たちは自分が考えている自分にふさわしく生きています。

でも、残念ですが、アダムとエバが神に逆らって堕落してから、自分がだれなのか分からなくなりました。神様から創造された時点においては、神様と共に歩み、神様から生きる目的と価値をいただいていました。しかし、神様から離れて、自分で独立してからどうなったでしょう?神様がアダムに問いかけました。「あなたはどこにいるのか?」そのとき、アダムは「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました」と答えました。つまり、恐れと恥と罪悪感が入ってきたのです。アダムの子孫であるカインはどうしたでしょうか?町を建て、そこに自分の息子の名前をつけました。彼は自分の名を残したかったのです。その後、カインの子孫はどうなったでしょう?ヤバルは牧畜の先祖、ユバルは芸術の先祖、トバル・カインは工業の先祖になりました。カインの子孫は身を立て、名を上げる業績志向の人になったのです。卒業式で歌われる『仰げば尊し』の「身を立て名をあげ」と似ています。どうでしょうか?今でも、「あなたはだれですか?」と聞かれたら、「何ができるか」ということにポイントを当てるのではないでしょうか?多くの人たちは、自分の存在を高めるために、良い学校に行き、少しでも高い学歴を取ろうとします。そして、色んな資格を取ります。女性ですと容姿を磨き、料理やお稽古事をするかもしれません。男性ならば尊ばれる職業につき、名を上げることが重要です。しかし、それで自分の中にある、恐れや恥、罪責感がなくなったのでしょうか?人は一旦そういうものを得ると、「いつ失ってしまうのか」と恐れます。リストラされたら職業も失います。病気になって死んだらどうなるのでしょう?心の奥底に「自分は一体何者なのだろうか?」という細い声があるのではないでしょうか?

2.神の子というアイディンテティ

クリスチャンとはどういう自己存在、どういう身分でしょう?ヨハネ1:12「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」。これは、私たちの血筋や、努力に関係なく、キリストを信じることによって神の子どもとされるということです。もう少し分かり易く言いますと、「あなたがどこの国の人で、どの家に生まれ、どんな育ち方をしようとも関係ない。あなたがイエス様を信じたなら、神さまの息子、娘になるということです」。これは、私たちの努力や行ないではないということです。しかし、どうでしょうか?私たちはこれまで、「人から受け入れられるためには、何かをしなければならない、何かができなければならない」と教えられてきました。クリスチャンになっても、「自分は神様から愛されるために、罪を犯さないで、もっと正しいことを行なわなければならない」と考えている人がいます。そうではありません。父なる神様はキリストがなされた贖いによって、すでに満足しておられます。私たちはもう何もしなくても、神様から愛され、受け入れられ、価値あるものとみなされているのです。私たちはもうすでに、神様の子どもなのです。みなさん、私たちがこれから、罪を犯したとしても神の子という身分は失いません。何を失うのでしょうか?神様との親しい交わりです。では、どうしたら回復できるのでしょうか?Ⅰヨハネ1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」アーメン。罪を言い表したなら、神との関係が回復します。どうぞ安心してください。これから先、どんなことがあっても、神の子としての身分、永遠の命は失うことがないのです。また、神様が王様であるなら、その子どもたちはどういう身分でしょうか?男性ならば、王子(プリンス)です。女性であるならば王女(プリンセス)です。私たちはキリストと共同相続人として、神様が持っておられる財産を相続できるのです。

『パワーフォーリビング』という本にすばらしい証が載っています。ある町に、一人の少年がいました。お母さんが彼を未婚で産んだので、学校で嫌なあだなを付けられ、からかわれました。彼はとても傷つきました。そのため、彼は休み時間や昼食の時間は独りでどこかへ行っていました。街へ行くと人々が「本当の父親はだれなんだ」と彼をじろじろ見るので、さらに傷つきました。彼が12歳の頃、新しい牧師が近所の教会に来ました。彼は礼拝にはいつも遅れて入り、早めに出ました。しかし、ある日曜日、早めに抜け出そうと思ったのに、入口でつかまってしまいました。牧師が彼をまっすぐ見つめて言いました。「坊や、君はだれだね?誰の子どもかね?」昔からあの重たい気持ちが再びのしかかって来ました。まるで大きな真っ黒いような重々しさでした。「牧師までもが私を見下しているんだ」と思いました。しかし、牧師は少年を見下ろしながら、少年の顔をじっくり見ていました。そして、まるで少年に見覚えがあったかのように、大きな笑みを見せました。「ちょっと待てよ。君が誰だか知っているよ。君に似ている家族を知っている。君は、神様の子どもだ!」。そう言うと、先生は少年のお尻をポンと叩いて、こう言いました。「君はすごい遺産を受け継いでいるんだ。行って、自分のものだと主張しなさい」。その少年が大きくなってどうなったでしょうか?テネシー州の人たちが私生児を州知事として選出したのです。知事の名前はベン・フーバーです。同じように、私たちは神さまの子どもです。ですから、神様から素晴らしい遺産を受け継いでいます。天国に行ってからではなく、今、この地上で「その遺産は私のものです」と主張して、用いることができるのです。ハレルヤ!

クリスチャンとはキリストに属する者という意味です。私たちが「イエスは主です。私はキリストに属しています」と言うならどうでしょう?千々万々の御使いたちが「アーメン」と唱えるでしょう。その代わり、悪魔や悪霊があなたを恐れるでしょう。厳密に言うと、あなたを恐れるのではなく、あなたの背後にあるお方を恐れるのです。私たちはものすごいバックがついているのです。チョー・ヨンギ先生は12月31日を支払日にした、約束手形を振り出したことがあります。締切日の午後3時になっても、お金の工面ができていません。奥さんが「アメリカに逃げたら」と提案しました。時計の針はすでに5時を指しています。チョー先生は銀行に出かけましたが、大晦日のため駐車場は車でごったがえししていました。普通なら支店長と予約もなしで会えるわけがありません。すると聖霊が「堂々と、大会社の社長のようふるまいなさい」と激励しました。支店長室の秘書は「どちらさまでしょうか?ご予約はお済みなにでしょうか?失礼ですが、どちらさまで?」と聞きました。先生は「わたしは、最高権威筋から者です」と、威厳をこめて返答しました。先生は神様から遣わされた者であるという意味で言ったのですが、秘書は、韓国では大統領府から派遣された者と勘違いしたのです。チョー先生は支店長に会うと「あなたのために、お役にたちたいのです。私に1500万円の小切手を振り出してください。そうしたら、教会員に働きかけ、新規に1万人分の預金をさせていただきます」と言いました。支店長はけげんな顔をしながら、副支店長を呼び入れました。副支店長は「と、とんでもございません。支店長、これは、あなたの首がかかっていますよ。この人は、担保もなければ、書類の手続きもしていないのですよ」と言いました。支店長は何度も首をかしげながら「いやー、何とも変な気分です。こういう興奮は今までの私の生涯にはありませんでした。本当に不思議です。信用しましょう。あなたは本当に大胆な人です。今回だけは私の首をかけます」。そう言って、1500万円の小切手を渡すように副支店長に指示しました。みなさん、これが神の子という身分の力です。私たちのバックには父なる神様という最高権威者がついておられるのです。ローマ8:32「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

3.聖徒というアイディンテティ

もう1つ大事なアイディンテティがあります。それは、聖徒であります。聖徒、英語でセイントであります。ローマ・カトリックでは聖徒となるためには、様々な制約があって、よっぽどの功績がなければいただくことができません。しかし、それは聖書的ではありません。キリストを信じた人は、すべて聖徒、セイントであります。コリント人への手紙にこのように書いてあります。Ⅰコリント1:1-2「神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。」コリントの教会はどんな教会だったでしょうか?教会には分裂や争いがありました。近親相姦もあったようです。彼らはパウロの使徒性を認めない高慢な人たちでした。だけど、パウロはコリントの人たちを何と呼んでいるでしょうか?「聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ」であります。ここでも、はっきり分かりますが、行ないや品性とは全く関係がないということです。「え?ひどい罪を犯しているのに、聖徒なんですか?」と文句を言うかもしれません。はい、それでも立派な聖徒なのです。つまり、私たちの行ないには関係ないのです。では、なぜ、使徒パウロがこういったことを冒頭で述べているのでしょうか?パウロはいきなり、コリントの教会の罪を責めていません。まずは、「キリストにあってあなたがたはどのようにされているか?どのような者なのか?」これを知らせたかったのです。では、このことと私たちの信仰生活とどのような関係があるのでしょうか?ニール・アンダーソンの本にはこのように書いてあります。ほとんどのクリスチャンは、自分自身を恵みによって救われた罪人であると言います。しかし、本当に罪人なのでしょうか?それが聖書的なアイディンテティなのでしょうか?そうではありません。神さまは私たちクリスチャンを罪人とは呼ばれず、「聖徒」「聖なる人」と呼んでくださったのです。もし、自分が罪人のことを罪人だと考えるなら、どのように生きるのか考えてみてください。おそらく罪人として生活し、罪を犯すでしょう。私たちは自分の本当の存在を認識すべきです。それは罪を犯すことがあるかもしれませんが、「聖徒」なのです。私たちは次のことを覚えておくべきです。どう生きるかが存在そのものを左右するのではなく、どういう存在であるかが生き方を決定していくのです。アーメン。

ニール・アンダーソンが口をすっぱく言っていることは、「すべきことが人間の存在価値を決定するのではなく、どのような存在であるのかが、なすべき事柄を決定するのです」ということです。もし自分がダメな人間だと考えていたなら、おそらくダメな人間として生き続けることでしょう。しかし、自分がキリストにあって永遠に生きる神の子と認めるなら、キリストが生きたように勝利と解放の中で、生き始めることができるのです。この理由は、だれも自己認識と矛盾するような行動をし続けることができないとういことです。みなさんの自己認識、つまり、セルフイメージはどうでしょうか?アメリカよりも、日本の方がずっとずっと否定的でしょう。ある調査によると、お母さんが子供に話しかけることばの80-90%が否定的なことばだそうです。学校へ行くと、生徒は積極的なことばが1に対して、否定的なことばを7つ受けていると言われています。また、1つの否定的なことばの影響力を帳消しにするには、4つの積極的なことばが必要であるということを指摘しています。新しいスーツやドレスを着るたびに経験することを考えると、おそらく正確に分かるでしょう。多くの友人が、「まあ、なんて素敵な洋服でしょう」と言ってくれても、誰かにひとこと「あまりあなたに似合わないわねえ」と言われたらどうでしょう。タンスの奥にしまって、二度と着ないかもしれません。ですから、私たちの頭の中にある否定的なことばを、聖書の積極的なことばに置き換えていかなければなりません。聖書は私たちを何と言っているのでしょうか?「あなたは神の子です」「あなたは聖徒です」「あなたの罪は赦されました」「あなたは義とされています」。みなさん、罪赦されているのと、義とされていることとは違います。罪の赦しはプラスマイナスゼロですが、義とはプラスであり、神の義があなたに与えられているということです。「アーメン」とは、聖書で神様が言われていることは、「本当に、そのとおりです」と言うことです。私は義とされている。「アーメン」と心から信じるなら、それにふさわしい行ないをしようとするでしょう。私は信仰歴30年になりますが、最近、「アーメン」の意味がわかってきました。神様の恵みを知る時に、心から「神様、アーメン、本当ですね」と言うことができます。どうぞ、神様が私たちにおっしゃっていることばを「アーメン」「アーメン」とたくさん入れましょう。パソコンをなさる方はご存知だと思いますが、「アーメン」とはenterです。私たちが「アーメン」と言うときはenterキーを押して、心の中に入れている時なのです。

イザヤ書43章は、私たちの自己存在、アイディンテティがどんなにすばらしいか教えてくれる重要な箇所です。43章のはじめには、「主は私たちを創造された方、形造った方である」と書かれています。私たちは神さまの作品であって、それぞれユニークな存在だということです。私たちは他の人と比べる必要はないのです。あなたと同じ人は、世界に二人といない、固有な存在なのです。「アーメン」enter。それから、主は「恐れるな、私はあなたを贖った」とおっしゃっています。そうです。イエス・キリストは十字架で尊い血を流し、あなたを買い戻してくださったのです。あなたにはキリストの命と交換するくらい価値があるのです。「アーメン」enter。そして、「私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のものだ」とおっしゃっています。私たちはどこに属しているのでしょうか?世界に60億人いようとも、キリストにあってあなたは選ばれているのです。神様はあなたは私のものだとあなたの名前を読んでおられます。「アーメン」enter。さらに、「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」。自分たちの親、友人、先生…多くの人たちは、「あなたはこうだ」と言ったかもしれません。そして、そのことばで「ああ、自分はこうなんだ」と自分をイメージしたでしょう。でも、多くの部分が偽りでした。あなたは偽りを信じてきたのです。偽りはdelete削除しましょう。あなたは、神様の目から見たらどういう存在なのでしょうか?「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」「アーメン」enter。神様の愛は無条件の愛です。何ができるから、何をするからではありません。あなたのありのままを愛し、受け入れているのです。罪も欠点も醜いところもみんな含めてです。良い人になってからではありません、神様はありのままのあなたを愛し、受け入れておられるのです。「アーメン」。

みなさん、このことを理解することがクリスチャンの成長の土台です。神様の無条件の愛による安心感がなければ、成長はありえません。私たちは神様の愛を得るために、何もしなくても良いのです。父なる神様はキリストにあって既に満足しておられるからです。私たちはキリストにあって、神の子であり、聖徒です。ここからスタートするのです。自分がキリストにあって、どういう存在かを知ること、これがクリスチャンの成長の土台となるのです。