2010.03.28 十字架による心の癒し イザヤ53:1-5、Ⅱコリント5:20-21

「クリスチャンとして成長したい」、「何か神様のためにお役に立ちたい」とほとんどの人たちは思っているでしょう。しかし、「自分自身の中に、そうできない妨げになっているものがある。イエス様を信じて救いを受けたことは確かだけど、どうも未解決の問題がある。そのために、急に怒ったり、急に落ち込んだりしてしまう」。そういう人はいないでしょうか?同時にそういう人たちは家庭や、世の中の人間関係でも葛藤を覚えていた人たちです。教会に来てから、「神様の愛のもとでうまくいくかなー」と期待していたのに、そうでもなかった。「ある人に躓いた。牧師に躓いた。もう、教会に行くのもイヤだ」。そこまで行ってしまった人は、きょうはここにいないでしょう。きょうここに来られている人たちは、そういう問題をクリヤーした人か、ギリギリでなんとかやっている人かもしれません。きょうは、信仰のDNAシリーズの、「癒しと解放」の第三回目です。

1.さまざまな過剰反応

 心理学者は「胎児のときから幼児期まで受けた心の傷は、その後の成長に大きな影響を及ぼす」と言っています。幼児にとっては親から養育を受けるときでありますが、しばらくすると自我が目覚めてくるので、親から独立しなければなりません。だから、「ノー」を連発します。そのとき、親が未熟であったり、親自身に傷がある場合、子どものありのままの姿を受け止めることができません。お母さんから「あなたは、良い子でしょう?」と言われると、子どもは「ああ、自分は良い子にしなければ愛されないんだ」と思ってしまうでしょう。子育てにおいては、過干渉であってもいけないし、かといって放任主義でもいけません。親はそういうつもりでしなかったのに、子どもは、拒絶や無視、虐待や支配と受け取るかもしれません。そのとき、子どもの心に、親に対する怒り、悲しみ、喪失のトラウマとなって残ります。ある傷は自然と治るかもしれません。しかし、ある傷は表面には包帯が巻かれていますが、内部はぜんぜん治っていない。ひどい痛みを感じるばかりか、傷が膿んでいるということがあります。日本人は自分の感情を表に出してはいけないというふうに育てられています。そのため、私たちは怒りや悲しみ、あるいは恐れの感情を心の奥底に沈めます。1つや2つのテニスボールだったら、沈めておくことができます。しかし、それが5とか6つになったらどうでしょうか?外から圧力がかかると、ポコーンと出てきます。つまり、感情の塊というものは抑圧したらなくなるというものではありません。抑圧すれば抑圧するほど、負のエネルギーとなって蓄積し、あるとき、「ばっ」と噴出してしまいます。まるで火山の噴火であります。火山というのは下にマグマが溜まっています。マグマの圧力が上がり、ある一定量を超えると、どこか弱いところから噴出するわけです。「どっかん!」と、石や火山灰が空中高く舞い上がり、熱い溶岩も噴出するでしょう。まわりにいる人たちはものすごい被害を受けます。そういう状態を、だれかが地雷を踏んだとか、過剰反応を引き起こしたと言います。

 私はこれまで、アバラブミニストリー、エリヤハウス、丸屋真也師、李師のディープヒーリングなど、様々なカウンセリングを学んできました。それらを見比べ、統合してみて「ああ、こういうことなんだなー」とやっと分かってまいりました。それぞれ用語は違いますが、だいたい言わんとしていることは共通しています。でも、最近は李光雨先生から学んでいますので、どうしても、先生の用語が出てきてしまうことをお許しください。李先生は「過剰反応とは、特定のステージで現れてくる心や体や行動における、合理性を欠いた強い反応である」と定義しています。人がある出来事によって、過剰反応するとき、「心の叫び」が一緒に出てきます。丸屋師はそれを「自動思考(セルフトーク)」と呼んでいます。「お前がちゃんとやらないからだ」「だれも守ってくれない」「俺のせいじゃない」「なんで、そんなことをするんだ」…実際、口で言う場合もあるし、心の中で言っている場合もあります。人が過剰反応をしたとき、これはチャンスであります。その人の「心の叫び」がわかるからです。その人の「心の叫び」がどこから出てくるのか?実は心の奥底、核の部分から出ているのです。李師はそれを「コア世界観」と呼んでいます。丸屋師は「核信念(コア・ビリーフ)」と呼んでいます。私は「世界」の方が、なんとなくロマンがあって良さそうに思えます。つまり、その人が何かのことで過剰反応したときに出る「心の叫び」によって、その人の世界を垣間見ることができるということです。あなたの世界はどんな世界でしょう?どうぞ、1週間、あるいは1ヶ月間、どんなことで過剰反応したのかチェックしてみてください。「今月は出費がかさんでどうしょう。一体生活ができるのだろうか?」「なんであの人はあんなことを言うんだ。もう、許せない」「職場で真面目にやっているのに、認めてもらえない」「また失敗した。いつも最後はこうなんだ」。いろんな状況で発すると思います。まず、その状況を特定し、具体的にどうだったのか知るのです。過剰反応をした状況を詳しく知るということです。第二番目はそのときどう思ったかです。これはもう無意識でやっていますので、ことばになっていないかもしれません。それは「心の叫び」かもしれません。「不当な扱いを受けた」「軽く見られた」「不適格だと思われた」。とにかく、思いをことばに表すことが重要です。第三番目は感情です。どう感じたか?これは思いよりも、明確かもしれません。怒りや悲しみ、恐れ、絶望感、いろいろあります。最高がレベル100だとしたら、「そのときはレベルどのくらいだったか」も書くと良いですね。70%とか、80%としか判定できるかもしれません。そういうのをいくつかやっていくと、自分の世界が分かってきます。自分の世界はひとことで何なのか?これはあなたのテーマになります。

 私たちは日常生活において、様々なことで過剰反応を起こします。いろんなところで火山が爆発するわけです。しかし、ある人はそれを「ぼかーん」と人や物にぶっつけます。しかし、ある人は人にぶっつけないで自分のところにもっていきます。前者は他の人を攻撃しますが、後者は自分を攻撃します。自分を攻撃するとどうなるでしょうか?それは鬱になります。ある意味で、鬱は怒りの1つのかたちと言っても良いかもしれません。また、怒りや鬱の他に不安や恐れというものもあります。私たちは、自分の世界が壊れそうなときに、怒りによって反応します。しかし、ある場合は、不安や恐れとして出てきます。現代は様々な心の病気を抱えている方がたくさんいらっしゃいます。学校や会社に行くことができない。電車にも乗れないという人がいます。会社には行けるけど、人間関係が辛い。人とうまくいかない。鬱的になり、精神科や心療内科に通って薬を飲んでいる人もたくさんいるのではないでしょうか?すべての薬物療法を否定はしませんが、本当の原因になっている、「コア世界観」「核信念」は何なのかということを探り、その問題を解決することがより重要です。

2.さまざまな世界観

エリヤハウスでは、「悪い実から、根っこをさぐる」と言います。どのカウンセリングでも言うのですが、多くの場合、幼少の時代の問題が解決されていないことが原因しています。そこが未解決なので、様々な問題が出てくるということです。その傷が生じた、いくつかの幼少期のエピソードがあるはずです。多くの場合、それに蓋がされて、自分でも覚えていないということがあります。子どものときにひどい虐待を受けた場合は、記憶がない。あるいは「あれば別の人だったんだ」と思い込んでいることもあるそうです。過去の自分を見るということは、ある意味では、恐ろしいことです。もう一度、あのときのトラウマを経験しなければならないからです。受けた恥、受けた苦しみ、受けた悲しみ、喪失感、拒絶感…それらと向き合うことは、大変な勇気を伴います。ですから、多くの場合、自分をサポートしてくれる兄弟姉妹、あるいはカウンセラーが必要です。でも、このようなメッセージを一度、聞いておくと「あ、大丈夫なんだ。癒されるためにはオープンすることが必要なんだ」と分かるでしょう。そうです。隠したり、それを否認しているうちは、決して直りません。イエス様と共に、過去の暗いところに行くのです。そこには小さな3歳か4歳のあなた自身が震えて泣いているかもしれません。何があったのでしょうか?忘れてしまっている場合には、イエス様に尋ねて見てください。ある人は胎児のとき大きな傷を受けました。お母さんが生みたくないと思ったからです。それなのに「できちゃった。堕胎できなくてしかたなく生んだ」のです。そのためにお母さんが大嫌いになったということです。あとから、お母さんにそのことを聞いたら、実はそうだったということでした。いくつかのエピソードを思い浮かべることができるでしょう。自分を傷つけた相手がお父さんでしょうか?あるいはお母さんでしょうか?あるいは「きょうだい」でしょうか?どういう状況で、そんなことが起きたのでしょうか?

 エリヤハウスの女性の先生ですが、自分が子どものとき、近所のお兄ちゃんから性的ないたずらを受けたそうです。それをお父さんに言ったら、お父さんがその男の子の家に訴えに行ったそうです。男の子のお母さんは「うちの子がそんなことをするはずがありません。あなたのお嬢さんが嘘をついているのです」と強く言い返しました。昔のことでもあり、そんなことはその村で、一度も起こったことがありませんでした。それで、お父さんは家に帰るなり、「お前はおこりもしないことを嘘をついたんだろう」と言いました。女の子は「私を守るべきお父さんが、私を守らなかった」ということで、男性に対してものすごく不信感を抱くようになりました。結婚してからどうなったでしょう?ご主人がちょっとでも帰りが遅いと、「あなた他の女性と浮気をしているんじゃないの?」と怒りました。ご主人が「私はお前に忠実であって、そんなことは絶対しない」と言うとおさまります。でも、ご主人に対する疑いは晴れることがありませんでした。そのあと、ミニストリーを受けると、子どものときのことが思い出されました。お父さんが私を守ってくれなかったということが分かりました。そのお父さんを赦しました。お父さんを赦したとたん、お父さんから手紙が来たそうです。「これまで一度も手紙くれたことがないのに、どうしてだろう?」と思いました。つまり、お父さんを赦したということは、お父さんを籠の中から出してあげたということなのです。お父さんも自分の罪で、霊的に捕らわれていたということなのかもしれません。

私の「コア世界観」のテーマは、不当な扱いを受けたために、翻弄されている自分であります。その元となる原因が子どものときにありました。私が小学校5年生のとき、私は記念切手を集めていました。そのとき、東京オリンピック開催記念の切手が発行されました。私は遅刻覚悟で、郵便局に並びました。発行されたシートの数が少なくて、じゃんけんしました。私が勝って得た貴重な切手でした。あるとき、兄が俺にくれと言いました。私が「ダメだよ、返してよ」と争いになりました。兄はその切手シートをぐちゃぐちゃにしました。私は「わあー、何をするんだ!」と怒って叫びました。目の前で父がストーブにあたっていました。父が手を伸ばし、「こんなものがあるからだ!」と言って、切手をストーブの中にくべてしまったのです。私はおそらく気が狂ったように泣いたと思います。私はそれ以降、切手収集をぴったりやめました。他のすべての切手を捨てました。梅の花を見るたびに、「ああ、梅の切手もあったなー」と思い出します。本来、父が兄弟の喧嘩をいさめ、正しいさばきをするのが本当でしょう。父がそこにいて、一部始終を見ていたのに何もしなかたのです。今、思えば、我が家は無政府状態でした。父が酒を飲むと暴れ出し、母や私たちをよく殴りました。父の血走った眼、なぐられた母の頭の音、母のうめき声は今でも忘れません。兄弟げんかもしょっちゅうありました。ある正月、長男と次男が血を流すような喧嘩もしました。父は止めるどころか、そこでだまって酒を飲んでいました。つまり、我が家では父が家庭を正しく治めていないために、無政府状態というか、守りがなかったのです。だから、大きくなって、似たような不条理が起こると、「ちくちょう!なんでだよー」と怒りが噴出してきます。どうぞ皆さんも、ご自分で、あるいはだれかの手を借りて、心の核の部分(世界)を発見してください。そこには必ずテーマがあるはずです。

3.十字架による心の癒し

 本日から受難週がはじまります。多くの場合、イエス様が十字架にかかったのは私の罪のためであると理解しています。私たちが罪の赦しを受けて、救われるためにはこのことを理解することはとっても重要です。しかし、自分が犯した罪だけではなく、自分がひどい目にあったという被害者的な部分にもイエス様の十字架があるのです。イザヤ53:3-4「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」と書いてあります。Ⅰペテロ2章には、不当な苦しみを受けた人々へのことばがありますが、イザヤ書53章が解決になっています。イエス様は何も悪いことをしていないのに、人々からののしられ、苦しめられました。また、イエス様は十字架の上で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。イエス様は人々からも、そして父なる神様からも捨てられ、拒絶を味わわれました。そういうことを合わせますと、イエス様は十字架で、私たちの悲しみ、恥、病、痛み、不当な扱い、そして拒絶を背負ってくださったということです。つまり、人となられたイエス様は、私たちの悩みや苦しみをよくご存知であるということです。同時に、イエス様は神様ですから、私たちの子ども時代まで一緒に行ってくださり、その子どもを癒してくださいます。あるところに、とっても乱暴で怒りっぽい男性がいました。牧師が彼のために祈ってあげました。牧師は祈りながら、「何か見えますか」と男性に尋ねました。彼は「5,6歳頃のときの、家の中が見えます。お父さんがその夜も酒を飲んであばれていました。子供の私は怖くて泣いていました。ああ、お台所の窓ガラスが割れて、大きな穴があいているのが見えます。窓の穴から見える外は真っ暗です。」と言いました。だいたい、こういう家庭は、しょっちゅう窓ガラスが割れるので、何日間か、そのままにしておくのが多いのです。突然、男性は涙を流しはじめました。どうしたのですか、と聞くと。「あのときは気付かなかったのですが、窓ガラスの穴から、イエス様がお家の中を眺めています。イエス様はとっても悲しい顔をしています」。そのとき、男性は、イエス様から「私も気の毒に思ったよ」と慰めのことばをいただきました。それで、彼は大声で泣きました。それから、彼は怒りから解放されたそうです。イエス様は永遠の神様ですから、あなたの過去の出来事をご存知であり、深い慰めを与えてくださるのです。

 李先生は、癒しを受けるためには、まず「心の叫び」を完了させなければならないと言います。私たちが心の蓋を開けると、「わあっ」と色んなものが出てきます。怒りとともに、「○○をして欲しかったんだ!」とか、「奪ったものを返してくれ!」「どうして分かってくれなかったんだ。本当はこうだったんだ」「なんで、あんなことをしたのか!ひどいじゃないか」とか、叫びが出てきます。その怒りをどこにぶっつけるのでしょう?イエス様の十字架にもって行くのです。Ⅱコリント5: 19 「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」イエス様は、「あなたを傷つけた人のために、私が十字架にかかって代価を払いました。これで赦してはもらえないだろうか」とおっしゃいます。イエス様は「私に免じて、赦しておくれ!」と懇願しておられます。私たちは「それだったら、赦します。私にひどいことをした父を赦します。私にひどいことを言った母を赦します。私に○○をした誰それを赦します」と赦すべきです。赦しとは怒りを手放すことです。赦しとは訴える権利を放棄するということです。そのとき、父なる神様はあなたが失ったものをすべて回復してくださることを知るはずです。恥の代わりに誉れを、悲しみの代わりに喜びを、嘆きの代わりに踊りを。父なる神様はあなたが失ったもの、あるいはあなたが得られなかったものを豊かに与えてくださるお方です。贖いとは罪の贖いだけではなく、あなたが失ったものを神様は贖ってくださる。弁償してくださる。回復してくださるということです。私はかつて切手を失いましたが、神の御国にはちゃんと保管されていることを知っています。幼くして死んだ子どもがいるかもしれません。でも、神の御国ではちゃんと生きています。あなたが大事にしていた人形も、おもちゃも、宝物も御国の倉庫にちゃんとあります。あなたは父や母によって受け入れられなかったかもしれませんが、父なる神様はありのままのあなたを無条件で受け入れてくださいます。「あなたは私の目には高価で尊い、私はあなたを愛している。あなたは私のものだ」と言われます。どうぞ、父なる神様の回復を得ましょう。そうするなら、あなたの心の奥底が満たされるでしょう。

 それから今度は考え方を変えて、イエス様と勝利の道を歩むのです。もう、あなたの世界は壊れません。もうあなたの魂は大丈夫です。なぜなら、イエス様があなたを常に支えておられるからです。さらにすばらしいことは、神様はあなたが経験したマイナスをもプラスに変えてくださるお方です。ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」アーメン。イエス様はペテロに何とおっしゃったでしょうか?「だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」アーメン。癒されたあなたは、同じような苦しみや悩みに合っている人たちを慰めることができます。それだけではありません、彼らの縄を解き、獄屋から出すことができるのです。