2010.02.14 聖書の権威 Ⅱテモテ3:15-17、Ⅱペテロ1:21

キリスト教の信仰とは何かと聞かれたら、私は「聖書の信仰である」と答えるでしょう。世界にはたくさんの宗教がありますが、それぞれが経典を持っています。経典というのは彼らの教えの土台であります。イスラム教においてはマホメットの教えであるコーランが経典です。仏教にもいくつかの経典があるでしょう。ユダヤ教においてはトーラーという私たちと同じような律法の教えがあります。しかし、タルムードという解説書も同等の権威があります。では、聖書は「キリスト教の経典なのか?」というと厳密にはそうではありません。なぜなら、旧訳聖書はイスラム教やユダヤ教において経典の一部となっているからです。私たち保守的なキリスト教会は、旧新約聖書を他の宗教と相対的な経典であるとは理解はしていません。聖書は、他と比べることができない、神からの唯一の啓示の書物であると信じています。つまり、聖書が啓示している神がまことの神であり、聖書が啓示しているキリストこそがまことの救いの道であると信じているのです。

1.聖書のなりたち

ヘブル1:1-2「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」このみことばは聖書のなりたちを教えているすばらしい箇所です。父祖たちとは、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨブなどです。預言者とはモーセ、サムエル、イザヤとかエレミヤです。預言者ではありませんが、ダビデ王やソロモン王も聖書を書きました。新約聖書になると、使徒であるマタイやヨハネが福音書を書いています。マルコやルカはイエス様の直接の弟子ではありませんでしたが、背後に使徒ペテロや初代教会の証人たちがいます。ヘブル書は「多くの部分に分け、また、いろんな方法で語られた」と書いてあります。聖書は66巻ありますが、完成するまでに1600年かかったと言われています。それぞれの時代の人たちが、それぞれの場所で、何の打ち合わせもなしに聖書を書いたのです。多くの部分をまとめたものを、私たちは旧新約聖書として、今ここに持っています。これは奇跡であります。1600年間、それぞれの時代の人が勝手に書いて、それをまとめても果たして一冊の本になりうるでしょうか?歴史において大作という本があるかもしれません。ホメロスも長大な叙事詩でありますが、聖書には及びません。シェークス・ピアもすばらしい文学作品を多数残しましたが、聖書にはかないません。では、1600年間、40人以上の人が何の打ち合わせもしないで書いた聖書に矛盾はないのでしょうか?確かに、矛盾と思われるような箇所もあります。だから、後代、啓蒙主義思想によって攻撃されることになるのです。でも、私はこのように信じています。私と言っても、保守的な神学の立場の一人として言うのですが、それは矛盾ではなく多様性です。聖書の書物は、それぞれ個性を主張しています。しかし、キリストを証言していることにおいては一致しています。これを「多様性における統一」と呼んでいます。

さらに、ヘルブ1:1には「いろいろな方法で語られました」とあります。このことばと、関係していることばが以下のことばです。Ⅱペテロ1:21「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです」。 そうです。聖書はいろんな人たちが、いろんな方法で語ったものをまとめたものです。なぜ、文書にしたかと言うと、後代に残すためであります。口で伝えた伝承であるなら、消えるか、だんだん変質してしまうでしょう。しかし、文書に残すと失われることはありません。ですから、祭司たちは羊皮紙やパピルスに一点一画ミスのないように書き写していったのであります。原典というものは残されていませんが、現代私たちが持っている聖書は、おそらく99%原典に近いものであると思います。でも、Ⅱペテロ1章にあるように、聖書の筆者たちは自分の意思で勝手に書いたのでもありません。では、ロボットのように神様が操縦したように口や手を動かしたのかというとそうでもありません。「神・は・こ・う・い・わ・れ・ま・す」ではありません。「聖霊に動かされる」とは、「風によって帆船が動かされる」という意味があります。つまり、聖霊がその人の持っている語彙や知識、調べた資料さえも用いて、ご自分のことばを書かせたということです。ですから、聖書の一巻、一巻はとても個性的であります。たとえばマルコ福音書は「すぐに、すぐに」と行動的なイエス様を描いています。逆にヨハネ福音書は「あなたがわたしに、わたしがあなたに」と、とても瞑想的です。パウロの手紙は「ああだ、こうだ」と論理的です。ヤコブの手紙は「行ないがなければ死んだものだ」と実践的です。「神様は、その人が持っている知識や性格、考え方すらも用いているんだなー」と感動します。なぜ、4つの福音書があるのでしょうか?それは、4つの方向からイエス・キリストを描写したなら、より良く分かるからです。最近の映画は3D(ディメンション)で見ることができるようになりました。しかし、福音書は4つの方向、4Dだったんですね。ハレルヤ!

でも、1600年間、40人以上の人が何の打ち合わせもしないで書いた聖書が、誤りが生じないように聖霊様が働かれました。それを霊感と言います。そのみことばがⅡテモテ3:16です。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」アーメン。「神の霊感によるもので」というのは、英語の聖書にはインスパイヤーされたとなっています。これは「神の息が吹きかけられた」という意味です。神の息吹こそが、霊感、インスピレーションであります。一般に、インスピレーションと言うと、「ああ、何か、ピカッと来た」。発明や発見、作曲、何かのアイディアが浮かんだ時も使います。「そんなふうに使うな!」とは申しませんが、聖書が言っている、インスピレーション、霊感というものは特別な聖霊な働きという意味です。1600年間、40人以上の人が場所や時代を超えて書いたとき、彼らが誤りなく、神のみこころを書けるように聖霊が働きました。その聖霊の働きを霊感というのであります。確かに語彙や表現に幅があります。でも、神のみこころを間違いなく伝えるように、聖霊がすべての誤りから彼らを守ったのであります。神学者たちは、無謬説とか無誤説、あるいは逐語霊感説とかいろいろ言います。でも、そういう神学的なカテゴリーの中に入れてしまうと、かえっておかしくなります。私たちの理性では、「神の霊感とはこうなんだ、聖霊はこのように働いたんだ」ということを明確化するのは不可能なのです。ですから、このくらいの説明で良いのです。難しい、神学用語を持ってくるとかえって、自分の首を絞めることになります。とにかく、聖書が完成するまで、記者たちに働いた聖霊の働きを霊感と言います。ヨハネ黙示録で聖書は完成していますから、霊感という聖霊の働きも終ったのであります。私が「おお、神の霊によって、もう1巻聖書を書きます」と言ったなら、それは異端になります。しかし、「聖書は誤りなき神のことばである」と主張しているなら、正しいのです。聖書は何故、権威があるのでしょうか?それは神が人を通して書いたからです。表現を代えますと、神の霊感によって書かれたので権威があるのです。神の霊感は聖書66巻、創世記からヨハネ黙示録まで、一貫して働いています。聖書には、もちろん悪魔が言ったことばもあります。人間が語ったことばもあります。でも、それらも含めて、神の霊感によって、神様がご自分のみこころを知らせるために、聖書を書かせたのです。私たちが聖書を「神のことば」と言うとき、それは「神の霊感によって書かれた誤りのない神のことばである」という意味なのです。キリスト教会が、誤りなき聖書のことばに立っているから大丈夫なのです。なぜなら、聖書こそが私たちの信仰の土台だからです。

2.聖書の主題

聖書はいろんな見方があります。ある人は「聖書はすばらしい文学書だ」と言います。ヨブ記はおそらくどの時代よりも古い文学作品でしょう。詩篇や雅歌書も他の文学に負けないくらい巧みです。また、ある人は「聖書は歴史的にも価値がある」と言います。確かに聖書は歴史的に見ても耐えることができるでしょう。ルカという人物は「すべてのことを初めから綿密に調べて、順序を立てて書いた」と言っています。また、ある人は「聖書は科学の書物である」と言います。「創世記から生命の起源を知ることができる」と言います。また、ある人は「聖書は預言書であり、未来のことを預言している」と言います。また、ある人は「聖書は語学を学ぶためにとても良い」と言います。確かに聖書の英語は大変、整えられています。また、ある人は「聖書は難しくて、眠る前に読むととても良い。なぜなら、すぐ眠くなるから」と言います。確かに、聖書は文学的にも科学的にも歴史的にも耐えられる書物であると信じます。しかし、聖書の主題、聖書の目的はそういうものではありません。では、聖書の主題、目的とはひとことで言うとどうなのでしょうか?それは「キリストによる救い」です。「どのようにしたら人間は救われるのか?」これが聖書のテーマです。いろんな見方、用い方があることを否定はしません。でも、聖書の主題は「キリストによる救い」を書いているのです。このところを外れると、当時の律法学者やパリサイ人のようになります。彼らは聖書を一生懸命研究し、だれよりも聖書のみことばを守ろうとした真面目な人たちでした。しかし、聖書の主題が何かということを知りませんでした。イエス様は彼らにこのように語りました。ヨハネ5:39-40「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」そして、ヨハネ20:31「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」アーメンです。私たちが聖書を読むときに、そこに啓示されている救い主イエス・キリストに出会うのです。そして罪から悔い改め、イエス・キリストを信じます。そうすると人は救われるのです。刑に服して独房にいる人も、この聖書を読んで救われることが可能です。あるいは、ラジオ放送から、聖書のみことばを聞いて救われる人もいます。ブラック・ゴスペルを歌って、ジーザスを受け入れる人もいます。でも、元は聖書、イエス・キリストを啓示している聖書であります。

しかし、聖書は人が救われるという一点だけのために私たちに与えられているのではありません。罪赦され救われてから、その救いが全うされるまでも必要なのであります。Ⅱテモテ3:16-17「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」私たちはこの世に生まれ、この世で育ってきたので、神のみこころからはずれた考えや行動の仕方を持っています。聖書はそういう私たちを教え、戒め、矯正し、義の訓練を与えるために必要なのです。そして、どうなるのでしょうか?「神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです」アーメン。私たちクリスチャンは神の人であります。でも、そのままだと不十分であって良い働きができません。そのため、神のことばによって教えられ、戒められ、矯正され、義の訓練を受ける必要があるのです。うぁー、これを聞くとイヤになるかもしれません。もう、「年齢的に大人なのにまた勉強か?何を直さなければいけないんだ!」と反発したくなるかもしれません。私たちは確かに霊的に救われました。でも、親やこの世の教育、会社での仕事の価値観、物質的な社会、マスコミ…聖書の真理とは必ずしも一致していません。この世でバリバリ働いている課長や部長が教会の役員になると問題が噴出します。彼らは会社の組織を教会に持ってきます。また、進化論的な能力主義、物質中心の価値観を持ってくるでしょう。会堂建築になると、そういう人たちは「信仰よりも現実を見なければならない。お金はどこから来るのだ」と主張します。ですから、この世で高度な学問を受け、社会的経験を積んだとしても、聖書の世界と相反するものがいっぱいあるということです。ですから、一度、子どものようになって、どれが聖書的で、どれが聖書的でないのか一から学び直す必要があります。建築でリフォームということばがあります。リフォームというのはカルバンの改革主義と同じ語源であります。彼らはカトリックからリフォームドしましたが、過去の1回だけではダメなのです。私たちは日々、みことばから教えられ、戒めを受け、矯正され、義の訓練を受ける必要があるのです。

聖霊は神のことばを人を介して書かせました。これを霊感と言います。でも、それだけではありません。聖霊は私たちが聖書を読むとき、これはこういう意味ですと悟らせ、そして私たちの生活にどう適用したら良いか教えてくださいます。この聖霊の働きを照明とか解明というふうに呼びます。私たちは人から「ああしろ、こうしろ」と言われるとむかっときます。でも、聖霊があなたの心の中に静かに語りかけてくださいます。聖書に聖霊は助け主であり、真理の御霊であると書かれています。ヨハネ14:26「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」ヨハネ16:13「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」アーメン。イエス様は天の御国にお帰りになられました。その代わり、イエス様はご自分の御霊、聖霊を遣わしてくださったのです。私たちはこのお方に導かれるとき、教えられ、戒めを受け、矯正され、義の訓練を受けるのです。でも、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師も必要です。この人たちは、聖書全体をバランスよく教え、みなさんを整えるように召された人たちなのであります。神様は聖霊と神の指導者を用いて、聖書を教え、戒め、矯正し、義の訓練を与えるようにしているのです。ですから私も礼拝の説教だけではなく、人々を整える働きもしなければならないのです。みなさんは、「鈴木先生こそ整えられるべきでしょう!」とおっしゃるかもしれません。「アーメンです。私もみことばの前にはへりくだって、学びます。どうぞ、みなさんもそうしてください」。

聖書のみことばは、いろんなものにたとえられています。そして、みことばがもたらす祝福がどういうものか教えています。Ⅰペテロ2:2「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。」みことばが乳(ミルク)にたとえられています。ですから、信仰をもったクリスチャンはみことばをミルクのように飲む必要があります。また、ほかのところでは、みことばはいのちのパンであるとも書かれています。聖書はたましいの食物です。このみことばを食べないと霊的にやせ細ってしまいます。詩篇19:10「それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。」みことばが、金よりも純金よりも高価であるということです。みなさんそう思っていらっしゃいますか?「やっぱりお金だよなー」じゃだめなんです。みことばは、お金を生み出す信仰を与えてくれます。また、信仰・希望・愛というお金以上のものも与えてくれます。この世の中では、お金があっても、愛のない家庭がいっぱいあるのではないでしょうか?詩篇119:105「みことばは、私の足のともしび、私の道の光です」アーメン。私たちは明日のことが分かりません。みんな手探りで生きています。しかし、みことばは足のともしび、私の道の光です。エレミヤ23:29「わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか」。すごいねー、みことばは火のように私たちの心の中に情熱を与えてくれます。火はパワーを象徴しています。また、みことばは岩を砕く金槌(ハンマー)であります。私たちこの世で生きているといろんな困難や問題に出くわします。「ああーどうしよう、もうだめだ」という時がよくあります。しかし、ディボーションしていると聖書からみことばが飛び出してきます。そのみことばが金槌(ハンマー)のようになって、問題を打ち砕いてくれるのです。アーメン。エペソ6:17「また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」みことばは、剣のように罪の縄目を断ち切ります。悪魔を打ち破る剣はみことばです。私たちの考えや力では無理です。神のみことばこそが力があるのです。Ⅰペテロ1:23「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」みことばは種です。私たちはこの神のみことばによって救われたのです。同じように、私たちは神のことばを人々の心に蒔くならばどうでしょうか?人々の中にも救いが生まれてくるのです。使徒パウロは、「時がよくても悪くても、みことばを宣べ伝えなさい」と命じました。そうすると後の日になって、刈り取ることができるからです。詩篇126:5「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう」です。私たちは完成した神のことば聖書を持っています。中世の頃は自国語で聖書を読むことができませんでした。ウィリアム・テンダルは「命のパン」を一人でも多くの人に与えたいと、英語に聖書を訳しました。しかし、それは当時の法律に反する行為で、彼は死刑になりました。アメリカの大統領、エイブラハム・リンカーンはこういいました。「聖書は神が人間に賜った最もすばらしい賜物である。人間の幸福にとって望ましいものはすべて聖書の中に含まれている」。また啓蒙主義のゲーテはこういいました。「私が獄につながれ、ただ一冊の本を持ち込むことを許されるとしたら、私は聖書を選ぶ」。どうぞ、聖書を読みましょう。神のみことばを慕い求めましょう。そうするなら、あなたは神のみこころのうちを歩むことができるようになり、あなたは何をしても栄えるのです。