2010.02.28 ディボーション 詩篇1:1-3、マルコ1:29-38

クリスチャンでさえも、「神さまのみこころが分からない」という人たちがいます。もちろん、私たちの信仰生活でそういうときもあるでしょう。でも、聖書を全く開かないで、「神さまが分からない」というのは問題外であります。神さまが最も、ご自分を表しているのは聖書であります。聖書を通して私たちに語り掛けたいと願っておられます。ですから、私たちが聖書を読むとき、それは神さまの御声に耳を傾けていると同じなのです。現代は様々な情報が飛び交っています。新聞、テレビ、インターネット、アイフォンなどからいろんな情報を手に入れられるでしょう。人々は常に携帯電話でだれかと話したり、メールをしています。それらが悪いとは申しません。でも、私たちが一番に耳を傾けるべきものは、全地全能でいらっしゃる神からのことばではないでしょうか?詩篇119:18「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。」

1.ディボーションとは?

 ディボーションということばのもともとの意味は「捧げる」「献身する」です。この場合は、神様と交わり、個人的な礼拝を捧げるということです。ある人たちはQT「静思の時」とも言います。従来は、ディボーショナルな本を読んでいました。榎本保郎先生の『旧訳聖書一日一章』、ミセス・カウマンの『荒野の泉』、スポルジョンやFBマイヤーの『日々のみことば』のようなものがあります。しかし、それらはだれかが料理したものをいただくということです。その人が恵まれたものを、私たちが追体験するように作られています。ひょっとしたら今の私の生活にピンと来ないかもしれません。私が勧めるディボーションは解説書を読まないで、自分で聖書を読んで、そこから魂の糧を得るということです。たとえて言うなら、自分が材料を買ってきて、調理をするということです。これを帰納法的ディボーションと言います。自分で聖書からみおしえをいただくということです。「いやー、そんなことをしても、間違って解釈するんじゃないだろうか?」と恐れる人がいます。ヨハネ14章、16章には「真理の御霊がすべてのことを教える、すべての真理に導きいれる」と書いてあります。聖書はだれが書いたのでしょうか?聖霊です。その聖霊が、私たちの傍らにいて、聖書の意味を教えてくださるとはなんとすばらしいことでしょうか。ハレルヤ!私たちは人から教えられたものは「ああ、そうですか」と言いながらも、ほとんど残りません。ときには「あんたから教えられたくない」という時もあるでしょう。でも、自分で聖書を調べて、神さまから直接、教えられたものはそう簡単には忘れません。感動と共に、いつまでも心の中に残ります。

 では、ディボーションにおいて、聖書をどのように読むのでしょうか?読むというのは、食べると置き換えても良いことばです。マタイ4:4「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る1つ1つのことばによる」と書いてあります。ここでいう「ことば」とは、ギリシャ語でレーマであり、「神さまが今、私に語っていることば」という意味です。私たちは、肉体の食物だけではなく、魂のために「生ける神さまのことば」が必要だということです。イスラエルの民は荒野で毎日マナを集めました(出エジプト記16章)。6日間、マナは降りましたが、7日目だけはありませんでした。7日は今日の聖日礼拝に当たります。今、みなさんはマナをいただいています。でも、1週間のうち日曜日30分しか、みことばをいただかないとしたら、それは霊的栄養失調になってしまうでしょう。私たちは毎日、マナを集める必要があります。イスラエルの人たちはどのくらい集めたのでしょう。各々、自分の食べる分だけです。多く食べる人は多く集め、小食の人は少なく集めました。きょう集めた分は、明日までには持ちません。明日は新たに集めなければなりません。それは、ちょうど私たちが聖書からディボーションするのと同じです。読む量は人によって異なります。しいていえば、10-15節が適量です。ある人は1章ぐらいでしょう。あまり多く読む必要はありません。大切なのはマナのように、毎日読むことです。聖書を読むとは、魂の糧を得ているということなのです。みなさんは忙しいでしょうか。忙しいとは心が滅びると書きます。忙しいからこそ、神様の前に静まる時をもたないと、この世に流され、一生懸命動き回っているわりには実がないということがあります。

 では、ディボーションの中心とは何でしょう?それはみことばを瞑想(黙想)するということです。詩篇1:1には「口ずさむ」と訳されています。また詩篇119篇では「思いを潜める」「思い巡らす」と訳されています。また、英語の聖書ではmeditate「瞑想(黙想)する」になっています。東洋の宗教も瞑想します。ヨガとか禅は心を無にして、宇宙の大霊みたいなものと一体になろうとします。そこには人格のある神さまがいません。また、心を無にする、空っぽにすることはとても危険です。なぜなら、悪霊に扉を開くことになるからです。神様は私たちの意思を心の門番にしていますので、心を空っぽにしてはいけません。そうではなく、みことばを通して、私たちを愛しておられる全能の神さまと交わるのです。これが本当の瞑想(黙想)であります。実は、瞑想するとは、牛や羊が草を反芻するということと同じ意味があります。聖書で牛や羊がきよい動物とみられているのは、食べ物を反芻するからかもしれません。彼らには胃袋が複数あって、消化にくい草を、いつも噛んでいます。ですから、私たちもみことばを丸呑みしないで、牛や羊のように反芻するということです。エディ・レオ師が日本に来たとき、ピーナッツの話をしてくれました。ピーナッツを噛まないでそのまま食べたらどうなるでしょう。胃袋はピーナッツでいっぱいです。寝返りを打つと、お腹のピーナッツはそちら側に移動します。こっちに寝返りを打つと、こっちに移動します。朝、トイレでどうなるでしょうか?「ぱぱぱぱぱーん」とそのまま出てくるでしょう。ちょっと汚い感じがしますが、「聖書を読めばいいのだろう!」と丸呑みすると同じようになります。ぜんぜん、残りません。ですから、私たちは詩篇の記者たちのように、みことばを慕い求め、みことばを瞑想するのです。詩篇119:14-16「私は、あなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいます。私は、あなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に私の目を留めます。私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのことばを忘れません。」

2.イエス様のディボーション

 イエス様は毎日、どのように父なる神様とディボーションを持っておられたのでしょうか。イエス様はサラリーマン以上に忙しかったようです。まず、イエス様が24時間をどのように過ごされたか、マルコによる福音書からご一緒に調べて行きたいと思います。安息日の午前中、イエス様は何をしていらしたでしょうか。マルコ1:21以降を見ると、会堂で教えました。会堂に悪霊につかれた男性がいたので、悪霊を追い出しました。午後は何をなされたのでしょうか。29節を見ますと、シモンとアンデレの家を訪問しました。シモンのしゅうとめが熱病のために床についていました。イエス様は彼女の手をとって、病気を癒してあげました。夕方になりました。32節「夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた人をみな、イエスのもとに連れて来た。」夕方になって安息日があけたので、人々は長距離を移動できるようになったのです。そして病人や悪霊につかれた人を大勢イエス様のもとへ連れて来ました。イエス様は彼らを癒してあげました。翌朝はどうだったでしょうか?35-37節、さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間は、イエスを追って来て、彼を見つけ、「みんながあなたを捜しております」と言った。イエス様は朝早くから御父と交わりをしていました。早朝にもかかわらず、弟子たちが迎えに来ました。すると、イエス様はどうされたでしょう。38節、イエスは彼らに言われた。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」皆さん。ちょっとおかしいとお思いになりませんか。昨晩の人たちがイエス様を捜しているというのに、「さあ、近くの別の村里へ行こう」とおっしゃったのです。

平行記事のルカ福音書にはこう書いてあります。ルカ4:42-43朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。群衆は、イエスを捜し回って、みもとに来ると、イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」群集はイエス様が自分たちから離れて行かないように引き止めておこうとしました。もし、私だったら「ここにはたくさんの必要があるから腰を落ち着けよう」と、伝道所でも開設したかもしれません。でも、イエス様は群衆の言いなりにはなりませんでした。なぜでしょう。イエス様は朝早く起きて、父なる神様と親しく交わりました。そこで、父なる神様のみ旨を聞きながら、一日のスケジュールをお立てになったのです。イエス様は群衆の必要にではなく、父なる神様のみ旨に従い、福音を宣べ伝えるため別の村に行こうとしたのです。このところに、ディボーションの重要性が表わされています。イエス様は父なる神様と親しく交わることによって、その日のみ旨を知りました。それから、一日の行動をされたのです。つまり、イエス様は、人々の必要で動いたのではなく、御父のみこころに従って生活したのです。もし、私たちが忙しいからと言って、神様の前に静かな時間を割くことができなければ、どうなるでしょうか。人々や環境があなたを支配するでしょう。人々や環境に引っ張りまわされて、忙しく動いたわりには、実のない一日になってしまうでしょう。皆さん。神の子イエス様ですら、御父と交わりなしで、一日の働きができなかったのに、私たちはイエス様以上の者でしょうか。私たちも神様の子供として、父なる神様のみ旨を知り、力に満たされるために、個人的に神様と出会うことが必要なのです。三位一体の神様が私たちと個人的に会ってくださり、語って下さるとはなんと幸いでしょうか。イエス様のように、神様のみ旨を知り、力を得るために、神様と個人的な時間を持たれるようにお勧めいたします。

3.ディボーションの方法

まず、時間と場所を決める必要があります。日本のように家屋の狭いところでは、静かで、ひとりになれる場所というのは簡単に取ることができないでしょう。朝、早起きするとか、テレビを見る時間を削るとか、あるいはお昼休み、あるいは夜寝る前に取るしかありません。これは神さまとのデートなので、「ディボーションしなくは」と律法的にならないようにしましょう。ディボーションが身につくまでは大変ですが、一旦身についたら、すばらしい時になります。信仰の人、ジョージ・ミュラーは「私にとって、ディボーションしない日は、失われた日のようだった」と言いました。そして、第一の作業は内容観察です。その日の箇所をゆっくり数回、注意深く読みます。長さが10節から15節ですから、あわてることはありません。何回か読んでいくうちに、物語の背景や情況が浮かんできます。論述的な箇所のときは、繰り返しがあったり、言い直しがあったりします。特にパウロの手紙は同じことを、別なことばに置き換えています。そういう法則を見つけると楽しいです。この内容観察では、気づいたことを書き留めたり、内容を簡単にまとめます。内容観察では解釈をしないで、客観的な事実を調べるだけにします。聖書を何度もじっくり読むと、「へえ、こんなことが書いてあったんだ」と新しいことを発見して、感動することがよくあります。

第二は、教え(教訓)です。そこには従うべき模範があったり、約束や慰めがあります。また、避けるべき行動や従うべき命令があるでしょう。それまではなんとなく、読んでいたので分からなかったかもしれません。でも、聖書を良く見ると、「○○しなさい」という命令調のものがあります。でも、これが、人から押し付けられたものならあまり面白くありません。しかし、神さまがあなたに命じておられるのです。アーメンと従うしかありません。それから、「神さまは○○です、○まるします」と約束であったり、慰めであったりします。それはだれでもなく、あなたにそう語っているのです。嬉しいじゃないでしょうか。そのことばを信仰によって受け止めるのです。旧約聖書などを読むと、イスラエルは様々な罪を犯して罰を受けています。もし、自分が旧約時代に生きていたら、命がいくつあっても足りないでしょう。そういう場合は、イエス様の十字架の贖いを通してみます。そうすると、「イエス様の贖いがあるので、ああー、赦されているんだ。主の恵みを感謝します」となります。そして、旧訳聖書の出来事を1つの教訓として受け止めるのです。教えられたことを、1つから3つくらい書き留めます。そうそう、ディボーションをノートに記入することをお勧めいたします。ノートに書くと考えがまとまりますし、眠気防止にもなります。教えは、「○○すべきである」「○○のようになる」あるいは「信仰によって○○が与えられる」と書きます。最初は、時間がかりますが、だんだんと聖書から教えをいただくことができるようになります。赴任して半年くらいのある先生は「へりくだりなさい」とディボーションで教えられました。そのときは、「私は十分へりくだっているから自分には関係ない」と思いました。ところが、3日後、その教会の婦人会から猛烈な批判を浴びたそうです。そのときに、3日前の教えが思い出され、批判を甘んじて受けたそうです。後日、婦人たちの方から「言い過ぎました」と、謝ってきたそうです。神さまは前もって、みことばのワクチン与えてくださっていたのです。ハレルヤ!

第三は、適用です。その日に教えられたことを、自分の生活にどう適用するか考えます。これが難しい作業です。本からのディボーションはただ教えられた、恵まれたで終わりになってしまいます。しかし、この帰納法的ディボーションは教えられたことを自分の生活にどのように適用するかまで行かなければなりません。例えば、健康診断を受けてコレステロールの数値が高いと出たとします。ケーキとか肉類を避けるとか健康管理をしないと、診断の意味がありません。私は牧師ですから「教え」までは聖書から簡単に引き出すことはできます。しかし、一番疎かになりやすいのは、適用と実践であります。教えられても実行しないと不従順の罪を犯していることになります。また、クリスチャンは生活が変わらないのは、「教え」をいっぱい頂いているにも関わらず、実行していないからであります。それでは、信仰と生活がバラバラなわけです。私たちは本来、「信仰生活」であるべきで、「信仰と生活」であってはなりません。「と」は不要で、「信仰生活」と一気に行くべきです。イエス様はマタイ7:24「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます」。とんで、26、27節「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」とあります。両者ともみことばを聞いたのですが、片方は行なわなかったのです。

 第四は、祈りです。これまでは、ディボーションで神様の声を聞いたのですから、最後にこちらから神様に話しかけます。でも、これは単なる祈りではありません。ディボーションをして神様の約束をつかまえましたので、祈りには力があります。慰めや励ましをいただいた場合は感謝と賛美をささげます。罪を示された場合は悔い改め、命令を受けた場合は「そうします!」と祈ります。「そうしたい」ではダメです。「愛したい」「信じたい」「やめたい」という鯛ではよくありません。鯛よりも鱒が良いのです。「愛します」「信じます」「やめます」と、そのように宣言するのです。イエス様はご自分がこの地上に来られたとき「主の恵みの年を告げ知らせるために」とおっしゃいました。主の恵みの年とは、旧訳聖書のヨベルの年です。これは、人々が奴隷から解放され、病が癒され、借金が棒引きされることです。ですから、最後の祈りは、ぜひ、口に出して宣言してください。「もぐもぐ」と終ってはいけません。「人々を祝福するために、私を用いてください」と祈るのです。どうぞ、そのとき未信者の人たち、そして牧師や兄弟姉妹のためにもお祈りください。恵みの年を宣言する、これはとても重要です。このような祈りをすると、日中、あった人にも恵みをほどこすチャンスが訪れます。神さまはあなたを祝福をもたらす人として用いたいと願っておられるからです。

 最初慣れないディボーションをして、1時間も2時間もかかるときがあるでしょう。さっぱり恵まれない日もあるでしょう。でも、それをやり続けていくうちに、自分で聖書から教えと恵みを受けられるようになります。ときには涙がノートににじむときがあるかもしれません。そして、神様と1対1でいるときが、密のような甘い時となるでしょう。世の人々はテレビや音楽、携帯電話で静かな時を持つことを恐れているかのようです。それではこの世に流されて意味のない毎日を過ごすことになります。どうぞ、私たちはイエス様のように神様と静かな時を持ちましょう。 詩篇1:3節にはそういう人がいかに祝福されるか書いてあります。「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」アーメン。聖書が書かれたパレスチナの地は荒野ですから、木や植物にとっては厳しい土地です。でも、水路に植わった木だけは別です。その根っこが水を吸い上げて生き生きしています。この世はまさに罪と死の荒野です。でも、聖書に親しみ、神様と交わる人にはすばらしい祝福が与えられます。「時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は何をしても栄える」であります。