2010.01.03 御霊の祈り エペソ6:18-24

新年おめでとうございます。多くの人たちがこの三が日、偶像の神様に祈り求めていると思います。しかし、その祈りは残念ながらまことの神様には届きません。なぜ届かないのでしょうか?3つの理由があります。第一は祈りの対象です。祈りは父なる神様に祈るということです。この世の人たちは、どの神様なのか分からないで祈っています。私たちが祈るべき対象は、天と地を作られた父なる神様であります。第二は祈りの仲介者です。父なる神様は罪人の祈りを聞く理由はありません。私たちの罪を贖われたイエス・キリストの御名だけが父なる神様に届けることができるのです。イエス様のお名前は、小切手のサインみたいなものであります。父なる神様は、御子イエスのサインを見て、「OK!与えましょう」と言われるのです。第三は祈りの導き手です。多くの人たちは自分の思いや欲望が満たされるために祈ります。でも、御霊によって祈るとは、御霊が導いてくださるように祈るということです。御霊は「あなたはこれを神様に求めなさい」と私たちに教えてくださるからです。エペソ6:18「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい」と書いてあります。日本語の聖書を見ますと、すべての祈りのほかに、御霊の祈りがあるかのように書いています。しかし、原文はそうではありません。「すべての祈りと願いを御霊によって祈りなさい」というのが本当です。つまり、どんな祈りでも、御霊に導かれ、御霊の助けをいただきながら祈りなさいということなのです。ここに「すべての(あらゆる)祈り」と書いてありますが、どのような祈りがあるのでしょうか?今朝は、1つ1つ取り上げながら学びたいと思います。

1.交わりの祈り

 祈りとは父なる神様と交わることです。子どもがお父さんに話しかけるように、私たちは天の父に話しかけことができます。これは、義務ではなく、すばらしい特権であります。祈りは「お勤め」ではありません。新興宗教の人たちが「お勤め」と言ったならば、祈ることであります。彼らは朝早くから何時間も祈ります。私たちよりも熱心かもしれません。でも、「お勤め」であったならば、「イヤイヤながら義務的に」という感じがします。たとえば私が父なる神様に1時間に祈ったとします。そのとき「ああ、やったなー。私は頑張って、神様に一時間も祈ることができた。ハレルヤ!」と言ったとします。しかし、それはどこかが間違っています。たとえば、私たちが好きな人(恋人)と会話をするとき、義務的にそれをするのでしょうか?「私は頑張って、あなたと1時間も話すことができました。たいしたもんでしょう」と言ったとします。その人はどう答えるでしょうか?「あなたは私とお話することが、それほど苦痛なのですか?さようなら」と言われるでしょう。Ⅰテサロニケ5:17「絶えず祈りなさい」と書いてあります。「絶えず」とはどういう意味でしょうか?「休まないで」と言う意味であります。絶えず、休まないで祈る方法があるでしょうか?もし、私たちが椅子に座って、目をつぶりお祈りするならば、他に何もできません。仕事もしなければならないし、人と話したり、買い物や家事もあるでしょう。それでは。絶えず、休まないで祈ることはできません。しかし、交わりの祈りは車を運転しながらも可能です。人と会話をしながら「ああ、主よ、この人の問題は何でしょうか?」と祈ることができます。勉強しているときも「ああ、私に理解力を与えてください。これはどういう意味なのでしょう?」と祈ることができます。交わりの祈りは、声を出しても良いし、心の中でも可能です。自分の思いを神様に告げ、そして、「神様、あなたはどうお考えでしょうか?」と尋ねます。おそらく、神様はあなたの心の中に「○○ですよ」とお語りくださるでしょう。もちろん、びしっとした姿勢をとって祈りをささげるときも必要です。でも、そればかりが祈りではありません。何かをしながら、あるいは何かの合間にでも、神様と交わることは可能です。どうぞ、この交わりの祈りを身につけましょう。

2.嘆願の祈り

 エペソ6:18「すべての祈りと願いを用いて」あります。「願い」とは、嘆願であり、求める祈りです。マタイ7:7「求めなさい。そうすれば与えられます」と書いてあります。また、ヨハネ14:14「あなたがたが、私の名によって何かを私に求めるなら、私はそれをしましょう」とあります。P.Cネルソンは、有名なギリシャ語の学者ですが、イエス様が言われたギリシャ語の直訳はこうであると言われました。「もしあなたが私の名によって何かを求めて、私がそれを持っていないとしたら、私はあなたのためにそれを作りましょう」。しかも、この14節の「求める」は「要求する」と訳しても可能な言葉です。私たちは「神様にそんなことを求めて良いのだろか?」と遠慮してしまいます。しかし、子どもが父親に願う願いというのは、どのくらい丁寧でしょうか?「パパ、これ買って」であります。ものすごくぶっきらぼうです。ま、相手が神様ですから、それほどぶっきらぼうでは困りますが、大胆に求めても良いのではないでしょうか?イエス様から「私の名によって何かを求めて、私がそれを持っていないとしたら、私はあなたのためにそれを作りましょう」と言われたとしたら、すごいことです。イエス様は、結婚前の兄弟姉妹に、お婿さんもお嫁さんも作ってくれるでしょう。ただし、多くのクリスチャンは嘆願の祈りを誤解しています。「あなたのみこころならば」という言葉を付け加えたりします。「みこころならば、どうぞ癒してください」「みこころならば、どうぞ与えてください」。これは一見、敬虔そうな祈りですが、本当は不信仰の祈りです。祈りは叶えられるという確信を持って祈らなければなりません。みこころが分からなければ、みこころが分かるまで祈るのです。そして、一旦、求める祈りをするならば、与えられたと信じて祈るのです。それ以外の祈りはきかれません。また、ただ漠然と求める祈りもきかれません。お父さんと子どもがおもちゃ屋に行ったとします。子どもは「おもちゃ買って!」と願ったとします。お父さんは「どのおもちゃを買って欲しいの?」と聞くでしょう。そのとき、子どもが「パパ、知っているでしょう?あれよ、あれ!」と目配せしたらどうなるでしょうか?「ああ、あまり欲しくないんだな。帰ろう」と言うでしょう。父なる神様は、はっきりと具体的に求めてもらいたいのです。そして、あなたが喜ぶ顔を見たいのです。

3.とりなしの祈り

 エペソ6:18後半、19「そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽し、また祈りなさい。また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。」これはとりなしの祈りの要請です。使徒パウロは、「すべての聖徒たちのため、そして私のために祈ってくれ」とお願しています。なぜ、とりなしの祈りが必要なのでしょうか?1つはその人が祈っていないか、祈れない状態にあるときです。私たちがその人の代わりに信仰をもって神様に祈るということです。大体、未信者は神様に祈りません。すると、私たちは未信者の家族や友人のために祈る必要があります。また、霊的戦いのために、祈りの援護をする必要があります。その人が主の働きをしていて、とても困難な状況にあるとします。御霊は私たちに「今、あの人が困難に会っているので祈れ!」と命じられることがあります。とりなしの祈りを専門にしている人は、夜中の2時でも3時でも起きて、「はい」とお祈りするそうです。私はこの点、ちょっと弱いなーと思います。でも、祈りの課題が示されたら祈るようにはしています。創世記18章で、主はアブラハムに「ソドムとゴモラの罪はきわめて重い」と告げました。そのとき、アブラハムはその町の中に50人の正しい人がいたら滅ぼさないでくださいと願いました。しかし、だんだん不安になり、45人、30人、20人、いや、正しい人が10人いたら滅ぼさないでくださいと食い下がりました。残念ながら、ソドムとゴモラは硫黄の火によって滅ぼされました。しかし、主はアブラハムの祈りをきかれ、ロトとその家族を救い出そうとされました。神様は「私のためにだれかとりなしてくれるだろうか?」と探しておられます。モーセも、うなじのこわいイスラエルの民のために、身を呈して度々、祈りました。とりなしの祈りは、霊的戦いのためにとても重要です。前回は、神の武具が6つあるとお話しました。ところが、もう1つ神の秘密兵器がありました。それは祈りであります。祈りは、悪魔の要塞を破壊する、誘導ミサイルであります。あるおばあちゃんが「私はお掃除も、奉仕もできません。ただ、祈ることしかできません」と言ったそうです。それは「私には拳銃も機関銃もありません。ただ、ミサイルしかありません」と言っていることと同じなのです。悪魔が最も恐がるのは、聖徒の祈りです。祈りこそが、悪魔の策略を妨げ、また要塞を破壊する最も大きな力なのです。

4.合同の祈り

 これは心を合わせる祈りです。祈りは個人的に神様に捧げるものですが、イエス様は、「心を合わせて祈りなさい」とも教えられました。マタイ18:19「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」アーメン。教会において兄弟姉妹が、あるいは家庭において夫婦が心を一つにして祈るならば、神様はどんなことでもかなえてくださると約束しておられます。なんとすごいことでしょう。私たちはこれを額面通りとらえて、共に祈るべきであります。ある夫婦が早天祈祷会に出かけ、それぞれ、熱心に1時間祈りました。しかし、家庭では夫婦の意見が合わず、しょっちゅう喧嘩をしていたそうです。子どものことや信仰のことでさえも喧嘩をしていました。牧師が、そのご夫婦に「あなたがたは心を合わせて祈っていますか?」と聞いたそうです。「いいえ、私たちはそれぞれディボーションを守って、早天祈祷会でも祈っていますよ」と答えました。「そういうことじゃなくて、一緒に祈っていますか?」と聞いたら、「いいえ、祈っていません」と答えたそうです。先生は、「では、一日、10分でも良いですから一緒に祈ってごらんなさい」と言いました。二人がそれを実行すると、とても仲良くなったそうです。また、初代教会ではしばしば、ともに集まり合同の祈りをささげました。使徒4章に書いてありますが、教会に対して大きな迫害が起こりました。そのとき、彼らは心を合わせて祈りました。使徒4:29-31「『主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。』彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。」アーメン。おそらく、彼らは声を出して、「わー」と同じ課題について祈ったと思います。すると、その集まっていた場所が震い動き、同は聖霊に満たされたのです。すごいですねー。こういう経験をしたいですね。礼拝の中でも共に祈るときがあります。どうぞ、そのときには、黙祷ではなく、言葉に出して祈りましょう。隣の人の声がうるさくて集中できなければ、もっと大きな声を出して祈りましょう。あなたがもっと大きな声を出すなら、隣の人の声がかき消すことができるからです。すると隣の人は、あなたの声がじゃまになるので、もっと大きな声で祈るでしょう。すると、あなたも負けじと、もっと大きな声で祈れば良いのです。私は、祈りは上品な祈りでなくて良いと思います。祈りは本心をまるごと、神様にぶつける行為です。周りの人を気にせず、ヤコブのように「祝福してくださらなければ離しません!」と求めるのです。神様は耳が聞こえないのではありません。私たちの祈りが、心からの真剣な祈りなのかどうか知りたいのです。

5.異言の祈り

 ペンテコステ・カリスマの人たちは、御霊の祈りとは異言で祈ることだと主張します。その根拠はどこにあるのでしょうか?ローマ8:26「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」御霊こそが神のみこころを最もよくご存知です。ですから、私たちの知性で祈ることが出来ない場合、御霊自ら深いうめきをもってとりなしてくださる、それが異言だということです。使徒パウロもⅠコリント14章で、「私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう」と言っています。そして、異言の祈りは、個人の徳が高められるとも書いてあります。私はよくこのたとえで説明します。私たちは電話で多くのことをやりとりできます。でも、複雑な地図とか表を電話では説明できません。そのとき、ファックスがあればもっと便利です。「ヒュー、ヒョロヒョロヒョロヒュー」と音がして、相手先にデーターを送ることができます。私たちは知性でどう祈ったら良いか分からない場合がたくさんあります。ことばでは何と言ったら良いか分からないのです。そのとき、異言で神様に祈るのです。そうすると自分ではよく分からなくても、御霊ご自身が神様に一番的確な祈りをしてくださるのです。私は寝ているとき、異言で祈っている場合があります。途中、目をさまして、しばらく続けます。でも、意識がはっきりしてくると異言も止んでしまいます。私の中に、まだ、異言の賜物が開かれていないのではないかと思います。なぜなら、私は、異言をオプション(自由選択)にしているからかもしれません。もっと、異言のすばらしさを体験したならば、みなさんにも「ぜひ、求めてください」と強調するかもしれません。でも、みなさん、父なる神様に心を開いてください。神様は良き神様です。くれるという霊的賜物があるならば、なんでも喜んでいただきましょう。異言の祈りも、神様と交わるすばらしい祈りです。なぜなら、それによって自分の徳が高まって、キリストに似た者となることができるからです。でも、このような公けの礼拝のときは、お控え遊ばしてください。ぜひ、個人で、あるいはセル・グループでなさるようにお勧めいたします。

6.礼拝の祈り

 最後は礼拝の祈りです。これは神様をあがめる祈りですから、賛美の祈り、感謝の祈りと言っても良いかもしれません。もし、私たちが神様に自分の願いを求めるためだけに祈るとしたならば、なんと悲しいでしょうか?もし、人と会ったり、人から電話がくるとき、願い事ばかり聞かされたらイヤになるんじゃないでしょうか?そのとき、「あのときはありがとうございました。おかげてこのようになりました。感謝します」と言われたら嬉しくなるでしょう。神からの被造物であり、神から贖われた者がしなければならないことは、神への礼拝であります。礼拝と言っても、このような公なものばかりが礼拝ではありません。個人的に、神様に感謝をささげたり、神様をほめたたえること、これが礼拝であります。私は毎朝、散歩をしていますが、そのとき、「ああ、神様、あなたにあってとても平安です。私を救ってくださって本当にありがとうございます。イエス様を信じて人生が変わりました。ハレルヤ!本当に良かったです!」。このような短い、祈りを一日、何度でも捧げることができます。パウロはエペソ5章で、「御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」と命じています。私たちが御霊に満たされることと、賛美したり、主をあがめることと深い関係があるようです。賛美したら聖霊に満たされるのか?それとも聖霊に満たされた結果、賛美するのか?私は「両方あり」だと思います。みなさん賛美とはどういう意味でしょうか?英語には賛美というといろんな言葉があります。「高める」「拡大する」「価値あるものとする」という意味のことばもあります。私たちが神様を賛美し、礼拝するとは、神様を高めるということなんです。そうすると私たちはどうなるんでしょうか?私たちも神様と一緒に高くなるのです。私たちが主の御名を拡大するとどうなるでしょうか?すると、主の御名が、私たちが住む地上において拡大していくのです。主の働きが拡大され、御国(領土)が広がるのです。その結果、私たちの地境も一緒に広がるとしたらどうでしょうか?神様を非常に価値のあるものとして認めるならば、どうなるでしょうか?私たちも一緒にプレシャス、価値あるものとみなされるということです。ですから、賛美と感謝と礼拝は、私たちがささげる祈りの中では最高のものだということです。私はこの祈りを交わりの祈りのとき、嘆願の祈りのとき、とりなしの祈りのとき、合同の祈りのとき、異言の祈りのときも加えるべきであります。この礼拝の祈りは単独というよりも、どのような種類の祈りの中にも加えることが可能であり、また加えるべきなのです。自分が病気のときも礼拝の祈りをささげましょう。困難の真中にいるときも礼拝の祈りをささげましょう。もちろん、幸福の中にいるときも礼拝の祈りをささげましょう。そして、この世を去るとき、最後の一息しかできないときも、「ハレルヤ!感謝します」と礼拝の祈りをささげましょう。礼拝の祈りこそが、悪魔の策略を妨げ、困難な問題を解決し、さまざまな病の癒しを与える大きな力なのです。だから、ダビデは詩篇でたくさんそのような祈りをささげているのです。「わが魂よ、主をほめよ!ハレルヤ!主の御名をほめたたえよ」と。アーメン。