2010.01.10 信じるだけで救われる ヨハネ19:30、エペソ2:8

本日より48回かけて、「信仰の12のDNA」についてお話したいと思います。12のDNAで48回話すということは、1つのDNAに関して、4回ずつ話すということです。4×12=48です。ところで、DNA(デオキシリボ核酸)とは、細胞の核の中にある遺伝子であります。DNAは生命の設計図のようなもので、その中に、次の世代に伝えるためのあらゆる情報が記録されています。DNAは生命にとっても大事なものです。このDNAが正しくないと、癌など様々な病気にかかってしまいます。では、「信仰のDNA」とは何でしょうか?当亀有教会の教会員が持つべき、また次の世代に伝えるべき信仰の核となるものであります。だれが選んだのか?牧師である私が選んだものであります。一見、独断にも取れますが?神の教会に属している私たちへの、聖霊の導きであると捉えていただければ幸いです。12のうちの、第一のDNAは「救い」に関することであります。救いとは、何なのかということをお話したいと思います。きょうは、その中の「信じるだけで救われる」というテーマでメッセージさせていただきます。ちなみに、参考図書は高木慶太著の『信じるだけで救われる』です。

1.私たちの生まれつきの状態

 私たちには罪があります。それは、アダムによって負わされた罪です。アダムが罪を犯したとき、彼は全人類の代表として行動していました。アダムが神に逆らって罪を犯したために、その罪が全人類に及んだのです。ローマ5:18,19「ひとりの人の違反によってすべての人が罪に定められた。ひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされた」と書いてあります。「なんで私が罪人に加えられたのか?」と文句を言いたくなるでしょう?それはたとえて言うと、連帯責任であります。アダムは人類の長であったので、アダムが犯した罪を、全人類が負うはめになったのです。アダムによって、罪が入り、死が入りました。水源に死の毒が入れられたため、その下流にいるものも死の毒によってやられるのと同じです。私たちは生まれながらにして、罪を犯す種を宿しているのです。これを原罪と言います。三浦綾子さんが『氷点』という小説を書き、大ヒットしましたが、原罪がテーマであります。私は氷点よりも、笑点が好きなのであります。そして、もう1つは私たちが実際に犯す個々の罪があります。確かに私たちは罪の性質を宿していますが、それを自分の意思と選択によって、罪を犯すのです。もちろん、過失もありますし、知らないで犯す罪もあります。私たちは日々、死ぬまで、罪を犯して生きているのです。ローマ3:23「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない」と書いてあります。ですから、私たちは神様に受け入れられる義(正しさ)がありません。たとえば、一生のうちで1つも罪を犯したことがないという人がいたとします。その人は人間の義(ただしさ)があると言って良いでしょう。でも、神の義と人間の義は、太陽の光と月の光ほどの違いがあります。アダムから生まれた者は、だれ一人として神の義に達することができないのです。

高木慶太先生は、「生まれつきの私たちは罪の奴隷市場に売られている存在である」と言っています。ギリシャやローマの時代は奴隷が物のように売り買いされていました。鉄格子の中に入られ、手には手かせ、足には足かせが掛けられています。「何を言うんだ、俺は罪の奴隷じゃない!」と反対する人に伺いたいと思います。あなたは自分の思ったとおり生きることができるでしょうか?「正しいと思うことを行ない、悪いと思うことはしない」ということがおできになるでしょうか?たとえば、たばこのパッケージに「健康を害することがあります」とはっきり明記されています。たばこを吸うと肺がんや脳卒中などになる確率が4,5倍上がるそうです。なのに、ある人たちはやめられません。たばこだけではありません。ゲームやギャンブル、アルコール、買い物中毒があります。また、悪いことば、憎しみ、怒り、妬み、汚れた思い、これはみんな罪ですが、自分でコントロールできるでしょうか?「いや、私はいたって真面目です。そんなことはしませんよ」と言う人がいるかもしれません。使徒パウロという人はとっても真面目な人でした。神様の戒めを厳格に守るパリサイ派の学者でした。でも、彼は自分の内面をこのように描写しています。ローマ7:15「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。」私たちは、本来なら隣人を愛すべきなのに愛することができないことが良くあります。明らかなに良くないのに、集団の利益のためには、嘘や不正にも目をつぶります。特に日本人は、個人の場合は「人が見ているから」と道徳的なことを行なうようにします。しかし、会社とか政治など、何らかの組織になると良心が麻痺してしまいます。「まあ、人間のやることだからしょうがない。迷惑をかけなければ…」とそれでも言い逃れする人がいるかもしれません。でも、すべての罪は創造主なる神様のもとでなされているのです。私たちは神様の前で、すべての罪に対して、申し開きをしなければなりません。聖書には「罪の報酬は死(永遠の死とさばき)である」とはっきり書いています。義なる神様は、決して罪と妥協したり、罪を大目に見たりすることはなさいません。すべての人は罪の中にあります。だれが、一体、罪に対するさばきから、逃れることができるでしょうか?

2.神様のみわざ

 奴隷を自由放免にすることができるのは自由人だけです。ところが、イエス・キリストだけは、その資格をもった唯一の方でした。なぜなら、キリストのみが奴隷市場の外に生まれた人間だったからです。キリストは聖霊によっておとめマリヤから生まれました。そのため、アダムから負わされていた罪も罪の性質も持っておられませんでした。さらにその生涯において、一度も罪を犯されたことがなく、父なる神様に完全に従われました。だから、イエス・キリストだけが、人類の身代わりになる唯一の資格を持った方でした。今、「身代わり」と言いましたが、父なる神様は、人類の罪を御子イエスに負わせ、御子イエスを代わりに罰したのです。歴史的にはイエス・キリストはローマに反逆したかどで、十字架に付けられたことになっています。しかし、聖書には、イエス・キリストが十字架に付けられたのは、私たちの罪のためであったと書いてあります。本来、私たちが自分の犯した罪によってさばかれて地獄に落とされるのが運命でした。しかし、御子イエス様が私たちの罪を負ってくださり、私たちの代わりに裁かれ、地獄に落とされたのです。このことを神学的なことばでは「贖い」と言います。「贖う」はギリシャ語ではアゴラゾーと言いますが、「買う」とか「代価を払う」という意味があります。しかし、正確なニュアンスは、「奴隷市場の中で、奴隷の代価を払う」というのが本当です。さきほどの話に戻りますが、私たちは生まれたときから、罪の奴隷市場に売られていた存在でした。本来、私たちは神様から創造されたものであり、神の子としての生き方ができるのですが、私たちの正しい身分をだれも教えてくれませんでした。罪の中にいた私たちを、サタンがだまし、恐れさせ、命を奪おうとしていたのです。しかし、イエス・キリストは私たちを解放するために、ご自分の命を投げ出してくださいました。イエス様はご自分の命によって、私たちを買い戻してくださったのです。イエス様は十字架の上で「すべてが完了した(テテレスタイ)」と叫ばれました。テテレスタイはギリシャ語で「すべてを完済した、すべてを支払った」という商業用語です。まさしく、イエス様は、まだ罪の奴隷市場の中にいるすべての人々のために、代価を払ってくださったのです。

 奴隷市場から出るにはどうしたら良いのでしょうか?キリストがすべての人の罪の代価を支払われたといっても、すべての人が奴隷市場から自由にされたわけではありません。キリストを救い主として信じて受け入れて初めて、人は救われるのです。でも、私たちが信じて救われる前に、もう1つ重要なことがあります。それは「和解」ということばです。和解とはギリシャ語でカタラッソーですが、「取り替える」とか「変わる」という意味があります。神様は決して変わらないお方ですが、神様の罪人に対する見方を変えたのです。イエス・キリストが人類の罪の代価を支払うためにご自分の命を捨てました。そのとき、神様が持っておられた義の要求と律法の要求が満たされたのです。つまり、それまでは神様が持っておられた人類に対する怒りがなだめられたのです。キリストの十字架のゆえに、神様はもう怒ってはおられません。その代わりに、和解の手を差し伸べておられるのです。神様はキリストの十字架によって、神の前における人間の立場を変えてくださいました。私たちはキリストにあってもはや、呪いのもとにあるアダムの末裔ではないのです。Ⅱコリント5:14,17「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。…だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」アーメン。キリストを通して人々を見るとき、その人たちは単なる罪人ではありません。キリストがすでに代価を払ったので、その人も救いの候補者であるということです。パウロはこのように述べています。Ⅱコリント5:19,20「 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。…ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」神様がパウロを通して、「どうかキリストを信じてください」と、懇願しているのです。あの神様が、「どうか、信じて救われてください」と和解の手を差し伸べて懇願しているのです。なんということでしょうか!

3.信じる

 キリストは十字架によって人間の罪の問題を解決してくださいました。神様は、私たちをもう罪人として取り扱っていません。「どうか、信じて救われてください」と和解の手を差し伸べて懇願しています。私たちはどうすれば良いのでしょうか?キリストが代価を支払われたにも関わらず、ずっと奴隷市場の中にいることも可能です。サタンは「あんなの嘘っぱちさ。あんなの作り話だよ。この中で、飲んで、食べて、楽しく暮らそう。死んだら何もなくなるんだ。もしかしたら、別のものに生まれ変わるかもしれない。日本人には日本人の宗教があるんだ。お前だけ外国の宗教を信じたら村八分だぞ!家族や親戚からも捨てられるぞ」と言います。ヨハネ10:10 「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」。サタンは、盗み、殺し、滅ぼすだけですが、イエス・キリストは羊がいのちを得、またそれを豊かに与えることのできるお方です。私たちは決断しなければなりません。もう一度、言います。罪の問題はキリストの十字架で解決済みです。人間に必要なのは「罪をどうするかではなく、救い主をどうするか」ということです。神様から和解の手が私たちに差し伸べられています。「どうか、信じて救われてください」と和解の手を差し伸べて懇願しておられるのです。私たちは手を払いながら、「いいえ結構です。そんなの、いりません」と断ることもできます。あるいは「ありがとうございます。イエス・キリストを救い主として信じます」と神からの和解を受け入れることもできます。ヨハネ3:18「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」とあります。このみことばからも分かるように、罪を負われた救い主を信じるか信じないかが、最終的に永遠の滅びに至るか、あるいは永遠のいのちに至るかを決めるのです。

 信じるということを神学的に説明するとかえってわかりにくくなります。「信じるとは何か。何を信じるのか?」と、詳しい説明をうけてから信じた人は稀でしょう。信じたあとで、「信じるとはこういうことなんですよ」と説明を受けたのではないでしょうか?でも、きょうは少しだけ「信じるとはどういうことなのか」説明したいと思います。信じるということにはいつつかの要素が重なっています。第一は知的に同意するということです。「神様はおられる?私たちは生まれつき罪人である。キリストが十字架で私のために死なれたんだ」ということを知的に同意しなければなりません。第二はそのことを受け取ることが必要です。救いに関することはすべて完了しています。神様はその救いを私たちに与えたいと願っておられます。私たちがすべきことは、救いという神様からのプレゼントを受け取るということです。幼子のようになって「はい、いただきます」ともらえば良いのです。救いはただなんです。イエス様は「飲みなさい」とか「食べなさい」と言われました。だから、それを受け取れば良いのです。第三は、信じるというのはキリストを受け入れるということです。ヨハネ1:12「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」このみことばにも、受け入れることが、信じるということと同意語になっています。救い主キリストを心の中に受け入れる、これが信じるということです。第四は信頼する、身をゆだねるということです。知的にだけではなく、自分の全存在をかけるということです。みなさんは、今、自分の体の体重をその椅子にかけています。椅子は壊れないと信じているからです。同じように、信じるとはイエス・キリストは信頼に値するお方であり、この方に私の人生をゆだねますということなのです。

昔、曲芸師がナイヤガラにロープを張ってその上を渡ったそうです。両岸にいる人たちはみんな賞賛しました。その次に、60キログラムの荷物を背負って渡りました。みんな「すごい!」と賞賛しました。曲芸師はみんなに「私が60キロの荷物を背負って渡れたのですから、人間を背負って渡ることができるでしょうか?」と聞きました。みんなは「それはできるだろう!」と言いました。曲芸師はできると言った人たちに「じゃあ、あなたを背負って渡りましょう!」と言ったら、「いえ、結構です」とみんな断ったそうです。一人の少年が前に進み出て「私が乗りましょう」と言ったそうです。曲芸師はその少年を背負って、向こう岸へと渡りました。みなさん、これが信仰です。イエス様は私たちが信じるに値するお方です。私たちの信仰が「どうかな?」という部分があったとしても、イエス様の信仰、イエス様の真実が私たちを救うのです。

4.信じるだけで救われる

でも、最後に申し上げたいことがあります。それは「信じるだけで救われる」ということです。「今さら何を?」と言われるでしょうか?でも、キリスト教会は聖書がそういっているにも関わらず、いろんなものをプラスしてきました。つまり、神様が完成した救いに対して、よけいなものを付け加えて、福音を台無しにしてしまったということです。でも、悪気でやっているのではありません。「良かれ」と思ってしてきたことです。では、キリスト教会は信仰の他に何を加えたのでしょうか?「今まで行なってきた罪を1つ1つ悔い改めなさい。罪の悔い改めをしなければ救いを得ることはできません」と言います。ある教会では牧師の前で罪を告白するところもあるようです。しかし、救いに関する、「悔い改め」とは「これまで神様にそむいてきましたが、これからは神様の方に向きを変えます」ということなのです。イエス様を信じない人生から、イエス様を信じる人生へと方向転換するということです。もちろん、個々の罪を悔い改めることも重要です。しかし、それは救われて罪が何なのかわかったクリスチャンに対しての命令であります。Ⅰヨハネ1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」と言う有名なみことがあります。ある教会は、これを救いのみことばにしています。私は小学生のキャンプで、5年生のカウンセリングをしたことがあります。彼はクリスチャンホームの子どもで、イエス様を信じていました。でも、その教会の日曜学校の先生は何と言ったでしょう。「あの子は、まだ悔い改めが徹底していない」と言いました。私はびっくりしました。そして、キャンプファイヤーの前で、多くの子どもたちが、「私はⅠヨハネ1:9のみことばで救われました」と証をしていました。しかし、ヨハネ第一の手紙は、救われてクリスチャンになった人たちに対する手紙です。罪を悔い改めるのは、新しく生まれて、罪が本当に分かった後に可能なのです。救われるときの悔い改めは、「私は神様の前で罪人でした。救いを得るために、救い主キリストが必要です」と方向転換することなのです。罪の悔い改めは救いの条件ではありません。人は信じるだけで救われるのです。

他に、「罪を犯したところに行って謝ってきなさい。キセルをしたことがあるなら、駅に行ってお金を払ってきなさい。盗んだものは返しなさい」と言う教会もあります。確かに、罪を償ったり、弁償することは大切です。でも、それは救いの条件ではありません。救われた結果、「そうすべきだ」と神様から示されたらそうすれば良いのです。ザアカイもイエス様から言われたそうしたのではなく、救われた喜びのゆえに「4倍にして返します」と言ったのです。あるいは、「今まで犯した罪から離れなさい。それらの罪を捨て去りなさい。酒もタバコもやめなさい」という教会もあります。私たちは罪を犯したまま、罪があるままでも救われるのです。十字架の片方の犯罪人がそうでした。彼は両手両足を釘づけされ何もできない状態でした。でも、イエス様を信じてその場で救われました。罪から離れることは、救われて霊的に生まれ変わった後、神の恵みによって可能なのです。あるいは、「聖書を全巻読み、教理問答書を学びましょう」という教会もあります。洗礼準備会で教理や聖書の学びをするのは良いことだと思います。でも、聖書を勉強することを救いの条件にしてはいけません。聖書を読んだことのない3歳の子どもでも、イエス様を信じることは可能です。あるいは、「父も母も富も捨てて、キリストの弟子にならなければなりません」という教会もあります。アッシジのフランチェスコがそうでした。聖書の「富める若者」のように、それらが救いを得るために妨げになるのであれば捨てるべきです。でも、父も母も富も捨てなければ救われないということはありません。何よりも、人が救われて新しく生まれかわることが先決です。罪を捨てる、悔い改めの実を結ぶ、聖書を勉強する、キリストの弟子として献身する、これらのことは、キリストを信じてから、神の恵みによって可能になるのです。人が救われるのは信仰のみによるのです。行ないを、キリストを信じる条件に何1つ加えてはいけません。エペソ2:8,9「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」