2014.1.5「パウロの祈り エペソ3:14-19」

 聖書の中には、色々な人たちの祈りが記されています。きょうは、新年の最初の聖日礼拝ですが、使徒パウロの祈りから学びたいと思います。この祈りは、エペソの教会だけではなく、時代を超えて、私たちに対する祈りでもあります。ある人は、「2000年前にエペソ教会に送られた手紙が、何故、現代の私たちに関係あるのか?」と文句をつけるかもしれません。宗教改革者ルーターは「聖書は古いものでもなければ、新しいものでもない。聖書は永遠のものである」と言いました。聖霊が2014年に生きている私たちにも、永遠の聖書のみことばを開いて教えてくださると信じます。

 

1.内なる人を強くしてください

 パウロの祈りは14節から21節まで記されています。パウロの祈りを1つでまとめるなら「内なる人を強くしてください」という祈りではないかと思います。他のことばは、そのことを説明しているのではないでしょうか?パウロは「クリスチャンよ。第一に、内なる人が強められることを求めなさい」と勧めています。では、内なる人とは何でしょう?使徒パウロは、Ⅱコリント4章で「内なる人と外なる人」とに分けています(Ⅱコリント4:16)。外なる人とは、肉体であります。この肉体には食べ物や着るものが必要です。イエス様は「何を着るか、何を飲むかは異邦人が切に求めているものです。神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6:33)と言われました。この世では、「外なる人が強くなるように」という勧めで満ちています。テレビショッピングでは、健康のためにいろんなサプリメントを宣伝しています。また、衣類や宝石、生活を便利にする商品が出されます。では、この世では、「内なる人が強められるように」と言われているのでしょうか?宮里藍というプロゴルファーがいますが、彼女はメンタル・コーチをつけています。プロゴルファーは「このツアーで優勝したら、賞金ランクがどのくらいになるか」気になるようです。メンタル・コーチは「先のことではなく、今の一打に集中すること。一打、一打の積み重ねが大事」と言うそうです。箱根駅伝で、実力が拮抗している時は「最後には気持ちの勝負です」と良く言われます。ある人は「気合いだ、気合いだ、気合いだ」と叫んでいます。最近は、カウンセリングとかコーチングの需要が高まっています。だんだん、心の大切さがわかってきたからではないでしょうか?

 では、パウロが言う「内なる人」とはどういうものなのでしょうか?また、「強められる」とはどういうことなのでしょうか?そのこと説明しているのが、3章17節以降であります。3:17「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが」。このところに書かれている「心」は、ギリシャ語では「カルディア」です。この語は、一般に「心」と訳され、英語ではheartとなっています。しかし、「カルディア」は、どちらかと言うと、人間の感情、心情的側面を表わす語です。パウロはローマ9:2「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります」と言いました。そのところの心も、「カルディア」です。エペソ人への手紙はクリスチャンに書かれた手紙です。ですから、心の奥底(霊)にイエス様を迎えた人たちが対象です。でも、あえて、パウロが「キリストが信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでくださいますように」と祈っています。パウロが「カルディア」ということばを使うことによって、「感情面にもキリストを迎えるように」と願っているのではないでしょうか。あるクリスチャンは、「信仰は霊で捉えるものだから、感情的にならないように」と言います。また、「信仰は、感情ではなく意志である」と、よく聞かれます。感情は喜怒哀楽であります。イエス様が喜怒哀楽を現したことがなかったか、というとそうではありません。ゲッセマネの時は泣き叫びました。ペテロが信仰告白したときは、ものすごく喜びました。宮きよめのときは、思いっきり怒りました。ラザロが死んだときは涙を流しました。ですから、私たちの感情面にもイエス・キリスト様を歓迎すべきではないでしょうか?つまり、それは、イエス様と一緒に喜んだり、イエス様と一緒に悲しんだりして良いということです。多くの男性は感情に蓋をして生きていますので、感情面にもキリストを迎えることが重要な課題であると思います。歌にあるように、「泣きなさーい、笑いなさーい」です。

 でも、その直後、パウロは「また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが」と続けています。このことばは前にくっつくのか、そのあとなのか問題ですが、あえて前にくっついていると解釈させていただきます。すると、「カルディア」という感情が、愛に根ざし、愛に基礎をおいている必要があるということです。この愛はもちろん、「アガペー」という神の愛です。私たちの感情は、時々コントロール不能になるときがあります。喜びすぎるのは良いのですが、怒りや憂いが大きくなりすぎると問題です。そのため、他の人や自分自身を傷つけてしまうからです。現代はこの「感情」をコントロールできない人がたくさんいます。悲しみが止まらない、怒りが止まらない人がいます。私たちの血液の中には血小板があり、空気中に触れると固まるようになっています。だから、血が止まるのです。感情にも、血小板にあたるものが必要です。それは「自分たちの心を神の愛に根ざし、神の愛に基礎を置くということです」。心が不安定な無重力状態になるのは困ります。心が神の愛の中に根ざしていることが重要です。野菜の「かぶ」と心の形がよく似ています。「赤かぶ」というのもあります。どうぞ、かぶが地面にすわっているように、私たちの心が神さまの愛の土壌に根ざしていますように。神さまから心の栄養をいただき、神さまによって支えていただきましょう。ハレルヤ!

 次の聖句です。エペソ3:18-19「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」とあります。「理解する力」とは内なる人のどの部分でしょうか?それは知性であります。ギリシャ語ではヌース、英語ではmindです。ヌースは理性的活動をする側面であります。私たちが生きていくためには、いろんなことを知らなければなりません。そのため、親は子どもに大切なことを教えます。また、学校ではいろんな知識や技術を教えるでしょう?でも、パウロが私たちの内なる人が強くするために最も大切なものを教えています。ある人は「広さ」が大切だと言うかもしれません。一般常識や社会的な活動であると言うでしょう。また、人は「長さ」だと言うかもしれません。これは歴史や伝統を重んじるということでしょうか?また、ある人は「高さ」だと言うかもしれせん。これは、聖い、崇高な生き方でしょうか?ある人は「深さ」だと言うかもしれせん。これは、何かを極めたり、学問的な追求のことでしょうか?1つ1つ意味があるのかもしれません。でも、私は「キリストが私たちの心の中で、広さ、長さ、高さ、深さにおいて、いっぱいになる」ということではないかと思います。心の中、どこを切ってもキリストがつまっているという状態です。では、なぜ、キリストを知ることがそれほど重要なのでしょうか?パウロはコロサイ2:2-3「理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」アーメン。キリストの中に、神の奥義、知恵と知識との宝がすべて隠されているとしたならどうでしょう?パウロが生きていた時代は、ギリシャ哲学が盛んでした。クリスチャンになっても、「やっぱり、哲学を学ばなければ」という人がたくさんいました。哲学を土台にして、聖書を解き明かした人たちもいました。近代ではどうでしょうか?自由主義神学者が台頭し、聖書をバラバラに解体しました。ある人たちは、「聖書に描かれているキリストと歴史的なキリストとは違う」とまで言いました。しかし、カールバルトという神学者は「キリストを通して神のことばを理解することにおいて聖書は正しい」と言いました。私は彼とは、同じ立場ではありませんが、自由主義の行き過ぎた振り子を戻した人です。

 しかし、パウロは私たちの知性でキリストを知ることには限界があることを言っています。エペソ3:19「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」パウロは、私たちが「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができるように」と願っています。そうです。私たちの知性で神さまのことが分かったなら、それは神さまではありません。被造物である私たちが、「神さまがこうである」と知的に理解することは不可能です。でも、パウロは「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」と願っています。私たちが、感情において、知性において、主を知ることを求めるとき、私たちの内なる人が強められます。「こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」ということです。つまり、キリストに満たされたなら、神ご自身の満ちたもので、満たされるということです。私たちの心が神さまのもので満ちていたなら、どんなことが起こるでしょうか?神さまの愛、神さまの平和、神さまの希望、神さまの力、神さまの知恵が心から湧き上ってくるということではないでしょうか?私たちはこの世が持っている、お金や物や権力に求めがちです。そうではなく、私たちの心の内に、すべての源であられるキリストがおられるのです。内なるキリストを再発見しましょう。

 

2.内なる人を強くするために

 後半は、内なる人が強くするために、どうしたら良いのでしょうか?肉体の場合は、筋トレなどをします。タンパク質やビタミンなど、必要な栄養素も摂取すべきでしょう。使徒パウロはⅠテモテ4章でこう言っています。Ⅰテモテ4:7-8「むしろ、敬虔のために、自分を鍛錬しなさい。肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」肉体の鍛錬はいくらか有益でしょうけれど、もう1つ別の鍛錬があるようです。それは敬虔になることです。敬虔とは、英語でgodlinessです。この言葉は、godly(神さまを敬う)+ness(性質、状態)からできています。つまり、敬虔は、内なる人を強くするために自分を鍛錬することによってもたらされるということです。内なる人が強くなっている人を、外側から見たなら「ああ、敬虔な人だ」ということです。イエス様の時代にいた宗教家たちは、外側だけを敬虔そうに見せていました。「どうやって祈るか、どうやって施しをするか、どうやって断食をするか」、器の外側だけをきよくすることに注意を向けていました。イエス様は彼らに何と言われたでしょうか。「お前たちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放銃でいっぱいです。お前たちは白く塗った墓のようなものです。外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです」と言われました。重要なのは、外側ではなく、内側、心の問題だということです。それでは、どのようにしたら内なる人が強められ、敬虔な人になることができるのでしょうか?

 エペソ3:16 「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」このところに、私たちの内なる人が強くさせられるために、2つの要素が記されていることが分かります。第一は父なる神が、ご自身の栄光の豊かさの中から与えてくださるということです。私たちの資源は、あくまでも父なる神さまであります。日本語では「豊かさ」と訳されていますが、原文は「富」とか「財宝」ということばです。ですから、英国の聖書はtreasuresとなっています。神さまの栄光は、まるで、富や財宝のようなものであり、それらを私たちに与えてくださるということです。昨年末は、ヨブ記を読んで、大変恵まれました。ヨブ記28章にはこのようなことが記されています。「銀のためには鉱脈がある。金のためには精錬所がある。鉄はちりから取られ、銅は溶かされた岩から取り出される。人は暗闇の果てまで、縦坑を掘り込み、サファイヤや金を見出す。人は岩に坑道を切り開き、その目はすべての宝を見る。しかし、知恵はどこから見つけ出されるのか?悟りのある所はどこか。」私はそのところを読んでいて、自分が鉱夫になった気持ちになりました。うちの息子はパソコンでマイン・クラフトというゲームをやっています。地下を掘って行くと、石炭とか銅、金やダイヤモンドを取り出すことができるというゲームです。私は、富はこの世の中に存在していると思いました。大金は宝くじを当てない限り、無理だと思っていました。しかし、「神さまの知恵は、銀や金、サファイヤにまさる宝なんだ」と思ったら、ワクワクしてきました。

神さまの中に、私たちの必要の一切を見出すことができます。希望も、健康も、経済的な必要も、昇進も、内なる人が強くなるための必要もであります。神さまはご自身の無尽蔵の富の中から、いくらでも、私たちに与えようと願っておられるのです。問題は神さまにあるのではなく、私たちの側にあるのです。エリヤ・ハウスで学んだことがあります。神さまは大きな湖のように、豊かな恵みをたたえています。湖から、私たちに流れる1本の川があります。しかし、ビーバーが丸太や葉っぱでダムを造りました。そのため下流には、水が流れて来ません。すずめの涙ほどの恵みです。そのダムが、神さまの豊かな恵みが流れ込むのを妨げているのです。ダムとは何でしょう?私たちの心の傷、赦せない思い、過去のトラウマ、苦い根、両親を敬わない心、偽りの誓い、中毒などです。ある人たちは、過去に起こった不幸な出来事から立ち直ることができず、そこに座り込んでいます。そして、傷つけた人を呪い、そのことを許した神様に恨みを抱いています。神さまのところには、大きな恵みがたたえられているというのに、自分の心はカラカラに渇いています。では、どうすれば、神さまから豊かな恵みが流れてくるのでしょうか?神さまの恵みをとどめている、丸太や葉っぱ、ゴミなどを取り除くことです。赦すべき人を主の御名によって赦しましょう。過去のトラウマを主にゆだねましょう。ダムを壊す最も大切なことは、主要な丸太は何かということを調べることです。中心的な丸太を1、2本どけるならば、他のものを簡単に取り除くことができます。どうぞ、自分が抱えている中心的な障害物を見つけ出して、神さまの前に差し出しましょう。あるときは、人の手を借りることも必要です。妨げているダムを取り壊したならば、信じられないくらいの神さまの恵みがあふれ流れて来ます。

第二は「御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように」とあります。聖霊は神さまと私たちを結ぶ管であります。力の源は神さまにあります。神さまの力は聖霊を通して、私たちのところにやってきます。そして、私たちの内におられる聖霊が私たちの内なる人を強くしてくださるのです。つまり、聖霊は2つの役割があるということです。たとえば、電気を作っているところは発電所です。何万ボルトの電気が送電線によって送られてきます。送電線は聖霊です。しかし、私たちの家庭に何万ボルトもの電気は必要ありません。もし、そのまんま流れてきたら電気製品が黒焦げになります。下げられた電気が電柱から、家庭に備えられている分電盤に送り込まれます。100ボルトに下げられた電流がコンセントまで来ています。聖霊は神さまから大きな力を運んでくれる送電線のようなものです。聖霊は紅海を2つに分けたり、月や太陽を止めることができます。しかし、聖霊は私たち一人ひとりにもおられます。分電盤から流れる電気こそが個人用の聖霊の力です。この聖霊が私たちの内なる人を強くしてくださるのです。新約聖書では、私たちの内におられる聖霊を「御霊」と呼んでいます。ギリシャ語ではどちらもプニューマなので、神の霊なのか、私たちの霊なのか区別がつきません。聖霊は私たちの霊の部分に留まっています。しかし、パウロが願うのは、その聖霊が私たちの感情や知性、意志にまであふれて来るようにということです。聖霊が私たちの心をコントロールし、聖霊が私たちの心を新たにしてくださるならどうでしょうか?あっと驚くような、素晴らしいことが起こるのではないでしょうか?

ある人が「なぜ私たちの心をココロと言うのか?それはコロコロ転がるからです」と言いました。私たちの心は安定することができません。世の中の誘惑に簡単に引き寄せられます。何か問題が起こると恐れたり、不安になります。失敗や敗北で落ち込んでしまいます。怒りや嫉妬で狂うこともあります。願わくば、いつも平安で、明るく、喜んでいたいものです。しかし、私たちの意志や頑張りだけではうまくいきません。何度も自分に聞かせても、また悪いものが湧き上ってきます。本当に心は自由になりません。だからこそ、私たちの霊に宿っておられる聖霊が、心のあらゆる分野に来ていただく必要があるのです。聖霊は私たちを慰めてくださる助け主です。ローマ8:26「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」アーメン。また、聖霊は私たちを罪の原理から解放して、いのちを与えてくれます。ローマ8:2、6「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。…肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」アーメン。重力は私たちを落とそう、落とそうと働きます。しかし、御霊が私たちの心を下から支えてくださるのです。また、聖霊は私たちに喜びを与えてくださいます。ローマ14:17「神の国は…義と平和と聖霊による喜びだからです」とあります。私は街を歩いていて驚くことが良くあります。この世の人たちの方がクリスチャンより、よっぽど喜んでいます。「なぜ、あんなに楽しそうなんだろう。それに比べ私は何だ?罪赦され、永遠のいのちがあるのに、うなだれているなんて…」と思うときがあります。喜びに質があるという問題ではなく、クリスチャンこそ聖霊によって、どんな時でも喜ぶべきであろうと思います。だれかから聞きましたが、平野牧師が「日本のクリスチャンは真面目すぎる」とおっしゃっているそうです。真面目であることは良いことだと思います。しかし、真面目すぎるというのは、いつもしかめっつらして、他人をさばいているようなクリスチャンかもしれません。

私は自分でも驚くことがよくあります。それは「はははっ」と、腹から笑っている自分がいるからです。私は悲観的で、皮肉的で、人を小馬鹿にする笑いは良くします。しかし、解放を受けてから、面白いことは、腹から笑えるようになりました。失敗しても神さまがなんとかしてくださるという信仰が与えられています。私たちは成功からはほとんど学びません。失敗したときに、多くのことを学びます。もし、失敗が益になるのだったら、笑っても良いのではないでしょうか?私たちの究極の希望は十字架と復活です。イエス様が死んで、三日目によみがえられました。と言うことは、私たちも死ぬような目にあったとしても、神さまが復活させてくださるということです。「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。」アーメン。