2014.2.2「ソロモンの人生観 伝道者の書2:4-11」

 伝道者の書は伝統的にはイスラエルの王、ソロモンが書いたと言われています。なぜなら、伝道者の書1:1「エルサレムでの王、ダビデの子」とあるからです。彼はあらゆることを実験しました。自然科学、哲学、快楽、事業、農業、富の所有、道徳的生涯等。ソロモンが行きついたところは、「空の空、すべては空」でありました。「空の空」はヘブル語の最上級を表す表現で「全く空しいこと」という意味です。多くの文学者や哲学者が、虚無思想、ニヒリズムを言うときに、この書を引用しました。この書から、今日の私たちに必要と思われる、3つのことを取り上げたいと思います。

 

1.人生の空しさを知れ

 「人生とは根本的に空しいものだ。そのことを知りなさい」とソロモンは言います。「空しい」ということばが、20回以上出てきます。「風を追うようなもの」ということばは10回くらい出てきます。「え?人生ってそんなに空しいの?」と言いたくなります。凡人が言うなら、説得力はありません。しかし、すべてのことを実験し、すべてのことを極めた人がそういうなら、間違いありません。彼は神さまからいただいた知恵や財力を用いて、さまざまな実験を試みました。しかし、「日の下には新しいものは1つもない」という結論に達しました。また、事業を拡張し、邸宅を建て、ぶどう畑や庭と園を作りました。多くの奴隷を持ち、だれよりも多くの羊や牛も持ちました。当時は羊や牛は貴重な財産でした。また、銀や金、諸州の宝、男女の歌うたい、快楽であるおおくのそばめを手にいれました。ソロモンは正妻が300人、そばめが700人いました。しかし、ソロモンは「すべてが空しいことよ。風を追うようなものだ」と言いました。どうでしょう?私たちは「ソロモンの百分の1で良いから、持ってみたなー」と思うでしょう。特に男性だったら、「事業を起こしたい、邸宅を建てたい」と思うでしょう。「自分の家にカラオケ・ルームを作るのが夢だ」という人がいます。しかし、ソロモンは多くの歌手や演奏者、ダンサーを持っていて、それを目の前で楽しむことができました。ある人は畑を買って、ガーデニングをしたいと願っているでしょう。ソロモンはあらゆる種類の果実を植えることのできる庭と園、そして木の茂った森を所有していました。女性でしたら、身を飾る宝石が欲しいと思うでしょう。ソロモンは金や銀、諸州の宝物が山ほどありました。ソロモンは、世界中から美女を集めました。毎月、ミス・ユニバースを開催できるほどでした。「ここでうらやましい」と言ってはいけません。ソロモンは私たちの代わりに、それらを追い求め実験してみました。その結論は、「すべてがむなしい。風を追うようなものだ」ということです。

ハワード・ヒューズは、20世紀を代表する億万長者として知られ、「資本主義の権化」「地球上の富の半分を持つ男」と評されました。 彼の父は掘削機の刃(ドリルビッド)の特許と共に会社を設立し、ヒューズ家に大金をもたらしました。父が急死したため、18歳の息子のヒューズが遺産と掘削機の刃の特許を受け継ぎました。彼は莫大な遺産を元に、かねてからの夢であった映画製作と飛行家業をはじめました。本物の戦闘機や爆撃機87機を購入し、実際に飛ばして、映画を作りました。彼は飛行機が好きで「ヒューズ・エアクラフト」という会社を作り、自らが操縦して、アメリカ大陸横断、世界一周飛行などで新記録を達成しました。第二次世界大戦中は、軍用機を作る国内最大の下請会社の一つになり、大戦後は国際進出のために、さまざまな航路を開設しました。彼は大統領など政府高官と親密な関係を持っていました。かなりのプレイボーイで、ハリウッドの女優やセレブと噂がありました。3度の結婚歴があり、もう一人と重婚していたことが死後わかりました。しかし、彼の晩年はとても孤独でした。墜落事故後飲んでいた鎮痛剤の中毒、それに深刻な強迫性障害に陥りました。ドアノブを除菌されたハンカチで覆わないと触れられないほど極度に細菌を恐れるようになり、手を洗い始めると擦り切れて血が出るまでその動作をやめられませんでした。最後は、空気清浄器を付けたホテルから一歩も出られませんでしたそれでも、ホテルやカジノにも手を広げ、ラスベガスの歓楽街を買収しました。70歳で亡くなりましたが、190センチあった長身は薬物乱用のため10センチ以上縮み、体重は42キロ。あまりにもやせ細っていたため、本人と判定できなかったそうです。彼の残した天文学的な財産を処理するためには莫大な労力とおよそ20年もの歳月が必要でした。映画『アビエイター』でヒューズを演じたレオナルド・デカプリオは「彼は億万長者でありながら、平和や幸せという感覚を見出せなかった。一方でこの世で考えられるあらゆる成功を手にしながら、一方で小さなバイ菌が彼を墜落させた」と言いました。

 日本人は勤勉な人たちが多いので、「世の中の成功、物質や快楽は追い求めません。私はそういうものではなく、誠実で真実な人生を求めます」と言うかもしれません。しかし、ソロモンは何と言っているでしょうか?伝道者の書3:16「さらに私は日の下で、さばきの場に不正があり、正義の場に不正があるのを見た」と書いてあります。また、9:2「すべての事はすべての人に同じように起こる。同じ結末が、正しい人にも、悪者にも、善人にも、きよい人にも、汚れた人にも、いけにえをささげる人にも、いけにえをささげない人にも来る。善人にも、罪人にも同様である。誓う者にも、誓うのを恐れる者にも同様である。」と書いてあります。つまり、「正しい生き方をしても、必ずしも報われるわけではない」ということです。不条理や災いはだれにでも訪れ、「死はどんな偉業も忘れ去らせる」と書いてあります。そうなると、人生は自己満足以外の何ものでもなくなります。ソロモンは「道徳的生涯さえもむなしい」と言っています。日本人は勤勉な人たちですが、絶対者なる神を知りません。そのため、心を病んだり、人間の宗教やイデオロギーに救いを求めていきます。伝道者ソロモンは、自然科学、哲学、快楽、事業、農業、富の所有、道徳的生涯を追及しても、「空の空、すべては空」であると言っています。これがソロモンの人生観です。

 

2.生きているうちに楽しめ

 「生きているうちに楽しめ」などと、講壇から言ったら、「え?」と思われるかもしれません。しかし、伝道者の書には、何度も「楽しめ」と書いてあります。3:12-13「私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。」楽しみや幸福は、神さまからの賜物だということです。さらに、5:18-20「見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」ピューリタンの影響を受けた、聖め派の教会は禁欲的で清貧であることを強調します。ホーリネス系、救世軍、アッセンブリーなど、聖め派の教会が日本にはたくさんあります。酒やたばこはご法度、過度な化粧や贅沢はいけません。こういう教会の聖職者は模範を示さなければならないので、特に大変です。10年くらい前、ある教会に招かれて奉仕に行きました。牧師夫人さえも黒のスーツでした。黒が悪いとは言いませんが、「赤や花柄だって良いのでは?」と思いました。南部のアメリカではSunday clothingと言って、一番良いものを着て行きます。なぜなら、礼拝はイエス様の復活をお祝いする日だからです。表で禁欲的で、清貧であるならば、裏の生活にしわ寄せが来るのは必然的であります。牧師の子どもたちが、真面目に後を継ぐか、あるいは自由奔放に生きるか、2つに1つになるのはそのためです。

 飲んだり食べたり、楽しむことが罪なのでしょうか?おそらく、当教会の人たちは「罪じゃありません」と答えるでしょう。なぜなら、私がいるところで、ビールを何倍もおかわりしている人たちがいるからです。「良い教会に来ましたね」と言いたいところです。詩篇16:11「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります」と書いてあります。新約聖書には、遊女や罪人、取税人が多数、出てきます。彼らはイエス様と一緒にいても緊張しませんでした。なぜなら、イエス様は「清い生活をしなさい」「酒やたばこをやめなさい」と言わなかったからです。イエス様はむしろ、外側だけを清くするパリサイ人や律法学者たちを責めました。彼らは、今でいうなら、酒やたばこをたしなまない代わりに、人をさばいたり、意地悪をしていました。イエス様に近づいたのは、イエス様を陥れるためでありました。イエス様は取税人や罪人の家に入り、食事を共にしました。死ぬ前も弟子たちと食事をしました。復活した直後も弟子たちと一緒に食事をした後、ペテロに「私を愛するか」と問われました。そして、世の終わりにおいても、「私は戸の外にあってたたく。だれでも、私の声を聞いて戸をあけるなら…ともに食事をしよう」と言っています。食事は喜びと楽しみを象徴しています。

 でも、伝道者の書が行っている「喜びと楽しみ」は条件付きであることがわかります。1つは、人間はいつまでも生きられないからです。「生きているうちに楽しめ」というのが、本当の意味です。人生は確かに空しいかもしれません。しかし、神さまは、私たちが喜び楽しめるように、色んなもの賜物として与えておられるということです。伝道者は、結婚生活も喜び楽しみなさいと言っています。伝道者9:9「日の下であなたに与えられたむなしい一生の間に、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。それが、生きている間に、日の下であなたがする労苦によるあなたの受ける分である。」アーメン。若いうちに楽しめ、喜べとも言われています。伝道者11:8-9「人は長年生きて、ずっと楽しむがよい。…若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め」とあります。生かされていることを喜び、楽しんで良いのです。いろいろな趣味を持ったり、さまざまな活動をして良いのです。旅行、ショッピング、カラオケ、ゲームもして良いのです。しかし、忘れてはならないことがあります。伝道者11:9後半「しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。」とあります。最後に死がくるだけではありません。「死後、神さまのさばきを受けることを忘れてはならない」ということです。「心のおもむくまま、どんな楽しいことをしても良いけど、神のさばきを受けることを知っておけ」とは、ドキンとするのではないでしょうか?

 伝道者ソロモンは、「明日のことは心配せず、今日、楽しめれば良い」と、刹那的な勧めをしているのではありません。「死んだら、おしまい。生きているうちに楽しめ」というのは、一種の快楽主義です。聖書は「生きているうちに楽しめ」と言いながらも、「いずれ、神さまの前に立つ時が来るよ」と教えています。たとえば、酒やたばこあるいは暴飲暴食で命を縮めたら、「あなたにこれだけの寿命を与えたのに、粗末に扱ったのですか?」とさばかれるでしょう。あるいは、ギャンブルや快楽を追及して破産したら、「あなたにこれこれの物を与えたのに、どうして粗末に扱ったのですか?」とさばかれるでしょう。仕事も、家庭も結婚も神さまが与えた賜物です。それらを正しく管理しながら、喜び楽しむのは良いでしょう。しかし、伴侶や子どもの命を粗末に扱ったりするなら、神さまからさばきを受けるでしょう。つまり、喜びや楽しみには条件があるということです。このことを忘れなければ、良いということです。伝道者の書8:12「罪人が、百度悪事を犯しても、長生きしている。しかし私は、神を恐れる者も、神を敬って、しあわせであることを知っている。」神さまがくださる特別な楽しみや喜び、そして幸せがあるということです。

 

3.神を恐れ、その命令を守れ

 ソロモンは、たくさんのことを実験し、「すべては空しい」と言いました。そして、結論に達したことばがこれであります。伝道者の書12:13「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」ある聖書学者は、このことばがなければ、この書は聖書の正典には加えられなかったと言います。つまり、12章13節が、この書の鍵であるということです。人生のあらゆる経験をした人の結論であります。英語の聖書では、The conclusionと書いてあります。Conclusionとは、結論、終わり、結び、断定という意味です。ソロモンはいろいろなことを試した上で、「人間にとってこれがすべてである」と結論を出しました。口語訳では「人間の本分である」と訳しています。伝道者の書が言う、人間の本分では何でしょうか?それは「神を恐れ、神の命令を守る」ということです。これはとても旧約聖書的ですが、新約の私たちにもあてはまることです。むしろ、新約の私たちが忘れてしまう事柄かもしれません。なぜなら、キリストにある神の恵みが強調されているからです。もちろん、神の恵みを強調しても、強調しすぎることはありません。どんな罪であっても、イエス様の十字架によって赦されるし、赦されています。でも、「クリスチャンは、何をしても赦されるんだ」とあぐらをかいているなら、問題であります。神さまをなめているクリスチャンもいないわけではありません。特に、キリスト教国ではそうであります。神さまは、何でも赦してくれるひげをはやした優しい老人のように思われています。

 聖書は旧約聖書と新約聖書が2つで1つであります。新約聖書は、神さまの愛とか神さまの恵みが強調されています。一方、旧約聖書は神さまの戒めとか神さまのさばきが強調されています。しかし、新約の私たちは、愛なる神さまがどうして、罪をさばかれるのか分からなくなります。伝道者の書は「神を恐れよ。神の命令を守れ」と命じています。これを別な言い方をするなら、神さまの命令とは神さまの律法であります。神さまの律法を犯すならば、この地上において、また死後さばきをうけることになります。そのことを知ることが、神を恐れるということではないでしょうか?つまり、神さまは愛でありますが、神さまの律法を犯すなら、当然の報いを受けるということです。私は車を運転して、交通事故を起こしたり、交通違反で何度つかまりました。修理代、罰金などでとても痛い思いをしました。その後、どうなったでしょう?安全運転を心がけるようになりました。車線変更、一時停止違反、スピードオーバーもあまりしなくなりました。なぜでしょう。痛みを通して学んだからであります。同じように、聖書にはたくさんの戒めや命令があります。でも、それを破ると痛みや損害を被るでしょう。詩篇119篇の記者は何と言っているでしょうか?詩篇119:71「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」アーメン。私たちは愚かなので、痛みや苦しみを通してでなければ、神のおきてを学べないことがあるのです。だから、痛みや苦しみにあったことは良いことなのです。なぜなら、神さまのおきてを学ぶことにより、次から改めることができるからです。

 しかし、ソロモンはそのことを忘れていまいました。ソロモンは初めの頃は、神を恐れ、神の命令を守っていました。ところが、富と権力、名声と栄誉を受けてから、だんだんおかしくなりました。外国の女性を愛しただけではなく、外国の神々に香をたき、いけにえをささげました。Ⅰ列王記11:9-10「【主】はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、【主】から移り変わったからである。主は二度も彼に現れ、このことについて、ほかの神々に従って行ってはならないと命じておられたのに、彼は【主】の命令を守らなかったからである。」主はソロモンに二度も現れたのに、命令を守りませんでした。そのため、敵が自分の国に侵入することになりました。また、王国が引き裂かれ、家来のものになりました。伝道者の書4:13に自分のことをこのように書いています。4:13「貧しくても知恵のある若者は、もう忠言を受けつけない年とった愚かな王にまさる。」とあります。「もう忠言を受けつけない年取った愚かな王」とはソロモン自身のことであります。ですから、この書は彼の晩年の書ではないかと思います。伝道者の書という名前ではありますが、これはソロモンの遺作というか、遺言ではないでしょうか?「何をやっても空の空、すべては空」。しかし、人間の本文とはこれである。「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」と結論を下したのであります。ソロモンが一生をかけて、さまざまなことを実験して出した結論を、私たちはここに持っています。ある人たちは、「本当にそうなのかな?」と、自分で試す場合もあるかもしれません。良いです。それは人の自由ですから。それよりも、もっと賢い生き方は、先人に学び、同じ轍(わだち)を踏まないということではないでしょうか?

 でも、「神を恐れる」とはどういう意味であり、どうすれば良いのでしょうか?それは、どんな時、どんな場所にも主を認めているということだと思います。「主の臨在」などと言うと、とても重く感じます。それよりも、イエス様がいつ、どんなときも共にいてくださることを意識するということです。私たちはついつい、これくらいのことはしても良いだろうと甘えから、神の命令や戒めをやぶるかもしれません。結果的に、痛みや苦しみを覚えるでしょう?そのとき、イエス様は「いつくしみ深き友なるイエスよー」のように、慰めてくださる方だけではありません。イエス様は「痛みから学びなさい。次からはあなたはどうしますか?」とコーチングしてくださいます。イエス様はただ私たちを慰めるだけではなく、私たちを整えたいと願っておられるのです。そういうことの積み重ねで、私たちは成長していきます。主は、私たちを空しい人生ではなく、希望と目的のある人生へと導きたいと願っておられます。そのためにできることは何でしょうか?主の命令であるみことばをじっくり学ぶということです。その次に、イエス様と一緒に実行していきます。そうすると祝福があとからついてきます。ある人は神さまの愛は条件付きで、神さまの祝福は無条件だと誤解しています。そうではありません。神さまの愛は無条件です。しかし、神さまの祝福は条件つきです。神さまを恐れ、その命令を守って行くときに、祝福が伴ってくるのです。祝福は、楽しみとか喜びと言い換えることができるのではないでしょうか。詩篇16:11「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」